完成したら残りの3分の2と連結させたり入れ替えたりするんで、読み直しが面倒だなって人は読まない方がいいと思います(天才的な助言)
--9
私が気付いた時には、どうすることもできなかった。世界が捲れ上がっている、そんな複雑怪奇な状況だった。突き抜けるような青空があるはずの上空には、もっとずっと遠くにあるはずの街並みが、反り返って見えた。まるで地球が内側へと閉じたかのようだった。薄暗い世界でただ一人。
親しい先輩のお見舞いに行こうとしなければ、こんなことにはならなかったのか。後悔が思考を染め上げる。
「ここはどこなの……? ほむらちゃん……?」
茫然としながら親友である
瓦礫の隙間から沁み出した赤い生命の液体が、飛び散って転がっている親友の断片が、私の足を染料のように鮮やかに彩っていた。
私が誘わなければ、こんなことにはならなかった。私を庇わなければこんなことにはなっていなかった。彼女はまだ生きていたのだから。
理解したくない現実が、足元の染料から沁み出すように恐怖が迫ってきた。
恐怖と喪失、絶望、後悔、あらゆる悪感情が綯い交ぜになって、襲ってくるようだった。
「うぐっ……」
気持ちが悪いのに何も出せない。感情ごと吐き出したいのに、上手く行えない呼吸がせき止める。
あまりの気持ち悪さに垂れ流された唾液や鼻水、涙だけが重力に引かれるように、地面を濡らした。
苦しいのに、どこか安心している。一時の苦しさが、一時の忘却を齎す。苦痛に安らぎを見出して、絞るように、空気を吐き続ける。遅れて吐しゃ物がこみ上げ、溢れ出た。
喉に詰まった。とても苦しい。苦しさに安寧を見出したくせに、必死に空気を取り込もうとする私はとても浅ましい。
白んでいく意識が、立っていることすらも許さない。
べしゃりと音がして、吐しゃ物の上に倒れ込んだ。口も鼻も詰まっていた。このまま苦しんで死ねば、許してくれるだろうか。
「此処は東京だよ」
意識が浮上した。死んでいない。死ねなかった、死ななかった。生きていられることに、愚かにも私は少しだけ喜んでしまった。浅ましい。
私は抱いた感情を忘れるかのように、その声に導かれて視線を上げた。体に力が入らない。吐しゃ物を枕に、砂と瓦礫の大地に横たわったまま。
長い耳が特徴的な、白い猫に似た愛らしい小さな動物が瓦礫に座っていた。ルビーのような緋色の瞳と目が合った。感情の無い、無機物のような瞳だった。
「東……京……?」
私が反芻すると、満足げにその長い耳を揺らした。
「君たちにはわかりにくいかもしれないけどね。実験室にあるフラスコの中とでも表現しようか。神がいる世界を木の幹と仮定したとき、この世界は枝葉の先程度の世界でしかない。つまり神の威光は遠く届かず、御使いたちにも声は届かない。そんな世界をより複雑に分断し、余計な要素を時間から切り離して、さらに彼の威光が届かなくなった世界になるようやり直すために誘導してみたんだ。彼が「光あれ」と言ったと
何を言っているのかわからないのに、目が離せない。その声を聞いてしまう。あまりに蠱惑的な、その姿に、声に、心を奪われる。
「新しい神が世界を創ったとき、または壊したとき。異なる次元も事象の転換に巻き込まれることは儘或る。そして神を殺してヒトの時代が訪れる。唯一無二の存在がいない、強靱なヒトの時代。ヒトが持つ唯一絶対の力、それは自らの意思で進むべき道を選択すること。観測先の神すらもいない末端の世界。キミたちは常に自分にとって最良の未来を想い、自由に選択していくことができる。ボクはその姿が見たい、そしてその先が見たいのさ。先が見えなくても、どこまでも歩いて行こうとするその意思の強さに憧れる。未来が潰えているかもしれないのに、生きようと希望を持つ心にずっと恋してるんだ」
