新訳 収穫の十二月 [完結]   作:井上そんこう

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第二章 定植の季節
1 アローン・アゲイン


 部屋にあった安酒を飲み干し、うつらうつらしている耕平に声をかけ、耕平の家を出た。

 玄関口でおばさんに出会ったので、耕平に毛布をかけてやって欲しいと頼んでおいたが・・・

「あっ、エロ本、出しっぱなしだ」

 まぁ、気にすることでもないだろう。

 って思ってら、しばらくして、耕平の悲鳴が寒空に響き渡った。

 ぎゃぁーっ!

 後ろを振り向くと、耕平の家からはけっこう離れている。それなのに、この悲鳴の音量・・・

「すまん、耕平」

 今ごろ、耕平の母親によって『妹』シリーズを始めとした厳選コレクションを没収されているに違いなかった。

 あぁ、合掌。両手を合わせておく。

 

 

 ぎゅっ

 音を立てて、踏み出した足が雪に沈む。

「まいったな」

 耕平の予想通り、外は吹雪いていた。

 帰宅時間に合わせて除雪された道も、すでに新雪が降り積もっていた。場所によっては、足を取られそうになる。

「ただでさえ、東京っ子は雪道に慣れてないのに」

 点々と設置された街頭を辿るようにして歩いてゆく。

 僕ら家族は、運輸省の宿舎に住んでいる。北陸自動車道の開通を目指し、父のように出向した役人は多いが、多紙町の宿舎は、ほとんど単身赴任ばかりである。家族連れは、県庁所在地にある宿舎に入り、自由の利く若手(使い勝手のいい下っ端とも言う)が、より現場に近い多紙の宿舎に入ることが多い。

