ピカァーン
僕の呼びかけに、空間が歪むと淡い光を発し、その輝きは、いつのまにか少女の形を成す。
社から社に、しろ様は瞬時に移動できる。ならば、拝殿への移動は容易いはずだ。
「呼んだのは、貴様らだぞ」
歓迎されぬ空気を察して、しろ様がしゃがみこむ僕らを見下ろした。
「呼び出しておいて、睦み合いを見せ付けるか。ここはワシの家、神の住処であるそ」
低体温で小刻みに震える美雪は、それでもしろ様を気丈にも睨み返す。
「どうして出てきた!」
「ワシがやって来たのではない。柾木がワシを呼んだのだ」
「立ち去れ」
美雪が僕の腕から抜け出し、ナギナタを杖代わりに立ち上がり、しろ様に相対する。しかし、その膝は衰弱のためガタガタと振るえ、ナギナタを構えることすらかなわない。
そんな美雪をしろ様はあざ笑う。
「神たるワシに刃をむけ、あまつさえ神域から追い出そうとするのかよ。おろかな」
「っ・・・」
言い返すことも、やり返すことも出来ない。ギリリッと、美雪は歯噛みするだけだ。
それが、本来の力関係である。しろ様に親しみを持ち、時には軽口を叩き、あたかも対等であるかのごとく接している僕らだが、それはしろ様の寛容さ、いや、無関心によるものだ。
「シロウ」
しろ様の呼び声とともに、白い何かが美雪の前を通り過ぎた。
「あ・・・」
美雪は、空になった自分の両手を見下ろし、唖然となる。
ドスンッ
そのまま、支えの無くなった美雪は、床に尻からへたりこむ。
『手荒なことをして、申し訳ないがな』
シロウが、首だけで僕たちを振り返る。その口には、ナギナタがくわえられている。
『主従関係は絶対なのだ』
ぺキッ
その牙が、容易くナギナタをへし折った。シロウもまた、神の分け御霊である。
「あぁ・・・」
心のよりどころを失った美雪は崩れ落ち、抵抗する手段も気力も失った。
その姿に満足したしろ様が、美雪を用済みとばかりに捨て置き、僕と向き合う。
「さて、この吹雪は夜明けまで吹き荒れるだろうよ」
「夜明けまで・・・」
「そうさ」
しろ様が、勿体つけるように言葉を切った。僕に、その言葉の意味を口にさせようとしている。僕には、選択肢は無い。
「夜明けまで、美雪の体力はもたない」
「で、あろうよ」
しろ様が、面白がるように繰り返す。
「時間がない」
「で、あるな」
「僕たちを助けてください」
しろ様を呼び出した時点で、僕のすべきことは一つしかない。選択権は、常に僕の内にあった。だが、選択肢はただの一つしかない。
「よかろう」
しろ様の返答は早い。
「しかし、それなりに代償を払ってもらわねばならぬな」
「それは?」
「切り離せ」
省略された言葉。絶対的な命令口調。嗜虐的な笑み。僕は、それらを正確に理解した。
「その女を切り離し、ワシだけを貴様に残す。それが生を得る代償だ。容易かろうて」
「柾木・・・」
美雪が、衰弱しきった声で僕の名を呼び、床を這いずるように僕に右手を伸ばした。
だが、僕はそれに応えない。僕が答えるのは、しろ様の条件についてだけだ。
「はい」
「柾木っ!」
「貴様なら、そう答えるだろうさ」
「でも、僕はいつか死にますよ」
「たかが数十年で良いのだ。それ以上の時間は求めておらぬよ。たた一時、ワシはワシに欠けた物を埋めることが出来ればいいのさ」
「何が欠けているのですか?」
「愛だ」
しろ様は、笑っていなかった。
それは、いつか失われるもの。だが、しろ様は、それを注ぎ続けねばならない。無限に近い生で、自分が磨り減ってしまわぬために。
そのためだけに、人と出会い、愛し、産み、育て、そして離別を繰り返してきたのだろう。
僕も、ほんのひと時の時間を埋めるだけの存在なのかもしれない。
それでも、それでも―――
「僕は、しろ様を愛そう」
しろ様の手を取って答えた。神様の手は、小さくて、冷たい。
「ワシを選んでくれるかえ」
「そうしないと、僕らは凍え死んでしまうしね」
「それが目的かよ」
「嫌なら、僕をしろ様好みに変えてください」
「時間だけは、いくらでもあるからな」
しろ様が笑った。
「なんとなれば、貴様をワシと同じ不死身の『山ノ神』としてやろう」
