二日後の早朝、前日に寝たのが午後4時だったので午前2時から起きていた智也と鷹乃は空腹を覚えていた。冷蔵庫を開けても材料になりそうなものはない。ピザの宅配もしていない時間帯だった。
「智也。お米を炊いて、オニギリをつくる、というのは、どうかしら?」
「ちょっと淋しいな」
「そうね、昨日も残っていたパスタだったもの……炭水化物ばかりになるわ」
「コンビニで何か買ってくるよ」
智也が起きあがってズボンを探すと、鷹乃が先にショーツへ足を通していた。
「私が行くわ」
「夜中だぞ?」
「もう朝よ」
「ホントだ……」
カーテンを開けると、夏の朝日が眩しい。
「ずいぶん生活のリズムが乱れてしまったわ」
「そうか? 夏休みって、こんなもんだぞ」
智也にとって深夜まで遊んでいて昼過ぎに起きる、早朝まで起きていて夕方に起きる、昼過ぎに寝て夜中に起きる、そして次は世間一般で言う早寝早起きになるが、その翌日は深夜まで起きていて昼過ぎまで寝る、できれば9月1日には早寝早起きの順番になっていてほしい、という生活リズムは毎年のことだったが、鷹乃にとっては初めての体験だった。もう水泳での進学も諦め、夏期講習に行く気もしない、そして二人とも好き合っていて、この広い家には智也の両親もいない、もう48時間以上、食べること、寝ること、抱き合うことの三大欲求を満たす以外、何もしていなかった。
「智也と付き合っていると、新しいことばかりよ。夕方に寝て夜中に起きるなんて……」
「実は人間は24時間サイクルじゃなくて、25時間サイクルの体内時計を持ってるんだぞ。だから、寝たいときに寝ると、ちょっとずつズレていくんだ」
「………」
「ホントだって! ウソじゃないぞ!」
「いえ……疑ったわけではなくて、そんなことを知っているなんて意外だったから」
「どういう意味だよ?」
「意外に博識で驚くわ。いつも、ふざけたことばかり言っているから、ヒトの生態リズムのこと、知っているなんて思わなかったわ」
「うむ、知識は色々と仕入れておいて悪用すると楽しいんだぞ。知は力なり」
「フランシス・ベーコンの言葉ね」
「鷹乃も顔が可愛いだけじゃなくて、その中身もいいんだな♪」
「誉められたと思っておくわ」
鷹乃は自分のTシャツを着ようとして、汗の匂いが気になったので洗濯機へ入れると、乾燥機から智也のシャツを出してきた。
「このシャツ、借りていいかしら? コンビニへ行くのに着るものが無いわ」
「ああ、どうぞ。けど、やっぱりオレが行こうか?」
「ううん、私が行ってくる。お米だけ炊いておいて」
「了解」
智也から財布を受け取った鷹乃はコンビニへ向かった。早朝のコンビニでは新しい弁当やパンが搬入されている最中で、稲穂鈴が眠たさのピークに耐えながら配送の作業員を手伝っていた。
「ふふ…あと2時間…働けば…」
喫茶店のバイトとかけ持ちで、朝から夕方までウエイトレスをした後に出勤しているのに交代が風邪で欠勤したため、徹夜で働いている。そのせいで、怪しい微笑みを浮かべていたが、鈴の目標金額が近づいていた。
「ようやく……原チャリを卒業して…ふふ…手に入れる、……450CCの圧倒的な加速と機動性…」
バイク免許は取ったのに、まだ原付しか所有していなかったけれど、次の給料日がくれば念願のスポーツレプリカが買えると喜んでいる。
「原チャだと箱根の山も……苦しいけど………ふふ……買ったら、その日からバイト休んで……瀬戸大橋まで一気に…」
ぶつぶつと脳内思考を口から垂れ流している鈴へ、鷹乃が近づいて声をかける。
「お弁当、見せてもらっていいかしら?」
「あっ! はい、失礼しました! いらっしゃいませ!」
邪魔になっていた鈴が慌てて商品棚の前をあける。鷹乃は会釈して弁当類を眺めたけれど、大きめのサラダを取ると弁当は買わずに卵のパックとベーコンを買った。
「……お味噌はあったから……豆腐…」
豆腐のパックも商品カゴへ入れ、次は移動して女性用の下着を入れ、さらにコンドームの箱を二つ、値段を吟味してから商品カゴへ加えた。
「…あの子………」
鈴は悲しくなった。
ほんの数日前には買うことを戸惑っていた姿を、ういういしくも心配に思ったのに今は生理用ナプキンを買うのと同じくらい平然としている。
「……………………………」
しかも、私が買わせたのは12個入り698円だったのに、24個入り898円を二つも、悲しい、私のせいだ、あのとき私が買わせずに年長者として軽率な行動を自重するよう忠告していたら結果は変わっていたかもしれない、本当の恋愛っていうのは、もっと甘くて切なくて、なかなか伝えられない想いとか、擦れ違う想いが錯綜して、乙女の涙と恥じらいで作られるはず、ううん、違う、それは私が脳内で妄想してる恋愛小説の世界、むしろ、現実の恋愛は平然とコンドームを買うのも一つのシーンであるはず、好きです、オレも好きだ、じゃあ、やりましょう、一回したら、二回目、三回目、どんどん慣れていく、ブラジャーを外されただけで気絶するほど恥ずかしかったのに、いつのまにか平気で裸のまま冷蔵庫を開けたりする、それが恋愛の姿、でも違う、少なくとも私が描きたい小説とは違う、断じて違う、写真は全てを写すけれど、絵画は取捨選択される、小説も書くべきことと描かざるべきことを選択して美しく描くもの、では、私は目の前にいる、この子を汚いと想っているのか、それは私がハタチ過ぎてバージンだからか、いや、そういうことではなくて単に悲しいんだ、最近の女