 父も、それなりの役職に就いているので、本来ならば県庁所在地の宿舎に入るところだが、母の生まれが多紙町ということで、この不自由な片田舎に引っ越してきたのだ。

「待たぬか、不敬者」

「うわっ!」

 腰の辺りを掴まれて、あっけなくバランスを崩して転倒した。情けなく、大の字に寝そべるが痛みはない。新雪が衝撃を吸収してくれたみたいだ。

 大の字に倒れたまま、雪の舞い散る夜空を見上げていると、しろ様が覗き込んできた。

「何を呆けておるか」

 僕の頭を挟むように、両足を開いて立つしろ様。貫頭衣によく似た衣装は、両脇にスリットが大きく開かれていて、その中身がよく見えた。

『しろ様も、パンツ穿くんだ・・・』

 誰の入れ知恵か知らないが、白い小さな三角形はステキだ。

「どうして、ワシの目覚めを待たなかった」

 僕の感慨をよそに、神様はご立腹の様子だ。

「しととねの朝、女が独り目を覚ます寂しさを理解しておらんな」

「和歌でも残しておけばよかったかな」

「奈良や平安の世では、人間はそういうこともしておったな」

 僕は立ち上がると、衣服に付いた雪を払い落とす。

「それに、社か神棚さえあれば、どこからでも山に帰れるでしょ?」

「社を『どこでもドア』呼ばわりするでない」

「でも、出来るんでしょ?」

「まぁな」

 目の前のしろ様は、ちょっとスネて見せる。その表情はかわいらしい。

 美少女で、寂しがり屋で、ハーゲンダッツが好物で、耕平の性癖に首をかしげる。

 気を抜くと、しろ様がこの多紙町を守護する神様だという事実を忘れそうになる。

「貴様は意地悪だ」

 そう言うと、しろ様は、傍らに控えていた巨大な白狼、シロウに飛び乗った。

「出来ることと、望むことは違うであろうよ」

 しろ様は、シロウの背で少し身を乗り出すように、もう一人分のスペースを確保した。

「乗るがよい」

 どうやら、家まで送ってくれるらしい。

 僕は、しろ様を抱くように、シロウの背にまたがった。

 ワオォォォン・・・

 シロウが一吼えすると、雪の中を走り出した。足早ほどの速度で、僕らを運ぶ。

「ワシは・・・、柾木と一緒にいたい」

「っ・・・」

 しろ様を抱く腕が、言葉に反応して強くなる。

 抱きしめたしろ様のうなじが近い。

「貴様は、意地悪な上にずるい奴だ」

 しろ様のうなじはピンク色に染まり、僕の手にしろ様の小さな手が重なる。

「ワシが望むことを、いつだって気まぐれで押し付けてくる」

「何が?」

「―――もっと、きつく抱くがよい」

 僕は言葉に従う。しろ様を抱くこの胸は、不思議な温かさに満たされていく。

 これは、好きとか愛しているという問題ではない。もっと、別のものだ。

 血という血が、細胞という細胞が、全身全霊が、しろ様を迎え入れろと、しろ様に還れと粟立つ。

 僕は、さらに強くしろ様を抱きしめた。

「柾木・・・、大きい」

「マジですかっ!」

「な、何をそのように喜ぶ?」

「そっ、それはもう、男の子にとってサイズの大小は、強さそのものな訳で」

「大きさが?」

「大きさが!」

「確かに。男であれば、大きさは強さに結びつくからな。分からぬでもない」

「持久力はあります!」

 遅漏気味ともいう。

「うむ、すばらしい」

「瞬発力も自信があります!」

 寝っころがってオナニーしたとき、垂直に一メートル五十センチ飛んだときは、自分でもビビったね。不倒の記録だ。

「連戦にも耐えられます!」

「おぉっ!」

 夏休み、あまりにも暇だったので、一日何回オナニーできるか試したときには、十九回を記録した。これも、たぶん大記録だ。

 次の日、せり上がってくる睾丸と、真っ赤に擦り切れたナニの痛さは覚悟だが、チャレンジャーを募集したいね。

 先行者としてのアドバイスとして、湯船の中でオナニーすると痛くないぞ☆

「そうか、ワシは柾木を見くびっておった。それほどまでの武人だとは」

「武人?」

 そこまで言って、気が付きました。

「あぁ・・・、身体の大きさでしたか、そうでしたか・・・」

 敗北の涙が止まりません。

 るー、るるるーるー、るーるるー。

「何を勘違いしておった・・・。なるほどのぉ」

 にやり。しろ様の口元が歪んだ。

 嫌な予感しかしない。

 対処しようとした。

「どれどれ」

 ぎゅむ

 遠慮のない音がした。

「ぃやー―――――っ!」

 絹を裂く乙女級な僕の悲鳴は、雪の消音効果をものともしなかった。

「な、ななななななにをぅ!」

「おなご版ボインタッチと思うがいい」

「触るのは上でしょ!」

「男も、乳首で感じるらしいの」

「やーめぇーてぇー」

「こういう時は『ほーら、触ってごらん』と言うもんじゃ。ほれ、言うてみせい」

「攻守逆だから!」

「ワシの経験からすると、他の男と比べて貴様の大きさは―――」

「お慈悲をっ!」

 完璧な敗北宣言だった。

「お母さん、僕汚されちゃった」

 両手がしろ様の腰に回っていなければ、顔を覆って泣き伏しているところだ。

「男が泣くものではない」

「もう、お婿に行けない」

「鬱陶しい」

「どうして、セクハラした本人が偉そうなんだか」

「神が人間にひれ伏すものかよ」

「そうでしたねぇー、そうでしたねぇー」

