翌日、智也は浜咲学園の空き教室で鷹乃を会っていた。
「さあ、答えを聞かせてちょうだい。私をどうしてくれるの?」
「………」
「黙るなんて卑怯よ。早く言いなさい」
「そう急ぐなって。もう答えは決まってる。どこから話すべきか……、ああ、そうだな。……オレと、……オレと結婚してくれるなら産んでくれ。イヤなら堕ろしてくれ、費用はオレが払う」
「…………、仮に、あなたと結婚したとして、養っていけるの?」
「産まれてくるのは、来年の5月過ぎだろ? オレが進学をやめて就職すれば、なんとかなる。家はあるし、ぎりぎりの生活になるけど、なんとかなると思う」
「………。………家があるって……羨ましいことね」
「……………………」
「………」
「……。それで、鷹乃の答えは?」
「私の答え?」
「オレと結婚して産むのか、イヤなのか、だ。また、三日……いや、一週間くらい待とうか?」
「もう、いいわ」
「……もういいって?」
「ウソよ」
「…………何が?」
「妊娠したなんてウソよ。あなたを試しただけ」
「……………………、……た………たはっ……ウソかよ…」
立っていた智也は、その場に座り込んだ。さらに座ったまま、後ろへ倒れ込む。
「…………そうか……………………ウソか…………なるほど………ウソか……」
「ずいぶんと気が抜けたみたいね」
「……、そりゃ……な、……はは……」
「いつまで床に寝ているつもり。埃が付くわよ」
「………ああ、…もう………夕べ……寝てないんだ。このまま寝るから、ほっといてくれ」
「そうはいかないわ。妊娠はウソでも、あなたは私に……し……したんだから、ちゃんと、しなさい」
「ちゃんとするって……?」
「恋人らしくしてちょうだい」
「………。オレと付き合ってくれるのか?」
「当たり前でしょう」
「……………………おおっ、……おうっ!」
智也は飛び起きて鷹乃を抱きしめた。
「きゃっ!」
「愛してるぜ、鷹乃♪」
「っ…な……、……、……も……よ……。……」
「?」
「……私、…もよ」
頬を赤くしている鷹乃へキスをする。
「ホントに可愛いな、鷹乃は」
「……………………、………怒らないの?」
「なにを?」
「ウソをついたこと………かなり悪質なウソよ」
「オレの強引な行為に比べたら、仕返しとしては意趣が効いてて、いいと思うぜ。ある意味、ますます好きになった」
「……そう………それなら、もっと好きになっていなさい。ずっと、私だけを」
もう一度、鷹乃へキスをする。キスが終わると、鷹乃は校庭を見る。そこには詩音と香菜が木陰で待っていた。
「心配をかけたから二人へ報告に行くわ。あなたもついてきて」
「おう」
智也と並んで廊下を歩く鷹乃は、注文をつける。
「歩くときは手を握りなさい。恋人らしく」
「ああ、いいけど、……こっちの方が、よくないか?」
鷹乃の肩へ腕を回して抱きよせる。智也は怒られるかと軽く覚悟していたが、抵抗はなかった。抱きよせると鷹乃の肩は柔らかくて華奢だった。
「いい、やっぱり可愛いな」
「……本当に?」
「ああ」
「私の肩………水泳のせいで大きいわ。女の子らしくないんじゃないの?」
「オレも、そうかなって思ってたけど実際に抱くと、思ったより小さくて可愛い♪」
「………本当に?」
「だから、本当だって」
智也が抱いている肩を撫でる。鷹乃は撫でてくる智也の手へ手を重ねた。
「男性の手って……大きいのね。………身体も」
「まあ、そーゆー造りになってるな」
「………、こんな大きな体と、強い力で襲われたら、ひとたまりも無かったわ」
「悪かった。ごめん」
鷹乃の頬へキスをする。廊下を歩きながらなので、他の生徒が智也と鷹乃をジロジロと見ていた。夏期講習中なので、それほど人は多くないけれど、校庭へ出るまでに十人以上が新しいカップルの誕生を知ることになった。この十人が三人へ話せば、延べ四十人が知ることなり、さらに三人へ噂を広めれば、もう全校生徒が知っている状態になる。
