北上の朝は、そんなに早くない。
7時 私室
その時、北上は甘い微睡の住人であった。
普段であれば6時には目覚めている。
決して寝坊でもなければサボりでもない。
全身からダウナー100%を凝縮してまろみ出す彼女であるが、任務に関しては真摯であった。
提督に任された任務を放棄するようなことになるくらいなら、彼女は徹夜するほどに真面目だ。
今、普段よりも長く眠っているのは前日までの戦闘の貢を認められ、提督の好意によってよく休むようにと与えられた休日のためである。
提督に与えられたものならば存分に享受しなければならない、北上は真剣にそう考えている。
あの無能が中佐に降格を言い渡され、指揮系統が愛すべき提督に変わってから体制が大きく変化した。
前線のラインが下がり、他の艦隊との交流も増えた。
ゆっくりとご飯を食べる時間もあるし、夜だって数人の哨戒を除いて誰もが眠ることを許されている。
前日に挨拶を交わした同僚と、翌日も挨拶できる何気ない日常を送れるようになった。
夜の海に出て、翌日には駆逐艦が居なくなるような激務は無くなった。
艦娘が消耗品のように連続して作戦に投入されることもなくなったし、今の北上のように余裕を作り出して休日を得られるようにすらなった。
現状を作り出した提督は、この鎮守府内で誰よりも尊い。
提督が来るまでに、この世界に彼女が建造されてから一体何連続勤務したことか。
50から先は数えていない。
同時に沈んでいった仲間の数も数えていない。
親密な仲間から沈んだから、数えるほどの余裕など一切なかった。
ただ、地獄の日々を互いの身を寄せ合って過ごしていた、半身のような大井が沈んだあの時は心が冷えるようだった。
そして、新たな「大井」を用意した狂気すら感じる笑顔の中佐の姿に、人間との溝に、強い恐怖を覚えた。
そんな余裕なき日々によって作戦領域を広げ続ける記憶など、すべて忘れてしまいたい過去でしかなかった。
眠気でとろけた思考を巡らせてみたが、建造されてから最初の10日、いや1週間ほどはまともだったことを思い出した。
むしろ、それしかまともでは無かったとしか表現できない。
だからこそ、この微睡は幸せの象徴であった。
提督が中佐のように変わってしまったら、ふと抱いてしまった恐怖を忘れるように……。
ぬくもった布団と二度寝に突入しつつある陶酔感。
「起きるのおっそーい!」
そこから呼び起される不快さは、マジで半端なかった。
彼女の腹部に遠慮なく飛び乗った速さ至上主義のマッハ痴女に苛立ちを隠せない。
ウェイトはないがスピードの乗った痴女自慢の一撃は、手元に装備があったらご自慢の魚雷で消し飛ばすレベルであった。
だから駆逐艦はうざいのだ。
すぐに懐き、甘え、私を置いていなくなる。
「……あのね、私は今日、休みなわけ。わかる?」
「おぅ!」
「いつまで寝てても許される。昼まででもね。私の提督もそうするようにと言ってくれたの、わかる?」
「おぅ!」
わかっているのか、いないのか。
枕もとに立って無邪気な返事を返す艦体でも上位の痴女、島風。
目がしぱしぱしてツラい。
北上の気分はあの優しい提督の前で片膝をつきながら「提督、ほんとに寝たいです……」状態である。
完全に思考が正しく巡っていないのがわかっていただけるだろうか。
「だからね、わかる? 私の言いたいこと」
頼む、聞き分けてくれ。
または誰かコイツに聞き分けさせてくれ。
いまはすごく眠いんだ……、などと北上は無駄に必至だ。
昼まで悠長に眠るなど休日にしかできない。
提督に頼めば昼寝くらい余裕だが、そうすることによって提督と接する時間が減る可能性が高い。
愛すべき提督にそうするようにと言われた遅寝は至高なのだ。
大井っちを失った北上の拠り所は、一寸の隙なく提督へと向いている。
今日は食事の席が、一人前のレディ候補やナスは嫌いなのです系駆逐艦が周りを囲み、食事中に提督を見つめられる特等席は一航戦の誇りを始めとしたメンバーが鎧袖一触とばかりに近場から埋めているので座れないこともあって、提督の言に従ってスヤァな気分なのだ。
秘書艦となる明日から本気出す所存でござる。
大井っち、私を導いてくれ。
北上、今は亡き大井っちに祈る。
大井との思い出を回想したらシリアス100%、ぶっちゃけシスのダークサイドへと陥る。
「代わりを用意できたから明日からまた頑張れ」などと愚かな言葉を過去に吐いた中佐など首すぱーんで、残りは夜の海にどぽーん、提督ちゅっちゅである。
が、寝ぼけた思考にシリアスは皆無。
すべては夢のまた夢である。
「ワタシ、ネムイ。キョウ、キュウジツ」
「おぅ!」
限界を超えて片言となったが、真剣な返事が聞こえた。
祈りは届いたのだ。
いま、ここに奇跡が成った……!
