第一話
聳え立つ無数の摩天楼。ひとつとして平凡、あるいは他と同じ意匠を持たぬ独特な建造物群は"外"ではあまり――否。絶対にお目にかかれない光景だろう。なにせそれらは外観だけでなく"上"という概念すら共有していない。常識を、あるいは重力の軛をあざ笑うかのように左右へ、あるいは上から下へと背を伸ばしているのだ。
天地を無視した異様な光景。だがそもそも、天とは何処だ? 上が、星が、空が見える方向が天だと、そう言うのであればここに天は無い。霧が、白い霧が全てを覆っているからだ。霧は空と街並みと、そこに生きる明らかに人ではない多数の影を内包し何処までも続いている。この一帯を、更に先を、そして都市全体を。
人類の常識を超越した霧烟る都市、その名をヘルサレムズ・ロット。かつてNYと呼ばれたこの都市は、今や人界と異界の重なる特異点として混沌を生み出し続けている。
『――――あなたが歩く人生の小路に小さく咲く花のように、咲いては消える歌の数々』
左右のみならず上下にもねじ曲がり、更には中空に浮かぶ道路を凄まじい速度で走る数台のジープ。いずれの車体にも汚れが目立つが、特に先頭を行く屋根付きのそれは一段と酷い。黒や茶、赤で染め上げられた車体は迷彩を施したかの如くで、元の色などわからない状態。加えて塗料もよろしくない。泥や煤も勿論だが、血で汚れた車体を好む者などまずいないのだから。
『人界から異界から、あなたの1枚の葉書が、電話リクエストが、そして
見れば車群は一つの集団でなく、先頭のそれを残りが追う形。しかも追跡者達は荷台や窓から身を乗り出し、絶え間なくマズルフラッシュを輝かせている。HLではそう珍しくない光景とはいえ、これが単なるレースであるはずもなし。追われる側はいつ命諸共コースアウトしてもおかしくない危機的な状況と言える。
『それら全ての資料を基に巨大なコンピュータがはじき出した、最も充実した、最も信頼できる。動く、動く!! HL歌謡ベストテェェェン!!』
が、この場においてそれはあくまで第三者の感想に過ぎないだろう。というのも先頭車両の運転席、片手でハンドルを切りつつカーラジオの音量調整に勤しむ黒髪の男。型落ち・低品質・無点検の三重苦を背負ったそれに悪戦苦闘する彼の顔に焦りや恐怖の色は全く無いのだから。
だが如何に肝が太かろうと、半ば骨董品と化したラジオには敵わなかったと見える。男は少し納得のいかない顔をしつつも作業を切り上げ、後部座席でいかにも怯えていますとばかりに身体を丸めて座る眼鏡にスーツの中年男性に声をかけた。
「博士、少々騒がしいですがベストテンでもいいですか? ストストがやってればよかったんですけどね」
「え、ああ……たまに聞くしそれで構わんよ。WHLミストストリームはもう終わってるからね。いやッ、それよりも――」
「それはよかった。いや、ベストテンも良い番組なんですよ」
怯え混じりの大声を遮るように言った黒髪の男は苦笑しながらただね、と続ける。
「ランキング形式だと人間じゃあ何歌ってるかわからない、どころか聞こえない音域の曲まで混じってしまうから不評なことも多くて」
その言葉に応えた訳でもあるまいが、事実ラジオから流れ始めた一曲目は慣れていない人間には金属音にしか聞こえない。ラジオパーソナリティの言を信じるならラブソングであるそれを聞きつつ、博士と呼ばれた男は再度問いかける。
「実にHLらしい番組と言えるね。あの、それはそうとこの状況なのだが……ひっ! だ、だだ大丈夫なのかね!?」
曲への合いの手よろしく車体と凶弾によって奏でられる金属音。それに怯えつつも、先程よりは落ち着いた声音で話す博士に男はルームミラーを調整しつつ返す。
