実験室のフラスコ(2L)   作:にえる

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 重力の虹理論は一般相対性理論と量子力学の調和を図るために提唱されたもので、アインシュタインの相対性理論が「重力とは時空の歪み」としているのに対し、重力の虹理論では「異なる光の波長によって生み出されるもの」だとしている。つまり「虹理論」では、異なるエネルギーを持つ粒子は異なる時空と重力場へ移動することを意味しており、異なるエネルギーを持った粒子は異なる歪み方をすることによって、まるで虹のような軌跡を描くことになると考えられている。
 すなわち宇宙に存在するあらゆるものの質量が極限までの圧縮によって無限大にまで膨らみ、それがブラックホールとなって連鎖的に崩壊へと進むのだという。この、恐ろしくも興味深い重力の虹理論を使って科学者たちはマイクロブラックホールを解明しようとしていた。
 そして、世界が注目する中、某国で大型ハドロン衝突型加速器によるブラックホール実験が行われた。
 その実験結果は、1秒間に数億回の衝突によって発生するデータは大半が切り捨てられても1秒あたり100万GBを要した。
 しかし、既存のコンピュータでは解析しきれなかった。そのため、次世代スーパーコンピュータである「ノア」が開発された。ノアによる観測によって世界は新たなる発展を迎えようとしていた……。


原作:女神転生シリーズ ペルソナオリジナル1

 

 

 

 

 

 宇田須 壱縷(うたす いちる)は高校二年生である。

 背は百七十から百八十のちょうど中間、体重は六十五キロ。

 視力は両目ともに良好。

 髪は短く清潔で、いたずらに染めることもなく、光に照らしてなお真っ黒だ。

 容姿は十人中十人が悪くない、むしろ良いと答える程度。

 声も年齢に伴った低さで、快活というほどでもないが、どもることなく滑らかで聞き心地がいい。

 

 ただし、纏う雰囲気が最悪。

 改善する兆しはなく、悪化だけを辿り。

 何処が如何だとか、そういう段階は通り過ぎていた。

 その様はまるで、良くない何かに魅入られているかのようだった。

 

 

 

 

 

1章 『冷たい世界、朽ちた本』

 

 

 

 

 

 --1

 

 勉強机に置いてあるデジタル時計が時間を刻む。よどみなく、一秒一秒を過去へと捨てる。ながれるように、一秒一秒未来を取り込む。

 時間支配したくらいで調子づいてんじゃねぇぞこの糞時計が、と放り投げる。そして俺は頭を抱えた。夏休みが終わるなど、誰が予想できただろうか。アインシュタインも驚きの事実だ。

 なぜ終わるのか。何度も逡巡した。そして答えは出た、新学期が始まるからだ。

 八月が中頃になると、満喫し切ってやることも無いなど愚かにも慢心した時期もあった。だからこそ悔しい。だからこそ惜しい。あの時の、一日に流れる雲を数えるなどという無駄なことを行った時間が。

 なぜ時間を平等に流すのか、俺だけが好き勝手してもいいじゃないか。純真な思いだった。

 明日が来ないでくれと祈っている訳ではない。純粋に、飽きるまで今この時をエンジョイしたいだけだ。心が躍って飽きたら明日が来ればいいのだ。良い事言ったぞ、俺。

 強く思う、時間を操作できるのなら全てを奉げても良いわけではない、と。好き勝手するためだから代価が必要になるとかクソすぎる。自由にさせろ。抑え込まれた未熟な魂が叫んでいた。まるで校舎の窓を全部叩き割るかのような思いだった。

 行き場のない悲しみが身体を動かした。机に突っ伏したのだ。まるで不貞寝のようだが、違う。俺は防御の姿勢を取ったのだ。背中の防御力は、腹よりも高い。つまるところ時間への反逆だ。よって無敵。

 かちゃんと陶器が擦れる音がした。肘が、眠気覚ましのために置いたコーヒーカップに触れたらしい。時間よ止まれ、内心で呟く。これでコーヒーは落ちることが無いだろう。

 そのまま仮眠を取るという名目で、深い眠りに入った。

 