世界が闇に呑まれていく。その中で、瓦礫に座る白い小動物の赤い瞳だけが、爛々と輝いていた。
「
「ほんとうに……?」
「勿論さ。キミなら簡単だよ、ボクにはわかる。痛痒も無く、理想だけがその手に残る。さあ、これを受け入れて女神になってよ!」
小動物がそう言うと、手の平で包めるほどに小さく、可愛らしい桃色の宝石が目の前に浮かんでいた。
これがあれば元通り。
誘われるように、導かれるように、私は手を伸ばす。
もちろん怪しいと思う。危険なのだろうとも。だけど、これしかないから。縋るものが無いとどうすることもできないじゃないか。
「……ボクはね、ずっと昔から愛してるんだキミたちを」
宝石を両手で包む。指の隙間から、薄らと桃色の光が漏れ出している。
「痛……? 痛ぃ! 痛いよおおぉぉ! ほむらちゃん、助け……! あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛!!! 」
宝石に触れると、手から滑り込むように痛みが溢れ出た。腕から始まり、胸や頭、足先まで熱した棒で掻き混ぜられているかのような痛み。
身体が作り変えられているかのような苦しみが、脳を苦痛で溶かす。
「嗚呼、忘れていたよ。痛みも悲しみも通り越すのは、キミにとって、もっと未来の出来事だったでも安心して欲しい。希望から絶望へ向かう感情の相転移は素晴らしい糧であり、強者に生まれるためのエネルギーとなる」
赤い瞳だけが、暗闇で爛々と輝いていた。
「ハッピーバースデー、新しい人修羅の誕生さ」
--10
寝起きよりも気分よく目が覚めた。不快な感情は一切なかった。
そこは何処までも広がる白い場所だった。見上げるほどに巨大な扉が一つあるだけの、白い場所。扉には見た事のない幾何学模様や奇抜な文字が刻まれていて、辛うじて中央に描かれている巨大な樹がわかる程度だった。
扉の周囲には、幾人かの大人や子供が居た。戦闘機や人型のロボットも複数台ほど鎮座していた。また、離れた場所に立っているサングラスの男性は、美しい女性を伴って、私が見た事のない凶悪な珍獣の世話をしていた。
ここは何処だろうか。
「こんにちは」
「えっと、あ、はい。こ、こんにちは」
きょろきょろと辺りを見回していると、女性に挨拶された。私と同じ長い黒髪の女性。ただ、私よりも背が高く、肌も白い。大人の女性というやつだろうか。女性は、学帽と男性の学生服を着ていて、昔の学生のような出で立ちだった。帽子から黒い猫の耳のようなものが浮いていて、腰の辺りからは長い尻尾が見えた。コスプレかもしれない。
「私の名前は……
「えっと……は、はくのさん?」
「うん、よろしくね」
綺麗な声の女性だったが、感情を表に出さない人なのだろうか。表情はあまり変わっていない。
どこか作り物のような雰囲気があった。
「その、私は暁美、ほむらです」
「ほむらちゃん、か。かっこいい名前だね」
「……! ありがとうございます!」」
親友のまどかと同じ、かっこいいと言ってくれた。信頼できそうな人だ。
あれ、ついさっきまで一緒にいたはずのまどかはどこに……?
