実験室のフラスコ(2L)   作:にえる

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仕事モードじゃないオリ主


虹鱒3章2

3-2

 

 

「佐久間さん、今日のお仕事はこれで終わりです。確か近くに住んでるんでしたよね、直帰で構いません。では、お疲れ様でした」

 

「はい、お疲れ様でした」

 

 佐久間まゆは柔らかな笑みを貼り付け、自らのマネージャーを見送る。

 彼女が読者モデルとなったのはそう遠い昔ではない。クラスでご飯を一緒に食べる仲の友人が一緒に応募して、まゆだけが合格した。それからその友人とは疎遠になった。嫉妬、羨望、諦観、色々な感情が入り混じっていたようだったように思える。ただ、その時のまゆに出来ることは何も無かった。

 友人を失って、少しクラスで浮くようになった。日常のちょっとした居場所を失った。得たのは興味のない芸能界の、ほんの端っこ。両親の喜ぶ姿、それと失った代わりに得た居場所を守るように何となく続けていた。

 この生活に不満は無い。だが、しかし。満足している訳も、当然ながら一切ない。

 それは昨日までの話。今日の仕事を終えた今ならば、不満しか募っていない。どこに満足すればいいのか、考えるのすら面倒なほどに。

 

 

 

 仕事の様子を思い返す。

 撮影は順調に始まった。撮影のメンバーは、普段一緒に仕事する読者モデルの子と、東京の事務所から来たアイドルの子たち、華やかで姦しい現場だった。あまり口数が少なく会話に参加しないまゆでも、東京から来た城ヶ崎美嘉が気を使ってくれて、平時よりも楽しく仕事が出来た気がした。ピンク髪が特徴的な流行りの女子高生然とした城ヶ崎だが、気配りが上手で、軽い調子に見え隠れする優しく穏やかな物腰は、まゆにも好意を抱かせた。

 今回は「和」をテーマにしたものだった。慣れない着物を着て、屋外を歩いたり、室内のセットでお茶を飲む姿を撮影するのは、内心で少しの緊張と不安を感じた。何か言ってくれやしないかとマネージャーに視線を向けるが、佐久間さんなら大丈夫そうだと、てんで関係のない言葉とともに、セットの背景へと紛れてしまった。

 

 東京から来た子たちは着物の撮影であることや、仙台でのスタジオだというのに気後れしている様子は無かった。三人だから心強いのだろうか、楽しそうにプロデューサーに見せびらかしていた。そのプロデューサーは、何故か着物を着て無表情で団子を頬張っていた。

 撮影も、東京の子たちは肩の力が抜けた自然体で進めていた。楽しそうで、自信に満ち溢れている。普段から使い慣れている筈のスタジオでの撮影なのに、まゆのほうが緊張しているくらいだった。

 撮影が進むと、まゆも緊張が抜けてきて、周囲の様子を見る余裕が出てきた。そうなると、東京の子たちの仕草が気になって仕方なかった。写真を撮る合間に、彼女たちはよく手を振ったり、暇があれば話していたりと、何かしらやっているのだ。相手はプロデューサーや、そのプロデューサと一緒にいるスタッフだった。例え方は悪いが、他の子が前に媚を売っていた様子が思い浮かんだ。ただ、それとは様子が全く違うように思える。なんというか、親しい相手に構ってもらいたくてしょうがないというのだろうか、とにかくそんな様子だった。

 

 撮影も残り僅かになると、東京の子たちだけでなく、普段一緒に仕事している読者モデルの子も手を振るようになった。彼女も最初は大手の事務所相手に媚を売るつもりだった様だが、途中からは楽しそうに仕事を進めていた。その先には件のプロデューサー。彼は団子を頬張り、お茶を啜りながらも、ずっと真剣に撮影の推移を見ていた。

 まゆのマネージャーはセットの背景に埋もれ、東京から来たプロデューサーはスタッフに馴染みながら率先して前に出ている。何が違うのだろう、何故違うのだろうか。

 試しにまゆも、カメラのシャッターが切られるほんの一瞬、彼に向けて手を振ってみる。なんだろうか、いつもと違う。なんとなく不思議な気持ちになる。いつもは自分で対象をイメージして作る表情が、今日は作りやすい。カメラマンや見えない誰かではなく、確かに届いているように感じる。あのプロデューサーは、撮影の邪魔にならず、かつ、こちらがアクションの対象にしやすい位置にいつもいるようだが、それが関わっているのだろうか。

 