「いと可愛げであったぞ」

「はぅ!」

 心の傷がまた一つ。

「好きなだけワシの背中で泣くがいい。そうして男は、また一つ大きくなるものだ」

「綺麗にまとめられてもなー・・・」

 そこで、僕は言葉を切った。しろ様の目が、何か見透かしたように涼しげだったからだ。

「・・・・」

 てっきり、ただの悪戯だとばかり思っていたが、それは違うようだ。、

「しろ様は僕をズルイって言うけど、しろ様もズルイな」

「狡知と言うがよい。狼は知恵の神でもあるのじゃ」

「言葉だけ上等にしたって」

「悩んでおったからな」

「僕が?」

「言いたくないなら、それも良かろう。時間は腐るほどある。待つのは慣れた身じゃ」

 何故だろう。その一言で心が軽くなり、しろ様に話す気になった。話してしまえば、より事態が混乱するのは、分かりきったことなのに・・・

「美雪のことなんだ」

「やはり、あの無愛想な娘か」

 小さな敵意を含んだ評価に、僕は苦笑いする。

「ややこを造りたいって」

「んむっ?」

 神様にも予想外だったらしい。しろ様は変なうなり声を漏らした。

「美雪らしいけどね」

「言うてみせい」

「これでお終い。それで、さっきは耕平に説教されてたんだ」

「で、子作りするつもりかえ?」

「まさか」

 僕の答えは用意されたものだ。

「何故じゃ?」

 でも、しろ様は本質を理解している。

「男であれば、見境なくさかったりするものだろうに」

「なんですか、その断定っぷりは。そんなに飢えてるように見えますか」

「本当の飢えを知らん者が、軽々しく『飢え』などと言うな」

 しろ様は、『飢え』という言葉に強く反応した。軽口をたたいているようで、その言葉は強くて重い叱責だ。

 僕の知らない、しろ様の一面が見えた気がした。

「第一、貴様に人並みの性根など期待しておらぬ」

「失礼ですね」

 僕は答えながらも、しろ様はやはり見抜いていることを悟った。問題は、常に僕の内にある。

「ならば、ワシと子をなしてみるか?」

「まさか」

「あの小娘よりは、貴様を上手く導けよう」

「経験豊富みたいな言い方だ」

「百年に一人を多いと呼ぶならな」

 角度のせいで、しろ様の表情が分からない。

 だけど、その笑い声は哀しそう。

 しろ様がシロウの首筋を軽く叩くと、巨大な白狼は、歩む足を止める。

「降りるがよい」

 同時に、僕をシロウの背中から降ろさせると、自身も雪上に降り立った。

 二人が降りるのを確認すると、シロウは一度だけ身体を震わせ、僕らをその場に置き去り、駆け去っていった。

「えっ?」

「人払いをしたのさ」

 シロウが走り去った方向へ眼をこらす。

 白く煙る雪原の向こうに、多紙山の黒い輪郭だけがはっきりと浮かんでいる。

 多紙。多くの神が住まった場所・・・

 多紙。狼を使いとするヤマノカミが、今も息づく場所・・・

「どうした、柾木?」

「シロウは、人?」

「シロウは、ワシの使いではないぞ」

「使役してるんじゃ?」

「ない。シロウは、ワシの一部が別の形を成したものだ」

 予想を超える答えが返ってきた。僕の驚いた顔が愉快しかったのか、しろ様は胸を張った。

「どうして?」

「いくつかの意味を含んでおるな」

 僕は頷いた。

「使いなどはいらぬ。欲したのは単独たる命よ。シロウは五百年ほど前から、ずっとワシの力を借りずに独りで生きておる」

「無意味な」

 神の力は、集約されてこそ意味を成す。

 神とは全能だからだ。

 全能を貶める理由が、僕には思いつかない。

「さびしいのだ・・・」

「えっ?」

「いけないのか?」

 しろ様の顔に笑みが消えていた。

 問うてくるまなざしは神のもので。

 問われた言葉は少女のものだ。

「少し失望した」

 彼女は、神である自分を貶めた。

 僕の理解できる範疇に落ちてきた。

 完全性を汚す行為。それは、僕を惹きつけるものではない。

 初めてこの土地にやって来た日。神にして少女の姿をしたしろ様は、僕をどうしようもなく打ちのめした。

 だが、今のしろ様は・・・

「貴様ら人間の言葉を借りるならば、ワシは不老不死と言えよう」

「そこは、神様らしい」

「無論、完全ではない。情報によって支えられたものでしかない」

「情報?」

 観測者のことだろうか? 

 僕は、『我思う、ゆえに我あり』というデカルト的思考よりも、シュレディンガーの猫を思い描いていた。無から有が生まれる量子の世界は、神の世界とも言えるしね。

「多紙の山がワシだ。地の底を巡る地脈がワシだ。多紙の土地に住まう生者がワシだ。全てを一討ちにせぬ限り、決して滅びることはない」

 あくまでも凡神的な話だ。僕は先を促した。

「ワシを滅ぼす。今であれば不可能ではないかもしれん。いや、そうであろうよ」

「核兵器とか?」

 自分で聞いておいて、その稚拙な質問を恥じた。

 うん。いくらなんでも『核兵器とか?』はないよな。恥ずかしすぎる。

「それは分からん。だが、手段があっても、ワシを滅ぼす動機がない。ワシが生きていようと死んでいようと、何ら世界は変わらぬ。そうこうしているうちに、滅ぼすには割の合わぬワシは、忘れ去られたように放置され、世界の片隅で生は継続される」