「ここが何処かわからない貴女に教えておくね。ここは
はくのさんの猫耳や尻尾が揺れる。コスプレにしては良く出来過ぎていた。
そうだ、思い出した。
瓦礫が降ってきたのを発見した。だが、発見が遅れてまどかが危なかったから、なんとか助けようとして、それで……。
「そっか。死んじゃったんだ、私」
まどかがどうなったのか気になったが、ここにいないのなら助かったのかもしれない。安心したけど、ショックだった。
目頭が熱くなる。涙が零れそうだった。
「うん。だけどこれから生き返られるから」
「え?」
「詳しくはスティーヴンが来てからにしよう。とりあえず頑張ったら生き返ることができるから頑張ろう。私も手伝うから大丈夫」
グッと両手を握りしめたはくのさんが「頑張れぇー」と応援してくれた。
あまりの意味不明さに、涙は出なかった。
やることもないのではくのさんの横に座る。はくのさんは佩いていた刀や古い銃を眺めていた。死後には銃刀法違反は無いんだな、とくだらないことを思った。遠くでは戦闘機が飛んでいたり、緑の光を纏ったロボットが男性になったりしていた。
そうしている草臥れたサラリーマン風の青年が、歩いてきた。腐ったナニカと、囚人服を着た幼い少年を引き連れていた。そして周囲の様子を眺めると、大きく溜息を吐いて、離れた場所に座った。
次は鮮やかな赤い服を着た人形がふわふわと飛びながら現れた。人間の少女のような、精巧な人形だった。
最後に、青い髪の少女が飛んできた。背には燃える炎の翼。私達の方へと近づいてきて、はくのさんと一言二言だけ交わして、私と反対方向に座った。
中央に在った巨大な扉が開き始めた。何処までも暗く、冷たい空気が漏れ出してきた。
錆びた金属がこすれ合ったキイキイという音を立てながら、車椅子に座した男性が現れた。白髪の初老の男性、赤いスーツを纏い、車椅子に座りながらも足を組んでいた。
「君たちに話をしておこう。これから現れる
--11
奇妙な縁で、学生たちが足立と同じように力に目覚めていることに気付いた。自分だけが特別だという意識が無くなり、その力に失望すら抱いた。特別でなくなった力を捨てて、また空虚な日々を送るはずだった。
研修で八十稲羽署へと行かされた後で、足立の人生は少しだけ人と関わりを持つようになるまでは。
研修先で、足立が指導されることとなった堂島という男は、古いタイプの人間だった。堂島は生真面目で不器用かつ情に厚い、と往年の刑事ドラマにいるような男だった。思考も行動も同様で、仕事は足で稼いでこそ、と考えていた。堂島は、内心でまるで化石だと呆れて馬鹿にする足立に厳しく、そして親身に接した。足立の指導をしている間に妻を亡くしていること、そして、それでも親身に接してくれていることに足立は気付いた。
足立は自分が再び、何か特別であるかのように思い始めていた。
さらに足立は「透ちゃん」と呼び、可愛がってくれる祖母のような存在とも出会った。彼女もまた、足立に親身になって世話をしてくれた。
足立が個として特別であると意識したときの絶頂期だった。
堂島と交流が進むと、自然と彼の娘である菜々子と接する機会も増えた。堂島に、兄や父へと向ける感情を抱き始めていた足立にとって、本物の娘というのは叶わない存在だった。足立は、どうにも嫉妬のような感情を抱くようになっていた。年端もいかない、母を失った少女に対して。捻くれた
さらに足立は最後に残った居場所を失った。実際は違うかもしれないが、そう感じるようになった。可愛がってくれた祖母のような人の、『本物の孫』が帰ってきたのだ。足立と違う、『本物のエリート公務員の透ちゃん』が。
足立の心は軋むようだった。手に入れたと思った物がするりと手から零れ落ちた。自分には特別な力があるのにどうして、暗い部屋で独り握りしめた拳から血を滴らせながら、自問を繰り返した。世界から色が急激に褪せて行った。
それでも堂島との交流は楽しかった。娘がいても、まだ居場所があったから。
