元プロのおしごと!   作:フルシチョフ

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第21局 名人

 ☗ 比較という名の

 

 「…兄弟子来てたんですね」

 「まぁね、天童市で買いたいものもあったから」

 「俺の対局はついでですか?」

 「まさか、なんか八一君怒ってる?」

 

 あぁ、そうだよ!と俺は叫びたかった。

 俺はあと一敗すれば竜王を失冠する。

 その事実はあることを意味していた。

 そんな時に一門の人にはとてもでもないが顔を合わせる余裕もない。

 

 

 ついこの前、帝位を防衛し連続5期獲得した()()()()()()()に対して早く帰ってくれと叫びたかった。

 苛立ちから舌打ちしそうになるのを堪える。

 わかってる、この人は何も悪くない。悪くないけど、心がどうしてもソレを許さなかった。

 小さいころから比較され続け、兄弟子が誇らしいと思う反面自分の居場所というものが徐々に見失っていった。

 それが恨めしいと思わせる要因なのかもしれない。

 幼いころから兄弟子の光は凄かった、将棋界全てを照らす太陽みたいで眩しくてかっこよくて、そしてそれが凄く憎たらしい。

 そんな俺が兄弟子や姉弟子と一緒に居られるのは単にこの『竜王』のタイトルのお陰だった。

 俺が竜王だからこの人たちの隣に入れる。やっとみつけた居場所を俺は失いかけている。

 

 「今日の対局おしかったね。最後の千日手のところまで形勢は互角。いや、少し八一君に傾ていた」

 「……………だからなんだってんだ!」

 

 やってしまった。と思うより口は吐露し始める。

 それが兄弟子なりの慰めだと知りながら。

 

 「形勢は俺に傾ていた?それでなんで勝てないんだって言いたいんですかッ!?名人の挑戦を跳ねのけた棋士は言うことがやっぱりいうことが違いますね!!いつも兄弟子はそうだ、上から見るような態度で接してきて…俺がどんな思いで今戦っていると思うんですか!?」

 「知らないよ、僕は八一君じゃないんだから」

 

 有無を言わせない答えに俺は言葉に詰まる。

 そうだ、兄弟子は俺とは違う。

 ―――生まれ持ってきた才能から全て。

 

 「じゃあ、そういう慰めはやめてもらえますか。正直言ってウザいんですよッ!」

 

 俺の言葉に兄弟子は面を喰らったような顔になり、次第に顔を俯かせた。

 そこでハッとなる。怒りに任せて、俺は名人に勝てない鬱憤を晴らそうと兄弟子に当たってしまったということを。

 いつもならすぐに気付く。気付くどころか慰められたことに対して嬉しさも感じていたはずだ。

 そこで改めて実感する。

 心がもう折れかけていると。

 

 兄弟子はどうするだろうかと思ってしまった。

 そして、兄弟子の口から出たのは―――

 

 「八一君はさ、ホンモノを信じるかい?」

 

 訳の分からない言葉だった。

 俺の暴言など耳に入っていないかのように聞き逃し、どこ吹く風でただそこに立っていた。

 

 「……何を言っているんですか?ホンモノって意味が分からないですよ」

 「将棋の何かを変えるそんな人たちのこと」

 「それは…いるんじゃないんですか?名人とか兄弟子とか」

 

 名人と兄弟子によってここ最近の将棋というものは変わりつつある。

 横歩取りから様々な変化も最近出つつあるのはこの二人のせいだ。

 

 「例えばだ八一君、14歳2か月でプロ入りでして六段までわずか一年と四か月、ましてや五段から六段までの期間は16日と言う棋士がいたら信じるかい?」

 「そんな空想上の出来事なんて信じられるわけないでしょう、14歳2か月でプロ入りも偉業なのに昇段までの期間が短すぎます。そんなどこかの漫画じゃあるまいし…」

 「四十代にも関わらず竜王位を奪取し、100期目になるかもしれない名人の挑戦権を六者プレーオフで勝ち取った棋士がいたとしたら」

 「だからッ!そんな有り得ない話を何の意味があるんですかッ!?」

 「いいや、八一君―――有り得るんだよ、ホンモノだから」

 