「しろ様が望むなら」
「本気か?」
僕の答えが予想外だったのか、しろ様が驚きを隠せない。今までの芝居がかった雰囲気が崩れ落ちた。
「今までの男はみな、神になることは拒否したというのに・・・」
呆れたように、しろ様がつぶやく。
「貴様は、永遠の生が恐ろしくないのか?」
「現実感が無いから」
「ならば、証しを見せよ」
白様は、不意に顔を背ける。
「しろ様?」
「しろ」
「えっ?」
「しろと呼んで欲しい」
うつむいて表情は見えない。だけど、それは簡単に想像がつくものだ。
「・・・しろ」
「うぅぅ」
プシューと、しろ様の頭から湯気が昇る。
「ダメだ、ダメじゃな。思った以上の破壊力じゃ」
しろ様が、自分の腰に手を回し、簡素な服を縛っていた紐をほどく。
「言っておくが、恥ずかしいからといってだな、実力行使でごまかすわけではないぞ」
ハラリと衣服が脱ぎ捨てられる。しろ様の一糸まとわぬ姿。透き通るような白い肌に、申し訳程度に膨らんだ発育途上の小さな胸。薄い陰毛の先は硬く閉じられていて・・・
「・・・」
何かを言い返そうとするが、呼吸が止まって声が出ない。
「動かずともよい。ワシに身体を任せよ」
しろ様の柔肌が、僕の身体に重なる。伝わる熱が、ひどく熱い。
「柾木、ワシを愛してくれや」
「その前に、美雪を助けてほしい」
「・・・貴様は、空気というものを読めんのか」
「約束だったはずだよ。交換条件といってもいい。それと―――」
「―――嫌だ」
しろ様は、僕に最後まで言わせない。
「ワシはこの女の見ている前で抱かれ、貴様はワシの身に貴様を残さなければならない。それでようやく、この女の眼に、ワシらが刻まれることになる」
「っ」
美雪が息を呑む。
「供儀だ。金枝篇でもあったろ? 全権をもって支配する人の神は、、力を失う前に新しい神によって殺される」
金枝篇の名前の由来は、ネミの祭司殺しだ。それには、『森の王』と呼ばれる祭司になるために、二つの条件を満たさねばならないとされている。一つは聖なるヤドリギの枝(金枝)を持ってくること、もう一つは現在の『森の王』を殺すこと。
そうすることで、初めて権力の移行が完遂する。
しろ様を抱くということは、ヤドリギの枝を折るに等しい。つまり、しろ様は、僕を支配しつつあった美雪の精神を殺そうとしているのだ。
「それが豊穣を司る、神たるワシの本質さね。殺し、奪い、新しい実りを得る。収穫を得るには、殺さねばならぬ」
「僕がそれを許すとでも?」
「柾木のために殺すのさ。その女が貴様を迷わせているようだが、そんなものは一時の感情でしかない。それがいかほどのものか」
僕は、言葉が出ない。
反論も、賞賛することも出来ない。
しろ様の意志は、ただひたすらに苛烈だ。
僕は、その意志にただひたすらに跪く。
「話がそれたな」
しろ様の目が、金色から赤みを増す。
ブワッ
しろ様を中心に、空気がはじけた。
寒気がはじけ飛び、拝殿が暖かい空気で満たされる。
「あっ・・・」
「暖かければ、今すぐ死ぬこともあるまい」
美雪を一瞥して、さげずむ。
「それに、鳥肌を立てたままでは、起つものも起たぬしな」
「しろ様、その言い方はちょっと・・・」
「何がいけない? これからワシはいくらでも言うであろうし、貴様も言わされるであろうよ」
「いや、そんなことはないと・・・思う。たぶん、きっと、おそらく、希望的観測では」
「それにだ」
しろ様は、床に崩れ落ちたままの美雪の傍らに立った。
「ワシは貴様を奪い、完全にこの女の魂を殺しておかねばならぬのさ。神殺しが完成することで、ワシは収穫を得る。新しき神という名の支配者になれる」
しろ様は狼の眼差しで、弱弱しい美雪の顔を見下した。
「さぁ、柾木よ」
しろ様が、僕に手を差し伸べる。
僕は、差し出された手の意味を考える。
だが、選択権があったとしても、選択肢は無い。考えることは無意味に等しい。
夜光灯に吸い寄せられる蛾のように、僕はしろ様に歩み寄る。ゆらりゆらりと。
差し出されたしろ様の手に呼ばれるように、僕の手が、ゆっくりと持ち上がる。
堕ちるところまで堕ちれば、楽なのだろうか?