長期の休みに堂島の甥である鳴上が遊びに来ることで、劇的に変化した。鳴上はまだ中学生だったが、同世代の少年少女と比べて聡明で、年相応に無邪気だった。誰もが好感を抱くような理想的な少年。八十稲羽でいくらか改善されたとは言えども人間同士の争いで擦れた足立が、ひどく劣等感抱くのは当然だった。
足立は誰にとっても特別では無く、居場所だって何処にも無かったと気付くのに、そう時間はかからなかった。
影時間になる度に、その滾るような濁った感情を振り翳した。日常ではおくびにも見せないそれは、足立の心をかき乱した。言葉にできない複雑な感情の発露は、ただ原始的な力の行使である暴力という手段が誤魔化してくれた。影時間が無ければ、どうなっていたかわからない。他人を手に掛けていたかもしれない。それくらい激しくて、暗くて、冷たくて、何処までも虚しかった。自分を必要としない世界に生きるのは苦しかった。
ペルソナが腐った姿に変異したのはそのときだった。全てを殺したい、壊したい、死に触れてみたいと思うようになってからすぐのことだった。醜いその姿を、不思議なことに足立はすぐに受け入れた。まるで苦しむように求められていたかのようだった。だから否定しなかった。
そして、転機は訪れた。鳴上が、影時間の中を一人で歩いていたことだ。足立としては放っておいても良かった。化け物に食われたら、居場所がまた空くのではないかという考えも浮かんでいた。ただ、堂島に「時々で良いから世話してやってくれ」と頼まれたことを思い出した。結局、弱弱しい化け物を駆逐しつつ、迷い込んだ鳴上を保護して家に送っていた。自然と身体が動いていた。今後また面倒をかけられては困るとあまり詳しくない事情を説明して。それ以来なぜか、足立は鳴上に慕われるようになった。
鳴上は暇なときには足立に付いて来るようになっていた。堂島はそれがまるで兄弟のようだと笑ったが、足立には何も面白くなかった。憎しみすら持っている相手が付いて回るなど、面倒で苛立たしい事だと思っていた。
仕事の途中でも鳴上が後を追いかけてくるようになり、食事を供にするようになった。堂島の代替のように扱っていたのかもしれない。そんな日々が続き、自然となりつつあった。慣れとなって麻痺したように、足立は鳴上を受け入れていた。
そして、ぽつりぽつりと鳴上は付いてこなくなっていた。足立が物足りなさを感じ始めていた早上がりの日、鳴上が色々な人々と交流を重ねている姿を見た。誰にでも優しい顔をして、誰にでもすり寄る姿を。この田舎での生活に慣れてない内に、拠り所として足立を使っていたのだろうと思えるような姿だった。
やはり特別では無かったのだと裏切られたような気持ちを、足立は勝手に抱きながら歩いた。無意識のうちに足が向かったのは、堂島家だった。堂島と一緒に食事でも取れないだろうかと未練たらしくチャイムを鳴らす。迎えてくれたのは菜々子だった。それが足立にとっての、彼の生き方を決める、最期の転機だった。
夕方の薄暗い部屋で、菜々子は一人でテレビを見ながら宿題をしていたようだった。話を聞くと、夜までそうやって過ごしているらしい。違うのは、電気を付けるか、腹を空かせているかくらい。堂島はまだ仕事をしている。そして、帰ってくるのは遅くなるという。鳴上は外で遊んでいる。同様に遅い日もあるという。二人に愛されている菜々子は、今、何も特別では無かった。愛されているはずの彼女は、足立と何も変わらない側面を持っていた。勉強を教えてやれば、普段のからかいに警戒しながらも喜んで近づいてきた。堂島と鳴上が二人で帰ってくれば、そっちへとすぐに向かった。菜々子も、そして、足立も同様だった。菜々子は足立よりも鳴上を、足立は菜々子の相手よりも堂島を優先しようとした。そういうものなのだろう。
夕食を囲んだ帰り道に、一人で足立は考え込んだ。求めてただ待っている姿勢が、幼い少女と同じだということに。自分は何かしたことがあっただろうか。しようとして、手を差し伸べたことはあったと思考する。相手が手を払っただけだ。そうだ、自分はできることをしてきた。してきたつもりだ、と。