 何か良くない予感がする、それが目覚めたときに抱いた思いだ。何か大事なことを忘れながらも、新年の朝に新調した下着を履いたかのような、爽やかな目覚めだった。

 そして、高速で思考が働く。過去へと遡る。コーヒー。そう、コーヒーだ。落ちていて、乾いているだろう。面倒だ。ではなぜコーヒーを用意したのか。宿題だ。俺は一夜漬け天才タイプなのだ。

 危機に気付いた者特有の、さっと底冷えするような感覚が全身を浸食した。やってない宿題プラス快眠、イコール……。ぞっとした。英語の課題が出来ていないのが恐ろしい。他の宿題はどうでもいい、どうせ俺に声をかけることなどしない。だが、英語の教師は違う。やつは親し気に近づきコミカルに刺す、豪の者だ。

 今、何時だ。かつてないほど機敏に動き、時計を確認した。

 

 デジタル時計は、止まっていた。

 

 ……時間、支配しちゃったかな。

 

 

 

 

 

 はあ、くだらない。しょうもない冗談は記憶の彼方へ投射。

 時計が止まった失望をため息に乗せ、ポケットにある携帯電話を開いた。近年はスマートフォンとやらが台頭してきているが、あんなのは玩具にすぎない。俺の優れた頭脳は、すぐにガラケーに駆逐されて元の平穏で利権に塗れた世界に戻るが、ポケベル派が奇襲をかけるだろうという未来をほぼ確定気に読み取っていた。

 ぱかりと呑気な音を立てる携帯電話に苛立ちながらも、液晶画面へと目を落とす。そこには何も映っていなかった。電気の灯らない、暗い画面。

 間が悪い、後ろにあるベッドへと電話を放った。同時に電化製品がやられるとは、厄日だろうか。それとも数年前に流行った二千年問題か、なんちゃらタイマーか。なんだか不思議な現象に、わくわくしてきた。直視したくない現実から目を逸らしたとも言えた。

 机から落ちたはずのコーヒーカップは、床で中身を零すことなく宙で止まっていた。

 

 デジタル時計は、止まっていた。

 

 背後には宙に浮かぶ携帯電話。

 

 

 

 ……じ、時間、支配しちゃったかな(震え声)

 

 

 

 

 

 バグった世界にキョドりながら、いくつか試行する。デジタル時計は時を刻まない。コーヒーカップは落下しない。携帯電話の画面は写らない。しかし、触れることで物を動かすことは可能だった。力を与えれば、その分だけ動いてくれる。コーヒーに触れても熱を感じない。宙で静止する携帯電話は手に取れば、容易く動かせた。この奇妙な現状に興味を持った。

 試しにペンケースからペンを取り出し、軽く投げる。ペンは三十センチほどまっすぐに進むと、ぴたりと止まった。重力に引かれることは無いようだった。俺自身が与えたエネルギーのみを物質は受け取っているのだろうか。静止しているペンに、別のペンをぶつける。静止しているペンは衝突したエネルギーを受けとったのか、再び動き出し、静止した。

 次に机の引き出しからライターを取り出し、着火すると当然の如く火が灯るも、熱を感じることはできなかった。ノートから白紙を裂き、浮いているペン先に突き刺して通す。そして、ライターで炙ってみる。勢いよく燃え始め、ぱらぱらと火の粉となって空中へと留まった。留まっている火の粉から熱を感じることは出来ない。火が出るのに熱が感じられない状況に、首を傾げた。

 

 

 それ以降も色々と試行を繰り返したが、わかったことは少ない。とりあえず大雑把に把握できているのは、全てが止まっているということだ。そして、俺が力を与えた動作ならばある程度まで物理法則に従うようだ。

 

 

 

 時間、支配しちゃったかな^q^

 

 

 

 

 

 酷く重く感じるペンを走らせ、夏休みの課題を終わらせた。

 

 

 

 

 

 --2

 

 時間が進まない。

 何も動かない。

 誰もいない。

 

 室内は苛立ちとともに放り投げた物の数々が、宙で静止したまま。

 事態の深刻さに気付くのに遅くなったのはこの奇跡的な状況に浮かれていたからか。それとも、ずっとこのままの可能性があるというのに、それでも恐怖を感じない無駄な自らの無神経さが悪いのか。

 動かない現状を何とか打開するために、動き始めたのがずっと昔のように感じる。

 