 まゆがわかったのは、彼はとても表情豊かだということだ。確かに無表情なのだが、纏っている空気が変わると言えばいいのだろうか。独特な人なのだろう、喋らなくてもわかるくらいに。むしろ、喋らないからわかったのかもしれない。

 写真を撮る際に、自分がよく出来ていたと思ったとき。彼を見ると、満足げに団子を頬張り、こちらを見ながら何度も頷いている。褒めてくれているつもりなのか、小さく手も振ってくれる。失敗したり、納得がいかないとき。カメラマンの人に上手く行くまで撮ってもらえるように頼んでくれる。こちらの要求に敏感で、わかってくれている。そんな素振りだ。過保護なのかもしれないけれど、それくらい自分を見てもらえる。

 

 羨ましい。無意識にまゆは自らと、東京の子たちの境遇を比べる様になっていた。

 

 

 

 「はぁ」とまゆはため息を吐いた。今、まゆには危機が迫っている。それは誰にも助けを求めることは出来ない強敵だった。

 和室のセットがあるスタジオには今誰もいない。スタッフは次の撮影のため、すぐに移動して行ったし、マネージャーはまゆに直帰で良いと告げるとすぐに去って行った。東京から来たアイドルの子たちも、あのプロデューサーも、挨拶をして出て行った。

 こじんまりとした和室の一角を再現したセットに正座で座ったままのまゆ。セットは華やかだが、そのスタジオは、広く、寂しい。ぽつりと取り残されたようで、まゆに空虚さすら抱かせた。

 その取り残された寂しい空間で、まゆは一人、足の痺れと戦っていた。

 

――慣れないことはするものじゃない

 

 まゆは内心でそんなことを考えていたが、結局仕事なのだから避けることはできなかった。せめて誰か残っていたら、話し相手になってくれたかもしれないが、残念ながらここにはまゆしかいない。

 動かなければ痺れもほとんどない。少しずつ解すしかない。自分は何をやっているのだろうか、こんなことのために読者モデルになったのか、まゆは逡巡するようになった。益体もない考えだが、やることがないのだから仕方ないじゃないか。

 あのプロデューサーだったら一緒に待っていてくれただろうか、きっと待っていてくれたに違いない。自分の期待を彼に重ねてみる。マネージャーは先に帰るという答えを出した、だから何も期待できない。そもそも自分の足が痺れているから待ってくれだなんて言うつもりは無いし、帰ったのも仕方の無いことだ。だが、彼ならもしかしたら。そんなことを考えて、やっぱり空しさだけが残る。

 

「佐久間さん?」

 

 期待とは、幻聴すらも聞こえるようになるのか。まゆは自分がどれだけ現状に不満を持っているのか、真剣に考え始めようとして。とりあえず、幻聴の主を待つことにした。痺れが無くなるまで待って、それでも来なければ幻聴だ。

 だが、すぐにやや痩せ気味だが、長い背の少年が近づいてきた。件のプロデューサー、そのものだった。

 まゆは、幻覚すらも見えるほどに……と逸れる思考を戻す。現実は現実だ。

 

「美城プロのプロデューサーさん、どうかしましたか?」

 

 首を傾げながらまゆが問う。

 彼は餡子に包まれた団子を食べている。表情はあまり変わらないが柔らかいように感じる。雰囲気も嬉しそうだ。甘いものが好きなのだろうか。

 

「いや、なんか調子が悪そうだったから来てみたんだけど。マネージャーの方は?」

 

「ふふ、ありがとうございます。まゆは大丈夫ですよぉ。あ、あとマネージャーさんは先に帰られましたよ」

 

 そうなんだ、と彼が言う。彼ももう帰ってしまうのだろうか。残念だという気持ちが湧きあがる。

 調子が悪いと言ったら、事務所が違っても彼は心配してくれるかもしれない。

 今からでも、調子が悪い素振りをしてしまおうか。そんな考えが過ぎった。

 

「そっかそっか」

 

 うんうんと頷きながら、彼は和室のセットに腰かけた。

 まゆとは近すぎず、だが、遠すぎない。喋りやすく、まゆからは横顔を見やすい位置だ。

 居てくれるのは嬉しいが、理由がわからない。もしかして、危ない人なのだろうか。なにが合っても叫べるよう、心構えだけはしっかりしておくべきだろうか。

 

「……えっと、プロデューサーさん? どうかしましたかぁ?」

 

 彼は無表情なままだった。団子を食べ終え、串を残されていたお茶請けの皿に置いた。そして、セットに残されていた急須からお茶を汲んでいる。

 