「そこはご心配なく。なにせ連中は自分達で使う銃を基準に防弾対策してます。奪ったこれもそうだし、私の技で補強もしてる。距離がある分には万全ですよ」
自信に満ちた男の声に余裕が出たのか、恐る恐るとはいえ背後を振り返る博士。先程まで意識すらしなかったが、なるほど確かに車体後部に風穴は見当たらず、それどころか窓すら割れていない。驚きつつ目を凝らせば窓には外が見える程度の、注意しなければ見えない程に薄い赤色の膜が張られており、今まさに銃弾を弾き返したのか火花を散らせていた。
「おお、凄いな……。ということは君は、ええと……疎いので間違っていたらすまないが、術士というやつなのか?」
問いに対し男は胸元の名刺入れから一枚の名刺を取り出す。博士が振り向き運転を気にしつつ受け取ったそれには『Smaragd GmbH』に始まり事業内容や役職、称号、連絡先等が記されている。一見何の変哲も無い名刺だが、ひとつだけ目を引く部分があった。
「ヘルメス流……錬血術?」
「Genau!――ご挨拶が遅れましたが、コルネリウス・コルバッハと申します。小さな書店のオーナーと便利屋、ついでにヴァンパイアハンターやってます」
車体を覆う赤い結界は『念』により強化された血液から成っており、辛うじて有効射程に入っている程度の銃弾の貫通を許すものではない。
しかし悲しいかな、追手には学習能力という概念が欠如しているようだ。彼等は攻撃の成果が一向に現れないのに銃弾の浪費をやめようとはしなかった。結界に直撃しても軽い音と火花を残すだけの弾丸を見ている内に博士も余裕を取り戻し、今は道路脇の天から生えるビル群を物珍しそうに眺めている。
「しかし冗談のような光景だな……私は対岸住まいでHLに詳しい訳ではないが、人ならざる存在が闊歩することを除けば普通の街と言えなくもないと思っていたのだが」
「"外"にお住まいでしたか。まぁここは結構深い区域ですから例外ですよ。それに異界存在だって物理法則が仕事してる場所を好みますし、人間とそう変わらないのも多い」
「理屈ではわかっているし、頭でもそう思おうとしているんだがね……。これからはこの街に住むというのに我ながら困ったものだ」
博士は落ち込んだ様子で言うものの、その声に憂鬱の色はない。
「嫌悪さえしていなければその内慣れますよ。ただ、博士の新しい勤め先だと機会が少ないかもしれませんね」
今回コルネリウスを雇い、武装組織に誘拐された博士を救出させたヴァルハラ・ダイナミクス社は世界の戦闘サイボーグ業界を牽引する巨大企業である。しかしその技術は人間用に特化されており、異界存在向けの商品は少ない。声に出しこそしないが、それが人界向けのイメージ戦略や技術的な問題のみから生じたものでないことはその筋では有名であった。
「うむ、しかし異界生物学者としての私に声をかけたぐらいだ。所詮噂かとも思ったが、誘拐犯達が
「ああ、それは――」
「――考え過ぎ、でありますな」
コルネリウスの言わんとしたことを先取りする男の声と、ほぼ同時に響く金属音。前者は助手席に忽然と現れたシルクハットにタキシードの男のものであり、後者はコルネリウスが左逆手で突き刺そうとしたショートソードと男が持つ大曲ステッキがぶつかり合ったものである。
「やれやれ……挨拶代わりに刺突とは、文化人にあるまじき行いではないかね?」
「非常時の招かざる客への対応にしちゃ優しい方だろうな」
言い終わると同時に両者は得物を引き、コルネリウスは剣を座席横に文字通り突き刺してあった鞘に収めて左手をハンドルに戻す。突然かつ一瞬の出来事に狼狽える事すら出来ていなかった博士はここでようやく闖入者の存在、そして円形に切り取られた助手席の屋根に気付いて驚きを露わにしている。