 凛とした表情、言葉に重みを感じさせる雰囲気に俺は思わず息を飲む。

 

 「あの人たち…中原先生、大山先生、米永先生、加藤先生、渡辺先生、谷川先生、藤井君…そして羽生先生のように君もまた間違いなくホンモノだ」

 

 知らない名前たち、だが何故だろう。兄弟子はまるで()()()()()()()()()()()にそれを語っていた。

 名前の一つ一つから得体のしれない何かを感じていた。

 

 「さっきから何を訳の分からないことを…、とうとうボケましたか?」

 「あぁ、そうかもしれないな…。だが、一つだけお願いがある。

         ―――決して諦めないでくれ、君は間違いなく勝てる棋士だ」

 

 

 

 

 

 

 

 「八柳太一二冠は九頭竜八一竜王の肩を強く握りしめ熱い眼差しを送っていたと…」

 「(くぐい)さん…いたんですか」

 「はい、何やらお二人が漢の友情というものを見せつけていたのであとで記事に乗せるために隠れていました」

 

 いつもお世話になっている鵠さんはメモ帳を片手にそう呟いた。

 

 「俺に竜王戦について聞きに来たんですか、残酷ですね」

 「仕事ですから」

 

 淡々とした様子が今の俺にとっては丁度良かった。

 

 「載せないでくださいね、兄弟子にも迷惑ですから」

 「………竜王サン、こなたも竜王サンのことはホンモノやと、そう思てます」

 

 俺は勢いよく鵠さん…いや、女流棋士供御飯(くぐい)万智さんに掴みかかった。

 我慢が出来なかったのだ。

 息を荒げて、怒りに染まっている俺に供御飯さんはこう続けた。

 

 「こなたが小さいころ出た大会で負けた時、竜王サンはこう言うた『面白い将棋を見せてあげる』と。覚えてはります?そんでこなたは竜王サンの決勝を見て、さっきの言葉を聞いてこう思うたんよ、あぁ、これがホンモノかて」

 「供御飯さん…」

 

 訳の分からない言葉、名人の強さ、それで弱っていた俺の心は…供御飯さんの目尻に溜めっているものに気付き、少しだけ持ち直した気がした。

 その理由は今は分からない、けれど俺の心が少しだけ持ち直したのは確かだった。

 供御飯さんは眼鏡を外し、纏めている髪紐をほどく。

 腰辺りまで伸ばされた艶やかな髪が月の光を反射し、輝きが増した気がした。

 

 「竜王サン……こなたは信じてはります」

 「供御飯さん…けど俺はもう何も……名人に完膚なきにやられて、無様な姿を晒して……ッ!何も残っていないんですよ!!名人に勝つための何かが!!全てで劣ってる、才能も経験も、それを覆す手段なんて俺には……!!」

 「劣ってんものなんて数えたらキリがあらへんよ。劣ってんものよりも優れてんのを数えまひょ。…竜王サン、もう一度言い張ります」

 「―――」

 

 「こなたは竜王サンを信じてます」

 

 目尻にたまっていた涙、男である俺に掴みかかられ怒気をはらんだ表情で睨まれていたから流したもの。

 少なくとも怖いって思っていたはずだ。

 だけど。

 だけど、彼女は言い切った。

 劣っているものより優れているものを数えろと。

 

 「俺に優れているものが…あると思いますか?どうしようもない怒りを人に当てて、そんなクズな竜王に…。なんでそんな俺を信じてくれるんですか…?」

 

 俺の問いに、供御飯さんは満面な笑みを浮かべた。

 

 「さぁ?優れてんものは自分で見つけるもの。ほんで、―――少しだけ惹かれてる相手ぇ信じる理由なんてあらしまへんよ、竜王サン」

 

 満面の笑みで、そして、()()()()()()()()()に俺は小さく笑いを零したのだった。

 

 ☖ 分岐点

 

 「…八一君は何か言ってた?」

 「はい、一度自分を見つめなおすと」

 

 対局が行われたホテルで俺は鵠さんと合流して、軽く食事をとっていた。

 そうか…。これで持ち直してくれると嬉しいんだけど…。

 