問うても、答えが無い。
問うても、意味が無い。
自分が、何をしているのか分からない。
生きた感じがしない。
生から遠い。
現実が霞む。
僕の手は、しろ様の小さな手を通り過ぎ、二人の手はすれ違う。しろ様が、拒絶されたと、怯える眼を見せる。
だが、それも一瞬のこと。僕の手は、そのまま真っ直ぐに伸びて、しろ様のほほに触れる。
「んっ」
しろ様が、瞼を閉ざして。
僕は、そっと引き寄せ。
その唇に・・・
「ダメだ!」
悲痛な声に制止させられた。
振り返ると、美雪がそこに立っていた。
立っているのが精一杯である。だが、その瞳だけは、赤みを帯びて、強い意思を示していた。
「娘、立っているだけで必死ではないか。おとなしく横になっているがいい」
「立たねば、今ここで立たねば、目の前で生き地獄を見せつけられるだけだ」
「そうさ。貴様は殺される。だが、生を得る」
「与えられた生に価値は無い」
美雪の衰弱は、とうに限界を超えている。
それでも美雪は立ち上がり、その意志は、自分を殺さんとする神に抗う。
「柾木」
「手持ちの手段で生き延びるには、これしか方法はないんだよ、美雪」
「そんな命、望んでなどいない」
「死んだらお終いだ」
「柾木は、私を捨てるのか?」
「・・・。まだ、選んでもいなかったはずだよ」
「その化け物だって、選んではないだろう」
「ほんの少し前までは。でも、今は選んだ。そうしないと、僕らは死んでしまう」
「打算で永遠の生に苦しむつもりか!」
「きっと、しろは僕を改革するよ」
「そうさな。ワシには人にない時間がある。いくらでも『次』がある。無限の可能性さね」
「黙れ! お前は柾木に愛されていない!」
「小娘。それはお前も同じであろう?」
「だが、共に歩むことは出来る!」
「歩む? いかほどの時をよ。ワシには神の力が、無限に等しい時間がある。しかし、お前はどうだ? 限られた時間に、くたばりかけの命。何をか言わんや」
「人は、美しく老いることが出来る!」
「くっ」
しろ様の表情が強ばった。それこそが、いや、それが出来ないからこそ、柾木を求めているのだ。
「人間をなめないことだ、偽神」
「偽・・・、っ! 神たるワシを偽者呼ばわりするか!」
「あなたが神を自称しようとも、しょせん異端者だ。穢れを背負う偽王(モック・キング)にすぎない」
金枝篇で自らの正当性を語ったしろ様に、美雪もまた、金枝篇で対抗した。しろ様の例えが『原始的な王制の交代』であるのに対し、美雪の例えは『永続的な王権の保障』だ。
代表的な例は、バビロンのサカエアという祭りだ。死刑囚が、王の衣装を着て、王座につき、好き勝手に命じ、王の妻妾と寝て、権力を欲しいがままにする。だが、祭りの終わりには、その囚人は鞭打たれ殺される。
社会の穢れを背負い、死すべき存在が王であり、それが王殺しだ。だが、人間社会の進歩は、身代わりの偽王を作ることで、永続的な王制を可能とした。そして、その二元論的な思想は、今日まで続くものだ。
「祭りは終わりだ」
美雪が、しろ様と僕の間に割って入る。
「―――偽王は、殺される定め」
僕と美雪の唇が重なった。
「ん、ふっ」
違う。重なるなんて、そんな生ぬるいものではない。
片手は立ち尽くす僕の後頭部を押さえつけ、もう一方の片手で僕の顎をつかむ。顎にかかった指に力が入り、僕の口がかすかに開く。
「っ!」
ずるり
美雪の舌が押し込まれた。僕の意志は、立て直す暇もなく吹っ飛んだ。
「ん、あぁぁ・・・」
美雪の舌が、僕の歯茎をなぞっていく。
膝が折れ、腰が砕けそうになる。甘美な快感。
ぢうぅ
湿った音と共に、美雪の舌先が、僕の舌を捕らえた。絡み合う舌、唇からは唾液が溢れる。
「そんな、そんな・・・」
しろ様の目の前で行われる痴態。手に入れるはずだったものが、寸前でその手からすり抜けていったのだ。しろ様はへたり込み、弱弱しく抗議の声を上げるだけだ。
