ササッ……
竜王戦第七局の様子を眺める検討室では形容しがたい空気が流れていた。それもそのはず一日目にして既に終盤の入り口まで差し掛かっており、二日目は案の定拳同士の殴り合いのような局面になっているからだ。
検討室で盤面を眺める九頭竜八一竜王の兄弟子、八柳太一二冠はぼそりと呟いた。
「八つ橋食べたい…」
なんで?と突っ込みたいところだったがこの緊迫した空気では言えない。この場には竜王の弟子、雛鶴あいと夜叉神天衣、そして、女流棋士最強と名高い空銀子の姿も見受けられる。
「こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう、…」
前傾姿勢で考えるあいを他所に天衣はジッと盤面を見つめ、時折首を傾げる仕草をする。空銀子も同じようなものだ。
3人が考えている空間に八柳太一二冠の姿が現れ声を掛けた。どのような内容か耳を澄ましてみる。
「八つ橋食べたくない?」
まだ言ってるぞこいつ。
「こう、こう、こう、…」
「ちょっと黙ってて」
「―――」
あいには取り合って貰えず天衣には拒否され、空銀子に至っては無視である。八柳太一二冠はしかたないかと言わんばかり駒をもち、盤上に置く。
すると、3人の表情が驚愕に染まりそれが周りにも伝染していく。男性棋士も八柳太一二冠の変化の手筋に納得し、そこから読みを広げていく。
そして、改めて思い知らされる。
八つ橋食べたいとふざけたことを抜かしていてもこの棋士は史上最年少でプロ棋士になり、史上最年少でタイトルを獲得し、史上最年少で永世称号を取った化け物、名人と同じ土俵に片足を突っ込んでいる人間だということを。
今回の対局の戦型は横歩取り。
しかも、二人が飛び込んだ変化は最も激しいものだった。
☗2六歩☖8四歩☗7六歩☖3四歩☗2五歩☖8五歩☗7八金☖3二金☗2四歩☖同歩☗同飛車☖8六歩☗同歩☖同飛車☗3四歩☖3三角
ここでまず横歩取り、3三角型空中戦法となった。
ここから八柳太一二冠が考案したという青野流(なぜこの名前なのかはつけた本人にしかわからない)か昔からある後手玉が4二に上がる形になるかと思ったがこの二人は☗3六飛車☖8四飛車☗2六飛車☖7七角成☗同銀☖4六角打☗2一飛車成という変化に飛び込んだのだ。
本来、対局と言うのは序盤、中盤、終盤と言う順序で進んでいくがこれに限ってはその中盤戦がないといっても過言ではない。
30手近い当たりですでに龍が作られ、大駒が行き交う。
前例がないわけではない、昔に数度あったぐらいのだ。けれども、二日制において現れるのは初めてだ。
だが、刻一刻とその時は近づいている。
龍が神を喰らい、生きる伝説から新たな伝説へと変わっていく棋士たちの20年以上に渡る積年の願いが成就する瞬間が。
観戦記者 鵠』
☗ 喰うか喰われるか
「カアアアアアアアアアアアアアッ―――!!」
俺は、この第七局までに成長させられた読みに従って最善手を指し続けていた。
気力というものが今の俺に残っているとすればそれはもう雀の涙ほどしかない。それほどまでに疲弊していた。少しでも気を抜けば一気に目の前の神に喰われてしまう。いつも通りやっても負けてしまう。常に、全力で駆けなければこの人には勝てない。
時速300kmの思考に溺れながら、俺は指し続ける。
「クソッ!まだ足りないっていうのかよ!!」
名人から繰り出される一撃必殺の攻撃をぎりぎり躱す。
盤面の駒達は俺の意志に従わず自由に頭の中で動き回る。
ダメだ!俺の読みが早すぎて俺自身がもう既に追い付けていない!
「―――」
なんで目の前の人間は俺よりも早い読みにもかかわらず平然と指せるんだよっ!
俺が名人によって第7局までに読みが成長させられたように名人もまた俺の指し方を吸収し、成長につなげている。
名人世代だけがもつバカげた力の一つ。相手の力を自分のものにするという聞けば頭が可笑しくなる。
だからなのだ。俺より読みが早くても平然と指せているのは。
「だからって―――ッ!」
負けてたまるものかよ!
この横歩取りは俺が得意としている戦法の一つだ!
第一局では大局観で負けたが…、今の俺なら!