その翌朝、足立を「透ちゃん」と呼んで可愛がってくれていた祖母のような人が目を腫らしながら軒先を掃除していた。話を聞くと『本物のエリート公務員の透ちゃん』が帰ってしまったらしい。自分を裏切ったからだと足立は内心で笑みを浮かべた。自分を必要として、信じていたら、きっと……きっと? 研修で八十稲羽署へと来ているだけの自分なら、どうだというのだ。そもそも、自分ならどうだったか、足立は考えたことがなかった。親友ができたとして、恋人が出来たとして、相手が特別だと思い続けられただろうか。いや、出来ないだろう。出来るわけがなかった。足立が意識する特別とは、依存よりももっと深く、不可能なことだ。空気のように自然で、それでも常に意識しなければいけないなど、正気では無理だし、狂気に陥っていたら尚更無理だ。そもそも、祖母のような人にとって、代替だとしても、足立は特別な人間になりつつあった。だが、足立には彼女だけの特別ではいられなかった。漸く足立は気づき始めた。幻想を追いつづける自分の姿と妥協しなければいけない現実に。他にばかり理想を押し付けようとする、愚かで滑稽な自分の姿に。
祖母のような人に挨拶をして、堂島に仕事を教わり、鳴上と交流して、菜々子に勉強を教える。その間にも、仕事柄困った人々の手伝いをして、堂島と異なる上司に怒られ、歳の近い同僚に慰められる。一日だけでも様々な人と関わっている。誰かしらの傍にずっといることはできない。そして、それが自然なことなのだと知った。やっとわかった。わかったつもりになっていた足立は、やっと理解した。人として普通の事を、足立は識った。幼稚な自分を識ることが出来た。心に染み入るように抵抗なく、生きるとはそういうものなのだろうと足立は理解した。誰かにとって特別であろうと、常に唯一にはなれない。人と人は繋がりながら、離れていることに。繋がっているように極めて近く、そして限りなく遠く離れている。街中を歩いてすれ違うように様々な人と近づき、離れ、また近づく。その行為の繰り返しだということに。
そして、足立は奇妙な夢を見た。鼻の長さが特徴的なイゴールと名乗る老人と話す夢だ。足立にとって大きな出会いや別れ、事件が起きて解決まで導いた時に見る夢だった。
夢を見る度に、足立は自らの仮面が傍に近づいて来るように感じた。それは鳴上とともに深夜の巡廻を続け、八十稲羽を守り、ついに朽ち果てた神社で女神トヨタマヒメと出会った時から始まった。
都会に帰った後も、足立は必死に生きた。クソみたいな世界だと罵りながら、そういうものだと妥協して、何時かまた信頼できる人々と擦れ違えることを期待して。
それから足立は、時々夢を見る。深く長い夢の時もあった。白昼夢のような浅く短い夢の時もあった。
幾度もの小さな絆と、安らぎの夢を重ねた。
「世界を包んでいた霧が払われようとしている……? だが、それでも滅びを遅らせるだけだ」
夜の帳を纏ったニュクス・アバターが空を見上げて呟いた。ニュクス・アバターは、今では見る影もないが望月という少年の姿で生活していた。世界を滅ぼすような気質では無く、遊ぶことが好きな女好きの少年だった。
だが、足立にはどうでもいいことだった。草臥れた印象を与えていた、よれたスーツが血で濡れていることも、骨が折れ、肉が削げていることも、やはりどうでも良かった。ここを任せる様にと大言を吐いて、モナドマンダラの先へと急がせた仲間たちのことだって気になっていない。どうせ死ぬのだから、何処に居ても一緒だった。世の中は一様にクソで、ずっとずっと鮮やかだ。仲間なら終焉もどうにかできるのだという期待を持っていた。
ニュクス・アバターの理解できない苛烈な攻撃を前に、足立の意識は曖昧で、風前の灯火という状態だった。気に入って使っていた赤いネクタイが、自分のどす黒い血で汚れていくのが、ぼんやりとながらに気になった。血が足りないのか、意識が薄れてゆく。いつも見る夢が近づいている。そして、夢へと迫る意識の中で、仮面は足立を慈しむように見守っているようだった。
