「―――飲もう」
「乾杯」
「貴様、この娘は人体の柔軟性の限界に挑戦しておるのか?」
ちんっ、と耕平とコップを合わせて乾杯する。もちろん、しろ様の発言は流した。
「どうして同じ乾杯でも、男同士だと情けなくなるんだろうな」
日本酒で満たされていたはずの耕平のコップは、あっという間に空になった。石油ストーブの前に置かれた二リットルの紙パックをひったくると、コップに波々と注ぎなおす。
酒は、いわゆる三倍増醸酒という分類で、醸造した日本酒に、水とアルコールと添加物を足した清酒。ようは安酒だ。銘柄はあえて言わない。
「僕らは秋山好古のようにはなれないさ」
「誰だそれ?」
「坂の上の雲。陸軍大将。日露戦争の英雄」
「あぁ。うちの教師ども、バリバリの全共闘世代だでよ。日教組で38。そりゃ習わねぇばよ」
「38って、遠まわしな・・・。素直に『左派』って言えばいいじゃないか」
「じゃぁ、349」
「左翼かよ」
適度に文句を加えながら、僕も一気にコップの中身を空にする。冷や酒だが、飲めばとりあえず身体が温まる算段だ。
汚れ放題な耕平の部屋。床に直接座り込み、僕たちは、部屋が暖まらないうちに飲み始めている。
酒は強くない。東京にいたころは、正月くらいしか飲んだことがない。けれど・・・
「飲まないと凍え死んじまうでね」
「暖房は?」
耕平の机、その横に取り付けられている水銀温度計は、零下をわずかに超えたところだ。
つけたばかりの石油ストーブは、赤々と反射板を照らすが、部屋が暖まるまでは、いま少し時間がかかりそうだった。
「これくらいが、ちょうど良い」
耕平の背中に、低い声。床に寝そべったしろ様が、エロ雑誌のページをめくりながら声をかけた。
「暑いのは、ワシが嫌いなのだ」
エロ雑誌を食い入るように見たまま、しろ様が言う。寝そべったまま、足をバタバタと動かしたのは、抗議の印だろうか?
業務用のアイスクリームボックスを抱きしめるようにして、大振りのスプーンで口に運ぶ。食べているアイスクリームは、輸入品のハーゲンダッツと言う高級品だ。
ちなみに、タカナシ乳業が、世界で三番目のハーゲンダッツ生産工場として稼動するのは、七年後の話である。今思えば、しろ様は流行の最先端を行っていたわけだ。
「冷たいモノ食べてるじゃないですか」
「人間が神に捧げものをするのは当然じゃ」
「はぁー」
耕平と目配せすると、自然とため息が出た。
「しろ様は、やっぱ暑いと溶けるの?」
「ワシを雪女ごときと一緒にするではない。いくら暑くなっても死にはせぬよ」
エロ雑誌から眼を離し、こちらを振り返る。
「貴様ら人間が、ワシを雪にまつわる神だと信じたため、暑さが苦手になったのだ。ワシを奉じる社を見るがよい。収穫の神、多産の神、戦の神。人間が望むならば、なんでもござれだ」
「あぁ、そういえば・・・」
しろ様の社に祈願された願いは、どれもこれも統一感がない。
「まぁ。一番得意なのは豊穣の神じゃな。西洋では『麦』の化身として、わっちを崇めておるが、ここでは『米』じゃな」
なぜかしろ様は、自分のことを『わっち』と廓言葉で言い表すと、クックックッと小さく笑った。
「ほれ、ワシは狼じゃ。多紙の狼じゃ」
「あっ!」
僕は気がついた。
「狼とは、大神。そして多神。そこから多紙の地名となった。でも多紙(おおかみ)は、多紙(たがみ)とも読める。転じて田神。田んぼの神、豊穣の神様か」
「そういうことじゃ」
「そんなに、俺たちの影響を受けるのか?」
神様なのにという、耕平の問いはもっともだ。
「今はな・・・」
しろ様は、少し寂しそうに、『今は』と答えた。
では・・・
「昔は?」
「人間よ。この娘は、何故もったいないことをしておる? 腹でも減っておるのか?」
しろ様は、僕の問いを避けるように、手にしていたエロ雑誌を耕平に突き出した。
「あっ、しろ様、乱暴に扱わないでほしいでな」
耕平が、哀れな声を上げる。
「ビニ本だろ?」
「違う。裏本だっ!」
耕平は、力強く訂正した。
しろ様が広げたページは、素人っぽい女性が、男性のナニを咥えているものだ。もちろん、無修正である。
ビニ本にせよ、裏本にせよ、多紙町のような田舎では、手に入れるのは困難を極める一品である。耕平のエロへの執念を見た気がする。別に褒めてないけど。