第4局、第5局、第6局、そしてこの第7局。全てをつぎ込んで読みに徹してきたんだ。自身の読みに追いつくため、そして
―――――……やっと、
九頭竜八一の思考はとうとう常人のソレとは掛け放たれた領域に達した。
名人が立つ土俵に片足を突っ込んでいた、しかし、今は同じ土俵で同じ景色を見ていた。
動く駒達が止まって見え、盤上が静かになる。
静寂だ。
九頭竜八一はそう思った。
名人と同じ土俵に立ったことによってどんな景色を見ているのか共有できていた。
―――これが名人が見てる世界なのか…?静かだ…、あまりにも静かすぎる。
そして、この静けさの裏に隠れている脅威に九頭竜八一は気付いた。
それはタイトルと言う称号の重みだった。
前からでもタイトルの重さを知ってはいた。知ってはいたが理解してはいなかった。
このタイトルと言うのは取れば歴史に名が残る偉業。
無論、それは誰もが狙っている。
この静けさに隠れる脅威は後ろから追いかけてくる天才たちの影だ。
途端に重すぎる重圧に体が潰されそうになる。
「オ゛ぇ…ッ!」
吐きそうになる気持ちを気合で堪える。
タイトルを狙うものはそれこそ死に物狂いで俺たちタイトルホルダーを全身全霊で殺しに来る。
だからこそタイトルと言うのは一期取るだけで偉業であり、99期を獲得している名人が絶対王者であるということ。
強者にはそれ相応の振る舞いが求められる。常に強者と言う重圧はあまりにも重すぎた。
目の前の人は20年以上この重み耐えてきたのか…。
凄い。やっぱり名人は凄い…!
凄いけど…今は、今だけは―――。
勝ちたい。
興奮する体が、震える心が、限界を超えた脳がこの一手を俺に示した。
☖
パチリッ―――。
竜王が指した一手は緘黙した検討室に響き渡る。
差された手は☗3八玉。
検討室でもソフトでも示されていなかった意表の手だった。
検討人もこの手に疑惑の声を上げる。
「これは一気に竜王が悪くなったんじゃないか?」
「評価値が名人に触れてるぞ!」
ソフトの評価値は今まで竜王に触れていたが3八玉によって一気にー400点ほどまで下がった。
「いや…、うん、これかなり強い手だ」
「これって流石に八一の悪手?」
「ししょー…」
銀子ちゃんとあいちゃんが心配そうに局面を見つめている。おい八一君何心配させてるんだ。天ちゃんはいつもの仏頂面、けどそれが可愛い。頭撫でたい。
「撫でさせないわよ?」
声に出てたわ。
というか、八一君本当凄い手を出してきたな。
この手の意味は
名人が好むやり方。
前世の某永世七冠、まあ最も難しい称号である名誉NHK杯選手権者を含めたら実質永世八冠のあの人もまた最も好むやり方だった。
最短で勝ちに行く、勝てるけれどもそれを最速でやるというのはやられた側からしたら最もつらい。
現に、俺は何回魂抜かれたことか。特に6者A級プレーオフの決勝で指された8四角打ちと言う手は未だにトラウマだ。
逃げても負け、合い駒しても負けにするという手だった。俺中継にも関わらず泣いたしなあれ。
「竜王がその手を選んだということは勝ちたいというほかの想いも込められていると私は思います」
検討室に入った来た二人の人影に俺はあっと声を出す。
現A級棋士、盲目の将棋棋士月光会長とその秘書男鹿ささりさんだった。
「それってどう意味なんですか?」
「簡単なことですよ雛鶴さん。竜王はこう言っているんです、もう自分でも歩けると」
「何よその曖昧な感じ」
「夜叉神さんにも身に覚えがあるのではないでしょうか?憧れに隠れて自分を見出せないということを」
「―――。確かに、お父様やお父様が昔よく話してくれた
「簡単なことです。竜王の
「確かに会長の言う通りかもしれません…。あとその渾名出さないでくださいお願いします何でもしますんで」
なんで会長シリアスな空気出しといてその渾名出すんですか?ほらよく知らないあいちゃんと天ちゃん以外笑い堪えてるんじゃん。
天ちゃんが自分を見失った、けど多分持ち直したのはあまり言いたくないが両親の離別だろう。
大切なものを切り捨てられたことによって、影響を受けていた自身の将棋が自分のための将棋へと昇華した。
けど、八一君は違う。
敢えて許容することによって、自分がいかに恵まれているのか。いかに何かを得てきたのか。
何も名人と同じ土俵に立つために名人と同じ道を辿る必要はない。
名人が辿ってきた道は茨の道。
プロになってその時のトップを倒し、同世代の強敵たちをなぎ倒し、一つ下の世代に格の違いを見せつけ、AIが発達したことによって生まれたAI世代の若手を膨大な経験と大局観で圧倒する。
八一君が選んだ道は違う。
弟子が居て、師匠が居て、好敵手がいて、俺や銀子ちゃん、桂香さんなどと一緒にいるという道を選んだ。
選んだという心の中で区切りをつけたことによって冷静になった脳が最短で勝ちに行く手順を教えてくれた。