見られていることにかまわず、寄り添ったまま校庭の木陰へ、二人で歩みよる。
「詩音、香菜。心配かけて、ごめんなさい」
「ふふ♪ その様子を見れば、ご報告を受けるまでもないですね」
「鷹乃センパイ………」
香菜は不満そうに、詩音は満足そうに、ことの経過を聞いてくれる。鷹乃が妊娠していなかったことも白状すると、詩音は微笑んだ。
「敵を欺くには、まず味方から。三上さんは、さぞかし肺を潰したでしょう?」
「肺? いや、その場合は肝だぞ。帰国子女。まあ、オレの人生で、もっとも考えた三日だったと言っておこう」
「鷹乃は私の大切な友人ですから、もう二度と泣かせないでください」
「承知した♪」
「香菜にも心配をかけたわね。ごめんなさい」
「………鷹乃…センパイ………、……」
香菜は背中を向けると、走っていった。
「香菜……」
「香菜さんは……、私がフォローしておきます。お気になさらず」
「……ええ、お願いするわ」
鷹乃は部活の後輩のことは友人に任せた。
「鷹乃、木陰でも暑いからさ。授業をやってない教室にでも入ろうぜ」
「そうね」
再び校舎に戻って夏期講習で使われていないが冷房は効いている自習用の教室を探すと、カナタと正午に出会った。
「あっ♪ すごいじゃん! 智也、逆転ゴール?」
「まあな」
「三上、すげぇ!」
「ふーん♪ 新しいカップル誕生かぁ」
カナタは肩を抱かれて頬を少し赤くしている鷹乃を興味深そうに見つめる。
「鷹ちゃんも、まんざらじゃなかったわけね。やっぱり♪」
「………ええ」
鷹乃は不機嫌そうに肯定した。それが、ますますカナタをご機嫌にする。
「なるほどね♪ で、いきなりイチャイチャしてるわけ?」
「……そうよ。悪いかしら?」
「ううん、ぜんぜん悪くないよ♪ 仲良きことは美しきかな、ささ、暑い廊下の温度を、もっと上げちゃってください」
暑い廊下で話し込む気はないので、四人とも目前の自習室へ入る。教室の目的通りに自習している生徒が10人ほど、カナタたちと同様に涼みに来て会話をしている生徒も10人ほど、四人がプラスされたので会話している生徒の方が多くなる。
「きゃは♪ 見てる見てる。みんなアタシとショーゴのこと、見てるよ♪」
「「お前、アホだろ」」
「お前?」
「カナタとオレを見てるんじゃなくて、みんな三上と寿々奈さんを見てるんだ」
正午の言うとおり、多くの生徒がチラチラと智也と鷹乃を見ている。カナタと正午が二人でイチャついていることは、もう珍しくも何ともないので背景に近い感じだった。
「むーっ♪ このアタシをさしおいて視線を集めるとは、やるじゃん」
カナタは拗ねるポーズを取った。そこへ、国語の授業の予習をしていた翔太が近づいてくる。
「その様子だと、雨降って地固まる、かな? 三上君」
「まあな」
「そいつはよかった。寿々奈さんを口説き落とすなんて、みんな驚いてるぜ。見てないフリして、こっちを見てる」
「見たければ、堂々と見ればいいのよ。自習するフリをして様子を窺うなんて、丸くなったダンゴムシみたい」
「おっ♪ 久しぶりに寿々奈さんのそのネタ、聴いた気がするな」
「………」
「やっぱり、寿々奈さんは、そうでなくっちゃ」
「………。中森くん、気安く私に話しかけないでちょうだい」
鷹乃は翔太を拒絶すると、智也に寄り添う。翔太がタメ息をついた。
「男子に対するガードは限定解除されただけか……ま、いいさ。せいぜい、お幸せに」
「………」
鷹乃は返答せずに、ますます智也へ寄り添う。おかげで生徒たちの視線が、さらに集まった。
「む~っ♪ みんなの視界の中でアタシが背景になってるじゃん!」
「女子Kだな」
「ショーゴ、ちょっと唇貸して」
