1 不思議色ハピネス
「ごちそうさまでした」
手を合わせて感謝の言葉を述べる。
広い和室に、和服姿の親子三人。樫の木の大きな食卓。その食卓の上には、奉公人が作った食事が、ほとんど手付かずで残っている。
「もういいのか?」
今日の夕餉は、私の好物である天ぷらだった。この時期の食材では、富山湾で獲れた白エビの掻き揚げが絶品である。
しかし、その白エビの掻き揚げに、申し訳程度にしか箸をつけていない。父様が心配になるのは無理もない。
いつもならば、呆れられるほど食べるのだが、今日はどうしても食欲がわかないのだ。
「これで三日続けて。具合が悪いの?」
母様の表情が微かに曇った。表情の起伏の少ない女性だが、感情の起伏は、人並み以上に持ち合わせている。
今も、表情の変化こそ小さいが、心から心配してくれているのが分かる。
「申し訳ありません。十和田の娘がお百姓や漁師に顔向けできないことをするなど、許されることではないのは重々承知しております」
「そうですね」
母様が頷いた。一つ一つの動作に気品がある。当代の当主である十和田真白は、優雅さにおいて歴代に並ぶものがないと称されている。娘として誇りに思うし、目標の一つでもある。
「これが人様の前なら折檻しているところです」
「真白さん・・・」
聞きとがめて、父様が険しい顔になる。髭面の強面で迫力があるが、母様には通用しない。
母様と父様の馴れ初めを知る裕美さんに言わせれば、『強面だけど心はウサギさんな歩君が、かわいい顔してるけど心がオオカミな真白に、パクッて食べられたのよ♪』らしい。
その力関係は、今もなお継続中だ。母様が父様を一瞥して黙らせる。父様、弱すぎます・・・。
「―――ですが、ここにいるのは私たち親子だけ。理由があるのでしょう。お言いなさい、美雪」
母様の言葉には、有無を言わせない力がある。私は正座のまま、母様に向き直った。
母様が、御仏のような微かな笑みを浮かべている。しかしそれは、意思によって制御された笑みだ。ちょっと、いや、かなり怖い。
実の娘なのに、向き合うだけで胆力が磨り減っていく・・・
それを思えば、こんな母様の後頭部に、『このスカポンタンっ!』と、激しい突込みを入れる裕美さんは、本当にスゴイと思う。
「美雪」
母の一言で、現実に呼び戻された。覚悟を決めて、柾木のことを告白するしかない。大きく深呼吸をし、切り出した。
「ややこを造りたいのです」
「なっ!」
父様が口を大きく開けたまま固まると、その手から箸がスローモーションで落ちていった。
しまった。舌足らずなのは、私の欠点の一つだ。
でも、
「あらあら」
母様は、動じた様子がない。
「美雪は子供が好きでしたね」
「はい」
「自分のややことなるとね、それはもう愛らしいもの。私のときもそうでした」
ふと慈愛のこもった視線で見つめられた。
「そうですか、美雪もややこを欲しがる年頃になってしまったのね」
「私は十和田の家で育ったことを誇りにしております。母様」
母様には、多くを語る必要がないようだった。母様は分かってくれている。
「ちょっと待ったっ!」
「父様?」
「美雪、ややこなんて言い出すものじゃない! だっ、だっ、だいたい、あっ、相手が、おらんと、ややこは・・・」
「歩さん、眼が泳いでますよ」
くすくすと、母様が小さく笑う。この笑い方は、上品というより可愛らしい。とても参考になる。柾木に使う表情リストに加えておこう。
「だってだな、早すぎる。早すぎるだろ。まだ美雪は高校生。やることが他にもあるだろう。とにかくワシは許さん。許さんぞぉっ!」
「女にとって、ややこを抱くこと以上に大切なことはありません」
「言い切らんでも・・・。ほっ、ほら、真白さん、子供を育てるっていうのは、とても大変だ。美雪にはまだ人生経験が・・・」
「そんな軟弱な教育をしてきた覚えはありません」
「しっ、しかしだな・・・」
「父様は、孫の顔を見たくはないのですか?」
「珠のようなややこを産むのですよ」
「二人とも、どうしてそんなに結託する・・・」
「むっ」
母様に睨まれて、父様が小さく丸まる。それでも今日の父様、まだ抵抗を諦めない。あら、めずらしい・・・
「父様こそ、どうしてそのように頑ななのですか」
「それは・・・、世間体とか・・・」
声が尻切れに小さくなる。
「本気で言ってるのですか、歩さん」
母様、怖い顔。
「そのようなことで、十和田の家名に傷が付くなどと考えていると?」
「やっ、それは、その・・・」
入り婿である父様は、この話題になると戦力が半減。変わって母様は戦力倍増。都合、四倍の戦力差となる。
「そもそも家に傷など付きません。傷つくのは、いつだって人間だけです。それに・・・」
言葉を切り、母様が口元を小さく皮肉めいて曲げてみせた。
「私たちには、美雪を説教する資格はありません」
「ワシらのときは、ちゃんと高校を卒業するのを待ってだな」
「それは対戦相手が逃げたからです。それとも、あの時、私を口説いた言葉に、嘘偽りがあったとでも?」
「なっ、ないですとも、そんな」
「もしくは、こんな鉄面皮で貧乳な女よりも、天真爛漫で牛乳のあの女に未練があると?」
「まっ、真白さん。そっ、そんなことはありませんよ。ありませんですとも。そっ、それに、こ、子供の前でそういうこと言うのは、どうなのかな? ど、どう・・・」
父様の声が裏返った。
「では、いいですね」
「だがなぁ・・・」
まだ何か言いたげな父様を捨て置き、母様が私に向き直る。残念。もう少し、二人のなりそめを聞いていたかったのに・・・
「それで、意中の殿方はどのような方です?」
「それが問題なのです」
「おや?」
少しだけ母様が身を乗り出した。内心は好奇心が疼いてしょうがない様だ。
「ややこの作り方を、どうしても教えてもらえないのです」
「作り方? そのようなもの、とりあえず裸にひん剥いて」
「どかーんっ! どかーんっ! どかーんっ!」
「と、父様?」
「なんですか、歩さん。騒々しい。桜島でも爆発したような」
母様が冷たい視線を送ると、父様は無言になったけど、手をバタつかせ妙なジェスチャーで何かを訴え続ける。
しかし・・・。父様、その動き、私には分かりかねます。特に、屈伸しながら股間部分をⅤの字で切り上げるのは・・・コマネチ? 未来言語ですか?