「やめてくれ、やめてくれ・・・」
だけど、しろ様の声がはるかに遠い。
「っ、く」
息も苦しい。それでも、美雪は僕から唇を離さない。
神の力も、無限に等しい時間もない美雪。
しろ様から見れば、はかない存在に過ぎない。
けれど、そんな美雪が、しろ様を圧倒している。
美雪は、僕を取り戻した。そして、一時王権を振るった偽王を殺すことで、その支配の正統性と永続性を確立する。僕を奪い、新しき支配者にならんとした神を返り討ちにしたのだ。
「柾木」
いつのまにか、唇が遠ざかっていた。
ちょっと突き出たか美雪の唇。隙間から垣間見える鮮やかな赤い色の舌。その動きは、どこまでも艶かしい。
吐息が熱い。
「腰が抜けた」
つぶやく僕に向ける美雪の笑みは、征服者の歓喜だ。
美雪は黙っている。
僕の言葉を待っている。
何を言って欲しいか分かっている。
でも、それは間違っている。
それでも、僕は―――
「死ぬかもよ」
「君と一緒なら」
美雪は揺らがない。
ならば、僕は意志の力をかき集めて、理性を殺そう。美雪と共に、同じ刻を歩むために。
僕は、美雪に背を向けてしゃがみこむ。
「おいで」
「ああ」
美雪は着物の前を大きくはだけ、白い両足をあらわにする。そしてそのまま、僕の背中に身体を預ける。
僕は、両脇で美雪の足を抱え込むと立ち上がった。美雪の体温を背中に感じる。
「貴様っ!」
ここに至って、ようやくしろ様が、僕たちのしようとしていることに気がついた。
「選択権は、僕が持っているはずだよ」
「だが、選択肢は一つしかない!」
「無ければ作ればいい」
「正気か!」
「たぶん、正気じゃない」
猛吹雪の中、美雪を背負ったまま下山することは、狂気の沙汰と呼ぶにふさわしい。
「なぜだ! なぜ貴様は、賢明を捨てる! 命をないがしろにする!」
「分からないかい? それとも、分かりたくないのかな?」
「貴様は己の命だけではない、小娘の命をも捨てようとしておるのだぞ! それだけではない。貴様らが死ねば、耕平たちを始め、多くの人間の心を殺すことになるのだぞ!」
「うん。きっと最善の手は、のらりくらりとしろ様をかわして、美雪の体力が回復するのを待つことなんだろうね」
「分かっておるではないか!」
「でも、そんなことは、僕も、美雪も、しろ様も望まない」
「施しは受けない。私は十和田の女だ」
「死ねば、十和田も何もなかろうが!」
「母様はまだ若い。まだまだ産める。十和田は滅びない。これからも多紙の町を護っていける」
「バカなっ!」
しろ様が吐き捨てた。
「だから、僕たちは行くよ」
「助けぬぞ」
「うん?」
「もはや貴様らなど、死のうが生きようが知ったことか。勝手に飛び出して、勝手に凍り付いて、勝手にくたばるがいい」
「分かってる」
僕は一歩を踏み出す。
「本当だぞ! 本当に見捨ててしまうのだからな!」
ぽろぽろ、ぽろぽろ
しろ様の涙が、床に吸い込まれていく。
「しろ」
僕は戸口で振り返る。
強制されたからではない、僕は初めて自分の意志で、慈しみを込めて『しろ』と呼んだ。
「っ」
しろが、泣き止む。
「また今度」
僕は、戸口を塞いでいた雪壁を蹴崩し、暖かい神様の住処から、吹雪の中に踏み出した。
「ばぁかぁ~」
鼻水混じりの泣き声を背に、僕らは町を目指す。
―――きっと。
「この愚かしい、僕らをどうしようないところまで行き着かせるものはー――」
「愛だ」
美雪が背中で答えた。
「うん」
分かりきったことだ。自覚はある。
たぶん、しろも気づいているに違いない。
ゴォォォー
吹雪は止む気配を見せない。
手袋をしていても、僕の指はほとんど凍りついているに等しい。崖下からの突風が這い登ってくるたびに、僕らはなぎ倒されそうになる。
「帰ったら何がしたい?」
「お風呂に入りたい。すごく熱いやつ」
「うむ、風呂は良い。人類の生み出した文化の極みだ」