「耳じゃなく…ぅ…」
正午はキスをされた。
「…」
お前いきなり何をする、と視線で抗議したけれど、カナタは離れて微笑んだ。
「ほら♪ これでアタシとショーゴに視線が集まってる」
「……真性のアホだ……、いや、芸人だ。自分に注目がないと我慢できないってか…」
「ほらほら、ひそひそアタシのこと話してる」
カナタの言うとおり、モデルもしている彼女の話題が出る。歌手デビューの話もある彼女の開けっぴろげな行動に生徒たちが反応していた。
「やっぱり、アタシとショーゴが浜咲ベストカップルね♪ アタシの素晴らしき超弩級の可愛らしさと、ほんの少しのショーゴのカッコ良さで勝ち点100♪」
「はいはい」
正午は受け流したけれど、鷹乃が智也を見つめて小声で求める。
「………して…」
「は?」
「私にも……キスしてちょうだい」
「………ここで? 今?」
「…………イヤなの?」
「オレは男だから…」
智也は鷹乃を抱きよせて囁く。
「好きな女に恥をかかせるほど小心じゃないが、鷹乃の大胆さには驚くよ」
智也からキスをする。カナタが不意をついて正午にしたキスよりも二人の気持ちが入っている分だけ、生徒たちの反応も大きくなる。冷房が効いているとはいえ、真夏の教室は温度が上昇していた。男子生徒の中には、ひやかしの野次を飛ばしてくる者もいたが、もともと智也は気にしない性格だったし、鷹乃も無視している。
一人だけ対抗意識を燃やす少女がいた。
「ショーゴ♪」
「お前……まさか…」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、ダメダメだろ。ダメダメのダメカップルだ。しかもダブル」
「バカップルの壁を超えてスーパー・バカップル♪」
「超えたくない壁だ……」
「いいから素直にキスさせなさい」
また、カナタが恋人とキスを始める。今度は深いキスで時間も長い。教室の生徒たちが騒ぎ始めた。翔太が常識人として注意する。
「おいおい、四人とも、ここが自習室だってこと忘れてないか?」
「翔太もさ、あの国語教師さっさと口説いてきなよ。そしたら、六人でスーパー・バカップル・スリーができるよ」
「うっ……黒須さん……気づいてた?」
「うん、アタシの目は通常の三倍、鋭いから」
「あんまり言わないでくれよ。それに、どっちにしてもスリーとかは参加しないし」
「ふーん♪ ……あ、ほたる!」
ほたるが教室に入ってきたのを見つけたカナタが駆けよろうとする。
「ほたる♪ スーパー・バカップル・スリーをやるから健を…うぐっ?!」
智也が慌ててカナタの口を塞いだ。カナタが視線で理由を問いかけると、今は黙ってろ、とアイコンタクトで返答する。カナタのかわりに翔太が、ほたるへ近づく。
「ほたるちゃん、どうかしたの?」
「…うん……忘れ物……、………でも……何を忘れてたのか……忘れちゃった……あはは、ほたる……バカだよねぇ……あは…」
暗い顔をして空笑いをしている。ほたるが教室を徘徊しようとするのを翔太が止めて外へ連れ出していった。智也がカナタを離す。
「で? アタシの可憐な唇を押さえ込んだ理由は?」
「白河は伊波と別れたらしい」
「っ、ホントっ?!」
「マジかよ?!」
「本当にっ?!」
カナタと正午、それに鷹乃まで驚いている。智也は声をひそめて語る。
「オレは頻繁にウソをつくが残念なことに、これは本当だ」
「ほたるが別れた理由は?」
「ああ……まあ、……別れたというよりは正確には捨てられたって表現の方が正しいな。伊波が他の子を好きになって、それで……」
「ポイっ、かよ?」
正午が空き缶を捨てるような動作をしてみせると、カナタがわき腹を突いた。
「ぐふっ…」
「加賀の言い方は悪いけど、……まあ、そーゆーことみたいだ」
「……白河さん……」
鷹乃が心配そうな顔をする。カナタも表情が暗い。
