―――熱い。
一手一手がとてつもなく震える。心の奥底から湧き上がるこの思いを将棋盤という一つの宇宙にぶつけなければ我慢が出来ない。
頭を、身体を、心を、全てを置き去りにし盤面を模索する自身の勘がもっともっとと雄叫びを上げてくる。
―――もっと!もっとだ!
力強く指された一手。それに対局者はたっぷりと時間をかけて心の整理に勤しむ。そして、
「負けました」
この一言で前人未到『30連勝』を八柳太一二冠は達成した。
太一二冠は対局が終わっても一向に動こうとしない。彼は真理を求めているのだ。終わってもなお捜し、模索し、答えを得ようと頭を働かせる。有り得たかもしれない手を何兆と考えようとする。
―――それは間違いなく神の所業。
将棋界に君臨するあの名人に追いつくために彼は動き始めた。
*
目の前に将棋盤が思い浮かぶ。計40個の駒達が自我を持ったように動き回る。それは流れ、何万局と行われた将棋の動きだ。
それは途轍もない情報量を有する。だが、彼はそれを目を瞑って繰り広げていた。否応なしのその流れを汗を滲ませ処理していく。
「…………くっ!ぐああっ!!」
痛い。頭が割れそうな痛みだ。今にも将棋という全てを投げ出したくなるような痛み。―――しかし、その痛みと反比例するように気分が高揚としていく。
違う、違う、違う、違う、違う!!3四飛車、同桂、7三歩、同香、同角、5四歩打、………!
頭の中で悪手をすべて処理し、最善手を探し当てる。違う、こうだ、違う、違う、!!
そうすると実感してくる。将棋の奥深さというものが…!深い、深い、暗闇よりも暗い一手を探し当てた時の高揚感、興奮、全てが愛おしくなってくる。
わかればわかるほど将棋というものがわからなくなっていくこの気持ちが止めれない―――!止めれるものなら止めてみろ…!!
すると、耳元で愛らしくも棘がある言葉が囁かれた。
「何やってんのよ、クズ」
「やぁ、天ちゃん。どうしたの」
「…別に朝の散歩よ。そういうアンタは公園で一人ハァハァ言いながら汗を流してキモイったらありゃしないわね」
止められてしまった。しかし、考えてほしい。可愛らしい女の子が座っているベンチに腰掛け耳元で囁くんだよ?どんなミサイルよりも強力な兵器だ。
これにはあの名人すらニッコリしてしまうものがあるだろう。
しかし、天ちゃんはジャージ姿で少し汗をかいて息も切れている。多分ジョギングとかそういうものだろう。
「そういえばアンタ30連勝したらしいじゃない。今の気分はどうかしら?」
「最高だよ」
「……珍しいわね。前までなら謙虚に答えるのに」
最高に決まってるだろ、朝から可愛い女の子とお話しできるんだぜ。しかも、それが孫の様な子だったら猶更だ。最初のほうは(将棋の棋譜について考えていたため)聞き取れなかったが大方『朝から美少女の私とお話できたのよ』とかそういうことだろう、天ちゃんだし。
「それでわざわざ神戸まで来てどうしたのよ」
「え、天ちゃん相談に乗ってくれるの?」
「か、勘違いしないでっ!弱みを握るためなんだから!!」
「はいはい、いい子いい子」
「ふにゃっ!?撫でるなー!!」
俺にいきなり頭を撫でられて驚いた天ちゃんは可愛らしい声を出す。ふにゃっ…うん、可愛い。最近この子の孫力が急激に上がって行ってるので財布の紐が緩む日も近いだろう。
まぁ、最近悩みがあるっちゃある…。
「はぁ?寝れない?はっ!所詮子供ってことね!」
「父さんと母さんはいないし、お爺ちゃんとお婆ちゃんしか居ないからね。家が広く感じて気を許すと将棋をいつの間にかやってるんだよ。これが質悪くてね、睡眠の邪魔になっちゃうんだ」
「……………………そう」
なんでそんな長い沈黙が続くんだ?―――っ!しまった。迂闊に父さんと母さんがいないって言ってしまった。天ちゃんのご両親については知っていただろう!