九頭竜八一と言う一人のプロ棋士が見つけたその答えが竜王であるべきナニカにふさわしかった。ただそれだけだった。
☗ 昇る落日
盤上に描き出される景色。
自分がなぜこんなにも落ち着いているのかが不思議だった。
子供のころからの憧れていた人と対局してるならばもう少しばかり興奮していても可笑しくないけど。
「―――」
名人と俺はただ盤上をジッと見つめるだけだった。
お互いに決着の道筋は見えている。
お互いに持ち時間を使い果たし一分将棋になった。
名人が☖7五馬と桂馬を取り、下駄を預ける。
そして、とうとうこの時がやってきた。
約2か月に渡る死闘。
いろんなことがあった。
弟子と険悪になったり、兄弟子に八つ当たりにしたりと。
この対局が終わったらいっぱい話そう。
将棋のことや他愛のないこと。
俺は静かに☗7二龍と駒を滑らす。
記録係が秒読みを始めると同時に、名人が口に水を含んだ。
そして、残り一秒という所で―――。
「負けました」
名人の背後から多くのフラッシュが巻き起こる。
それもそのはず、永世七冠がかかったシリーズはまさかに3連勝からの4連敗という結果だったからだ。
国民栄誉賞の準備もしていたらしい、おい俺が失冠する前提かよ、すると思ったけど。
記者の方が竜王を防衛した俺に対して質問を投げかける。
疲弊していた頭でまともに答えられたのは検討室でも上げられなかった3八玉という一手だった。
3八玉はコンピュータが否定していた手だったが最善手を続けていれば何故か先手がいいという変化になったという。
あの局面、3八玉を指せば一手余して勝てるという俺の読みが正しかったわけだ。
次に、名人に質問が投げかけられる。
中には俺に対する蔑みが少し入った質問もされていた。
確かに竜王戦前までは俺は絶不調だった。けどそれでも普段なら出ないような質問がでてくるのは興奮のあまりだろう。まぁーしゃーないわな。かえってあいの金沢カレー食べて慰めてもらおう。
そんな俺の心境を他所に名人はマイクを口に当ててこういった。
「竜王は今一番強い棋士です。今回のシリーズを通して流石としかいえない差し回しに感服させられました、ええ、はい」
軽い口調で言っているがその影に怒りが含まれているのが見ているもの全員に感じさせた。
って、なんで名人やカメラマンたちが俺の顔見て驚いてるんだ。
「あ、あれ…?」
気づけば俺は泣いていた。
頬を伝る涙を袖で拭う。
「す、すみません…。あれっ……おかしいな…」
涙が止めどなく溢れてくる。
名人に言われた言葉がどうしようもなく嬉しかった。
『一番強い棋士』
歴史に残る大棋士に言われた一言で俺は号泣していたのだ。
「すみません、…少し席を外しても宜しいでしょうか…?」
本当ならこの後感想戦を行わなければいかないがこの状況では流石に無理だ。
名人は俺に笑顔でどうぞと促してくれた。
誰もいない廊下で俺は一人歩いていた。
泣き疲れて、目が真っ赤にはれ上がっている。
対局の疲弊も祟ってか何もない場所で転んでしまった。
「いっつー…」
ダサすぎだろ俺。
まぁ、誰も見てないからいいか…。
「ダサいわね、
「ししょー!だいじょーぶですかっ!?」
おっと見られていたようだ。
というかこの声ってもしかしなくても俺の可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い、そして可愛い(重要)のあいと天衣だ。
「来てたのか、二人とも」
「まぁね、形式上は私の
「ししょー!実は天ちゃんが一番一喜一憂していました!!」
「なっ!それは言わない約束でしょう!!」
「…やくそく?」
「アンタ大阪に戻ったら覚悟しなさい」
多分だが兄弟子が連れてきてくれたのだろう。感謝…!圧倒的感謝…!
「ま、そんなことより…おめでと、
「ししょー本っ当におめでとうございます!!すごかったです、あいずっと感動していました!!」
「ああ、うん。ありがとう二人とも」
なんだろう凄く癒される。
本当にさっきまで対局していたのか?これが噂に聞くアロマセラピー…!いや、ロリセラピー!
「銀子ちゃんは行かなくていいの?」
「うん、あとで個別に祝っとく」
壁に隠れるように俺と銀子ちゃんは話していた。その後ろからあいちゃんと天ちゃん、八一君が楽しそうに談笑していた。君早く感想戦しなよ、俺が代わりに談笑しとくから。
「―――ねぇ、お兄ちゃん」
「ん」
銀子ちゃんが真剣そうな眼差しで見つめてきた。
もしかしてこれは告白イベントなのでは…!?高校の同じクラスの小林君がこんなシチュエーションを教えてくれたんだよ。銀子ちゃんも
そして俺たちは兄妹(仮)だ。ここは真摯に受け止めて…。
「お兄ちゃんが昔並べてくれた
次回から銀子ちゃんがメインの話!
続く…!続くか…!?