 「けど、太一二冠もまた人が悪い。今日、天童市に来たのは九頭竜竜王の就位式に上げるものを買うために訪れたんでしょう?ほかの誰でも貴方が一番信じているのに何故それを伝えなかったんですか?」

 「今の八一君に生半可なことなんて響かない、八一君自身が変わらなければ先には進めない、成長できない。僕だけの存在に気付いても、もっと優れているものがあると気が付かないと今後の八一君は弱いままだからね」

 「……聞いとったんどすか?」

 「なんか二人が熱い展開を繰り広げていたから隠れてた」

 「本当に人が悪い…」

 「それはお互い様だろう」

 

 鵠さんが陰に隠れていたのは気付いていた。

 しかし、本当久しぶりに彼らの名前を口に出したな。

 

 「というか、鵠さん、さっきの雰囲気はずるいですよ。八一君、頬赤らめてたし」

 「そうどすか?本心を伝えたまでどすえ、それともこなたに惚れましたか?」

 「まさか、心に決めた人はもういるからね」

 「ほう、そら興味深い話どすなぁ」

 

 供御飯さんは口元に手を当てて笑みを向けるがここで「まぁこの世にはいないんだけどね」とでも言ってみろ。

 たちまち空気は冷たくなり、供御飯さんのおいしい料理だけ鉛の様なものになってしまうぞ。

 

 だが、この三局で明らかに八一君の将棋は変わってきた。

 前までは刀の刃の部分だけで切るような将棋だったが今は柄を使ったりいきなり二本目の刀を抜いたりと用途を増やしている。

 つまり、読みの量が増えているということだ。

 

 「太一サンは面倒見がええどすな」

 「そうかな」

 「そうどす。普通棋士の成長を促すためにいろいろと仕向けるなんて普通やりまへんよ」

 「そう?名人は自分の読み筋とかいろいろなことを対局が終わった後に全部話すじゃん、あれも棋士の成長を促す一つでしょ、それと変わらないよ」

 「あぁー…、ほら名人は将棋星人どすし…」

 

 将棋星人?なんだそれは。

 宇宙人か何かか、じゃあ地球代表…深浦先生…ハッ!なんだ今の思考は…。よくわからないからこのことについては考えるのをやめよう、そうしよう。

 

 「話変わりますけど桂香サンの対局ももうすぐやなあ」

 「うん、勝てば女流棋士になれる大事な一戦、だけど相手は…」

 「せや、あの釈迦堂(しゃかんど)サンやからなあ、桂香サンも大変どす」

 「…まぁ、あの地獄の研究会があったから桂香さんが勝つ可能性も十二分にある」

 「地獄でしたなあ…………」

 「ねー…………」

 

 一日目まではよかった、本当に。だけど、二日目になってから名人と山刃伐さん、桂香さんの研究成果を俺たち全員の棋士にぶつけられた。名人が負けたのは本当に1、2局ぐらいで、桂香さんも月夜見坂さんと供御飯さんからそれぞれ一勝ずつ白星を上げたし、山刃伐さんも一段と強くなった。そうここまでもまだよかったのだ。

 三日目、何故か研究会組に於鬼頭(おきと)さんも加わっててそれをみた篠窪さんと俺は「嘘やん…」と口に出したほどだ。

 於鬼頭さんのレートは名人に次いで二位、つまり二番目に強い棋士と思っても構わない。そんな人が一番の棋士と一緒に研究し、研究のエキスパートの棋士が二人入ってくるとどう思う?

 無論、死ぬ。

 いや、実際天ちゃんは2時間ほど駒を持てないほど疲弊したし、月夜見坂さんはまた魂抜かれて体育座りしていたし、供御飯さんも脇息に項垂れててた。

 俺は万全の状態を期すため温泉入っていざ名人と対局したら最後の米永玉を見て投了した。

 流石に心折れそうだった。

 しかも秋なのに打ち上げ花火が上がって名人と山刃伐さんと桂香さん、そして於鬼頭さんはベランダでそれを見てニッコリその背後で俺たち棋士の屍がグッタリと。

 まさに地獄だった。

 銀子ちゃんとあいちゃんを連れてこなくて本当によかったと今では心の奥底から思う。

 心が強い天ちゃんだから耐えられたものの…。

 