「実は撮影で疲れて足が痺れちゃったんだ。ちょっと休んでいこうかなって。もし足が痺れてて悶絶している姿を誰かに見られたとき、一人だけだと変でしょ?」

 

 和室のセットから足を垂らし、ぶらぶらとさせながらそんなことを言う。

 お茶は温くなってしまったのか、湯気は出ていなかった。

 

「もしかして、わかってますかぁ……?」

 

「何も、全然。大丈夫じゃないプロデューサーには、大丈夫な佐久間さんのことはわからないなぁ」

 

 茶化すような笑みを浮かべていた。それは温かみのある表情だった。

 

 

 

 

 

 夢から覚めたまゆの朝は早い。朝の五時前には目覚め、軽めに身なりを整える。そして、前日から下拵えしてあった材料を冷蔵庫から取り出して調理し、弁当箱へとせっせと詰めていく。自身のプロデューサーである薺と食べる、そのために。

 昨日よりも今日、今日よりも明日。常に進歩する自分をイメージしながら。それはアイドルとしての自分と重なる事が多い。妥協は無く、当然手抜きもしない。これはそういうものだ。望む結果を得るための努力は続けるからこそ尊い。

 努力しない者に勝利は無い。まゆはそれを当然のことだと思っている。この場合の勝利とは、薺に褒められることに他ならない。天才だろうと、センスに優れていようと、薺は努力無き者を褒めない。だから努力する、だから頑張っている。その先がトップアイドルで、さらにその先が……。

 何時かの終点を夢想していると、弁当を作り終える予定の時刻が迫っていた。慣れた作業だったため、無意識で終わっていた。努力は裏切らない。

 

 今日は八時三十分頃に薺が事務所に来る日だ。仕事先に直接行く日でもない。スケジュールと今までの行動から予測を立てられるし、メールで聞いたから完璧だ。きちんと待機しておけば会えるのはほぼ確定的だろうし、朝食も供に出来るはずだ。

 今日は何となく、でも絶対に薺と朝食を食べたかった。いつもそう思っているが、今日は更にそう思っていた。

 会えない日でもお弁当を用意しており、不意の幸運で出会えた時にも対処できるようにしてあるが、やはり出会えることが事前にわかる今日の気分は実に良いもので。

 

 薺と一緒に練習した歌を口ずさみながら、身支度を進める。読者モデルになる際に、失った物と一緒に着いて回るようになったそれが隠れるように、左手に手袋をする。そして、髪を梳きながら思考する。

 可愛いは作れる。が、どのように作るかが重要だ。自身に沿った可愛さでなければ武器にならない。これもきっと自分を知るために続けるべきなのだろう。

 事務所に来てそう経たない内に、顔を真っ赤にしながら兎耳を付けたことがあった。「どうですかぁ」と薺に問うと「ファンに可愛いって言ってもらえるよ」と素っ気ないものだった。「薺さんは?」と聞くと「顔が真っ赤なのは可愛いね。そうだ、リボンをあげよう」と兎耳をすぐに外され、薺にリボンを渡された。嬉しいようで寂しかった。

 しょんぼりとしたまゆの様子に見兼ねた事務のちひろさんが「なずなくんはその人に沿った物じゃないと好きにならないって聞いたわ」と教えてもらった。偏屈で、好みが厳しいのだとも。

 それからは、自分を見直して、お洒落するようになった。時には冒険することもあれば、安定だったり、保守的だったりする。それでも薺は褒めてくれる。自分で決めた芯がぶれなければ、彼は何時だってまゆに期待してくれている。

 そして同じように……

 

 

 

 

 

『もしですよ? もし、まゆが、プロデューサーさんと一緒にアイドルになって仕事したいって言ったら……な、なんて誘ってくれますかぁ?』

 

 仙台でまゆが読者モデルをしていて、薺が東京のプロデューサーだったとき、そう聞いたことがあった。

 緊張していた。

 同時にとても期待していた。

 飲んでいたお茶を置いて、彼がまゆの目の前に正座した。

 撮影中の無表情とも、さっきまで読者モデルやアイドルの仕事について話していた物とも違う、真摯な表情だった。

 

『俺のすべてをあげるから、どうかアイドルになってください』

 

 

 

 

 

 同じように、まゆも彼に期待している。

 自身を期待してくれている彼に、期待している。

 夢見ることも、運命の赤いリボンも、何もかもを。

 