いつものベルベットルームで、イゴールがいつものように机に腰かけていた。光量が絞られた薄暗いその見慣れた部屋は、足立にとって居心地のいいものだった。イゴールの正面に置かれた椅子に、いつものように座る。何時の間にか、机の上に紅茶が出されていた。香りを楽しみながら、紅茶を含む。足立が何か言わなければ、イゴールも何も言わない。いつものことだった。
足立も最初はイゴールの怪しさに疑いを持っていたが、イゴールは常に優しく足立を見守り続けていた。イゴールのそんな姿は足立にとって悪い物ではなかった。気付けば気を許すようになっていた。誰かと出会い別れたり、事件を追って解決したり、そういった人生の小さな転換の度に出会うイゴールに、成功したことを自慢げに、失敗した遣り切れなさを悔いを交えて、話すようになっていた。イゴールはそんな足立の話を楽しそうに聞き、時には相槌を打ち、時には小さな助言をした。それがいつも通りだった。
イゴールと足立の丁度中間に、か細い光を放つカードが浮いていた。いつもとは違う様相。これがイゴールと向かい合う最期なのだろうと足立には漠然と理解できていた。紅茶を飲む間、走馬灯のようにこの部屋に来た時の思い出が甦った。
トヨタマヒメを説得し、守り神としてタマヨリヒメに八十稲羽を守ってもらえるように交流を重ねて約束をした時。
鳴上が都会へと帰る際に、お礼にと折鶴を貰った時。
研修を終え、堂島に祝いとしてネクタイを貰った時。
菜々子にお礼と別れの手紙を貰った時。
祖母のように慕った人に、帰りの電車で食べなさいと弁当を貰った時。
都会で仕事をしながら、影時間の解決に奔走することになった時。
鳴上を始めとした学生たちと交流し、保護者として世話するようになった時。
仕事で同僚の本音を打ち明けられた時。
大人として、影時間の中で戦う学生たちを導くことになった時。
噂が現実となる奇妙な異界の幾つかを解決するために駆け回り、仲間が増えた時。
仲間とともにバイクを弄り、本音で接してもらえるようになった時。
幼いペルソナ使いや動物の世話に慌ただしくも対処し、感謝された時。
ペルソナを介してニャルラトホテプに乗っ取られた人間が悪意を振り撒いていることに気付き、それを止めるのだと仲間たちと決断した時。
タカヤという男と交流を重ね、親友とも呼べる仲になった時。
タカヤに世界を滅ぼそうと誘われ、断って倒して、彼の遺言とともにリボルバー式拳銃を譲り受けた時。
幾人かの仲間が死んだ時。
少しの仲間を守れた時。
仲の良かった望月という少年が滅びの宣告者であり、人に憧れを持ち殺したくないと言う悲鳴を聞きながらも、どうにも出来ないことを理解した時。
そして、世界の終焉へと挑む今。
ゆっくりと紅茶を飲み干し、カップを受け皿に置く。かちゃり、と陶器同士がぶつかる音がした。何処までも広がる暗闇のベルベットルーム、反響することなく音は消えた。
立ち上がりながら、カードへと手を近づける。消えそうで消えない光が灯ったカードは、足立には何か掛け替えのない物に思えた。
「これを使えば一発逆転、なんて都合の良い道具なわけないよね」
足立の言葉にイゴールが喉を鳴らして笑いながら頷いた。都合の良いことなんて無いことくらい、足立にだってわかっている。世の中はクソだ。報われることのほうが少ない。
「それは紡いできた絆の力。人の繋がりのようにか細く弱くも見える。決して奇跡を起こせる物ではない。しかし、暗闇の中で輝くその光は、孤独だった貴方を勇気づけてくれるでしょう」
「……よくわからないけど、いつも通り自分でやってみせるさ。僕だけでも何とかなる気がするし。小難しい話も今日は要らない」
カードに触れる。
暗所のようだったベルベットルームに柔らかな光が射した。見上げると天井は無くなっており、何処までも突き抜けるような美しい夜空が広がっている。柔らかな光を放つ鮮やかな月が浮かんでおり、星が瞬いていた。