「しろ様は、多紙町のみんなに敬われているじゃないか」

「世界に取り残された、小さな箱庭での話しだ。まぁ、不満ではないがな」

 しろ様は、自嘲気味に小さく笑った。

「人々は、敬慕や崇拝、ときには恐怖。さまざま感情をワシに差し向ける。ワシは、その一つ一つを愛しく思う。だが、結局いつも同じ結果が待っておる」

「よく分からない」

「ワシは生き続け、誰もが死ぬ」

 しろ様だけが、取り残される。

「だから寂しいと?」

「そうだ」

 だから、しろ様と同じ時間を歩める存在、シロウを生み出したのか・・・

 でも、そうすると・・・

「五百年より前は、感じなかった?」

 しろ様は、僕の胸に額を押し付けてきた。見下ろすしろ様の両肩は、驚くほど小さい。

 だけど、僕の両肩は垂れたままだ。僕の腕は、今のしろ様を抱き寄せることは出来ない。

「何があったの?」

「いずれにせよ、ワシは金枝の外におるのさ」

「きんし?」

 その発音に、どんな漢字が当てはまるか即座に理解できず、しろ様に聞き返した。

「ナイトに叙任された、西欧の人類学者の本さ」

「あぁ」

 フレイザーの『金枝篇』のことを指しているのだ。正直、しろ様の博学に驚いた。たぶん、耕平よりも頭がいいんじゃないのか?

「どうしてそれを?」

「よくぞ聞いた」

 ふふんと、胸を張るしろ様。

 懐から取り出したソレを突きつけてきた。

「図書館の貸し出しカード?」

「うむ。登録してもろうた」

 突き出されたカードの名前欄には、『しろ様』と書かれている。発効日は、二十年近く前。すぐ下には『ずっと有効』と手書きされていた。

 きっと、わがままし放題のしろ様に、司書さんが苦笑いをしつつ書き足したのだろう。その光景を思い描くと、僕は眼を細めて笑った。

「むむ。なんか気に入らぬ笑いだぞ」

「何も。それで金枝の外とは?」

「人の形をした神はな、速やかに死なねばならぬのだよ」

 突き出されたカードに隠れてしまい、しろ様の眼の輝きが濁ったのを見逃してしまった。

「神殺しと銘打ち、数百の伝承をもって、その本は語っておる。神の死は珍しくないと。正鵠を得ておるではないか」

「でも、その本に書かれた神は、あくまでも比喩でしかない」

「ほぅ」

 驚いた顔で、しろ様は僕の顔を見上げた。もしかして、バカだと思われてたのか? 少しショックだ。金枝篇ぐらい読んでますって。

 金枝篇とは、神話的背景に、王制の交代といった権力の移行を見出した研究書だ。

「たしかに、特権を振るう神の代行を名乗る者。もしくは、信仰を一身に集め、完全性の象徴を名乗る者。それらの比喩として、神が使われているにすぎん。じゃがな・・・」

 言葉を切り、しろ様はいたずらめいた笑みを浮かべた。

「幾百の伝承を並べても、ワシのような比喩の外にいる、本物の神を見通すことは出来んのさ」

 死ぬべき古き神が、死ぬことなく生き残っている。

「だから金枝の外なのじゃ」

 しかし、その言葉を額面通りに受け入れられない。金枝篇をたとえ話に出した段階で、しろ様もそれを分かっているはずだ。

 金枝篇の物語同様、しろ様のセリフは、あくまで比喩にしか過ぎない。

「しろ様の言い様では、シロウを生み出した説明になっていない」

「そのとおりさ。だが、五百年前の話をするには必要であった」

 しろ様が、微かに沈黙した。いったん眼を閉じ、一つ大きく息を吐くと、僕の眼を見据えた。その一連の動作は、語ろうとする話の大きさを物語っていた。

「人を、喰ろうたのよ」

 何かを言おうと思ったが、言葉が詰まった。現実は、常に常識の枠に囚われない。

 しろ様の瞳は、相変わらず濁っていたが、その底辺では、赤い焔が火種を残すように、チロチロと蠢いていた。

「一般論など聞きたくないぞ」

「神様に、それは無意味だ」

 享保の大飢饉や、天保の大飢饉には、人肉市が立ち、人肉の売買の証文すら残っている。日本書紀や古事記にも、飢饉の折にそれを臭わすような描写が散見される。

 日本だけじゃない、中国では、古くは韓非子にその調理名の記述が見られるし、清の時代まで『両脚羊(二本足の羊)』と呼ばれ普通に食されていた。実際、関東軍がはじめにやった仕事は、アヘンと人肉食の禁止だ。僕の大好きな小説のひとつである水滸伝にも、その描写は多い。