子高生から考えれば、ごく普通の水準かもしれないけど、もっとセックスに至る前の気持ちを大切にしてほしかった、そうだ、次からは絶対に止めよう、もしも同じような場面に出くわして男の部屋へ泊まろうとしている子がいたら、止めよう、たとえ相思相愛だってわかっていても、君たちにはまだ早いとか言って強引に女の子を家へ送り返そう、原チャは二人乗り禁止だけど、バイクなら連れ帰れる、そうやって二人に気持ちを大切にする期間を、もっと持ってもらおう、でも、それが余計な御世話になって二人の気持ちが擦れ違うキッカケになって別れたりしたら、私のせいになるかもしれない、でも、そういう風に別れてしまうカップルなら気持ちも浅いわけだし、その過程もまた小説のネタとしては美味しいから、もしも知り合えたら、私の小説の参考にもできるし、そういう意味で残念だけど、この子は、もう参考にはならない、その段階は終わってる、私の小説はキスシーンで終わるくらいの淡い恋物語であって、そもそも現実を全て描いたら人間は、いつか死んでしまう、死という結末に向かって…。
「何をボーッとしているのかしら?」
「え…?」
鈴は創作家独特の妄想モードに入っていて、目の前に商品を置いた鷹乃が待っているのに気づいていなかった。
「早くお会計してちょうだい。あなたの仕事でしょう?」
「あ、はい!」
鷹乃に怒られて、鈴は急いでレジをする。思考に夢中になっていて、ずいぶん長いこと待たせたようだった。
「お待たせして、申し訳ありませんでした」
「……。アルバイトとはいえ、仕事なのだから、ちゃんと集中しなさい。それが、あなたの勤めでしょう」
「……はい、申し訳ありません」
「目を開けたまま眠っているの? それで、よく給料を受け取れるわね?」
「…」
ムカっ、そりゃボーッとしてた私が悪いけどさ、そこまで言わなくてもいいじゃない、こっちは20時間も寝ないで働いてんのよ、あんたなんか、さっきまで寝てたでしょうが、それで起きて、髪もそのまま男物のシャツをノーブラで着てさ、シャツから浮いちゃう乳首とか髪で隠してるつもりかもしんないけどバレバレ、お客様かもしんないけど、その財布だって男物でしょ、自分のお金じゃないのに偉そうに、私はちゃんとバイク買うためにバイトしてんのよ、もちろん、小説家になるって夢も実現するために、どんなに疲れて帰っても一日に原稿用紙5枚分は、絶対書くって決めて…。
「もう、いいわ。さっさと、お釣りをちょうだい」
「は、はい!」
鈴から小銭を受け取ると鷹乃は三上家へ戻る。合い鍵で玄関をあけて入ったけれど、智也が一階にいない。
「二度寝したのかしら」
階段をあがって智也の部屋をあけてみて、鷹乃は彩花を見つけて戦慄した。
「っ…どうして……」
「「…………」」
見られた彩花と智也は、お互いを見合って、また誤解されそうな場面だったことに気づいた。上半身裸の智也はベッドに腰かけていて、その背後に彩花がパジャマ姿で寝転がっている。しかも、彩花は親しげに智也の頬を指でつついている状態で、鷹乃にショックを受けるなと言う方が難しい場面だった。
「…どうして……桧月さんが…」
鷹乃の手から買い物袋が落ちて、中の卵が割れた。
「待て! 違う! ぜんぜん誤解だ!」
智也が慌てて鷹乃へ駆けより、状況を説明する。
「なんでもない! たんに彩花と喋ってただけだ! そうだろ?! 彩花!」
「さあ?」
「彩花っ!!」
「はいはい、そうそう、そうですよ、ちょっと喋ってただけ。っていうかさ、寿々奈さん、ずっと智也の家に泊まってるよね? いったい何をしてるんだか。ちょうど私が起きたら、智也も起きてるみたいだったから、窓を渡って来たのよ。何か文句ある?」
「……………………、……っ!」
鷹乃が目尻に浮かんだ涙を拭って、彩花を睨んだ。
「あるわ!!」
「言ってごらん♪」
「私は智也と付き合ってるのよ!!」
「だから?」
「二度と来ないで!!」
「寿々奈さんに、そんなこと言われる筋合いないよ。ここは、寿々奈さんの家じゃないよね?」
「っ……、イヤよ! こんなのっ!」
鷹乃は智也にすがって訴える。
「追い出してよ!! 二度と来させないで!!」
「彩花………いちいちオレの彼女を挑発するなよ。あと、あんまり窓から入ってくるな」
「ふーん♪ そんなこと言っていいのかな?」
彩花はパジャマのポケットから2万円を出して、微笑む。
「今週の生活費を、わざわざ、ご丁寧にも運んできてあげた私にさ」
「むっ……彩花、お前…」
「女の子を連れ込んで好き勝手やってるから、そろそろ財布、淋しくなってない? 気を利かせて一日早く引き出してきてあげたのよ」
「「……………………」」
言われてみれば、もう智也の財布に紙幣は残っていなかった。
「どういうことなの?! どうして桧月さんが?!」
「それは……だな…」
「何度も言ってるよね。私は智也の保護者も兼ねてるの。だから、遊びで無駄遣いして食費を削ったりしないように、食費と衣服費は週に2万円ずつ、私が預かってる通帳から引き出して、手渡しするルールになってるの。遊びに使っていいのは月5000円、残りは私が管理するルール♪ ね、智也」
「………金、置いて、さっさと帰れよ」
「ずいぶんな言い草ね。入れてあげるから、ちょっと財布かして」
「ああ」
智也はズボンのポケットを触って、鷹乃に財布を預けていたことを思い出した。
「オレの財布」
「……うん…」
納得いかない顔のまま鷹乃は財布を智也に返す、それが彩花の手に渡る。