「……主の言う通りでした。貴方は元から孤独では無かった。こんなにも月と星が綺麗なのですから」
ベルベットルームとイゴールと姿が遠ざかっていく。目覚めが近い。
「夢が終わる時が来ました。そして、運命の待つ現実とは何処までも貴方に厳しい。……貴方は、素晴らしい隣人だった」
イゴールの呟きを聞き、笑みを浮かべて手に持っているカードを眺める。絵の無いタロットカード。0という数字だけが、薄く描かれていた。
足立にとっても、イゴールは素晴らしい隣人で、そして……。
「……嫌になるよ。必死に頑張れば大人になったら報われるなんて、全部ウソ。勉強してても、汚い人間関係の円滑な進め方や権力闘争の勝ち方なんてわからないし」
足立が倒れた姿勢から起き上がりながら、言葉を漏らした。骨が軋む音がする。血がいつまでも流れ出ている感じがする。呼吸するのだって窮屈だ。世界はこんなにも狭かったのか、潰れた片目から生ぬるい液体が流れた。
地面に座っているだけで、あと数分もしたら天に召されそうなほどだ。満身創痍という文字を辞書で引いたら今の自分が描かれているのではないかと足立は思った。
「足立さん、そのまま寝ていた方が良かったと思うよ。立ち上がっても苦しいだけ、痛いだけ。どうせ死が訪れる。終わるのなら楽なほうがいいじゃないか」
人間臭いニュクス・アバターの言葉に足立は笑う。
「ホントそれ。僕もそう思うよ。何やってんのかなって。起きたら夢だったらいいなって思って眠ろうかと思ったくらい」
喋るだけで口から血が零れる。ひゅーひゅーと音がして、呼吸だって難しい。会話できていることが奇跡的だとすら足立は思ったが、意地が勝った。何もないはずの空虚な心に宿った小さな意地が。
「僕は大人だから、子供の我が儘くらい受け入れてやらないといけないって堂島さんに教わった。子供が悪いことを理解しながらやるのは叱って欲しいからだと達哉くんも言っていた。寂しがっていたら面倒だけど面倒を見るのが当たり前って菜々子ちゃんと過ごして識った。苦しんでたら手を貸すのが縁だって悠くんが教えてくれた」
召喚器を拾い上げる。ペルソナを召喚する補助具でしかないそれは、元から不要だった。ただ、仲間として受け入れられた証だったから、持っていた。
自分を必要としていない世界なんて滅びてしまえば良いと足立は考えたことがあった。今、この場で最も必要とされているのは自分だった。世界に、仲間に、そして望月に。
自分じゃなければいけない場面で、特別を求められているのなら、それに応えるのが当然だろう。足立にも意地がある。空虚だった心にだって、微かな光が灯っている。
「何もしないで死ぬまで黙って寝てろだなんて、ひどいことを言うじゃないか。とんだ悪ガキだよ、ホント」
召喚器は、手を離せば当然のように重力に引かれ、かつんと音を立てて地面に落ちた。
その様に反応したニュクス・アバターに見えるように、左手に持っていたカードを砕いた。
―― 小さき封印が、ニュクス・アバターを拘束する ――
「足立さん……? この力は……一体……」
「薄っぺらい僕の人生経験さ。辛苦の入り混じったそれは、見た目よりも重く固いと見えるね」
ニュクス・アバターに淡い光の鎖が幾重にも巻き付き、動きを止めた。ぎしぎしと音がする。それは、今にも千切れそうな程に弱く頼りない拘束具だった。
だが、外れない。外れるわけがない。
「……それで、僕の動きを少しだけ止めてどうするんだい? 確かに僕は取り込まれ、ニュクスそのものとなっているけれど。決してデスの訪れを止められるわけではないんだよ。太古の昔、生命に死を与えたデスの肉体は月にある、こんなことに意味なんてないんだ。愚者は何者にも成れず、何も出来ず、何も変えられない……」
足立が傍に転がっていたリボルバー式拳銃「S&W M500」を左手で拾い上げる。血が滴ったそれは親友が遺した大事な宝物だ。