 「こなたもお繚もお陰様で一段と強うなりましたわ」

 「それは良かった」

 

 供御飯さんが嬉しそうにほほ笑む姿を見て、俺も自然と笑みが浮かんだ。

 うん、やっぱり子供が笑う姿は絵になる。

 たった数日の研究会でそこまで強くなれるものなのかと思うが、だいたい名人のせいと言っておけば解決する。

 名人の発する圧力で皆の棋力が底上げされる、つまり今の八一君と同じ状態だ。

 

 「それで一つだけ聞きたいことがあるんどすが」

 「ほう、なんでも聞いて」

 「ロリコンなんどすか?」

 「ん…?」

 「こなたの妹弟子が竜王サンの所のお弟子サンに膝枕されてんとこを目撃したらしおすんどすが」

 

 おおおおおおおいいいいっっっ!!!あれ見られてるのかよ!!誰だよ妹弟子!!

 いや、まて落ち着け。まだお互いに角道を開けて銀を上に上がるっていううっかりをした形勢状態だ。

 あれ、それやばくない?

 

 「研究会の時もお弟子サンにデレデレしとってはりましたなあ」

 「供御飯さん、その件幼少期時代の八一君と銀子ちゃんのエピソードで手を打たない?」

 「ほんまにお人が悪いどすなあ」

 

 やってやったという顔の供御飯、まさか最初からそれ狙いだったな。

 実は僕転生したんだ★それで孫みたいな子供たちが好きなんだ★★

 こんなこと言っても信じられるはずがない。

 僕子供が好きなんだ。

 これはアウト。

 供御飯さんの手にかかれば棋士たちの印象操作など容易い、それほどまでに鵠という観戦記者は恐ろしいのだ。

 

 すまんな、八一君、銀子ちゃん、偶には犠牲になっておくれ。

 

 ☗ 散華

 

 あの兄弟子から、そして供御飯さんから諭されてから数日が経過した。

 俺は未だに自分の将棋を見つけられずにいた。

 ソフトで検討してもなぜその手が最善手か理解できずにいて、手を覚えたとしてもそれは一夜漬けでテストに望むようなものだ。意味がない。

 「クソッ!どうすりゃあいいんだッ!!」

 

 机を拳で叩き、パソコンの画面を睨みつける。

 一局目、俺の得意の戦型を使われて惨敗。

 二局目、何もできずに負けた。

 三局目、俺は棋譜を汚して惨たらしい負け方

 

 そして、次も負ければ失冠。

 棋譜を眺めれば名人は8割最善手を指していることに気付き、さらに次善手が1割という驚異の棋力を有していることを改めて思い知らされる。

 相手は神と謳われる絶対王者だ。

 

 「神を倒すためには…」

 

 神を倒すためにはどうすればいい。

 いや、そんなことはわかってる。自分も近づけばいいのだ。

 ―――神と呼ばれるあの領域に。

 近づけば、俺の龍が神を喰らうことも出来るはずだ。

 だが、それでも…ッ!

 

 「まだ足りない……ッ!!」

 

 近づけたとしても。俺が一矢報いるためには何かが足りない。

 そして、神の力を振るうには古来から生贄が必要だと相場は決まっている。

 

 「なら何かを切り捨てれば…って、違うだろ!しっかりしろ九頭竜八一!!」

 

 頭を過ぎった弟子の顔を俺は頭を横に振って振り飛ばす。

 俺が不調から抜け出せたのは弟子のお陰だ、成長できたのも弟子のお陰だ。

 それを切り捨てる?それこそ悪手だろ。

 

 ふーっと息を吐き、心を落ち着かせる。すると、ドアが控えめに開かれてもう見慣れたアホ毛ぴょこんと最初に覗き、続いて可愛らしい顔がこちらを不安そうに見つめてきた。

 

 「あい…」

 「えっと、お忙しいところすみません…。けど、ししょーにどうしても見てほしい対局があって…」

 「あっ」

 