「あ、貴方は一体……?」
一度は剣を抜きつつも何事も無かったかのように運転を再開したコルネリウスを見て、おそらく敵ではないと判断したのだろう。戸惑い混じりに問いかけた博士に対し、男はシルクハットを取って笑顔を見せる。その丁寧な所作は古き好き紳士を思わせるもの。太陽を模した仮面で右目とその周囲を覆っているのが怪しくはあるが、ここHLにおいてその程度のことで奇異の目を向けられる事は無い。
「お初にお目にかかる。我輩はヴェネーノ、HLの裏社会を駆ける一陣の風」
「ヴェネーノ……まさかあの次元怪盗ヴェネーノ!?」
「おや、かの名高いトムスキー博士に知られているとは光栄ですな」
ヴェネーノは自身の知名度を誇るかのような自慢顔を運転席に向け、対するコルネリウスは無視を決め込む。彼はこの怪盗が大仰な名と知名度に違わぬ実力を持つこと、そしてそれを認めると鬱陶しいことを嫌と言う程知っていた。
望む反応が得られなかったヴェネーノは寂しそうな顔をしつつ博士へと向き直る。
「失礼。話が逸れましたが、今回の一件は身代金目的でしかないのですよ」
「お題目としちゃ人界至上主義への鉄槌なんでしょうがね」
補足しつつコルネリウスはバックミラーに映る多数の武装ジープに目をやる。現在進行形で博士を狙っているこの連中は双世界統一戦線と名乗る武装組織内に無数にある派閥のひとつだ。HLの外を含む人界と異界の対等な統合を『手段を問わずに』目指す組織であり、大いなる夢を追いかける少数のテロリストと使い勝手の良い御旗に群がる無数のロクデナシ共で構成されている。
「連中は先頃VD社相手に小遣いをねだって大火傷したばかり。報復と安全策を兼ねたのがこの誘拐劇でしょう」
「……3ダース分の人員とビル二棟をクネーデルもどきにされて学んだ結論が『人質を取れば安全』ってのは理解出来ないけどな」
コルネリウスの呆れ混じりの言葉に対し、ヴェネーノも違いないとばかりに笑う。いくら多種多様な超常技術が溢れるHLといえど、交渉を前提とした誘拐には入念な計画が必要なのだ。コルネリウスに言わせれば、使う銃より安値が付きそうな脳の持ち主にそんなことが出来るはずもない。
事実博士はあっさりと奪還され、一行は予想外の客を迎えつつも順調にHL外縁部へと向かっている。人で賑わう外縁部に辿り着けば追手は追跡を諦めるか、HLの各種治安維持部隊の熱烈な歓迎を受けるかの二択を迫られるだろう。
後者は言うまでもなく、前者を選んだ場合も後日VD社の誇るサイボーグ軍団が御礼参りに赴くのだ。いずれにせよ短慮のツケは身に返ってくるし、清掃会社は仕事に困らず、コルネリウスは悠々と仕事を終えられる――はずであった。
「まぁ我輩に言わせれば攫う相手からして間違っているのだが。そうは思わないかね、コルバッハ君?」
外縁部に近付き少し薄くなってきた霧の奥、ごく普通の高層ビル群の輪郭が見えたまさにその時。どこか楽しげなヴェネーノの声にコルネリウスは嫌な予感を抱き、博士は警戒することもなく思ったところを言う。
「確かに私はVD社に招かれたとはいえ、まだ社員ではない。大企業としての体面を考えなければ身代金目当てとしては不適格かもしれないね」
「その通りです。また失礼を承知で言えば、博士の専門はVD社では必要とされ難い異界生物学……ああコルバッハ君、この狭い車内で本気でやり合っても互いにいい事は無いと思うのだが」
それを聞いて高まっていた車内の緊張感にようやく気付いた博士を横目で見つつ、ヴェネーノはそれに、と続ける。
「怪盗が姿を現すのは既に準備を終えているからに他ならない。無意味な争いで見せ場を邪魔しては、観客はそれを楽しめないではないか」