「それでね、美雪」
そんな父を完全に無視した母様。
「四の五の言う前に、無理やりパンツと皮を」
「どかーんっ!」
父様の理性が切れた。血の涙を流している。
そうか、父様は包茎か・・・
でも大丈夫。たとえ柾木が真性であろうと仮性であろうと、私の愛は揺るがない。
きっと母様も、そうに違いなかったはずだ・・・、たぶん。
「母様。父様が可愛そうなので、このあたりで」
「仕方がないわね」
ぜぇぜぇと息を切らす父様を振り返り、母様がニンマリと笑った。やっぱり、母様は怖い。
「私も行為そのものは知っているのです。ただ、どうしたらその行為に及んでくれるのか・・・」
「歩さんと同じ意見なのでしょう。世間体やら何やらと、取るに足りないことを気にして」
「私自身に魅力がないのかと・・・」
「シチュエーションで迫るという手もあります。歩さんの場合は、まだ当時高価だったアツギの黒ストッキングをセーラー服に合わせたら、とたんにね・・・」
「いえ、私も体操服とブルマの組み合わせを試みたのですが・・・」
「すでに黄金率を!」
母様が、一瞬たじろいだ。
「それは難敵ですね。けれど、若い男の子が、そんなに下半身を切り離して生きているとは、とうてい思えません」
「きっと私が・・・、愛されていないことが原因なのです」
「お付き合いしているのでしょう?」
「はい。しかし、私だけではありません」
「なにっ! 二股だとぉ! 許さんっ! 許さんぞっ! ワシの娘を何と考えるかっ!」
「歩さん、うるさい」
バッ
怒りで立ち上がった父様の両足を、母様が片手で払った。一閃である。
「十和田の娘が、二股をかけられていると?」
倒れる父様を見向きもせず、母様が冷めた目線を送ってきた。
ゴンッ
父様が頭から床に落ちる音がしたが、母様に習って私もそれを無視する。
「しろ様とも付き合っております」
「神と?」
本当に珍しく、母様が言葉に詰まった顔をした。
「しろ様にも発情期みたいなものがあって、百年に一度ぐらいの周期で子を成すそうです。だとしても、前回から四十年も経っていないのに・・・」
「しかし、しろ様も私と同様に愛されてはいない様なのです」
「―――なんてこと」
「母様。私はどうすればよいのでしょう?」
「正しい答えは思いつきません。しかし、言えることは一つあります」
「はい」
母様が、私の返事に頷くように一度眼を閉じてうつむいた。少しの溜めの後、見得を切るように顔を上げ、口を開いた。
「十和田の女であり続けなさい」
それは、幼い頃より幾度となく言い聞かされて来た言葉だ。
怖れてもいい、ただし退くことはなかれ。
「ありがとうございます」
畳に指を付き、深々と頭を下げた。
そうだ、母様の言う通り、悩むことなどないのだ。私は十和田の女なのだ。
「それにしても―――」
母様が、決意のこもった眼をした私を見て、安堵したようだ。
「その美雪の想い人って、どんな子なの? 名前は?」
「柾木」
ビクッ
父様と母様が、一瞬で緊張したように見えた。だが、なぜかは分からない。
「柾木は苗字ではなく名前で、紺野柾木。東京から引っ越して―――」
「―――面白い」
ガタッ
母様が、急に立ち上がった。冷たく光る視線は赤みがかっている。
「フッフッフッ」
「母様?」
「意趣返しというならば、それもよいでしょう」
「えっ?」
「なんでもありません。それより美雪―――」
母様が私を見下ろす。身長は、私よりも低いはずなのに、、こういうときの母様は、異常に大きく見える。
「この戦、勝ちなさい」
真っ赤になった瞳で命じられた。
もとより負けるつもりはない。柾木は私のものだ。私は十和田の女だ。
「是非もなく」
私は立ち上がると、同じように真っ赤に燃える瞳で母様に答えた。
「なんてこった」
父様が、畳に倒れたまま、顔を右手で覆って嘆いたが、蚊帳の外の出来事である。