 そこまでいわれて気付いた。今日は桂香さんが女流棋士になれるかなれないかの大事な対局がある日だった。相手は女流棋士最強の一角である釈迦堂さん。

 力量の差は歴然だ。

 だが、あいに言われて俺はパソコンのマウスを開いて対局を視れるサイトへと移動する。兄弟子が対局前に温泉に入ってリラックスするように俺も少し自分を忘れようと考えたからだ。

 

 「それでは、わたしはこれで…」

 

 あいが控えめにドアを閉めようとする。

 その姿が見えるようになったのは俺の責任だ。

 あいに頼まれて練習対局をし、苛立ちを抑え切らず駒を握りしめて怒りを露わにしたあの時のせいだ。

 練習対局する暇があったら研究したいという俺の想いが表面上に出てしまった。

 

 「あい」

 「はっ、はい!」

 

 肩をビクッと震わせて恐る恐るこちらに振り向く。

 その表情から読み取れるものは恐怖、戸惑い、様々なものだった。

 しかし、俺は困ったような笑顔でこういった。

 

 「あー…、一緒に見るか?」

 「い、いいんですか…?」

 「ああ、あいが良かったらっていう話なんだけど」

 「見ます!ししょーと一緒に桂香さんの対局を!!」

 「お、おう」

 

 いきなり食い気味にきたぞッ!?

 あいはトテトテと早足で歩き、俺の横にぴたっとくっついて座った。

 って、なんかいつもより距離が近いような…。

 まぁ、いいか。

 

 「えっと、桂香さんの対局は…ッ!」

 「…………すごい」

 

 あいがポツリとそう言葉を洩らした。

 すごい、いや、()()()()

 しかし、相手はあのエターナルクイーンだ。一歩も引かずに攻め続ける。

 こんな荒っぽい桂香さんを見たことがない。

 胸を何度もたたき、小さく何かを言っている。

 何を言っているかは俺には見当がつかない。

 だけど、―――

 

 「熱い……!!」

 

 燻っていた俺の胸の奥底の炎が再び燃え上がる。

 万年研修会の棋士が、絶対王者を破ろうとするその瞬間が起ころうとしているのだ。

 

 しかし、現実は非常である。

 

 

 

 「桂香さん…」

 

 あいが悲しそうにそう呟く、残り時間が少なり始めている状態でもう桂香さんの玉は死にかけている。

 57角打ちから必死、しかし、桂香さんは諦めていなかった。

 

 父のようにズボンを力強く握りしめながら、残り時間を精一杯使って()()()()で次の一手を指した。

 

 その一手は―――

 

 「86歩打ち!?」

 

 相手の龍の前にぽつんと佇ませる一手だった。

 俺は驚いてパソコンで起動しているソフトにその手を読み込む。

 そして、出された結論は―――『悪手』だった。

 

 一気に、桂香さんの形勢は不利に変わっていく。

 俺はだめだと思った。だが、桂香さんの瞳は勝利を確信しているものだった。

 あれを悪手だと思っていない。

 

 

 「角を打ちました!」

 

 あいがそう叫ぶ、打たれた角によって玉が逃げれる場所は54玉であった。桂馬も聞いておりそこしか逃げ場がない。

 釈迦堂さんは落ち着いて浮いている金を取って、桂香さんは飛車を取る。

 簡単な詰めが釈迦堂さんによって打たれた銀によって作り出された。

 簡単な一手詰め、もし仮に桂香さんがここで相手の王を詰ますことが出来なければ負けだ。

 桂香さんが相手の王に王手をかけたその瞬間―――。

 

 

 「な、なんだ!」

 「パソコンがすごい音を出しています!!」

 

 フィイインとパソコンが一気に活動し始めた。

 原因はすぐにわかった、俺が起動している将棋ソフトだ。

 将棋ソフトが先ほどの86歩を検討し始める。

 そして、改めて出された結論は―――『最善手』

 局面が少し進んだ先の評価値は29999と表示されている。それは詰みがある証拠だった。

 

 「ソフトが…判断を誤った…!?」

 「すごい、すごいです!それって!」

 「ああ!桂香さんは()()()()()()()()()を指したということになる!!」

 

 その一手の意味は―――画面に映し出されている泣いて喜びを表している桂香さんの姿で証明された。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――女流棋士になれた今のご感想をお聞かせください。

 

 記者の言葉に桂香さんは言われた初めて気づいたかのように、

 

 『あ……そうですね、もちろん凄く嬉しいです。けど―――』

 

 人生最大の夢が叶ったというのに、それに対しては何の感慨も見せず、桂香さんはまったく別のことを喋り始めた。

 

 『あの…伝えたかったんです』

 

 ―――伝える?何をですか?