「すっかり使い切ってるね」
彩花は紙幣の代わりに入っているレシート類をベッドに並べて家計簿チェックする。
「ふーーん……」
コンビニのレシートにあったコンドームのことは見なかったことにして、他を眺める。いつも智也が買っている弁当やパンなどの、すぐに食べられる既製品よりも、手間を要する唯笑や彩花が来たときに作ってあげるような生肉や野菜類の購入が増えていた。
「………」
なるほど、それなりの料理はできるみたいね、デートはマリンランドか、まあ無難なとこかな、彩花は一通り眺めながら見過ごせないレシートを見つけた。
「なによ、これ? ピザで2万3千円って、何のパーティーしたの? お小遣いの方から繰り入れしてまで何人前を注文したの?」
「……別に、…二人で食べただけだ。もういいだろ! さっさと帰れよ!」
「はいはい」
ついつい、小姑みたいなことを言ってしまったことを軽く自己嫌悪しつつ、彩花は腰を上げた。
「彼女ができて嬉しいのはわかるし、少しは大目に見てあげるけど、あんまりバカな使い方しないのよ」
「ああ」
「じゃあ…」
彩花は一応の納得をして窓枠へ足をかけたけれど、鷹乃が納得いかずに不満を訴える。
「変よ! おかしいわっ!」
「鷹乃…」
「何が、おかしいのかしら? 寿々奈さん」
「どうして、桧月さんが家計に口出しするのよ?!」
「言ったよね、私は智也のお母さんから、このバカの管理を任されてるの」
「………。変よ……そんなの…イヤ…」
「鷹乃が気にしなくても…」
「だって、私と付き合うのに、……桧月さんは他人でしょ? 合い鍵だって私に……。智也の生活に、私以外の女性がかかわるのはイヤ。自分の家のことなら、智也自身が管理すべきよ」
「まあ、そうだけど……、……おい、彩花。やっぱ、そろそろ、オレに通帳を渡せよ。自分で管理するから」
「あのね、合い鍵みたいなわけには、いかないよ。この問題はさ」
「なんでだよ?」
「私は智也のお母さんから信頼されて、任されてるの。なのに、お母さんの許可もなく智也に渡すなんてできないわけ。わかる?」
「くっ…」
「しかも、初めて彼女ができて浮き足立ってるときに、ちゃんと自己管理なんか、できるわけないじゃない」
「できるさ! そのくらい!」
「無理ね。ずるずると毎晩、彼女を泊まらせてるような状態で自己管理がきいてあきれるわよ。普通さ、ちゃんと両親のいる家庭なら、こんなに連泊させる?」
「「…………」」
「今日あたり、ちゃんと家に送ってあげなさいよ。でないと、来週の生活費は渡さないからね」
断言した彩花は窓から帰った。
昼過ぎ、ほたるは自分の部屋で午睡から目覚めた。
「ん~……………………」
寝覚めは悪くなかった。
「……正午くん…」
腕枕してくれている正午は、まだ眠っている。ほたるは急に恥ずかしくなって起きあがると服を着る。脱がされた下着と衣服をベッドサイドから拾い、正午が起きないうちに身につける。
「………ほたるの初めての人が……正午くんになるなんて……」
思いもしなかったけれど、正午は優しかった。ピアノの練習で疲れた腕をマッサージしてくれて、そのまま、キスされたりしてるうちに、脱がされて、抱かれて、触られて、ほたるは身を任せた。
「この女ったらし……」
少し悔しい、たぶん、腕のマッサージの前、ほたるの家に来て、静流お姉ちゃんもママもパパもいないって教えたときから、正午はそのつもりになっていたと、今になって振り返るとわかる。マッサージで自然に身体に触られることに慣れさせて、優しくキスもして、ゆっくり外堀を埋められて本丸を落とされた。
「……女の子の口説き方……誰に仕込まれたんだか……まったく、もう」
誰かはわかっている、カナタ以外に正午の過去はないし、いつもカナタは口うるさく女の子に優しくする方法を説明して実行するように要求していた。その半分も説教者には実行されなかったけれど、ほたるには実行してくれた。丁寧で優しくて少しもイヤじゃなかったし、ほたるに不安を与えないようキチンと避妊もしてくれていた。
正午が目を覚ました。
「……、ほたる」
名前を呼んでくれて、軽いキスをしてくれる。ほたるは赤くなって黙り込んだ。
「………………………」
「もう服、着ちゃったんだ……残念だな」
「っ! しょ、…正午くんも服っ! 早く着てよ!」
「もう少し寝たいな♪」
「寝てもいいから服は着てっ!」
「はいはい」
正午が起きあがって服を着る間、ほたるは背中を向けて待つけれど、着終わった正午が後ろから抱きしめてくる。
「ほたる、明日のコンクール、頑張ってな」
「うん…」
「全国優勝なんて、ほたるなら楽勝さ。次は世界だな」
「ほたるが世界に羽ばたいても、見に来てくれる?」
「もちろん、ウイーンだろうと、木星だろうと、交通機関がある限り♪」
正午はキスをしながら、ほたるが着たばかりの服に手を入れてくる。スカートを脱がされそうになって、ほたるが逃げる。
「もうっ! 正午くんのエッチっ!」
「ほたるが可愛すぎるからだよ」
「っ…、女ったらし!」
「たはっ♪」
正午が、いつもの誤魔化し方をすると、ほたるの脳裏にカナタの顔が走った。よく二人がふざけていたのを自分と健の関係に比べて、羨ましくも思ったのに、今は、その正午が自分の前にいる。
「お…お茶、淹れてくる!」
ほたるが逃げるように部屋を出ると、正午もキッチンまでついてきた。
「紅茶でいいかな?」