「美雪の家のヒノキ風呂は良かった」
「そうか。ならば、これから我が家に来るといい。何、気兼ねするな。いずれ君の持ち物となる家だ」
「背中は流さなくてもいいからね」
「む。もしかして、私が君を襲うとでも考えているのか?」
「違うの?」
「当たりだ」
「ヒットポイントを回復する場所で消耗するのは、どうかと思うんですよ、僕は」
「ひっとぽいんと? エッチなポイントのことか?」
「どうしてそうなりますか!」
吹雪の中を雪中行軍する僕らはトチ狂るっている。だから、相応の意味のない会話を続ける。
それが、どれだけ続いたのか。
どれだけ歩いたのか。
体感では数時間。だけど、時間なんてものは気持ちの持ちようによって、いくらでも伸び縮みするものだ。きっとびっくりするくらい、ほんの少ししか歩いていないのだろう。
それでも、僕は歩みを止めない。
一度でも足を止めてしまえば、そのまま力尽きることは明白だ。吐息は、白く煙る前に凍り付いてしまいそう。
「寒くない?」
「君が暖かい」
何度も同じやりとりを繰り返す。
繰り返すたびに、美雪の声が、だんだんと弱々しくなっていく。
「ねえ、美雪」
僕の腕も足も、とっくに限界を超えている。
「きっと、僕らは死ぬだろうね」
サクッ
右足が前に踏み出される。
視界は数メートル先も見通せない。
身体も冷え切って、自分のものとは思えない。
それでも、僕たちの意識は繋がっている。
「美雪は、後悔している?」
「何を?」
「しろのところに残っていれば、死ななかったってこと」
「君は心底愚かだ」
「悪かったね」
「この瞬間ほど、私が満ち足りているときはない」
「なら、もう死んだとしても構わない?」
「愚かな上に、察しまで悪いのか」
左足の感覚が麻痺し、上手く前に進まない。
「私の欲はとても強い。君をしゃぶりつくすまでは満足するつもりはない」
「そうですか、あぁそうですか」
「手始めにややこだ。今回もまた、うやむやになってしまったからな」
「山を下りれたら考えるよ」
「そんなに、十和田の苗字になるのが嫌なのか?」
「不都合あったら、義父のペンネームの苗字にでも変えるよ。山岡とかどうだろう」
「普通は出来ない話だ。ということは、君の許諾を得たということだな」
僕は否定しなかった。
「ふふっ」
予想外にも、それ以上の追求はなかった。
その代わり、ぽつりと、美雪がつぶやいた。
「風が止んだ・・・」
僕は、周囲を見渡す。
美雪の言うとおり、風は止んでいた。気味が悪くなるほど、風が凪いでいる。
凍傷で手足の感覚を失っている僕は、吹雪が止んだことに気が付かなかった。
僕に感じられるのは、自分の吐息の熱と、美雪の重みだけだ。たったそれだけ。それで全部。
「もう、年は明けてしまったな」
「だろうね」
「あけましておめでとうございます」
「うん」
「なんだ、その返事は」
「うん」
「柾木?」
「うん」
分厚い雪雲の一部が、ほんのりと茜色を帯びて明るくなってきた。夜明けだ。
でも―――
ドサッ
僕は、顔から雪に倒れこむ。
背負われていた美雪も、そのまま僕の背中に覆いかぶさるように動けない。
「柾木」
美雪の声が、耳元で温かい。
倒れこんだ衝撃や、痛みなんてものは、よく分からない。
ひたすらに眠く、心地よい。
「私たちは死ぬのか」
「うん」
「最後に一つだけ答えて欲しい」
「うん」
「私のことが好きか?」
「たぶん」
「断定はしてくれないのだな」
「だって、ここで言い切ったら、なんだか流されただけみたいじゃないか」
「だが、次に聞けそうにもないのだから、はっきりと言ってくれないと困る」
「そっか、弱ったな・・・」
そう答えながらも、僕の意識は深遠に堕ちていく。まぶたは既に閉じている。
「柾木、柾木―――」
僕を呼ぶ、美雪の声も遠くなっていった。
はぁ・・・
小さな吐息を最後に、僕の意識は途切れた。