 夜闇に混ざって歩けども、人は動かず。

 見上げた夜空は半分ほど雲が覆っていて、その隙間から星がちらほらと光っている。雲を寄せ付けない満月は翳ることなく同じ場所で輝いている。

 動かない世界に、悪戯心が芽を出した。飽きたわけでは決してない。ただ、こんな夜中に徘徊する人々を驚かせてやろうと思ったのだ。時間が動かないと言う事実を忘れたいという事もあるが。

 

 街を一通り練り歩いて問題を解決するほどに時間をかけているのに、何も変わらない。

 俺が時間を止めているのか、俺以外が時間を止めている状況に紛れ込んだのか、それすらもわからない。

 俺はどうすればいい。

 何が変わる。

 どうやって動かす。

 何が悪かった。

 

 頭を抱え、悩み、そしてこの状況を打開する方法に思いつく。

 時間を動かすマジックワード。

 

 

 

 そして時は動き出す(ドヤッ

 

 

 

 

 

 

 全然動き出さなかった。

 まあ実際は動き出すとかだろうし。

 やっぱテキトーって悪だわ^q^

 

 

 

 

 

 気の遠くなるほどに時間が止まり続けている。あまりに長く止まっているため、それが自然すぎて、動いている世界を思い出せない程に。

 最初は動かない世界に苛立ちを持ち、発散するように暴れた。そして慣れたらどうでもよくなってしまった。普通なら頭がおかしくなるのかもしれないが、寂しいと感じたり、物足りないと感じるだけで普通に過ごせる。過ごせてしまう。俺はこんなにも奇妙な精神をしていたのだろうか。気付いていなかっただけだろうか。誰も居なくとも問題なかったのだろうか。それなら動いている世界で生きる意味などあったのだろうか。

 

 電化製品が動かないので、暇つぶしは基本的に読書になっていた。漫画も読むし、小説も読む。時間が止まった世界に諦めた頃の行動範囲は自室周りだけだったため、料理本や旅行のガイドブックなども読み漁った。手慰みに勉強もやったが、教科書を一通りやったら飽きた。

 春に懸賞で当たった野球超人伝を読破し、内容に沿って身体を動かしていく。最初は思うように動かずぎこちなかったが、訓練を文字通り時間を忘れて重ね、ついに修得したと胸を張って言えるほどに成長した。この動きを応用することで、我が家に眠っていた蔵書たちも利用することが出来た。しかし、『ミンチで珍味☆』や『受け身で元気、投身自殺』、『圧倒的投擲術』など役に立つのか分からない本も多くあった。隅々まで読んだし、再現もしたが。流石に巻末に載っていた、ビルから落ちて受け身を取るなどのプロコースは練習する気にならなかった。

 

 

 

 本、本、本……と彷徨う。家にある本の大半を読み尽くして、活字中毒なのだ。電話帳や辞書には手を出さなかったが、このままだと歩く図書館になってしまう。そうか、図書館だ。あそこは楽園のはずだ。なぜなら本が沢山あるのだ。枕にしてもいいし、布団にしてもいい、もちろんプールに溢れるくらい敷き詰めて泳いでもいいし、入浴剤として風呂に入れてもいいのだ。本は使い道が無限にある万能アイテム。細かく刻んでかけることで薬味にもなる。

 そうなると是が非でも図書館に行かなければならなくなったな。しょうがない、散歩ついでに図書館へと向かうしよう。

 

 

 暴走行為を行っているらしい信号無視の珍走団を発見。そいつらに轢かれかけている親子を安全な位置まで移動させる。そして、珍走団の連中はバイクから降ろし、バイクと分断しておく。時間停止が解除されたら慣性によって投射されて大根おろしになるかもしれないので、全員をすぐ近くのガイア教とかいうオカルトグループの事務所の窓に配置してみる。折角なのでバイクは礼儀正しく入り口から突入するように配置。事務所を見た感じだと暴力団っぽい風貌の男たちが屯ってたので、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるだろうというサービス精神のためだ。

 

 道路から逸れるように蛇行運転している車を発見した。中を除くと、顔が赤く目の焦点が定まっていないドライバーが運転しているようだった。これではいつ事故が起きても可笑しくない。運よく川沿いだったため、ドライバーを引き摺り出して、川に落下するよう配置。そして車のハンドルを時間をかけて曲げ、川に向かうようにした。この酔い覚ましは俺からのサービスだぜ。