「ずっと意味わかんないことばっかり言って、ちょっと必死すぎない? 運命がどうとか、そんなのどうでもいいじゃん。君は馬鹿でどうしようもないんだね。 だから大人の僕が殺して
他の事は、みんなに任せるよ。口の中で、言葉にしなかった思いが溶けて消えた。
こめかみに向けたリボルバーに残った弾はちょうど一発。これも運命というやつだろうか、足立は笑う。そんなものないと言いつつ、神秘的なそれを感じてしまう。
「ペルソナ」
リボルバーが炸裂し、足立の頭部を消し飛ばした。血が霧となり、脳漿が飛び散った。
衝撃に耐えかねた足立だった物の左手が、リボルバーを握ったまま千切れ飛んだ。
足立は自らのペルソナを幻視した。優しく、慈しむように、そして労うように自身の頭を撫でてくれるそれ。仲間から評判の悪かったペルソナだが、やはり足立には何処までも美しく見えた。
ペルソナの力を使うには幾つかの方法がある。異界で自身向き合い認めることでペルソナとして制御する、異界でペルソナを否定することで飲み込まれ自我を乗っ取られる、素質ある者が強い絶望に飲まれシャドウへと至る、分霊の一つとして似通った人間に貸し出す、等だ。ペルソナは神や悪魔、天使の姿を持っており、伝承に伝わる強い力を手軽に使える利点がある。しかし、力が及ばなければ制御に失敗し、乗っ取られることもある。反転召喚とも呼ばれるペルソナの暴走だ。
ニャルラトホテプは人間のペルソナを介して、この世界へと干渉するために現れた。反転召喚によって器を食い破り、世界へと生まれた。
足立にも出来ないことじゃない。力が足りないのなら、来てもらえばいい。ただ、それだけのことだった。
「滅び行く世界に合わせて神を呼び出そうだなんて……! 足立さん、貴方って人は……!」
奇跡的に状況は揃っていた。
今現在、愚か者のお蔭で世界は生と死が輪廻しており、死した人や悪魔から溢れ出たマグネタイトで満たされている。子である足立は、生を望みながら死へと落ち、その感情は最上の供物であり祈りとなった。
場と道は出来ていた。
頭部を失った足立の死体が、急速に腐っていく。肉は腐り、骨は溶け、腐臭で満たされる。僅かに残った頭蓋、その底から、どろどろとコールタールのように真っ黒な液体が滲み出していた。とてつもなく恐ろしい神気が湧き出す。
呼ばれたその神は、母であるその身が愛しき我が子に頼られたと、歓びのままに顕現しようとする。昏く深い夜を見る黄泉の国から。
ずっと見守っていた、要領が悪く、不器用で、だからこそ何処までも可愛い我が子に求められて。止まることは無い。誰にも止められない。女神を止められる者は、この場にいない。
腐った身で、その神は現れた。
「嗚呼、愛しい子らに求められ、母は参りました。幾人もの不出来な子を殺してきて良かったと、心から思います。殺してきたからこそ、愛しき子らが生まれた。
腐った足立の死体を、汚泥が浸食した。ぐずぐずと絶えず腐っている。腐敗した肉や骨から流れ落ちた黒い滴りが、地面を汚し、空気を汚し、世界を汚す。汚れから、黄泉の悪魔が湧いて出る。
「母として、誠をもって子らの労苦に報いましょう。そして、神として、心を尽くし魂を尽くし力を尽くしましょう」
腐った汚泥が、美しい声で言葉を紡ぎながら、吐き気を催す醜悪さで、ニュクス・アバターへと這い寄る。
ドロドロとあらゆる全てを汚しながら。
ニュクス・アバターごと異界が汚泥に飲み込まれた。
そこには、腐敗した世界だけが残された。
有里は、その顛末を見せつけられながら、デスである月と対峙した。異界が解除されたからこそ、デスと対峙できた。
そして、幾度も死に掛けようとも立ち上がり、大いなる封印により、有里はその命を対価にデスを封じた。
だが、封じることができたのはデスの体だけ。
精神である集合無意識は、ただ静かに、東京へと降り注ごうとしていた。
キャベツが望月君と鎖を使った拘束プレイして東京の一角が(物理的に)腐っただけで三分の一ですよ。
たまげたなあ。
時系列と設定もまとめ終えたら上げたいなって。