☗ 二人の『帝位』
「たいちぃ♡」
将棋盤を挟んで俺にネットリとした声音で話しかけてくるこの女の子、名前は
女流六代タイトルの一つを持っている強者。
世間からは『イカちゃん』とか言われているけれどそんな可愛らしいものではない。
物の怪の類と言ってもいい、棋風は正しく才能だけで相手を押しつぶすといってもいいだろう。
だからこそ、彼女はプロ棋士と対局してもそのほとんどを勝利で納めている。相手が強ければ強いほど自分も強くなるってどこの主人公だよと突っ込みたいところだが―――なぜ俺が彼女と面識を持っているのか、だ。
原因は弟弟子の八一君である。彼、女難に巻き込まれ過ぎでは?流石は
事の発端は1,2年前、八一君がインターネットで将棋を指しててそこでイカちゃんと初めて対局したらしい。それで実際会って対局してみると事件は起きた。
そうイカちゃんが八一君に惚れたのだ。別にここまでなら微笑ましいで済ませるのだが彼女の本質はエゴイズム。自分がよければ他はどうでもいい精神なのだ。
強者である八一君と戦いたい為だけに付き合いたい。私とずっと指してほしい。私のためだけに将棋を指してほしい。―――無論、八一君がそれを受けるはずもなくフラれるのだが、彼女は八一君の家までに押し掛けたのだ。
八一君が言うに将棋盤に駒を並べて
八一君と指せないなら女流棋士をやめるとまで言い始めた。流石に期待のルーキーを失うわけにはいかない、けれど八一君に近づけて竜王の身に何かあれば大変だということで何故か知らないけど俺が時々イカちゃんと対局することになった。本当に何で?
推薦したのが師匠だということを聞いて二重に吃驚した。曰く、『子供好きやろ?』
誤解を招く言い方だがその通りである。しかも、可愛い弟弟子のためだと思い、イカちゃんと対局して52手で吹き飛ばしたらこう言われた。
『たいちぃ♡弟子にしてぇ♡♡』
無論断った。俺は弟子を取らない主義だし、だから月にこうやって対局して彼女の欲を発散させているのだ。
「たいち、考えてくれた?」
「だから、何度も言ってるけど僕は弟子を取らないつもりだよ。これからもずっと」
会話をしながら手は動かす。
イカちゃんの5七銀―――攻めてきたな。しかも、上手い一手である。イカちゃんの飛車と上手く紐ついているし取ったら取ったで角が睨んでいるので脅威である。
しかし、まだ大丈夫だ。
手抜いてもまだ詰む様子もない。イカちゃんがもう詰み筋が見えてたら話は違うだろうが…。
「あは!いい、いいよぉ♡」
「イカちゃん、ここ喫茶店だからね?」
艶のある声を洩らすたびにほかのお客さんからの眼差しが痛い。
「だって、たいちがこんなはげしく…!」
「将棋の話だよね?」
「こんな上手いのッ!我慢できない!!」
……俺は将棋をやっているんだよな。じゃあ、なんでイカちゃんは顔を赤らめて身体をくねらせているんだ。これが若者テンション…!
「ねェ、弟子に―――」
終局、俺がイカちゃんの玉を詰ますといつもそういう。
だが、何故か疑問に思うことがある。
「弟子にしないって。…前々から気になってんだけど八一君には交際を申し込んでるけど僕には申し込まないよね」
別に己惚れているわけではない。イカちゃんが付き合いたいと思う条件は『自分より将棋が強い人』なのだ。俺はイカちゃんより強い、けれど弟子にしての一辺倒で付き合ってとは言われたことがない。
「だって、たいちはじじいだもん」
「――――――――――は?」
今、何て言った?じじい?
「なんていうか将棋から感じるのは若者の気迫じゃない、年期を感じる将棋。確かに強いけど付き合いたいとは思えない。だから、弟子にして?」
「しないって」
びっくりした…。これもイカちゃんが言うには勘という奴か、末恐ろしい。
「じゃあ、もっと指そ?勝ったら弟子にして?だから、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く―――――――」
将棋の駒を並べたながら『指そう』と言ってくる。
その顔つきは明らかに歪んでおり対局することという事実のみを彼女という本質を奮い立たせているのかもしれない。
しかし、俺は弟子は取らない。
その理由は単にあの人の言葉に影響を受けたからだ。―――取らなきゃ全員可哀そう。
たったそれだけである。
結局その日は全部俺が勝利した、最後のほうは本当に危なかった。
外の夕日が沈んでいく様子を眺めながら隣に座るイカちゃんがポツリと口にした。やいちぃ…♡と。
うん、俺は何も聞いてないぞ。
さて―――明日の本命の対局の準備をしなきゃな。
☖ 竜王挑戦者決定戦
「うむ、では行ってこい」
「はい、
俺は、理想の女性であり師匠の釈迦堂里奈女流名跡に送られる形で外に出る。
向かう場所は関東将棋会館。行われるのは―――竜王挑戦者決定戦。
相手は俺より年下、だが実績はあちらのほうが上の八柳太一二冠である。
そう考えると自然と笑いが零れ始めた。
「クックック…アーッハッハッハッ!!良い!良いぞ!!」
この高ぶる感情は抑え切れん!!!何といってもあの『
「ままー、あのマントの人1人で笑ってるー」
「しっ!見ちゃいけません!!」
…………………落ち着こう。
師匠に手伝ってもらい対策は概ね終わらせてある。だが、いきなり新手を繰り出されて動揺の隙を狙われてはいかん。常に平常心だ。
太一二冠の棋譜を並べると居飛車が八割型であった。となると、カギになるのは雁木戦法でというのは師匠との研究でそういう結論が出た。
目的の場所に付き、対局場に赴く。
対局室にまだ太一二冠の姿はなかった。
俺がまず座って待って居ようと思った矢先、
―――――――――――――ゾクり。
「ッ!?」
背中に感じた不愉快な冷たさで振り返ると、彼がいた。
スーツ姿で、その眼に宿す闘志はギラギラと輝いていた。
一歩、一歩、ゆっくりと進む彼の姿は年下だと思えない。今から俺がこの人と対局をするのか…?