 ヨーロッパでも、キリスト教がタブー視しているおかげで表立って残っている証拠は少ないが、飢饉のたびに行われていた形跡がある。

 そういえば、一昨年公開された『アンデスの聖餐』というウルグアイ空軍機墜落事故のドキュメンタリー映画も記憶に新しい。B級と思ってたら、意外とまともでビックリした。

 そんなこんなで壊れている僕としては、しろ様が人間を喰らっても、衝撃的ではあるが、理解の範疇を超えることはない。

 でも、不思議に思うこともある。

「神様が食事を必要とする?」

「この世からハーゲンダッツが無くなれば、ワシは死ぬな」

「不老不死はどこに行ったんだか」

 僕たちは、少しだけ噴き出して笑った。

「・・・今のような夜だ」

 しろ様は、多紙山を振り返った。

「山に娘が差し出された。いわゆる生贄じゃな。雪山に放り出され、一人残された娘の命は、消え行くのを待つのみじゃった・・・」

 しろ様は言葉を切った。

「言っとくが、生贄など、ワシが欲したわけではないぞ。だいたい、神が救いを与えたことなどあるまい」

「歴史上では――」

「――そういうものは、ワシらのような手合いがやったことを、人間が勝手に『利益』と解釈したにすぎんさ。貴様ともあろうものが、神に俗世への優しさを求めるのか?」

 否定しないが、期待はしていない。

「それで、その娘をこころみに食べたと?」

「もはや昔のワシが、何を考えておったかは分からぬ。――が、そのようなところだろうよ。何かがワシを惹き付け、反応させ、ワシの牙が娘の柔肌を切り裂いた」

 しろ様が、少女の首筋を食いちぎる光景が脳裏に浮かんだ。赤い瞳に、赤い鮮血。真白な雪原の大地に、狼に似た遠吠えが木霊する。

「そうしてワシは、救いがたい弱点を抱え込むハメとなった」

「弱点?」

「愛だ」

 しろ様は、笑おうとした。でも、出来なかった。

 懐かしさか、あるいは後悔。そういった感情が、顔を歪めさせただけだった。

 おそらく、しろ様は当時のことを忘れていない。でも、僕にはそこに踏み込む資格がない。だから話してくれない。

 やっぱり、しろ様はズルイや・・・

「愛とは偏りだ。この世のすべてを救いがたいものに貶める偏りだ。貴様の言う歴史も示していよう?」

 例示の必要すらない。僕は頷いた。

「かつてワシは単独であった」

 偏っていなかった。

 思想もなかった。

 反応だけがあった。

 その反応は、この世の一切合切をなしえる特権であった。

 神の奇跡と人間は呼び、怖れ、付き従ったのだ。

「しかし――」

 しろ様が空を見上げた。分厚い雲から舞い落ちる雪が途切れることはない。

「今のワシはどうだ? 半身を削ってまで語らう獣を産み出し、ハーゲンダッツの蓋まで舐めまわし、百年ごとに男をくわえ込んでは子を成し、果てには貴様に懸想しておる・・・」

 視線を大地に落とすと、しろ様の拳が硬く握られた。噛み捨てるように言葉を吐き出す。

「救いがたい。まったくもって救いがたい。なお救いがたいことに、ワシはこのような今を喜んでおるのだっ!」

 『許されるものか?』しろ様の眼は、そう問うてくる。

 口元の笑みは引きつっているのに、眼だけは敵に襲いかかるように赤く光っている。

 あぁ、また、あの赤い眼だ。

 喜びと怒り。

 矛盾した感情の両極に、しろ様は立っていた。

 あたかも、量子の重ね合わせのように、同時に立っていた。それは、やはり神の領域だ。

「子供たちは?」

 答えを持っていないから、僕は質問を変えた。

「ワシと違って、この土地に縛られぬからな。大きくなるや外に飛び出していった・・・。最初の子以外はな」

「最初の子?」

「十和田の始祖となった」

「あぁ・・・」

「アレだけは人の身でありながら、ワシ同様にこの土地に縛りつけてしまった。この多紙の土地を豊かにしなければならぬと約束させた。そして、子々孫々、今の代まで使命は引き継がれている」

 納得した。

 多紙町の住人は、十和田家に対して畏怖とも言えるほど心酔している。いくつもの飢饉や戦争や不況。それらを十和田家の支配力で乗り越えてきたからだと思っていた。

 だが、それは違った。いや、間違っていないが説明不足だ。

 十和田家の力の源は、しろ様の『血』だ。十和田家が見せてきた、数々の奇跡的な指導力は、まさしく神の力なのだ。

 十和田家とは、しろ様が否定した『神の世俗への優しさ』の具現であり、多紙の住民にとって『ご利益』そのものなのだ。

「ならば、十和田の人々と、さびしさは共有できなかったのか?」

「人間は世代を数える。いくつもの代を数えるたびに、ワシという存在は、磨り減るように忘れ去られていく。さて、今の代に至っては、自分にワシの血が流れていることすら、知っておるのかも怪しい」