「で、なぜじゃ?」
「それをしてもらうと、嬉しいと言いますかですね。特に男性が」
「耕平の性癖は、理解に苦しむ」
「こんな時だけ、名前を呼ばんでください・・・。というか、俺の性癖はまともだでよ」
そこで耕平は、俺を指差した。耕平め、僕へと話題を振るつもりだな。汚ぇー。
「こいつの方が特殊だでよって!」
「聞かせるが良い」
しろ様も、ノリノリで身を起こした。
「着物の女の子オンリー本『着物を脱がさないで』とか持ってるんですよ、この男は。美雪に影響されて。なんでも、重ね着を脱がせる過程が興奮するって証言も取れてますさ」
「柾木も、なかなかに厄介な病気を抱えておるのだな。しかし、安心しろ。ワシは神であるから、平等に目をかけてやる。悲しむことはない」
「性癖は病気じゃありません」
それに、着物だけじゃなくて、体操服とブルマの組み合わせも大好きです。
「で、柾木はどうなのだ? コレをされると嬉しいのかえ?」
聞こえなかったふりをする。耕平は涼しい顔だ。僕を巻き込んで、すっかり満足しやがったな。
悔しいので、冷や酒をもう一杯あおる。アルコールは身体を温める効果があるが、頭にも効く。石油ストーブが部屋を暖め始めたおかげもあり、ボーっとしてくる。
僕の返事がないことに不満を持ったのか、しろ様が、写真の片隅にあるエロ小説を音読し始めた。
女の子のしろ様が、甘い声でエロ小説を音読する。しかも、困ったことに上手い。すごく無駄なスキルだ。
僕らは、なんともいたたまれなくなる。
『まだ産毛も生えてこないの』
『変かな?』
『そんなにじろじろ見ないで』
『ダメ、お兄ちゃん!』
しろ様は、読むのを一度止めた。
「耕平よ。お前は妹に興奮するのか?」
神様は、次のページをめくって音読を再開した。
「乾杯」
あまりにも耕平が哀れで、僕はコップを合わせた。耕平は、死にそうな顔で乾杯に応じる。
『お兄ちゃん、お兄ちゃん!』
『あっ、いや。そこ』
背後では、しろ様の熱演が続いている。時々読むのを止めては「この娘と男は血縁ではないのに、どうして兄妹と呼び合うのだ」などと、耕平に質問を浴びせる。
律儀に答える耕平の顔は、すでに土左衛門のようだ。バカだなぁ。適当に流せば良いのに。
「飲まずにやってけるかぁ!」
耕平が、泣きながら酒を注ぐので、付き合ってやることにした。だって、かわいそうじゃん。
二リットルの紙パック酒も空になり、カップ酒に切り替わったころ、しろ様が放り投げたエロ本の一ページが、僕の心を捕らえた。
しろ様は、エロ本に飽きて、股を広げてしっぽの毛づくろいに勤しんでいた。
「美雪に似てる」
僕は、ポツリと言葉を漏らす。写真の女の子は、エプロンドレス姿でこちら側に微笑んでいる。
「酔ってるのか?」
「美雪に似てる・・・」
繰り返す僕に、ザルの耕平は苦笑した。
「着てくれって言えば、柾木だけなら着てくれるでねーの」
「美雪は、洋服が嫌いだ」
写真の少女の頭を撫でる。
「それに悪いだろう」
「悪いって?」
僕は頷いた。
周囲が理解していない、僕と美雪の関係。
それでいて、僕と美雪だけが正しく理解している二人の関係。
僕と美雪の間に横たわる線引き。
だから僕は、美雪の求めには応じられない。
だから僕は、美雪の求めに・・・
だから僕は・・・
だから・・・
「問題は、僕が美雪を愛していないってことなんだ―――」
「―――私は、柾木に愛されていない」
飲み干した徳利の数が、十本を超えた。いつもより飲むペースが速い。でも、この悩みを打ち明けるには、必要な量だ。
「聞いているのか?」
「考えさせてよ」
いきなりの爆弾発言に、瑞穂は顔をゆがめた。
顔が真っ赤になった私と違って、同じ量を飲んでるはずの瑞穂は涼しげですらある。こういうところも兄妹そっくりだ。もっとも、私も顔に出るだけで、意識ははっきりしている。
時計の針は、午後七時を回っていた。
時間と共に入り始めたお客をさばくため、早苗は店の手伝いに回っている。
「あわわー」とか、
「はうー」だの
奇妙な声を上げながら店を駆け回る姿は、ちっとも忙しそうに見えないから不思議だ。