 

 『はい。えっと…何ていいっていいのか………その、奇跡って、ありますよね?不可能を可能にしてしまうものが何なのかって、ずっと考えていたんです。だって、私が釈迦堂先生に勝つためには、奇跡を起こすしかないじゃないですか?』

 

 ―――それは見つかりましたか?

 

 『見つかった…見つけた、ような気がします。奇跡を起こせる唯一のもの…けど、それって、別に特別な者じゃないんです。全然そうじゃなくて、むしろ特別じゃないものが、毎日毎日普通に繰り返していくことが…ごめんなさい、何て言っていいのか…』

 

 勝者である桂香さんは謝罪をし、ハンカチを握りしめ頬を伝る涙を拭きとる。

 

 ―――大丈夫ですよ、一つずつゆっくりで

 

 記者の言葉にクシャクシャの顔を笑顔にして()()()()()()()()()()()()()()

 

 『報われない努力はない。それを証明するために戦いました。――――――見ててくれた、八一君?』

 

 ダイヤモンドのような涙が、ダイヤモンドよりも硬い意志で流れていると知り、俺はただ茫然とそれを見ることしかできなかった。

 

 

 「……けいかさん…」

 

 気が付けば泣いていた。

 人生最大の大一番を俺のために戦ってくれた棋士の雄姿がすごく眩しかった。

 俺のために戦ってくれた事実と涙で俺はやっと気付いた。気付かされた。

 あの時も、涙を見て嬉しかった自分がいたはずだ。桂香さんの涙と同じ意味を持った涙を。

 それは、俺のためを思ったものだったのだ。

 幼稚で卵から孵った雛のような行動しかとれない俺のために流してくれた涙。

 盤上では一人だ、だけど……。

 

 傲岸不遜だけど優しい心を持ったお嬢様、白雪のような姫でいつも最後に笑顔を見せてくれる姉、硬い鋼のような精神を持った大事な父親(師匠)、俺に将棋を教えてくれた兄、そして、

 

 「?」

 

 可愛い弟子や好敵手、仲間がいる。

 神の領域にいる名人にはないものを俺はこんなにも持っているではないか。

 それに気が付くことなんて簡単だったんだ。

 

 「……ごめんな、あい」

 「ししょー……?」

 「もう、迷わない」

 

 弟子の頭を撫でて、俺は立ち上がる。

 そうだ、迷うな。俺は俺だ、俺の将棋を指せばいい。

 たとえ、居場所を無くそうとも皆がいる。いてくれる。

 

 名人があの領域に立ち入るために何かを犠牲にして来たのなら俺は何かを得続けよう。

 どんな小さな努力も決して無駄ではないのだから。

 

 ☖ 伝説を終わらせるもの

 

 『竜王戦第四局は異例の盛り上がりだった。

 場所は、石川県にある旅館『雛鶴』

 竜王九頭竜八一の弟子である雛鶴あいの実家で行われた。

 対局前夜、雛鶴あいの女流棋士申請の儀を終え、翌日九頭竜八一は姉弟子の空銀子とついこの間女流棋士になった清滝桂香に見送られる形で対局室へと向かっていった。

 和服の音は旅館の景観と相まって何故か心地よくつい耳を澄まし、目を離せなかった。

 今、一人の棋士が伝説を終わらせ新たなる伝説を作り出す瞬間を見逃さないためにも』

 

 

 検討室ではパソコンのキーボードの音だけがこの閑古鳥が鳴くような空間に響き渡っていた。

 皆が、簡易将棋盤の準備を終えモニターを注目している。

 モニター越しから声が上がる。

 

 『定刻になりました』

 