「ああ。でも、アイスティーがいいな。動いて喉が渇いた…うぐっ?!」
正午はリビングで気配を消していた静流に背後からヘッドロックされて呻いた。静流が腕に力を込めて正午の頭を抱く。
「健くん、喉が渇くほど、ほたるに何をしてくれてたのかしらっ!」
「ぐぐぅ…ギブっ! ギブっ!」
「……?? 健くん? ……じゃないの?」
てっきり静流は健だと思ってヘッドロックをかけていたが、いつもと抱き心地と声が違うことに気づいて力を抜いた。
「あなたは……えっと……加賀くん?」
「ハァハァ……ったく、相手も確かめずに技かけないでくださいよ、静流さん」
「だって……、どうして、ほたると加賀くんが…」
いつのまにか帰ってきていた静流は二人が部屋で抱き合っていたことを気配で感じていたようで、困惑している。妹に問いかける視線を送ると、ほたるは紅茶の用意をしながら姉の顔を見ずに、あえて平然と穏やかな声で告げる。
「健ちゃんとは別れたから」
「……ほたる…」
このところ妹が鬱ぎ込んでいたのは感じていたし、ここ数日はコンクールを前にして、多少は元気になってくれていたので、健とケンカでもして仲直りしたのだろうと安心していたのに、静流の思いも寄らないことになっていた。
「健くんと別れたって、どうして?」
「……、そのうち話すよ。あんまり思い出したくないの」
ほたるは姉に顔を見せず、三人分のアイスティーを用意している。
「それで、加賀くんと付き合ってるの?」
「……そのうち話すよ…」
「でも、加賀くんだって…」
背中しか見せない妹から、静流は正午へ向き直る。
「加賀くんだって、たしか……カナタさんと付き合ってなかった?」
「別れた♪」
「別れたって、どうして?」
「ケンカ別れ」
「………。そんなの、いつものことでしょう?」
「でも、別れた。あんな女は捨てた。もえないゴミだ」
「……………………」
静流は何を言うべきか、わからなくなってタメ息をつく。
「そう………、……色々と事情はあるのかもしれないけれど、明日のコンクールは大丈夫?」
「うん、それは大丈夫だよ、お姉ちゃん。ほたるは落ちついてるから」
「そう……」
アイスティーを飲み終わるまで、ややぎこちない会話が続き、日が傾いてくると正午が一人で帰り、ほたるが玄関まで見送ってからキッチンに戻ると静流はタメ息をついた。
「とりあえず、ママが帰ってくるまでにシャワーを浴びてきなさい。…なんとなく、わかるわよ」
「…うん…」
女の勘は鋭い、父親は気づかなくても、母親は次女が男と何をしたのか、察知してしまうかもしれない。知られたところで、どうということはないけれど、やはり隠しておきたいし、姉も助言してくれたので、ほたるはバスルームに入った。
「…はぁぁぁ……」
裸になってシャワーを浴びる。
「……ふぅぅ……」
頭からシャワーに身を任せながら、疲れていたので座り込んだ。
「…………はぁぁ…」
ほたるは顔を両手で擦った。
なぜか、涙が溢れてきて止まらない。
「……ダメだよ……今、泣いたら、正午くんに悪いよ……。あんなに優しく……」
強要されたのでも、自暴自棄で抱かれたのでもないはずなのに、泣けてくる。
「…っ…ぅっ……ぅぅ……やっぱり……やっぱり、健ちゃんが……よかったよ……健ちゃんに……、……健ちゃんと……ぅ…ぅぅう……」
やっぱり、失恋は失恋だった。ほたるはシャワーの音で嗚咽を隠して泣きつづけ、それから何事もなかったように身体を拭いて、キッチンへ戻った。
「あ、パパ、ママ、おかえりなさい」
「「ただいま」」
すでに両親が帰宅していて、夕刊を読んでいた父親が娘へ視線を向ける。
「……。もう、いい歳なのだから、そんなカッコであがってくるんじゃない」
「はーい♪」
「明日のコンクールは、どうだ? 調子は」
「ばっちりだよ、まかせておいて」
「そうか。頑張れよ」
何一つ気がつかず、父親は夕刊へ視線を戻した。母親の料理を手伝っている静流が何も知らないかのように微笑んで話題を提供する。
「ほたるが金賞を取れないなんて、あとにも先にも、あの一回だけよ。ね」
「そんなことあったか? 静流」
「お父さん、忘れたの? ほら、審査員の計算ミスで、金賞と銀賞が入れ替わってたの。たしか、月岡海って名前だったはずよ。ね、ほたる」
「うん……」
「彼女も浜咲のはずよね。ピアノ、続けているの?」
「ううん、やめちゃったみたい」
「そうなの。音楽的センスは悪くないと思ったけど……、ほたる、交流ないの?」
「ぜんぜんないよ。たまに、廊下で擦れ違うけど、話さないから」
「そう……まあ、どうでもいいわね」
静流は料理へ集中力を戻し、ほたるは手伝うと言っても、コンクール前に指でも切ったら大変だから座っていなさいと、返答されるのがわかっているのでパジャマを着てから父親の隣へ座った。
「ねぇ、パパ」
「ん?」
「ほたるがウイーンに行っちゃったら淋しい?」
「そうだな。淋しくなるな」
「じゃあ、ときどき帰ってこれるように、お小遣いちょうだいね」
「わかった、わかった」
お小遣いといっても往復の航空運賃は20万円近くになるのに、愛娘にねだられると笑顔で応える父親は、ほたるの頭を撫でた。
翌日、ほたるは金賞の盾をもって壇上にいた。
「ありがとうございます。これからが本当の勉強だと思って精進いたします」