「ほたるはさ、本気で健を好きだったのに……」
「ほたるちゃん、あんな可愛いのにな……捨てるかよ、普通。カナタと取り替えてほしいくらい…あぐっ!」
正午は膝蹴りをくらった。
「アタシがショーゴと取り替えたいくらいなのっ! バカっ!」
「うう……オレも蹴るぞ」
「女の子を蹴るな」
「お前なぁ…」
「お前とも言うなっ!」
もう一発、カナタが正午を蹴る。
「痛っ! って、お前、いい加減にしろよ!」
「また言ったっ!!」
さらに蹴ろうとしたカナタの脚を正午が受けとめて、仕返しにスカートをめくる。ひらりとスカートが拡がって、正午と智也はライトグリーンのレースショーツを目に焼き付けた。恥ずかしさと怒りでカナタの顔が紅く染まる。
「っ! バカショーゴっ!!」
カナタは受けとめられたままの脚を軸足にして、宙を舞って自由になる方の脚で正午の頭を蹴る。
「うおっ?!」
正午は頭を思いっきり蹴られて、うずくまった。
「痛てぇぇ…」
「うう…痛ぁぁ…」
カナタも着地に失敗して、お尻と頭を床へ打ちつけて、うずくまる。
「バカショーゴのせいで痛いっ!」
「ざけんな! お前が悪いっ!」
「また言った!」
「おい、加賀、黒須、どうでもいいことでケンカするな」
「「よくないっ!!」」
智也が仲裁してもカナタと正午の痴話ゲンカは、どんどん激しくなり結局は二人とも本気で怒ってしまった。
「もうお前とは別れる!! 捨てる! ポイだっ!」
「ショーゴのバカっ! あんぽんたん!!」
怒鳴って教室を出ると、別々の方向へ消えてしまった。
「あいつら……まったく……」
「黒須さんと……加賀くんまで、あんなに簡単に…」
「ああ、あいつらのは気にしなくていい。あれは一種のコミュニケーションだから。三日もあれば仲直りするだろう」
「………そんな……ものなの?」
「ああ、スーパー・バカップルだからな」
「………」
「さてと、白河の方が問題なんだが……、オレは鷹乃のことで、いろいろ相談に乗ってもらったからなぁ……」
「白河さんのために何かするつもりなの?」
鷹乃の問いかける声色は、何かしてあげてほしいけれど、ほたるに智也が近づくのはイヤという気持ちが、はっきりと感じられる声だったので、智也も自重する。
「できることなら、オレも何かしたいが……けど、伊波のことは中森が当然に探りを入れるだろうし、探りを入れて余地があるなら、できることをするだろうな。白河の方も、フォローはオレより適任が、いっぱいいるからな。フラれたばっかりの女に、鷹乃と付き合いだしたばっかりのオレが近づくのも問題あるし……彩花か、唯笑あたり、いや、トトにでもフォローを頼むのがオレの仕事かもな」
「………。……あなたは友人が多いのね」
「そうかな。普通だと思うぞ」
「…………」
「……。どうする?」
「どうって?」
「今日、これから。部活か?」
「……いいえ、……水泳部は辞めるわ」
「そうか。っていうか、まだ三年生も引退してないのか? 水泳部」
「………ええ……、推薦入試のある人は、引退せずに練習していたわ」
「鷹乃は?」
「……もう…諦めたから」
「なら、ヒマってことか?」
「そうね。……そうなるわ」
「白河には悪いけど…………、どこかへ遊びに行くか?」
「いいの?」
「ああ、どこがいい?」
「……………、マリンランド」
「……。先週、行ったのに?」
「だって、あのときは白ドルピィ君を捜していたから、乗りたいもの、いくつか残していて…」
「けど、この時間から行くと園に着く頃には夕方だしな……今度にしないか?」
「……うん……、…」
とても残念そうな顔をする鷹乃に、智也は少し意外だった。
「そんなに行きたかった?」
「………だって、私……ああいう、ところへ行ったこと、ほとんどないの」
「なんで?」
