地球暦2019年10月7日深夜【東京都 世田谷区 自衛隊中央病院】
マルスの巨大ワームに呑まれた大月は、辛くも救出されたが、全身をワーム胃酸で焼かれており、80%以上の皮膚が喪われていたが、自衛隊中央病院による日夜の治療を受けて容態は一進一退となっていた。
西野ひかりは岩崎に頼み込んで、大月の母に連絡するのを少し待って欲しいと懇願し、角紅社長の仁志野を呼び出して相談した。
大月の父親は今年亡くなったばかりで、今度は息子が重態という報せを持って行くのはあまりに酷いと感情を祖父にぶちまけた。
仁志野にしても、社員が政府の指示で生死の境をさ迷う事になった経緯を聴いて内心激昂していたが、ひかりの悩みも難しかった。だがーー
「ひかり、大月さんのお母さんにはやっぱり早めに報せなあかんよ」祖父はひかりに言った。
「勿論、仕事でこんな目に遭いはったんや。ワシも行くで。ひかりもちゃんと向こうのお母さんに挨拶しとき。その後で、政府に文句言おうな」
2019年10月8日午前2時【神奈川県横浜市神奈川区 】
西野と祖父は大月が救出された日の深夜、大月の母が住む横浜市内の公団住宅に向かった。
公団住宅に着くと驚いたことに、澁澤総理大臣と、岩崎官房長官が『極秘裏に』先に報告に来ていた。
警護のSPからそれを知らされた西野達は驚きながらも、住宅から出てきた岩崎官房長官に仁志野が、
「あんたら、家の社員をこんな目に合わせてタダで済まへんで!」と声を抑えながらも、低くドスの効いた声で詰め寄った。
「仁志野さん、申し開きもできない。本当にすみません」岩崎の後ろから澁澤総理が進み出て、頭を深く下げた。
「他の社員の出向については、考え直させて貰いますわ」
仁志野はそれだけ言うと大月の母に会うために住宅に向かった。
大月の母の家は、公団住宅の賃貸型である。キッチンとバス、トイレ、狭い和室が二つある1960年代に建てられた旧い型である。
大月は自分の家庭事情を殆ど話さなかったので、思った以上に今まで苦労していたであろう事が推察された。
「この度は、大事な息子様に大怪我をさせてしまい、社長として面目次第もござません!」
仁志野が畳に額を擦り付けて謝罪した。
ひかりも同じく謝罪した。
「先程、政府の方がいらして、ひたすらあやまって帰って行きましたが、一体何が何だか分からないのです。」まるで頭痛を堪えるような表情で二人に向き合った。
「大月君は、息子さんは、火星と火星人の事については、日本で『直接経験している』数少ないわが社のスペシャリストなんです」
「そこをアメリカさんに目をつけられて、拝み倒されて、大丈夫だからと政府も彼にお願いして、アメリカ軍に付いていったらこんなことに......社長としてもっと注意すべきでした!ほんまに申し訳ございません!」
「そう......ですか」大月の母はまるで他人事の様な反応を示した。
不思議に思ったひかりは大月の母をよく見ると、眉間に皺を寄せて俯いている。
「あの、お母さま、大丈夫ですか?お加減がーー」
ひかりが言い終わらないうちに、大月の母はそのまま仁志野の方に正座したまま、つんのめって倒れてきた。
「っ!お母さん!どうされました?大丈夫ですか!?」仁志野とひかりが声をかけるが、大月の母は呂律が回らず意味不明な事を口走った。
「あかん!ひかり、救急車や!脳梗塞や!」仁志野が叫んだ。
西野は直ぐに岩崎の携帯に連絡すると、岩崎が大月と同じ自衛隊中央病院への搬送を手配した。
自衛隊の救急車が到着した時、大月の母は既に意識を失っており、ドクターヘリで搬送された。
検査の結果、大月の母は脳梗塞と診断され、集中治療室に入れられた。
大月の母が通院していたかかりつけの診療所によると、以前から高血圧を指摘されていたようだった。
仁志野もひかりも、あまりに酷い悲劇の連鎖に呆然と病院の治療室前で立ち尽くすしかなかった。
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同8日早朝 【東京都千代田区 市ケ谷 防衛省中庭】
米露艦隊を撃破し大月を襲ったワームの死骸は、巨大過ぎて運搬が困難な為、中庭を即席の屋外生物体研究所として日英の科学者と化学防護部隊が徹夜で分析に当たっていた。
澁澤首相が憤怒の表情で現場を訪れて、日英関係者を激励した。
「マルス生態系の予想を越えた苛烈さを私達は大きな犠牲を払って思い知らされました。しかし、この星と関わりを持たねばならない以上、マルス生態系の研究分析は一刻も早く成されなければなりません」
澁澤は息を吸って、こう言った。
「何故なら、巨大ワームも火星に進出した米露艦隊の様に、此方に来ることが出来るのですから」
この言葉に日英兵士と科学者達は戦慄し、奮起した。
そしてその日から、この『市ケ谷火星生物体研究所(略称:火生研)』は昼夜問わず活動する。
極東米露(べいろ)政府の協力も得て、米露艦隊の生存者からも詳細な聞き取りが行われ、様々な角度から巨大ワーム襲撃時の様子や米露艦隊の対応を分析、来(きた)る日に備えた研究が行われた。