「かなしいね・・・。でも、世代を重ねる意味って、あるはずなんだ」

「柾木は優しいのぉ・・・」

 しろ様の笑顔は、とても苦しそうだ。

「ワシはワシを許さぬ。しかし、同時に好ましくも思っている。つまり、ワシは矛盾を抱えておる」

 神と人との間。白と黒の間。晴れと穢れの間。その端境で、しろ様は揺れ動いている。

「っ!」

 不意に、しろ様の手が僕の手を掴んだ。

 体温が奪われて冷めていく。

 導かれるまま、僕の手はしろ様の頬に触れた。

「貴様がワシに惹かれるのは、神であるワシという比喩にだけであろう」

 呼吸が止まる。

 いくつもの言葉がよぎっては消えていく。

 残った思考の空白が、しろ様の言葉が正鵠を射たことを表す。

 神にして少女。

 人間にして完全。

 端境で揺れ動いているようで、その実、両端に同時に存在する。

 分かったつもりでいたけど、分からなくなった。分からない。分からないけど・・・

 しろ様の頬を包む、手のひらが熱を帯びている。

「あたたかい」

「生きておるからな」

 だから―――

「―――このワシに、価値を感じぬのじゃろう」

「うん」

「貴様にとっては、ワシが『神』という衣を着ているのが重要なのだろうよ。まさに金枝篇でいうところの『王冠』だな。ワシ本人ではない、その周囲を覆う比喩だけが、ワシと共にいる理由であろうよ」

「うん」

「ならばなぜ、あの小娘は貴様を惹きつけられた?」

「初めてだったんだ」

 似たような質問を、耕平から受けたことがある。

「初対面だったのに、あんな真正面から告白されるなんて思いもしなかった。だから・・・」

「いきなりというのであれば、ワシとて同じであろうよ」

「違う・・・、違うはずだ」

 何せ、美雪には理由がない。

「しろ様は神様で、美雪は人間だ」

「ワシの血を引いているがな」

「似たような方法で告白された。でも、美雪はしろ様と違って、動機が見いだせないんだ。恋なんて、理由があって始まるわけではない。そう言われれば、それまでだけど・・・」

「ワシには動機があると?」

「何があるとは特定できない。でも、何かあるはずだ。しろ様は、当たり前のように僕に命じたんだ。それはとても僕を恍惚にさせたれど、僕らが出会ったという事象そのものについても、何か知っている上での告白とすら勘ぐれる」

「賢しいな」

「実際、過去の話もしてくれた。過去の出来事は、一つの出来事に過ぎないかもしれない。でも、ただの点のように見えるけど、他にも話してくれていない点と点を結べば、線となって僕につながっているはずなんだ」

「美雪にも過去はあろう」

「一七歳の少女の人生だよ。どんなに密度の高い人生を送ってきたとしても、しろ様と比べようもない」

 僕は軽くおどけた。

 もちろん、他人にとって他愛もない出来事でも、その人にとって人生を決定付ける事だってある。しょせん、主観の問題だ。

 美雪の過去に、僕らの出会いに必然性を唱える出来事があったておかしくはない。

 しかし、それにしては美雪自身が驚いていたし、なにより・・・

「速度が速すぎる。あっという間に自我のラインを超えていった。僕の何かが、美雪の何かが。みんなは美雪が直感だけで動いたって言うけれど、それだけでは説明が付かない」

 美雪と行動を共にし、知れば知るほど、それは確信めいてきた。

「だから、理解してみたかったんだ」

「それで、小娘を受け入れたか」

「うん。それと」

「それと?」

「顔立ちと身体つきが好みだった」

「貴様は心底救いがたい」

 しろ様が笑う。僕の手のひらに、しろ様の頬が動く感触が広がる。

「理解しようとするなら、なぜ美雪と子を成すことを拒絶する。初めは、すべて試作であろうよ」

「ヒルコを作るつもりはないよ」

「ほざけ。初めての子がすべて失敗作というならば、全国の長男、長女の立つ瀬が無かろうよ。貴様は一線を越えることで、美雪の装飾を剥ぎ取るのが恐ろしいだけであろうが」

「そうじゃない」

「弁明は聞いてやる」

「少し重いんだ」

「ふっん」

 しろ様が、鼻で笑った。

「だって、僕が美雪を抱いたら、墓石まで決まったようなもんだよ。人生を決め付けるには早すぎるし、美雪に付帯する十和田家を背負うのも重荷だ。どう見積もっても、覚悟が足りない」