「美雪はそれでいいの? 好きじゃないのに付き合ってるなんて、許せるの?」
わたしは嫌だと付け加えると、瑞穂はお猪口の中身を飲み干した。
「問題は、何があっても柾木への愛が揺るがないということなんだ」
「なんで? 美雪らしいっちゃ、美雪らしいけど」
「私もそれは考えた。なぜ、柾木なのだろうかと。なぜ、柾木でなくてはならないのかと」
私も、お猪口の中身を飲み干した。すぐに瑞穂が、自分の分も合わせて注ぎ足してくれた。
「初めてだったのだ。何もかもが」
私は、柾木との出会いを思い出していた。職員室の扉でぶつかった、あの瞬間を。
「出会いと言う出会いではない。ほんの少し、触れ合った。ただそれだけだ」
「本当に?」
「そう、それだけなのに、私の身体に電気が走った。稲光に打たれたのだ。体中を駆け巡り、鼓動は脈打ち。血という血が熱を持ち、全身全霊が柾木を求めた」
空になった徳利を振り、早苗を呼んで追加を頼む。
「気がつけば私は、クビキリ丸を柾木の喉元に突き出し、脅すように告白をしていた」
「一目惚れにしては激しいわね」
「あの感情は、運命としか言い表せない」
瑞穂が早苗から追加の徳利を受け取り、私のお猪口に注いでくれた。
「どうすればいい?」
そのお猪口を受け取ると、私は空いている手で顔を覆った。自分ではどうすることも出来ない。前髪が、指の隙間からこぼれ落ちた。
「・・・」
「・・・」
微かな沈黙。
「あー、瑞穂ちゃんが、泣かせたー。いーけないんだ、いけないんだ。先生に言ったろ」
般若柄のエプロンをつけたまま、早苗が席に戻ってきた。店内を見回すと、注文は一段落したらしい。
「言えばいいじゃない。十和田の女を泣かせたなんて、誰も信じないもん」
「そりゃそうだね」
「だいたい、泣かせてるのって、柾木さんじゃないのさ! 考えてみれば二股じゃないよ! もういいよ、ちょん切っちゃえば!」
「普通ならそうだけどねー」
早苗はウーロン茶に切り替えている。小料理屋の娘が一番酒に弱い。
「普通だと、雪っちじゃなくなるからねー」
むくっと、身体を起こし、私は一息でお猪口を空にする。少し口を尖らせて拗ねて見せる。
早苗は私をよく理解している。私以上に。でも、けっして答えを提示することはない。自分で解決しろと促す。まったくドSなんだから。
「柾木を罰しても、許しても、何も変えられない」
「柾木くんの気持ちを、美雪に向けるしかないんだよね」
瑞穂は、『ごり』のから揚げを頭から口にした。ごりは地元で良く獲れる淡水魚で、なかなか愛嬌のある容姿をしている。そのごりのから揚げが、歯並びのよい瑞穂の口に消えていく。
「私の気持ちは一方的だ。柾木には何一つ届かない。どうして―――」
「―――わざとなんだ」
毛づくろいの終わったしろ様は、満足したように床で丸くなって寝ていた。
暖かいのは嫌だと言いながら、ストーブで暖められた室温に気持ち良くなったのだろう。
部屋の片隅には、食べ終えたハーゲンダッツの空箱が転がっている。
「彼女を―――」
僕は、しろ様の寝顔を見つめた。たぶん、彼女を見つめる瞳は、限りなく優しかったはずだ。
「―――受け入れたとき、心のどこかで均衡を求めたんだ。非現実的に対する現実。しろ様と対になる存在を」
「お前は、それだけのために、美雪と付き合うことにしたのか?」
「現実離れしたものが、僕は好きなんだ」
「美雪も、十分に現実離れしとるがな。なんせ、十和田の女だ」
「少なくとも、美雪は人間だし、それに、十和田の女ってのは知らなかったんだ」
「けったくそ悪いが。それは置いとくでよ」
耕平は、素直に感情を表した。とてもいい奴だ。こいつを友人としたことは、自分で褒めていい。
「んで、そのシーソーは、釣り合いが取れてんのか?」
「よくわからない。でも、この状況は悪くない」
「ってことは、しろ様が好きなのか?」
「好きではないよ」
「わけわからん」
耕平が匙を投げた。
そらそうだ。自分自身でも分からないんだから、しょうがない。
僕は、コップに口を付ける。
ぐるぐると、思考が同じ場所を回っては、バターのように溶けていく。
好きではない。嫌いではない。僕らは接続された関係のみによって成立している。
何をしている?