「…………。子供の頃は、少し両親といっしょに暮らしていたけれど、その頃も海に連れて行ってもらったことが一回ある記憶ぐらいよ。叔父のところへ厄介になるようになってからも、お店も忙しいから……」
「そっか。オレは中学の頃とか、よく行ったから飽き気味だけど、鷹乃が行きたいなら明日にでも行こう」
「いいのっ?!」
「ああ。明日の予定は、それで決まりだ。問題は今日の予定だけど、ゲーセンってのも芸がないしな……どっかで飯にする……と、鷹乃が食べる分を考えると明日の軍資金が無くなるし…」
「私、この頃は泳いでいないから、そんなに食べないわよ。それに外食はもったいないわ。あなたの家で何か作ってあげましょうか? 材料費を出してくれるなら」
「おっ♪ いいの?」
「今日の予定も決まりね。リクエストはあるかしら?」
「うむ、唐揚げがいいな。無理なら何でもいい、鷹乃の得意なもの」
「唐揚げにしましょう。得意とまでは言わないけれど、苦手でもないわ。それに私も好きだもの」
予定が決まったので二人はスーパーで買い物をしてから智也の家へ行く。家の前で唯笑に出会った。
「あ、トモちゃん♪」
「おお、唯笑、いいところに現れたな」
「う~っ…トモちゃんが、そーゆー言い方するときって唯笑にとっていいことが少ない気がする…」
「うむ、誰にとってもいいことじゃない。白河のことだ」
「ほたるちゃんの? ……彩ちゃんから聞いた?」
「ああ。それに学校でも、かなりの落ち込みようなんだ。だから、唯笑あたりにフォローを頼めないかと思って……ダメか?」
「ううん、それなら、もう計画してるよ。トトちゃんの誕生日に、みんなでパーティーするの。トモちゃんも来てね。ぁ、えっと、その子は? トモちゃんの学校の友達?」
「ああ、オレの…、彼女だ。寿々奈鷹乃」
「……」
鷹乃は黙って会釈する。唯笑は微笑んだ。
「そっか♪ さすがトモちゃんの彼女さん、すっごい美人さんなんだ。きゃはっ♪」
「こいつは今坂唯笑ってオレの幼馴染み。すぐそこに住んでる」
「唯笑です♪ よろしくね、鷹乃ちゃん」
「…ええ、…よろしく」
「じゃあ、唯笑はこれから、ほたるちゃんを…ぁ、あれ?」
唯笑は目から零れて頬をつたった涙を急いで拭いた。
「きゃは♪ 目にゴミが入ったみたい」
笑って次々と湧いてくる涙を拭いている。
「ゆ、唯笑、もう行くね。じゃ!」
唯笑は背中を向けると駆けていった。
「…………。暑いし、家に入ろう。鷹乃」
「今坂さん……………あなたのこと好きみたいね」
「……オレは気づいてないぞ」
「………………気づかないフリをして……」
「唯笑の話はやめよう」
「……うん」
鷹乃は二度目になる智也の自宅へ踏み入れ、台所に立った。
「お母さんがおられないのにキッチンも、よく片付いているのね。ちょっと覚悟していたのよ、とんでもない状態だったら、まずは掃除からになるって」
「彩花と唯笑が、ときどき片付けてくれるからな」
「………、彩花さんって、あなたが入院していたときの?」
「ああ、ほら、そこ。その窓の向こうにある隣の家、あそこに住んでる幼馴染みだ」
「…そうなの…」
鷹乃は戸棚やシンクを開けてみて、料理道具の位置を把握すると、料理を始める。智也は冷たいジュースを二つのコップに注いだ。
「飲むだろ」
「ええ、ありがとう。……酔ったりしないわよね?」
「正真正銘のオレンジジュースだって。悪かったよ、ビール呑ませて」
「………もう、別に、いいわ。……今ここに、私はいるんだもの…」
「鷹乃…」
求められているような気がしたので鷹乃へキスをする。柑橘系の香りと甘い味がした。
夜、彩花は予備校から帰ってくると入浴と夕食を済ませてから、窓から智也の部屋を覗いた。部屋は照明がついていないので暗い。窓の鍵はかかっていなかった。