 もし、なんて言わなければ。驚かせようと、思ってその日の内に事務所を飛び出さなければ。彼はまゆをアイドルに誘ってくれたのだろうか。同じことを言ってくれただろうか。

 今でも考えることだ。

 決して忘れない。後悔ではない、期待ではない。ただ、知りたかった。

 

 彼が望むトップアイドルになれば、きっと彼は同じことを言ってくれるはず。

 そして、彼のすべてを貰い、彼に全てをあげることを、まゆはずっと期待している。

 

 ずっとずっとずっとずっと……彼に期待している。

 

 

 

 

 

 ―― 1

 

 まゆが、事務所の前で、運命的に薺と出会えた。その喜びのまま「朝ご飯、食べませんか」と誘い、承諾を受けた。

 ああ、なんて運がいいのだろうかとまゆが瞳を潤ませていると。

 

「ブォウン!」

 

 そんな言葉とともに現れたのは、ふわりとした髪の毛、整った顔には緑と青のオッドアイ、透けそうなほどにきめ細やかで白い肌、長身かつスレンダー、まゆをして憧れる清廉な大人の女性を体現した高垣 楓。

 その彼女が、フランスパンを振り回しながら現れた。纏っている黒い布が動きに遅れて追随し、ひらひらとはためいた。

 大人の女性を体現していたはずの楓は、実はシスの暗黒卿だったのだ。

 

「おはようございます、楓さん。今日は朝からライトセーバーですか」

 

「おはようございます、薺さん。そうです、今日の朝はライトセーバーです。それで薺さん薺さん」

 

「あ、ああ。ライトセーバーを食べるのは」

 

「何ジェダイ、ふふっ」

 

 まゆの前で、二人が微笑み合っている。ぬるい風とともにほわりと花が咲いたような空気が流れる。あの無表情な薺も微笑んでいる。悔しいことだが、まゆよりも楓のほうが、薺と仲が良い。まゆも薺の笑みを見ることができるが、楓ほど頻繁ではない。

 これがまゆよりも先を行き、トップアイドルに近づいた者の力か。空気すらも捻じ曲げる。まゆは力量差に戦慄した。

 このままでは追いつくことも、その背を見ることもできない。何処かで差を縮める努力が必要であると。だからこその、朝食だった。だが、這い寄るように、怒涛の攻めを見せてきた。強い。激戦が繰り広げられることになるだろう、まゆはごくりと小さな喉を鳴らした。

 

 

 

「……楓さん、まゆと薺さんはこれから朝ご飯なので」

 

 負けるわけにはいかない。まゆはトップアイドルを志す者だ。針の孔ほどの隙を刺し、この場を征す。それくらい出来なければ夢を語る資格もない。

 

「なんと奇遇なっ!」

 

 しかし、楓は引かない。彼女のライトセーバーはご飯なのだ、そして今の時刻はちょうど朝と言える。つまるところ、真名がフランスパンであるライトセーバーは、朝ご飯だ。実に奇遇である。

 ぐぬぬ、とまゆは内心で歯噛みした。その全く隙のない論理は、ありすの弾丸論破でも凌ぐのは厳しいだろう。

 両手に掲げているお弁当箱の愛情が、近所のベーカリーで焼かれたであろうライトセーバーに負けるはずがない。

 だが、論理を捻じ曲げなければ負けである。

 なお、包み紙にパン屋さんの名前が書かれているので、近所のベーカリーだとわかった。

 

「し、しかし、楓さん。ここにあるフランスパンは一本、いるのは三人。それは楓さんだけで食べればいいのでは?」

 

 待ったっ! 異議ありっ!

 まゆのコンボが決まった。隙など生じぬ完全論理。算数すらも持ちだした究極の一……。

 

「スライスして、まゆちゃんのお弁当を乗せましょう」

 

 平然と言いのける楓は隠し暗器持ちの二刀流使いだった。フランスパンに隠されていた、ギザギザの刃を持ったフランスパン用のナイフが、事務所の明かりに照らされた。今日も虎鉄はパン油に飢えている、そんな言葉が聞こえそうだ。

 

 全てを見たわけでは無かった。まだ集めるべき情報はあったのだ。

 まゆは己の失策に歯噛みした。

 しかし、まだだ。まだ負けたわけではない。

 論破すればいい、詰むには早い。

 貫け、奴よりも早く……!