やばい、泣きたくなってきた。天ちゃんに悲しい思いさせるやつはこの俺が許しません。ので、
「ちょっ!?なんで虚ろな目で自分の首を絞めようとするのよ!?」
「人生に疲れた」
「馬鹿なこと言ってないでいいからその首にかけてる手を放しなさい―――今日だけよ」
ん。と言って天ちゃんは膝をポンポンと叩く。
俺はよくわからず首を傾げた。
「膝枕してあげるって言ってんのよ!察しなさいよ」
『お爺ちゃん!膝枕してあげる!!』前世の記憶がフラッシュバックして俺はそのまま膝に頭を預けようとして―――遠目に白と赤が似合いそうな方々を目に入れて姿勢を正した。
ほわああああああっっっ!!!あぶねえええええええ!!!!サツの方々じゃないですか!精神年齢は成熟しきってますが見た目はぴちぴちの高校生。もし、こういう公共の面前で幼女に膝枕されてしまったら……。
『ロリ二冠爆誕』
『ロリ竜王の後継者現る!!』
『ロリを統べるもの』
という不名誉なあだ名やスレと共に警察のお世話になってしまう。ここは丁重に断っていこう。
無論、そんなことを知る由がない天ちゃんは俺の肩に手をかけ、頭を膝にポフンと乗せる。俺の人生が終わった。
天ちゃんは優しい手つきで俺の頭を撫でてくる。すると、今までなかった睡魔というものが襲い掛かってくるが何とか耐える。
この前の対局から妙に優しい気がする。
「天ちゃん、最近優しいね。どうしたの?」
「重なるのよ」
「…?」
「パパに重なるの。褒めるときの口調や私を見るときの眼差し、頭を撫でる手つき、―――それが理由よ、悪い?」
天ちゃんはふてぶてしくそういった。その言葉に含まれる感情は恥ずかしさでも悲しいでもない。ただ今を噛み締めているように感じた。
幼いながらも両親を失った辛さに立ちむかような―――。
「少し宜しいでしょうか?」
そんな幸せの時間は突如として終わりを迎えた。
目の前には警察官二人、その二人の眼前には幼女に膝枕され気持ちよさそうにしている俺。
んーーーーーーー、アウト。
*
あの後、なんとか解放(主に夜叉神という名前のお陰)された俺は天ちゃんを『ジャンジャン横丁。』へと見送る。この後八一君と練習するらしい。しかし、今日は自信満々だという。『あのパンサーを叩き潰す』とか言ってたけど上手くいけばいいな。
だが、俺はすぐに意識を切り替える。
今日はとても大事な日だ。俺が持つタイトル『帝位』の挑戦者を決める日。その挑戦者の枠を巡って争う棋士は―――。
『捌きの巨匠』生石允九段、『王将』タイトルを保持していたA級棋士。振り飛車を使いこなす棋士でありその捌きは見てて驚く手のものばかりだ。
そして、もう一人―――絶対王者名人。
語るものが多すぎる伝説を築き上げたまさしく神。
永世六冠の称号を持ち、残り永世竜王を取れば永世七冠となる。しかも、永世竜王は後一期獲得すれば名乗れるという所まで来ていた。
無論、生石さんにも勝機はある。なんたってあの名人から王将のタイトルを奪った猛者なのだから。だが、今の神に通用するかどうかはわからない。
今あの人は世間でこういわれている。
『衰えが衰えた』と。
力を取り戻しつつある名人の渾身の一手はまさしくマジック。
震える手で生石さんの玉の横に置かれた金、途中で指した悪手を好手に変え、それで寄せ切った。生石さんも最初は果敢に攻めるもすべて捌かれる。―――まるで生石さんの技術を盗むかのように。
がっくりと項垂れた頭は投了を示していた。
「負けました」
この一言で、俺は―――名人と戦うことが約束された。
そして、俺は竜王挑戦者決定戦で神鍋歩夢六段に勝利すればまたもや名人と戦うことになる。
まるで運命が九頭竜八一をはじめとした役者が揃ったと言わんばかりの行動に俺は思わず、
「………熱い…!」
と、口に洩らしたのだった。
届きそうで届かないところに置かれたカニを涙目で見つめるあいちゃんを甘やかしたい。