「鍵がかかってないってことは、入ってもいいってことよね♪ 結局、あの子のこと、どうしたか聞かないと寝れそうにないし」
窓から窓へ渡ると、浸入する。
「お邪魔しま~す♪ 智也、いる?」
返事はなかった。部屋には誰もいない。
「下かな」
彩花は足音を隠さずに一階へ降りていく。
「智也いる~ぅ? あ…」
ちょうど帰る鷹乃を智也が送っていくために玄関で二人が靴を履いているところだった。パジャマ姿で階段を降りてきた彩花を見た鷹乃の表情が硬くなる。
「………」
「彩花お前、かなり最悪のタイミングで…」
「あはっはは…、えっと、……誤解しそうになるかもしれないけど、私は…」
彩花と智也が二人の幼馴染み関係を説明する前に、鷹乃が涙を零した。
「っ…ぅっ…」
「鷹乃、誤解しないでくれ! ホントに彩花は、ただの幼馴染みなんだ!」
「うん、そうそう! ぜんぜん、怪しい関係じゃないよ! 隣だからパジャマで来るけど!」
二人が共同で言い募ると、鷹乃は泣くのをやめて涙を拭いた。
「幼馴染みでも…っ…ヒクっ…私と付き合ってるのだから、もう、やめて」
「ごめんね。うん、今度から気をつけるから、って……え~っと、付き合ってるの? 智也と? そーゆー話で、まとまったの? 私、それを聞きに来たんだけど、どうなの?」
「付き合うことになった。な、鷹乃?」
「ええ…そうよ」
頷いた鷹乃は濡れた瞳で彩花を少し睨んだ。
「そうなんだ……、おめでとう? で、いいのかな……あ! 妊娠してたって話は?! どうなの? どうするの?」
「あれはウソだった。もう気にしなくていい」
「ウソ……? ウソって、どういうこと?」
「だから、最初から妊娠はしてなかったんだ。つまり、ノープロブレム♪」
「…………、………。寿々奈さんって、ずいぶんとタチの悪いウソをつくのね」
彩花が鷹乃を睨んだ。鷹乃も睨み続けているので、睨み合いになる。
「ウソとしては最低の部類に入るよね。妊娠してるなんて言って男を脅すなんて最低の手段よ。恥ずかしくないの?」
「……………」
「おい、彩花、やめろよ。鷹乃、本屋まで送るから帰ろう」
智也が肩に触れてうながしても鷹乃は動かない。
「イヤよ。……どうして私が帰って、この人が残るの?」
「残るって……彩花とは、なんでもないから…」
「ウソよ! この人っ! あなたのこと好きだもの! わかるわ!」
「鷹乃………」
智也は否定できず、彩花も否定しない。
「……………………」
「…………」
「…………………」
重い沈黙が玄関に訪れ、それを破ったのは智也だった。
「彩花。もう自分の家に戻ってくれ」
「……智也…」
「オレは鷹乃と付き合うことになれたし、妊娠はしてなかった。これが結果であって結論なんだ。いろいろ心配かけて悪かった。すまん」
智也が頭を下げた。
「…………帰る」
彩花が階段を駆けあがっていく。鷹乃が状況を理解できないでいる。
「帰るって……あの人、二階へ…」
「オレの部屋の窓と、あいつの部屋の窓は出入りできるくらい近いんだ。だから、あいつは二階から降りてきたんだ。帰るのも靴がないから窓から帰る。ごめん、言うのが遅くなった」
「……………………………」
「さ、送るよ」
「…………」
「鷹乃?」
「…………私……、ここに……泊まっても……いい?」
「……………………。いいけど、……オレはいいけど、叔父さんとかに説明は?」
「………………詩音に頼んでみるわ」
鷹乃は電話を借りて詩音へかける。
「もしもし」
「はい、双海ですっ!」
少し慌てた詩音の声が受話器から響いてきた。
「夜遅くに、ごめんなさい。何かしていた?」
「その声は鷹乃?」
「ええ、ごめんなさい。何かしていたみたいね」
「香菜さんとシャワーを浴びていただけです。大丈夫ですよ、この携帯電話はノキア製の防水ですから問題ありません。それで、ご用件は?」