 

「異議ありっ!」

 

「いきなりですが認めます」

 

 こくりと楓が先を促す。互いに真剣な表情だ。おそらく最後の一撃になると理解しているのだ。

 これを失敗すれば、負け。

 思い浮かぶのはみくにゃんに焼き土下座、伸びたラーメン、33-4、シンクと焼きそば……。

 

「……楓さんは、冷えたフランスパンを薺さんに食べさせるんですかぁ?」

 

 稲妻の如く、それは楓に衝撃を与えた。

 社員食堂で提供されている食事は暖かい。まゆのお弁当は愛情が籠っている。

 だが、楓のフランスパンはどうだろうか。冷えている。かちかちかもしれない。ライトセーバー? 違う、これは鈍器だ。

 ライトセーバーと銘打ったが、結局ただのパンだ。薺の声真似によるSEが無ければ石器時代の勇者が持つあれにすら劣る。別にジェダイとして修業し、一人前になって必要なときに手に入ったわけでもない。パン屋のおじさんに頼み、手作りしたパンだ。寝坊しないように前日には酒を控えて朝早く起き、捏ねて、焼いたフランスパン。

 愛情一本、フランスパン。

 

「まゆちゃん、貴女、勘違いしていないかしら……?」

 

 垂れ目がキュートなまゆの瞳が開かれる。かわいい。

 

「私が用意したのはフランスパンだけじゃないわ」

 

 そうして楓が懐から瓶を取り出す。それは契約の箱だ。薺を骨抜きにする、必殺の兵器。あんなものが持ちだされたら、この戦いはノーゲームとなる。

 やめてっ! まゆが叫ぶ前にそれは開かれた。

 

「戦いは、悲しみしか生まない。でも貴女がそれを望むなら私は……」

 

 意味深な言葉とともに蓋を空ける。

 薺の好物、餡子が詰まった瓶が解放された。

 解放されてしまったのだ。

 これから始まるそれは、きっと餡子にしか興味を示さない男の物語……。

 

 

 

 

 

 

 なお結末だが、フランスパンに餡子は合わないという理由で楓の懐に戻された。

 結局、薺のデスク近くで、楓とまゆも一緒にご飯を食べることになった。

 そして、この勝負の勝利者は……

 

「ちひろさんのお茶はいつも美味しいですよね」

 

「あら、そういってもらえるなんて嬉しいです。まぁ、なずなくんの好みはなんでも知ってますからね!」

 

 緑の事務服を着た、三つ編みが可愛らしい千川ちひろが掻っ攫って行った。

 堂々と薺の隣に座して世話をしながら、まゆのお弁当を食べ、トーストしたフランスパンを齧る。

 彼女に比べれば誰もがひよっこ、誰もがルーキー。

 ちっひこそが勝者で、他は全て敗者なのだ。

 最古参は伊達じゃない。

 

 

 

 

 ぷすーとむくれた楓が、薺のデスクから飴を漁る。

 ちひろへの、せめてもの反撃だ。

 赤い包みから飴を取り出し、そして、

 

「くふっ……! けほっ……!」

 

「楓さん! なんでジョロキア・クリスタルなんて劇薬を口に……!」

 

 薺に心配されながらも激辛に倒れ伏す楓、その横顔はどこか満足げだった。

 やっぱり楓さんはすごい、まゆは尊敬と畏怖を抱えながらそう思った。

 

 

 

 

 

 ―― 2

 

 楓さんには辛い物はあまり口にしないようにと注意を促しておいた。喉を傷めて綺麗な声が出なくなったらと思うと、ゾッとする。大事に至らなくて良かった。廃棄に回し、ちひろさんにもこういうのは頼まないように告げておく。

 「薺さん! まゆは次こそは勝って見せますよぉ!」となぜか気合の入ったまゆを見送る。

 俺に凭れかかってぐったりしていた楓さんは「今日はお休みなので、お酒を呑みに行ってきます」と去って行った。

 ちひろさんも仕事を始めただろうし、俺も頑張ろうかなっと事務所の扉を開ける。

 

「ほわあぁぁぁぁ、のこったたいおんすごすぎるよぉぉぉぉ」

 

「えっ」

 

 ありすが、俺の椅子でとろけていた。

 

 

 

 

 

 目が合ったことに気付いたありすが、いそいそと立ち上がる。

 そして、綺麗な姿勢で椅子に正座した。

 

「どうかしましたか、なずなさん」

 

「いやどうって。むしろ、ありすがどうなのっていうか」

 

「……あ、温めておきました」

 

「えっ」

 

「どうぞ」

 

 豊臣秀吉か、君は。

 

 

 

 

 


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