何を望む?
何を?
何を?
「結局、お前は・・・」
耕平が、憐眉の眼で僕を見た。
「大人になりたくないだけだ」
「セックスしたら大人と言うのは、安易だと思うけど」
「ちげーよ。ピーターパンに憧れてるんだ。永遠の子供。いや、それも違うな」
耕平は、考える素振りを見せた。
「お前は、『停滞』してたいんだ。身体も心も成長しない。外のことも見たくないし、聞きたくない。昏睡状態で夢を見たい」
「なんだそれ。そんな病気は聞いたことない。あったとしたら最優先事項で美人の宇宙人が治しにくるね」
言わんとすることは分かるが、認めるわけにはいかなかった。大人の事情も含めてね。
「なぁ」
親指を立てたまま、耕平が握り拳を突き出した。
「なんだ、そのペコちゃんみたいな笑顔は?」
「もういいから、とにかく美雪とやっちゃえ。そんでもって、学生結婚と洒落込んじまいな」
にゅっ、と親指を人差し指と中指の間に突っ込む。
僕、赤面。いや~ん。
「照れるような人間かっての。まぁ、多分、コレで解決するでよ」
「バランスを崩せと?」
「お前の言う均衡ってのが、トチ狂ってんだよ」
「今のところ理由がない」
耕平は、不満そうに口元を歪めた。
「俺は、お前を支持できん―――」
「―――私は、雪っちを支持するよ」
早苗が、ごりの佃煮を頬張りながら、私の背中を押してくれた。
「んー、冷静なタイプっぽいけど、柾木くんはすぐにボロを出すからねー。押し切っちゃうのは、いいと思うよ」
「既成事実ね」
瑞穂は、うれしそうに眼を輝かせる。
「しかし、ややこが欲しいとまで迫ったが、今回も逃げられてしまった」
私は、早苗の前にある大皿から、ごりの佃煮を自分の小鉢に移した。『ごり』のブサかわいい顔から想像がつきにくいが、味はとても上品な魚だ。私の好物である。
「常識的に考えて、高校生で父親になりたくなかっただけじゃないの?」
「それは違う」
「違うねー」
瑞穂の感想に、私と早苗は即答した。
「逆に雪っちは、このタイミングだから切り出したんだよー」
コクリ
私は頷いた。
「卒業してからでは、現実的過ぎる。あれは、しろ様のような現実的ではないものを好む」
「策を打ったってこと?」
もちろん、純粋に女として、愛する男の子供が欲しいと言う気持ちもある。
「ぎゃー。柾木さんって、ただの妄想癖じゃない」
「それも違う。柾木は、現実的ではないものを好むくせに、いつだって現実に縛られている。母の国に行けない、折口信夫のように」
「美雪の例えは、いつも難しすぎる」
瑞穂は、民族学の巨頭を一蹴した。折口信夫。幼き日のトラウマから、自分には本当の母がいる、海の向こうに母の国があると妄想し、それを確かめるために民俗学を選んだ男。
ならば柾木は、なんの原因があって現実的でないものに憧れるのか?
そして私は、なんの原因があって柾木にここまで恋焦がれるのだろうか?
心の深遠から、身体の細胞一つ一つから、私を成す本質的なものが、私の思考を支配する。
「雪っちて、たまに眼が赤くなるねー」
「やっ、考えすぎて充血してしまったか?」
「違う違う。瞳の色。緋色かな。綺麗な色だよー」
懐から手鏡を出して確かめるが、黒々とした日本人形のような瞳が映っているだけだ。
「光の加減じゃない?」
瑞穂が、ごりのから揚げに箸を伸ばしながら答えた。
たぶん、そうだと思う。
でも、そんなことより・・・
ごりのから揚げ。最後の一尾だったのに、瑞穂に獲られてしまった。ちょっと悔しい。