向けられたマイクに無個性な感謝の言葉を、それでも気持ちを込めて答えつつ、あまりキョロキョロしないように客席を見回すと、最前列に知り合いが何人かいた。ほたるが微笑むと、両親と静流、静流の隣にいた正午が拍手をくれる。その席から、五列ほど離れたところにカナタと果凛、葉夜もいて拍手をくれている。巴も最前列にいるけれど、その隣席には健の姿はない。もともと、二人には別々のタイミングでチケットを渡しているので、健は前の恋人だった自分のことを巴には詳しく話していないのかもしれない。
「…」
でも、健ちゃんは来てくれてた、ほたるは演奏を始める前の一礼で、その一瞬で健を見つけることができていた。最後列の一番左側のドアの横、ものすごく目立たないところにいたけれど、ほたるは見つけていた。
「本当に、ありがとうございました」
もう健の姿はない、演奏だけ聴いてくれて、表彰式の前に帰ったのだとわかる。ほたるが目尻に浮かんだ涙を拭うと、拍手が一層強まった。
「よっ! 大統領!」
中ほどにいた智也が叫んで、隣にいる鷹乃が驚き、背後にいた彩花に頭を叩かれている。
「バカっ! 場所を考えなさい!」
「じゃあ、音楽の大統領! ピアノの魔術師♪」
「トモちゃん、恥ずかしいよ。みんな見てるよ」
彩花の隣にいた唯笑も困っているし、鷹乃も赤面して下を向いている。ほたるは笑顔になった。
「クスッ…」
ふふ、鷹乃ちゃんも苦労しそうだね、ほたるが客席へ手を振って退場していく。彩花は智也の首を絞めて黙らせた。
「なにがピアノの魔術師よ、半分は寝てたくせに!」
「ぐうぅぅ…」
「智也には、せいぜいヤスキヨ節くらいで十分よ!」
「ぐむ…オレのヤスキヨ節は神業だぞ」
智也は彩花の手首を握って、筋力の違いで絞首をやめさせると、退散する。
「鷹乃、もう行こう。彩花が背後にいると肩が重い」
「ええ」
「あ、コラっ!」
まだ何か言っている彩花と唯笑を置いて、智也は鷹乃を連れて外に出る。幸いにして大勢の観客に飲み込まれ、彩花たちとは離れることができていた。
「いい感じの夜風が吹いてるな」
「そうね」
混雑する駅前を避けて、海の近くを歩いているので風が心地よい。鷹乃は長い髪を軽く押さえてつぶやく。
「すごいわね。白河さん」
「ああ、いい演奏だった」
「……」
それだけでないわ、ひどい捨てられ方をしたのに、そのショックから立ち直って優勝してしまうなんて、本当にすごいわよ、それにひきかえ私は泳ぐこともやめてしまって、今では聞こえてくる波の音さえ、夜の海だと思うと少し怖い、鷹乃は黙って智也の隣を歩きながら自分の腕を撫でた。智也が肩を抱いてくる。
「寒くないか?」
「平気よ」
「今夜は、どうする? ……帰るなら、送るけど?」
「…………」
鷹乃は考え込み、その様子で智也は自分の家へ恋人を連れ帰るが、藍ヶ丘の三上家まで来ると、待っていた詩音が二人の前に立ちはだかった。
「お二人で、どこへ行かれていたのですか?」
「ピアノのコンクールよ。クラスメートが出場していたの。詩音は………どうして、ここに?」
「鷹乃は今夜も叔父さん方のところへ、帰らないつもりですか?」
「………」
「もう何日目だと思っているのです。いくら何でも叔父さん方へ言い訳する私の身にもなってください」
「ごめんなさい……詩音…」
それでも鷹乃は帰ろうという素振りを見せない。
「詩音の家へ泊めてもらっていると、叔父には説明しているのでしょう?」
「ええ。ですが、三日目あたりから、もう薄々気づかれておられます。いえ、もう確実に私のところへ泊まっているわけではないと感じておられます」
「……じゃあ、私は、どこへ泊まっていると思われているの?」
「叔父さん方にとっては、どこかは不明、けれども私が大丈夫と言うのだから大丈夫だと信じるしかないと思われています」
「……なら……いいじゃない…」
「っ!」
詩音の頬が怒りで赤くなった。
「私は鷹乃の味方ですが、叔父さん方を半ば裏切っているのにも耐えられないのです!」
「「………」」
「いつまでも男性のところへ連泊しているなんて非常識です! 一度は叔父さん方のところへ帰るべきですよ、鷹乃、どうしたというのですか? 交際するにしても節度もあるでしょう? このまま夏休みだからといってダラダラと外泊を繰り返すなんて鷹乃らしくないですよ」
前半は怒鳴っていたけれど、後半は諭すような口調で言い、鷹乃の肩に触れた。
「鷹乃、どうして帰らないのですか?」
「…………だって…」
「だって?」
「……不安だから………」
「何が不安なのですか?」
「……………」
「オレが悪いんだ」
黙っていた智也が恋人をかばうように詩音に説明する。
「たぶん、鷹乃は隣に住んでる彩花とか、近くにいる唯笑がオレの家に来ることを……なんというか……不安に思ってるみたいなんだ。とくに彩花は窓から渡ってくるし…」
「そんな理由で………、……桧月さんも桧月さんで……まったく! それなら二度と桧月さんを家へあげないと約束すればいいことでしょう?! それとも三上さんは鷹乃と付き合っていながら、桧月さんを家へ出入りさせるというのですかっ?!」
「約束したさ! 彩花にも強く言ったし! 窓に鍵もかけて悪霊退散の札も貼りなおした! もともと彩花だって、ちょっと様子を見に来ただけで他意は無かった!」
「……………その窓とやらを見せてください」
「ああ、こっちだ」
詩音は案内されて智也の部屋へあがった。
「ここがオレの部屋で、あっちの窓が彩花の部屋だ」
「……。なるほど……、夜、眠るとき桧月さんと2メートルと離れていないのですね」
「変な言い方するなよ! 別々の家だし! 二枚もガラスあるだろ?!」