「貴様が人生設計など考えておるとはな」

「これでも公務員の子供ですからね。堅実に育ってます」

「ぷっ」

「えっ」

「わははははははっ!」

「そこ笑うとこぉ?」

「なに、ワシが人を喰ったと言っても臆せぬ貴様が、女子一人抱くのに腰が退けておる。ようは『裸の女』が怖いのよ。それを頭でっかちに、いろいろと言い訳を考えて理性的なフリをしておる」

「なっ!」

「愛いらしいのう、男の子」

 触れた僕の手に、しろ様は頬を擦りつけてくる。

 手の熱が僕の頬まで飛び火し、赤く染まる。

「ならば」

 頬から手が引き離された。

「ワシを選ぶがよい」

 僕の手が、しろ様の左胸に添えられた。

「ワシならば、一時の夢。貴様が拘束されることはないぞ」

 手のひらの中。しろ様の鼓動が早い。

「あぁ・・・」

 言葉が浮かんでは消える。しろ様は、顔を伏せて表情を見せないようにしているつもりだ。でも、桜色に染め上がったうなじが、すべてを表す。

 僕は、何を言えばいいんだ?

「女の子みたいだ」

「ワシは神だ」

「頬も赤いし」

「寒さのせいだ」

「胸だって、うるさいし」

 僕は軽く指を曲げた。指先がしろ様の胸に沈む。

「んっ」

 小さく、しろ様の身体が震えた。

 脈打つしろ様の胸は、思った以上に女性的な大きさで、僕の鼓動と競うように、その速度を上げていく。

 トクンッ トクンッ トクンッ トクンッ

 速くて、熱い。

「まさきぃ・・・」

 上目遣いに、しろ様は僕を見上げた。

 雪が舞い散る中、立ち尽くしているはずなのに、寒さを感じない。しろ様の胸に置かれた右手。それ以外の一切が切り離されていた。

 熱と意識が右手に集中し、思考が飛びそうになる。おかしくなりそうだ。

「しろ・・・」

 僕は初めて、しろ様を一人の『少女』として名前を呼んだ。

 

 

「―――何をしている」

 不意に現実に引き戻す声がかけられた。その声は、寒祈りの水より冷たい。

「あっ」

「あっ」

 ―――十和田美雪が、そこにいた。

 僕らと同じように酒を飲んでいたのか、美雪の顔は赤い。すぐ横には、僕をレイプ犯と見なした顔の瑞穂がいた。

 身体が強張る。

「何を? と、聞いている」

「んっ、強い。優しくするがよい」

 しろ様が、これ見よがしに僕の指を、自身の胸にめり込ませた。

 ヒュゥ~

 横風が、僕らと美雪の間を通り過ぎた。

 一瞬、美雪の長い黒髪が、端正な顔を覆い隠す。

 漆黒の髪のすき間から、瞳の部分だけ赤く輝く光が漏れる。

 こぉーほぉー

 息遣いも、怖い。

「・・・こ、これは、つまりですね」

 とにもかくにも言い訳が必要だ。自体の沈静化を急げ。だが、頭だけは決して下げるな。白旗を上げるには、まだ早い。

 美雪の表情は微塵も動かない。反応を示さないということは、続きを促している意思表示だ。

 一抹の希望を胸に、僕はとにかく口を開いて体制を立て直そうとした。とにかく捲し立てて、言葉の弾幕を張るしかない。芸術的な弾幕は人を惹きつける。そう、幻想郷のように。