提督、ありがとう。
大井っち、ありがとう。
そして、すべての艦娘にありがとう、提督愛している。
ウォーターと叫びたい気分であったが眠気が勝った。
それではおやすみでござる。
「北上ちゃん、おきてよ! もう7時だよ! 起きるのおっそーい!」
30秒後、耳元で鳴り響くぜかましヴォイス再び。
悲劇と言えるだろう、祈りは全く届かなかった。
北上が寝ぼけた脳内で島風に激おこぷんぷん。
さっき「おぅ!」って言ったじゃないか。
肯定の返事じゃなかったのか。
ただの鳴き声か。
ぜかましの鳴き声だとでも言うのか。
おうおうオットセイか貴様。
「私なんてもう食べ終わったんだから! 提督が納豆をねりねりしている間にだよ!? 次は北上ちゃんの番なんだから!」
食べ終わったら任務の準備でもしていればいい。
提督の納豆ねりねりとかなにそれ可愛い、それだけでも見れば良かった。
というか、次は私の番とはどういうことだ。
もう北上さんの脳内は、眠気とぜかましショックによって混沌としている。
理性などない野獣と化した。
「わたしはさー、きゅうじつだっていったでしょ? ほんとにもー、ほんとにもー」
「いひゃいいひゃい!」
野獣と化した北上! ぜかましを狩る!
自動操縦によって勝手に動く北上の両手。
理不尽な暴力が島風のほっぺを襲う!
「くちくかん、うざーい」
限界まで島風の頬を引っ張りつつ、北上は呟いた。
いなくならない駆逐艦は嫌いじゃない、うざいだけだ。
ぼやけた頭で、そう考えた。
7時15分 食堂
寝ぼけ眼の北上は、島風に引っ張られるように食堂へと連行された。
あの後も二度三度と繰り返し、島風は漸く北上を連れ出せたのだ。
提督の配慮による北上の遅寝と、島風が北上を起こしたいという気持ちの争いだった。
当然ながら提督の配慮のほうが圧倒的に優先されたため、相応の苦労があった。
その苦労とは、これから食堂に行く艦娘たちの視線の先にある、島風の両頬に向けられていた。
赤く腫れたりんごのような頬。
名誉の負傷である。
島風のためにもう一度言おう、名誉の負傷である。
りんごちゃん化だけで提督の言葉を突破した島風だ、その働きは他の艦娘が知れば戦慄するに違いない。
まあ、その負傷も掃除している最中に腫れを心配した提督にさわさわふにふにされる運命という労災保険的なサムシングが降りるので問題ない。
それを見た金剛と榛名が仁義なき大丈夫です張り手バトルを起こしたりするが、やはり問題ないのだ。
「じゅーらーいそーじゅんよーかん、きたかみ、しゅつげきします……」
何故だか北上は出撃することを提督に告げていた。
休日なのに起こされ続けたことで「実は任務があるのではないか」と勘違いしたせいである。
つまり、まだ寝ぼけているのだ。
寝ぼけた北上を前に、首を傾げながらも提督が「いつも期待しているぞ」と一言。
北上、その言葉に覚醒。
何度も提督の声が脳内をリフレインし、麻薬のように覚醒した思考を溶かす。
へにゃりとした笑みが零れる。
が、全く隠さない。
むしろ見せびらかす。
提督は「いつも期待している」と言ったのだ。
そう、『提督』は『北上』を『いつも期待している』のだ。
提督との絆の深さを、仲間に周知する。
そのため、笑みは隠さない。
ついでに言えば提督は笑顔が好きらしいし、綺麗な瞳も好きだと言う。
古鷹や五十鈴のような瞳を持たない北上は笑顔で勝負だ。
愛すべき提督が中佐のようになるなど、寝ぼけても考えるべきではない。
さっきまでの北上は馬鹿で愚かだった。
提督はきっといつまでも提督なのだ。
寝ぼけていた愚かな北上にグッバイを告げた。
提督の言葉特化で覚醒した脳は瞬く間に今日のスケジュールを確認する。
優秀なる北上ブレインならば不可能はない。
島風に起こされたことなど記憶の彼方であり、眠気など微塵も残っていない。
算出された結果は「昼まで睡眠、昼食、再び睡眠、夕食、そして睡眠」であった。
なんだこれは……。
提督に休むように言われただけで、この体たらく。
どう見てもただの怠けだ。
こんな錆びつくような休日を送って明日は秘書艦として提督の信頼を一身に受けようとしていたのか。
北上は非常に困惑し、そして激怒した。
提督から秘書艦として求められているのは、体力温存を考えるような守備に凝り固まった北上ではなく、攻めの北上であると。
期待に応えることのできる北上こそが至上なのだ。
北上は逡巡する。
明日へのベストな自分を。
いつだって想像するのは最強の自分だ。
大井が欠けた今、己の力のみで打破するしかない。
今の「大井」は北上と同じ獲物を狙う相手、いうなればハブとマングース、メロンシロップにブルーハワイ、きのこたけのこ戦争である。
提督に関しては高速の如く働く思考、まさにクロックアップだ。
世界が強い粘度を持ったようにゆっくりと動く。
その中で一人、北上は天啓を閃かせた。
--魚雷しかねぇ!
至れば速い。
速いこと、北上の如しだ。
北上は思いのままに駆け出した。
行動の理由に提督が付けば、いつだって北上は無敵だ。
通り際に撥ねた島風が「おぅ!?」と変な声を漏らしていたが、置き去りにした。