鋭く研がれ、すぐにでも相手を切り刻むような目つき。俺の横を通り過ぎても一切気にも止めない。
いや、
ゴクリと唾を飲み込む。
静かに席に座ると観戦棋士と記録係に軽く会釈をする。
駒を並べ、静かにその時を待つ。
そして、午前9時
「定刻になりました。太一二冠の先手番から始めてください」
その言葉に俺と太一二冠は宜しくお願いしますと言って答える。
持ち時間は5時間、そして太一二冠が一手目を指したのは―――対局が始まって30分後だった。
そして、指された一手。▲9六歩。
「ッ!?端歩だとッ!?」
記録係と観戦棋士に動揺が走ったのはすぐにわかった。
この人が初手で端歩を指した局は一度たりともない…。なら、これはブラフか?我の動揺を狙う一手…。だが、そうだとしても指すにしては時間がかかりすぎている。
だが、狼狽えるな。我はゴッドコルドレン。恐れるものなど何もないではないか!!
まずは囲いを作りつつ様子見だ。
角道を開ける一手。その一手に彼は5六歩とノータイムで答えてくる。
中、飛車…だとッ!
端歩よりも俺はその一手で少しだけ動揺してしまう。太一二冠が行うのは間違いなく中飛車だ。しかし、彼が中飛車を使ったのは両手で数えるほどしかない―――!それを今、使うのかッ!!
「熱いッ!熱いぞォォォォ!!」
それは熱いではないか!我のために研究されていないだろう中飛車という手札を切ってくれたのだ!!
これに応えずして何が漢だ!!
―――では、奏でるとしようか。我らの
「グッ……!!」
我は太一二冠の一つ一つの手に大いに苦しんでいた。
今は67手目、だが、その間にも彼は意味が分からない、不必要な手を数度と指していた。一回ならまだわかる、二回もまだ許容範囲だ。だが、三回目となると疑わしくなってくる。
目の前にいる人は小学生でプロになり、二冠を保持している人物だ。そんな人が不必要な手を指すはずがない。
だから、その一手の意図を読むために我の持ち時間は削られていった。
だが、―――読めない!
我はこれ以上時間を削られるのはまずいと思い、今の最善手である金打つを指す。
太一二冠との持ち時間の差はおよそ
「グッ!…カハッァ!」
頭が痛い、だが、それは読みが深くなっている証拠だ。
彼と指すたびに自分が成長していくと感じていく…!
盤面が頭の中に浮かび上がり、それが鮮明になっていく―――!
前までが靄の様なかかっていたが振り払われた先にある盤面が行く末を教えてくれる。
5四桂、同歩、同角、金打つ、どれだ、どれだ、どれだ!どれが一番良い一手なのだッ!!
我が苦しんで考えている間に、彼は力強く、盤面にねじ込ませるかのようにグリグリと駒を指した。
その一手は―――
口から惚けた声が漏れそうだった。
その一手の価値は、すぐに切り捨てた。
そして、彼の持ち駒と盤面の状況。我の持ち駒と、形勢。
そのすべてを加味したとき、我は恐怖で身体が震えた。
この駒は……取れない!!
指された駒を我は取れない、取ってしまったらそれこそ即詰みだとわからせるほどの不必要な手が煩い―――!
だが、ここで早逃げをすればと思った。しかし、今形勢はあちらのほうへと傾いているうえに盤面が進むと》限定合い駒《をしなければならなかった。
限定合い駒というのは決められた駒でしか凌ぐことが出来ないというレベルの高いものである。そして、我が読んだ先にあった限定合い駒に必要な駒は―――
「…ここまでか」
この美しい棋譜は汚せない。例え、我がここから粘っても負けるのは目に見えている。
だから、我は―――清々しく頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
神鍋歩夢六段81手で投了、八柳太一二冠の勝利であった。
そして、我は一つ気になったことが合った。それは初手の端歩であった。
序盤中盤終盤、どれをとっても端歩の意味がわからなかったのだ。
感想戦をしているとき、我はそのことを聞いて帰ってきた答えに二度目の恐怖を覚えた。
「八柳太一二冠に聞きたい。初手の端歩の意味はなんなのですか?」
そう聞くと彼は照れくさそうに笑顔を浮かべるとこういった。
―――数手先にどこ指そうか考えていてそれで間違って指しちゃいました。
そして、付け加えるように
―――歩夢先生の棋譜を見ているとどうにも端歩の重要性が高いなと感じてしまったんです。
彼の笑顔が我に恐怖を覚えさせた。
彼の読みの深さ―――それは間違いなく神の領域だと実感させられたのだから。
天衣って打つときいつも「てんころも」から変換しているんだけどなんだがおいしそうですね。