「ほんの一足という意味においては同室でベッドを並べているようなものにも見えるでしょう。けれど、鷹乃も鷹乃です。付き合う相手を信頼でき……いえ、…」
詩音は言いかけたことをやめて、自分の髪を軽く撫でると、抜けた髪を一本つまみ、窓の鍵へ巻きつけて結んだ。
「私の髪は日本では珍しい色をしていますから、同じ物を手に入れるのは、とても難しいはずです」
「詩音?」
「双海…」
「ですから、三上さんが約束を破って桧月さんを窓から招き入れたなら、証拠が残ってしまうでしょう。あとは………」
詩音は机から赤い油性ペンを勝手に取ると、智也がつくった幼稚な悪霊退散の札を剥がして、本格的な魔法陣を窓ガラスに描いていく。
「ブーレイ・ブーレイ・ンディド・ゲヘナの火よ・爆炎となりて…」
「「……………………」」
よくわからないけれど、もしかしたら本当に効果がありそうなくらい威圧感のある魔法陣が完成した。
「オ……オレの部屋がオカルトマニアの部屋みたいに……、双海は、なんで、そんなもの描けるんだよ?」
「幼い頃から海外を転々としていましたから」
「どこを?!」
「秘密です。さ、鷹乃、帰りますよ」
「……………………」
「オレも明日、バイトの初日だからさ。今夜は帰れよ。こんだけの魔法陣があれば彩花といえども突破できないし、オレも入れる気ないから、な?」
「………あなたが言うなら…」
「アルバイトをなさるのですか?」
「ああ。もともと……ほら、…鷹乃が妊娠してるかもって言うから慌てて面接だけは受けておいたんだけど、もう心配なくなったから明日は初日からの無断欠勤で辞表にかえようかと思ってたんだけど、彩花のやつが生活費を盾にするのがムカつくから、やっぱ働いてみようかと思ってるんだ」
「桧月さんが生活費を?」
「それは…」
智也が言いにくそうに家計のことを説明すると、詩音はタメ息をついた。
「なるほど、鷹乃が不安になるのも理解できます」
「詩音……」
「けれど、三上さんのお母さんが、そのような事情で桧月さんに預けておられるなら、それはそれで尊重せざるをえないでしょう。いずれ、あらためてもらうとして、今は一度、叔父さん方のところへ帰りましょう。鷹乃」
「………うん…」
こう言われては頷くしかなく、鷹乃は詩音に連れられて藍ヶ丘を離れる。道すがら、詩音は鷹乃の手を握った。
「私も桧月さんは嫌いです」
「詩音…」
「苦労知らずのくせに、苦労者ぶっていて、大嫌いです」
「……」
「私は鷹乃の味方ですよ」
「……ありがとう、詩音」
そのまま二人は叔父のもとへ戻り、詩音が叔父へ謝りながら、鷹乃に交際相手ができたことを説明すると、とくに怒られることもなかった。詩音は帰り、叔父夫婦と夕食を摂ると銭湯へ行く。小学生の頃から叔母と入浴しているし、今夜も同じように銭湯の脱衣所で裸になり、いつも通りに何もかも済ませているはずなのに、叔母に智也とのことを見透かされていると感じてしまい、叔母の方も鷹乃に何か言うべきか、何も言わざるべきか意識してしまい、ほとんど会話せずに揚がった。
「………、心配かけて、ごめんなさい」
「タケちゃんが無事なら、それでいいのよ」
銭湯の玄関を出るとき、それだけの会話を交わして、叔父と合流して自宅兼店舗へ戻ると、二階に三つの布団を敷いて並んで横になる。
「……………………」
なかなか寝付けずにいると、その気配を感じた叔父が声をかけてきた。
「タケも自分の部屋がほしいよな」
「…別に、私は……」
否定してみせても、それは嘘になってしまうから、鷹乃は語尾を明瞭にできなった。
「すまんな。タケ、もうちょっとワシが儲けてやれたら、この店も三階建てにするなり、別に家を買うなりできたかもしれんのに、不甲斐のない保護者で」
「そんな…謝らないでよ。私は………二人の子供でもないのに、御世話になって申し訳ないと思ってるのに……謝られたら……どうしていいか」
鷹乃は布団の中で丸くなった。
「謝らないで………悪いのは、……私を捨てた、あの二人よ」
「……………………」
両親のことを「あの二人」と表現する姪を可哀想にも当然にも思い、叔父はそれ以上は何も言わずに布団に戻った。
翌日の夜、智也は泥酔した嘉神川幸蔵に肩を貸しながらタクシーに乗り込んだ。
「大丈夫っすか、社長」
「ああ……うん……大丈夫、大丈夫だ」
「………………」
あんまり大丈夫には、見えないな、このオッサン、今にも身体壊しそうだぞ、智也はタメ息をついた。
「いくら接待だからって、オレの分まで呑まされなくても、オレだってビールの5、6杯は付き合えますよ」
「それはっ! ……………………ダメだ! ……………いかん! ……絶対にいかん!」
やたらと間をとっているのは酔っているせいだったが、幸蔵なりの考えは硬い。
「いいかね! ……君は高校生だ! ……酒は二十歳から!」
「…………オレはバイトとして雇われてるから、接待が仕事ならやれることはやりますけど、酒に付き合わせないなら、他の社員さんの方がいいんじゃないですか?」
「それがダメなんだ。……みんな身体を壊しかけてな。うん……うん……」
「………」
何に頷いてるんだか、このオッサン、智也はタクシーの運転手に社長宅を教えながら、酔いすぎた幸蔵を見守る。
「だから、高校生のバイトなら、未成年を………理由にだ…………返杯を断りつつ、酌もできるだろう? うん! 名案だ」
「……はあ……そうっすね。…けど、男に酌されても、接待相手も嬉しくないんじゃ?」