 第四局、将棋界の絶対王者とホンモノと成り得た若き竜王の対局が始まった。

 

 「ふぅー…」

 

 俺は息を吐き、盤面を見る。

 その景色は見慣れた景色だったが駒達が早く早くと急かしてくる錯覚が起こった。

 

 「あぁ、わかったよ」

 

 名人が飛車先の歩を付くと俺も突き返す。

 名人が打診してきた戦型は―――相掛り。

 俺が得意としている戦法の一つだ。

 

 お互い四千局以上ある棋譜を記憶しているため、定石通りに駒を動かしていくスローペースで竜王戦一日目は名人の封じ手で終わった。

 本番は次の日、どちらかが先に定石を外れた瞬間から勝負が始まる。

 そして、その時はすぐに訪れた。

 

 「来たッ!」

 

 名人が封じた手は()()()()()()()()()()()だった。

 手に汗がにじみ、扇子に自然と力が入る。

 ここからは未知の世界、マリアナ海溝よりも深い場所を探るように、宇宙の果てを見に行くような一つ間違えば命取りの世界が広がる。

 

 けど。

 だからこそ。

 

 「楽しい―――!」

 

 笑みが零れるのだった。

 急激に早くなっていく読みの速度と自分の感覚を信じつつ、駒を躍動させていく。

 でも、だからこそ改めて実感させられる。

 自分がその領域に近づくたびに目の前が人物が人間かと疑わしたくなる事実に。

 

 「この鬼畜眼鏡がッ!」

 

 最善を指せばその上の最善をいかれ、その上の最善を超える一手を超えたとしても目の前の人物は呼吸をするようにそれをも超えていく。

 それが将棋界で絶対王者と言われる所以、神とまで呼ばれる所業。

 

 「カアアアアアアアッッッ!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()に必死に食らいつきながら一手、一手と進んでいく。

 進んで進んで、形勢が不利になっていく。

 

 

 ダメなのか…?ここまでやっても届かないのか…?

 この人には何をやっても―――。

 

 勝てないのか?と思う寸前声が聞こえた。

 それは聞き覚えのある声で、俺を信じてくれている声で。

 

 

 『報われない努力ない。八一君、私はそう思ってるよ』

 『八一、アンタなら出来るわ。もう少し頑張ってみたら?』

 『そんな手は100点だけど120点の手がほかにあるんじゃない?先生なら見つけれるわ』

 

 

 

 『ししょー―――あいは、信じています」

 『八一君、君は勝てる棋士だ。―――ここまで来てみろ、竜王』

 

 「……負けられないんだ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そう呟く。

 お互いに既に持ち時間を使い果たし、1分将棋になって既に100手を超えた。

 そんな中聞こえた声は、俺に勇気を与えてくれた。

 

 「俺には背負ってるものも、返しきれない恩も、伝えたいこともたくさんあるんだ!」

 

 負けてたまるか。

 ここまで来たんだ―――!

 でも、

 

 「……だからってここで笑いますか」

 

 扇子で口元を隠しているが明らかにそれは兄弟子との対局でも見せた笑みだった。

 第三局の溜息とはまったく逆の意味をもつその仕草に俺も心が高鳴っていく。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、俺は勝つために相手の陣地に飛車を切り込ませ裏返す。

 龍、俺が最も好きな駒。

 

 名人もまた次々と手を繰り出し、俺もそれを凌ぎつつ攻撃の手を模索する。

 

 ()()の限定()()駒をしても隙は見せない。

 ()()を使って、相手の玉に圧を掛けても()()で捌かれる。

 

 「ハァ…ハァ…!」

 

 息が切れるほど摩耗する体力なんざもう関係ない。

 勝ちたいんだ―――ッ!

 

 

 バッシィン!と力強く指された()を見て名人は体を前後に揺らすことをやめ、姿勢を正す。

 記録係が秒読みを始め、残り一秒ということころで―――。

 

 「負けました」

 

 竜王戦、第四局。

 俺が聞きたかった言葉をやっと聞けた。

 長い時間を過ごした気がする。

 でも。

 

 

 

 俺は、その日憧れの人(兄弟子と名人)に並び立てた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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