言われてみれば受話器から響いてくる音はシャワーだった。
「詩音の家に、私が泊まっていることにしてくれないかしら?」
「それはかまいませんが……、三上さんの家に泊まるのですか?」
「ええ。……」
「余計な御世話かもしれませんし、もう鷹乃もわかっていると思いますが……男性の部屋に泊まるということは、何かあることを覚悟していないといけませんよ? それで、鷹乃はいいのですね?」
「……ええ、大丈夫…」
「そうですか、それなら、叔父さん方へは私から連絡しておきます。鷹乃は私の家で眠ってしまったので、このまま寝かせておきます、と」
「ありがとう」
鷹乃が電話を切ろうとすると、詩音が付け加えてくる。
「あ、鷹乃! 待ってください」
「何かしら?」
「一応、アリバイ工作なので口裏を合わせるためにも告げておきますが、香菜さんも今夜は私の家に泊まりますから、三人で過ごした、ということを認識しておいてください」
「ええ、わかったわ。ありがとう、いろいろと」
鷹乃は電話を終えようとして、別のことを思い出した。
「あ、詩音! ちょっと待って」
「はい?」
「あの………この電話、香菜には聞こえている?」
「いいえ、香菜さんは先に揚がってしまわれましたよ」
「そう………、あのね。……」
「はい?」
「………、私の勘違いかもしれないけれど……、……香菜は……その……、……その気があるんじゃないかって………」
「その気、とは、どういう日本語ですか?」
「………。だから……その……、……男子より……、自分と同じ女子に……興味があるというか……」
「レズビアンということですか?」
「っ…、そ…そ、…そんな言い方もあるかも……しれないけど、……そこまで、はっきりとしているか……わからないというか……私の勘違いかも……、で、でも……香菜、ときどき思いつめた顔をするわ。そ、それで…その……詩音が泊めてあげるのは……大丈夫とは思うけど……その、……ご、ごめんなさい! 私、何を言ってるか、わからないわ!」
「いいえ、わかりますよ。ご忠告ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから安心してください」
「そ……そう。詩音が…そう言うなら…」
「それでは、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
電話を終えると、智也の声が風呂場から聞こえてくる。
「風呂沸かすけど、鷹乃って熱いのがいい? ぬるいのがいい?」
「どちらでもいいわよ。あなたの好きなようにしてくれてかまわないわ」
答えながら鷹乃も風呂場に入る。脱衣所に洗濯機と洗面台があり、浴室の湯船は小さな子供なら三人同時でも入れそうな大きさだった。
「立派なお風呂ね」
「そうか? ごく普通だと思うが?」
「叔父のところは、お風呂自体が無くて銭湯に行ってるのよ。お風呂があるだけでも、立派なものよ。前にも言ったけれど、ごく普通ってことが人によっては羨ましいこともあるの」
「んじゃ♪ いっしょに入ろうぜ」
「っ…、……………」
鷹乃の顔が真っ赤になるのを智也は楽しみながら見つめる。
「冗談だって♪ 本気にしたか?」
「っ! ひどいわっ! からかうなんて!」
「悪かった♪ でも、ホントに鷹乃って可愛いな。そーゆーところは唯…」
唯笑みたいだ、と言いそうになって智也は自重した。
「とりあえず熱めに沸かすから、鷹乃が先に入って、自分で調節してくれ」
「あ…」
「ん?」
「………着替えが……ないわ」
「ああ、そうか。………」
彩花か唯笑に借りるのはありえないよな、智也は母親のことを思い出した。
「母さんのパジャマとかでよかったら借りる?」
「…………」
鷹乃が戸惑って考え込む。寝間着はともかく下着までも借りる気にはなれない。かといって真夏の汗を吸った下着を入浴後に着けるのも避けたい。