「うむ、やはり君は……賢いな……うん! 見込んだだけのことはある」
「………」
いや、一般論だろ、だいぶ酔ってるな。
「ワシもそう思って………以前には、見た目も頭もいい秘書を連れていたんだが……うむ、…うん、……まあ、……これはこれで問題があってな、今は5時に帰ってもらっているんだ」
「…はあ…」
「それに、色どころは……店の方でも……用意できるからな」
「そうっすね。今日も何人か、お酌専門でいましたね。あの子ら、時給ってどのくらいなんでしょう?」
「うーー? うーーん、……どうだろうな、……すまんが、君の二倍はあるかもしれん」
「いや、いいっすよ。オレは時給1200円で十分っすから」
「だが、裸踊りまでさせてしまって……申し訳ない、これを取っておきなさい」
幸蔵は一万円札を智也のポケットへ押し込んできた。
「………オレは、その場の勢いでやっただけですから……ノリというか、盛り上がってるから、つい…」
冷静に考えると座敷で裸踊りしたのは、自分でもやり過ぎだったと思うが、接待は成功だったし、大ウケだったのでサービス精神が疼いただけのことだった。
「君の、……名前……ああ、ミカミ……うん、…三上君、うん……君のヤスキヨ節は、大受けだったな! うん! 先方も喜んでくれて……うん! よかったよ、うん!」
「………どうも」
「三上君は根性があるな! ……ワシが先方に要求されて困っているのを見て、自分から買って出てくれるとは……ワシはダメだ、ああいうことができん」
「いえ……オレは平気っすから」
たぶん、相手も本気では要求してないし、見たくもないし、そもそも嘉神川社長のキャラじゃないから、どんなに酔っても、この人にはできないだろうな、智也は押し込まれた一万円札をもらっておくことにした。
「三上君の……うん……面接での……あの話にも……ワシは感動したよ……うん……今どき気骨のある若者だ……」
「はあ……」
鷹乃が妊娠してると思ってたから、どうしても時給の高いバイトにありつきたくて、つい事情を話してしまっただけなんだが、まあ、いいか。
「どうかね、……卒業後も、……うちで働かないか? ……正社員として」
「はい……考えてみます」
「うむ」
それっきり幸蔵は目を閉じて眠ってしまった。
「……ふーっ……疲れた」
智也まで眠たくなる頃に、タクシーは社長宅に着いた。
「着きましたよ、嘉神川社長」
「うー……うん……ごくろう……ありがとう……うん」
「………」
智也は意識が怪しい幸蔵に肩を貸して立ち上がらせる。玄関まで進んでチャイムを鳴らすと、中から鍵が開いた。ドアは開けてもらえないので、智也が開けてみると、中学生くらいの少女が冷たい顔で立っていた。
「………」
「………」
この子が、ご自慢のクロエちゃんかな、智也は面接の後に聞いてもいないのに自慢された馬術とアーチェリーが巧い社長令嬢のことを思い出した。
「………」
「………」
クロエは冷めた表情で両腕を組み、智也と幸蔵を見下ろしてくる。空気が重いので、智也は軽口を叩いてみる。
「ちわー♪ お届けものです♪」
「………。そこに置いてちょうだい」
「はい……」
二人して社長を物扱いしつつ、智也は丁寧に幸蔵を玄関におろした。
「じゃ、オレは、これで」
「……待ちなさい」
「はい」
「あなた、宅配ではないのでしょう。いったい誰? うちの従業員なの?」
「今日から入ったバイトです」
「そう……」
「じゃあ、オレは、これで…」
再び智也は帰ろうとしたが、クロエが呼び止めてくる。
「待ちなさい。ここに置いておかれては迷惑よ。部屋まで運び込んでちょうだい」
「………オレは家電屋の宅配でもないんだけど、な」
「うちのアルバイトなのでしょう。だったら、私の命令も聞きなさい」
「まあ、酔って寝ちゃった社長をほっとくのも、よくないか……よいしょっ!」
智也は靴を脱いで家にあがる。
「で、嘉神川社長の部屋、どこかな?」
「こっちよ」
クロエが案内してくれた寝室のベッドに幸蔵を寝かせる。
「う~……クロエ……」
「娘さんなら、台所に…」
智也が振り返ると、クロエはクリスタルガラス製のピッチャーに天然水を満たして、グラスといっしょに銀製の盆へ載せて持ってきていた。
「水を飲ませるから起こして」
クロエはベッドサイドの樫を彫刻して造られたテーブルに盆を置くと、ピッチャーからグラスへ水を注いで幸蔵に飲ませる。
「う~……クロエか?」
「………。水よ」
言葉遣いは冷たいけれど、クロエは丁寧に父親を介抱している。智也は肩をすくめて微笑した。嫌ってる感じだけど、実は好きなんだな、智也の表情が変化したのにクロエが気づいた。
「何を笑っているの?」
「別に何も。ちょっとホッとしただけさ」
この年齢の女子は気難しいからな、余計なことは言わないでおこう、中学三年か、二年くらいかな。
「クロエちゃんは中学生?」
「ええ、二年生よ。それが何か?」
「起きて待ってるには、かなり遅い時間だからさ」
日付が変わって一時間が過ぎようとしている、智也にとっては平気な時間だったが、健全な女子中学生には遅い時間だった。
「別に待っていたわけではないわ。本を読んでいたら遅くなってしまっただけよ」
「ふーん…」
素直じゃないな、まあ、いいや、オレも帰って寝よう、智也が立ち去ろうとすると、クロエが問いかけてくる。
「アルバイトと言ったけれど、あなたは学生なの?」
「ああ、まあ、浜咲学園の三年」