「……博士の名前知ってる時点で嫌だったんだ。次会った時は覚えてろよ」
立てた人差し指を左右に振るヴェネーノの言葉は自信に満ち溢れている。それが虚勢でないと知るコルネリウスは苦々しい表情で続きを促した。
「理解ある友に感謝を。では続けるが、博士の救出には在野の人材が使われている。荒事には常に自社戦力を用いてきたVD社が、違法性の見受けられない仕事で、です」
「確かに名刺を見た限りコルバッハさんは外部の人間だ。しかし、それが?」
「ええ、重要な事なのです。以上の点を踏まえれば……博士を招いた人物、あるいはその方針はVD社における主流派とは言い難い。故に同社戦力の即時投入が難しく、彼を雇う事になったのでしょう」
どうだとばかりにコルネリウスへと視線を寄越すヴェネーノの推測は、多少の間違いはあれど概ね依頼主に説明された通りであった。
コルネリウスはこの探偵気取りの怪盗に感心し、同時にその数倍の苛立ちを感じつつ、既に限界まで踏み込まれていたアクセルを更に強く踏む。ここから先に起こりうる事を考えれば、少しでも目的地に近付いておきたかったのだ。
気持ち右側に動いたスピードメーターを見つつ、コルネリウスは事実上の答えを返す。
「それでお前はこう思った訳だ。なら邪魔してもVD社にはそう睨まれないし――」
「――余裕で終わる筈だった仕事がそうでなくなるのは面白い、とな!」
言うが早いか、ヴェネーノは手に持つ大曲ステッキでダッシュボードを軽く叩く。本来小気味よい音を響かせるだけのその行動はしかし大きな衝撃と金属音、次いで目に見える車の減速をもたらした。優れた動体視力で事の原因を把握したコルネリウスは叫ぶ。
「怪盗の癖に取ったエンジン捨ててくのかよ!」
「ふははははは! 我輩が盗んだのは貴殿の安寧な未来。無骨な鉄塊など不要!」
如何なる技を使ったのか、綺麗に抜き取られ車体脇に落ちたエンジンが視界の端を流れて行く。減速した目標に追い付く直前であった追手のジープが運悪くそれに乗り上げ、他の車両を巻き込んでクラッシュ。何故かハリウッド映画ばりの爆炎が巻き起こる中、赤く染まった空を背景にヴェネーノは助手席の扉から華麗に飛び出し――
「これでこの前の借りは返させてもらったぞ。さらばだコルバッハ君!」
「おう、ようやく車から出たな。死ね!」
それを追うように車内から多数の手榴弾が投げ付けられた。
「あっ」
車内に備え付けてあったそれはきっちりと仕事を果たし、怪盗は盛大な爆発音と炎の中に消えていった。この程度で死ぬ相手ではないとは思いつつも多少溜飲を下げたコルネリウスは携帯を取り出し、目まぐるしく変わる状況と近付く追手にパニックになりつつある博士に落ち着いた声音で話しかける。
「幸い市街地はすぐそこです。奴の言った通りVD社からの援護は期待出来ませんが、博士を迎えに来る人員ぐらいは寄越してくれるでしょう」
「し、しかしこの車ではこの場からも逃げ切れんぞ!?」
「大丈夫です。簡単な方法がありますから」
爆発を逃れ接近した追手から先程までの比ではない密度の銃弾を車体に打ち込まれつつも、コルネリウスは焦る事無く残る手榴弾を前方に広がる道路の防音壁に投げ付けた。三度響いた爆炎を伴う轟音の後、煙の奥には防音壁に空いた大穴、そして道路下に広がる薄汚い街並み。
「まさか……違うだろう、そうだと言ってくれ!?」
穴は車一台ならば十分に通れるであろうもの。博士は否定を求めて悲鳴を上げるが、コルネリウスから返って来たのは簡潔で、それでいて残酷な一言。
「しっかり掴まっていてください」
霧の中ではわからぬが良く晴れた日、一台の車がHLの空を舞った。
記録には書き終わった日時が2016年とあり震える