 しかし―――

「邪魔が入りよった」

 なんてタイミングで横槍を入れるんだ、しろ様は。僕は完全に気勢を制された。

 恨みがましく振り返ると、『にっ』と、しろ様は笑っていた。それは、僕を捉えた『少女』の姿ではない。

 横柄で、高慢で、そのくせ憎めない悪戯めいた笑みだった。いつものしろ様だ。

「せっかく柾木がワシのものに落ちようとしておおったのに、台無しではないか。どうしてくれようか?」

「言いたいことは、それだけですか?」

「貴様は、二号さんでも良かろうよ」

「二番でいいなど、どの口がほざく。それでも日本人か?」

「神だからの~」

 僕の目の前で、剛速球で言葉がキャッチボールされた。

「おぉ怖い怖い。では柾木よ、ワシとの子作りは日を改めようぞ」

 『さらばじゃ!』と、別れの挨拶もそこそこに、しろ様は僕の横を走りすぎた。『びゅん』と擬音を残し、社の中に飛び込んで姿を消す。

 やり逃げしやがりましたよ、神様が。

 ・・・・・

 ・・・・

 ・・・

「えっと・・・」

 しろ様がいなくなり、僕と美雪を遮るものはなくなった。横風すら吹かない。まさに逃げ道なぞナッシングだ。

 しろ様がいなくなった分、好き放題に自分都合で言い訳が出来ると思うのも大間違いだ。ごたごた感や、その場の勢いで誤魔化しきれない分、非常に不利だ。圧倒的なピンチだ。

 どうする、俺? 助けてライフカード。

「つまりですね・・・」

 美雪の表情は、まだ動かない。それが、どうしようもなく恐ろしい。あれだ。大魔神の表情が切り替わる寸前みたいな。

「耕平と飲んでたんだ」

 時間稼ぎがしたかった。決定的な言い訳なんか、そうホイホイと思い浮かぶわけがない。とにかく時系列に沿って、事実を並べようとした。

 嘘八百でもいい、出来もしない綺麗ごと並べても政権交代できるのと同じだ。本命のインデックスを隠れて実行するには、表の顔であるマニュヘストが必要なのだ。今は時間を稼ぎつつ、美雪の耳に気持ちのよい言葉を捜すしかない。

 しかし、

「手が」

「はい?」

 美雪に言われるまで、しろ様の胸を掴んだ時のまま、僕の手が固まっていることに気が付かなかった。アホみたいに突き出された手は、『にぎにぎ』していないだけマシという程度だ。

「そんなに、あの小娘の、胸が、胸が、名残、惜しい、のか」

 ぶつんっ! という音が、美雪のこめかみ辺りから聞こえた。

 今すぐに土下座すべきだった。すでに選択肢はない。全面降伏だ。白旗をあげるタイミングは、この時を逃せばもう来ない。

 なのに、身体が動かない。

「・・・怒ってる?」

 よせばいいのに、余計なことまで僕は口走った。

「私は冷静だ」

 しゅるしゅる

 美雪は手にしていた、背の高さほどある棒状の包みを紐解いていく。

「私は怒っていない私は怒っていない私は怒っていない私はおこっていないわたしはおこっていない私を目の前にしてあの高慢ちきな女の胸を胸を胸を肋骨に指が触れそうなくらい深く深く揉み倒していたことに対して私は冷静に受け止めている冷静に冷静に努めて冷静に冷静に受け止めて受け止めて受け止めて受け止めている」

「いないよね!」

「その通りだな」

「そこだけ冷静! 話を聞いてください、お願いします!」

「なぜ私に一言『揉ませろ』と言わなかった」

「怒ってるのそっちですか! ならば、紺野ジェントル柾木を評価すべきでは!」

「紳士か、なるほど」

 美雪が白い息を吐いた。顔を伏せているから表情は分からないが、考える余裕は取り戻したみたいだ。

「そう、これから僕が話す理由を聞いていただければ、今宵ご機嫌斜めな貴女も、きっとご満足していただけるに―――」

「―――紳士であれば、責任の取り方も知っておろうな」

「美雪さん?」

「選択肢は、三つある」

 包みが解け、布が雪の上に落ちる。

「去勢、宦官、パイプカット。好きなものを選べ」

 美雪の愛刀、薙刀クビキリ丸が、雪の照り返しを受けて怪しく光る。

「美雪様っ!」

 僕の叫びは、悲鳴なのか嘆願なのか? 自分でも分からない。こんなとき冷静でいられるか、こんちくしょーっ!

「瑞穂の言うとおりだったな」

 顔を上げた美雪の口元は、頬が裂けそうなぐらい広がっている。眼も赤く光っているし。

「―――ちょん斬ってやる」

「ひいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 

 

 それから家に帰るまでの時間、僕には記憶がない。健全な精神を育むためには、思い出してはいけない類の経験のはずだ。

 おまけに、全身の刀傷を見た母とのやり取りが、傷ついた身体と精神に追い討ちをかけた。

「んもー、マミちゃんってば、頬にバッテンの傷を持った男の子が欲しかったのにー」

「お母様、僕を追いかけ回したナギナタガールは、不殺の信念は持ち合わせていませんでした」

「でも、大絶賛『二股』進行中のマー君としては自業自得よね。マミちゃん、お腹にタウンページ入れておいた方がいいと思うの」

「タウンページの使い方が間違ってます」

「んじゃ、死んじゃえ、バァーカ☆」

 母よ。天真爛漫、語尾に星マーク、童顔に無駄な巨乳も許そう。

 でもね、いい年こいて『マー君』と呼ぶのだけは直してくれ。

 僕は『神の子』ではないんだから。

 

 

 

 

 

 

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