「そうですか、浜咲の。わざわざ父を送っていただいてありがとうございます」
「……。あ、いや、まあ、仕事だから」
急にクロエが敬語になったので智也は軽い違和感を覚えつつも、自分は態度を変えない。
「じゃあ、オレは、これで…」
「せめてお茶を淹れますから、少し休憩なさってください」
「……まあ……それなら少し…」
智也は案内されたリビングのソファに座った。クロエは薄い紅茶を淹れている。
「来年、私も浜咲学園と澄空学園を受験しようと思っているのですが、…あなた…いえ、先輩は、…あ、私は嘉神川クロエと申します」
「……ああ。オレは三上智也。よろしく」
智也は急にクロエが敬語になった理由を理解できた。彼女の中で自分が父の会社のアルバイトという立場から、進学するつもりの高校にいる先輩という立場に変化したのだと、わかって合点がいく。
「オレでも合格したんだから、クロエちゃんなら簡単……って気安く言うのもアレだから、ちなみに中学で成績は、何番目くらい?」
「はい、たいていは一番なのですが、たまに英単語の綴りを間違ってしまい、順位がさがることもあります。それでも五位までには入れています」
「………。きっと合格する! オレが保証しよう!」
「本当ですか?」
「ああ、受験当日にインフルエンザになったりしない限り、絶対に合格するよ。っていうか、もっとハイレベルな都内の高校でも狙えるんじゃないか?」
「それも考えなくもないのですが……寮生活になってしまうか、通学距離が伸びすぎるのも大変ですから、浜咲か、澄空あたりが手頃かと思っています」
「ああ、そうだよな。それに一流校で最下位より、二流校で一番のが気持ちいいもんな。オレも工業高校にでも行けば、一番になれたかも」
「クスッ…」
見栄のない智也の言い様に、クロエが少し笑った。
「一番というのも気疲れしますよ。まわりから近寄りがたいって思われてしまって」
「それは、たぶん、成績だけじゃなくてクロエちゃんが美人だし、プチ金持ちだからじゃないかな」
「プチって……どういう意味ですか?」
「中の上というか、上の下くらいかな。普通より上だけど、本当の金持ちって、もっと上がいるからさ。花祭とか、黒須とか、加賀とか、知らない?」
「花祭さんは聞いたことがあります……あの家と比べられては、うちの会社なんて、ご覧の通り、父が夜中まで働かないともたない中小企業ですから」
「けど、社長は社長。一番だ♪」
「………」
あまり父親のことは話題にしたくないようでクロエが黙った。
「そういえば、お母さんは?」
「……」
余計に話題にしたくないようでクロエは一瞬、悲痛な表情を浮かべたけれど、すぐに隠して微笑んだ。
「あの人は私たちを捨てました。だから、私たちも忘れました。もう関係ありません」
「……そっか。悪いこと、訊いたな」
「いえ、悪いのは、あの人です。三上先輩ではありません。お茶のおかわり、いかがですか? マドレーヌも」
「いや、もう遅いし、ごちそうさま」
智也は腰を上げた。
「まあ、高校受験はクロエちゃんなら大丈夫だと思うし、オレに教えられるのは……そうだな」
空気が重くなってしまったので、払拭するため智也も微笑して言う。
「いかに学園祭を楽しくするか、くらいだな。とくに浜咲に来たなら裏情報たっぷり教えてやれる。アホ校長のアホぶりとか、そのアホを殴った超アホとかな」
「それ、どういう話なのですか?」
「それは浜咲に入ってからのお楽しみだな。じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
クロエと別れて深夜の歩道を歩く。たぶん、幸蔵がくれた一万円には帰りのタクシー代という意味も含まれているだろうけど、歩ける距離なら歩いて残しておきたい。それほど疲れることもなく自宅に着いた。
「電気がついてる……彩花か? ……鷹乃?」
誰もいないはずの三上家なのにリビングと台所が明るい。最初、彩花かと思ったが、合い鍵を持っているのは今は鷹乃だったことを思い出して、急いでドアを開けてみる。
「鷹乃いるのか?」
呼びかけるまでもなく鷹乃は玄関で待っていた。
「こんな時間まで何をしていたのよ?! 心配したのよ!」
涙声で怒鳴られたので智也は困った。
「ごめんな、バイトだったんだ。悪い」
「バイトって……もう二時よ。私は事故にでも遭ったんじゃないかって……心配して…」
「悪い。お互い、ケータイ持ってないからな。けど、今夜、来るって約束してたか?」
「……してないけど……」
鷹乃が追求を弱めて下を向いた。その廊下に大きな荷物が二つ置かれている。なんだか、着替えや生活用品などが詰め込まれていそうな大きさだった。
「…鷹乃、家出?」
「違うわ。ちゃんと叔父にも言ってきたわ。……」
「なんて言って?」
「………しばらく、……ここに……」
「……」
「ごめんなさい……迷惑なら…」
「いらっしゃいませ♪ どうぞ、いつまでも、ご滞在ください。なんなら百年、ここにいてくれよ。大歓迎だ」
「………それって…………プロポーズなの?」
「そーゆー風に聞こえたなら、そーゆー意味だな♪」
智也が笑って抱きしめると、鷹乃も抱き返して文句を言う。
「ずるいわ。勢いで……プロポーズまで……済ませるなんて…」
「ノリと勢いで生きてるんでね。好きな女が荷物もって来たら、そーゆー思考しかできないな、オレは」
言いながら鷹乃の服を脱がしていく。玄関の鍵を閉めるのを忘れていたのに気づいたのは朝日が昇ってからだった。