「私、あまりコンビニには行かないのだけれど、あそこには下着も売っていたかしら?」
「ああ、たぶん、あると思うぞ。この近くなら…」
智也がコンビニの位置を教えてくれたので鷹乃は一人で買い物に出た。すぐにコンビニを見つけて、店内を見て回ると目的の物はあった。
「……高いわね…」
思っていたより高いし、ショーツやストッキングはあってもブラジャーまでは置いていなかった。仕方なく一番安いものを選んでカゴへ入れる。
「…こんなものまで…置いているの……」
隣の棚には化粧品が並んでいて驚いた。
「……………」
鷹乃は化粧をしたことがないけれど、女子の大半は生活指導を受けない範囲でリップグロスを塗ったり、薄いファンデーションをつけたりしている。
「………」
薄いピンク色のグロスを手にする。
「………、……似合わないかも…」
智也は何も化粧をしていなくても可愛いといって好きになってくれたのだから、今さら慣れないことをして加点を狙って失敗するより、減点を受けないようにする方が先決だと想い、鷹乃は女性向けのカミソリをカゴへ入れる。ここ最近は泳いでいないこともあって体毛の処理を曖昧にしている。濃い方ではないけれど、一週間も怠ると腋は目立つかもしれない。
「歯ブラシは買い置きがあるって言っていたから、もう………」
鷹乃は買い物を終えようとして、別の棚に目が行き、立ち止まった。
「……………………」
避妊用のコンドームが並んでいる。
「………………でも………」
詩音に言われなくても今夜ありそうなことは理解できている。
「……けど…………………………」
こういうものを買うのは男の役目でしょう、鷹乃は素通りしようとして、また足を止める。
「……………………私が急に泊まるって……」
智也が用意しているとは限らない、鷹乃としては今日の昼、智也が責任を逃れるようなことを言わなければ妊娠がウソだったことを教えて交際を受けるつもりだったけれど、智也の立場から考えれば今夜いきなり鷹乃が泊まると言い出すことなど想定外だったに違いない。用意があるとは考えない方がいいかもしれない。
「…………………………………………」
あれこれ思案していると、不意に店員と目が合ってしまった。
「「っ…」」
喫茶店とかけもちでアルバイトしている稲穂鈴は鷹乃と目が合って慌てて下を向いた。店長からの注意で高校生が入ってきたときは万引きに用心するよう言われていたので観察していたが、鷹乃に万引きの様子がないことがわかるのと同時に、買い物の内容とコンドームを見つめて真剣に考え込んでいる姿で、小説家を目指す者としての想像力が働き、これから鷹乃が何をするのか推理してしまっていたので、鈴の顔が赤くなる。
「……………………」
「………………」
鷹乃も真っ赤になった。他に客はいないし、店員も鈴しか見あたらない。気まずい空気が漂った。
「……………………」
鷹乃は逃げ出したくなったけれど、とにかくレジを済まさなければいけない。鈴と目を合わさないようにカゴを置いた。
「………」
「…………」
鈴もマニュアル通りの挨拶を忘れるほど動揺しながら、レジを打つ。下着とカミソリを袋に入れて鷹乃へ手渡した。
「……………」
「………」
精算を済ませて商品を受け取った鷹乃は店を飛び出そうとしたが、その手首を鈴が握った。
「待って!」
「っ?!」
「よ、余計なお節介かもしれないけど!」
鈴は勇気を出して店員の枠を踏み越え、年長者として女子高生に説教する。
「買っていった方がいい! こ、困ったことになって後悔するのは君だ!」
「っ……」
何を言われているのか、鷹乃も理解できる。鈴は商品棚へ走ると、コンドームを持ってきた。鷹乃の返事を待たずにレジを通していく。鷹乃も黙って代金を払った。