 

 薄暗い公園で、強姦しようとしている男と、されかけてる女性を発見した。プレイじゃない限り犯罪である。プレイでも犯罪か、世の中は広い。女性を明るい場所まで運ぶ。そして男が持っていた縄で、男を引き摺って歩く。こんなにもアグレッシブに動いているのに、疲労を感じないのだから凄い。

 

 住宅街に差し掛かると、放火魔を発見した。一軒家の庭に侵入しての放火だったので、発見できたのは運が良かった。発見できた要因として、月にぼんやりと黒い煙がかかっていたからだ。お天道様はいつだって見ているんだなと、強姦男と放火魔の夢のコラボを実現。手元で育つ火を見て悦に浸ってた放火魔に、脱がせた強姦男の股間を揉ませてやった。それだと足りないので、二人の両手足を紐で繋げる。燃えるカップルの誕生だ。まあ燃えてるのはすぐ近くの家だけど。冷静になって逃げられても嫌なので、部屋で楽しく妻と談笑していた家主も少し離れた場所に配置。本人の者と思われる携帯電話を家主に持たせ、ホームアローンの完成である。アローンなのは妻だけど。

 

 コンビニ前で数人のヤンキーがうんこ座りして入口を塞いでいるのを発見した。流石にこれは良くない。事務所に突入させる途中だったバイクを3台ほど警察署まで転がす。そしてうんこ座りしているヤンキーを乗せ、警察署の入口に配置。ついでに偉そうな人を何人か引っ張って来て、事件がすぐに明るみに出るようにする。自分たちが被害者になると頑張り出すのが警察だ、お祭りになるだろう。一番偉そうな人の頭からカツラが取れてしまった。まるでバイクの風圧で飛んだかのように、宙に浮かせておこう。

 

 あとは歩道橋から転げ落ちそうになっている人を下まで降ろしたり、転びそうになっている人を助けたり、轢かれて亡くなった猫を埋めたり……。様々ないたずらを行うが、時間は進まないまま図書館へとたどり着いた。図書館は電気がついていないのに、何故か少しだけ明るかった。

 

 

 

 鍵のかかっていなかった裏口から図書館に入り込む。内部はぼんやりと明るい。人工的な光ではなく、見慣れた月の輝きに近い気がする。

 SFから手を出し、脳内で宇宙を生み出そうと練り歩く。それともファンタジーか。脳内に異世界でも生み出すべきか。伝記で偉人の記録を読み、どんな人だったか推察してもいい。いや、歴史もので過去に思いを馳せるのも有りと言えば有り。それとも少しばかり趣向を変えて料理本で飲み食いする想像をするべきだろうか。

 料理本を眺めていると、無性に飲食物が欲しくなる。食べるにしても飲むにしても味がしないし、飲み込んだ物は吐き出さないと何時まで経っても出てこない。吐き出した物は消化されることなく咀嚼した状態になっている。

 味がしない物しか食べられない止まった世界も慣れたと思ったが、やはり思い出すと恋しくなる。思い出すと止まらない。味とはどんなものだったか、音とはどんなものだったか、匂いとはどんなものだったか、触れるとはどんなものだったか、どうにも忘れられない。全てを忘れつつあるが、どんなものだったか知りたいと、再び触れたいのだという思いは抱き続けてしまう。

 苦しいわけでもない、ただ欲しい。満たしたい。刺激だ。外部からの刺激が欲しくてたまらない。

 

 外から何も伝わらない冷たい世界はどうしてこんなにもつまらないのか。

 

 

 

 本を読む気が失せてしまい、図書館の探索を始めることにした。蛍光灯が消えているのに、月明かりに照らされたように明るいのを調べよう。もっと早く調べるべきだったのだろうが、思い出してしまった過去の欲求を抑えるのに手間取った。

 どうやら光は堅苦しい寄贈本の部屋から漏れ出しているようだった。扉は開けっ放しになっている。中に入ると、目が眩むほどではないが、過去に経験した太陽の下にいるかのような明るさだった。光の元は、一冊の童話。手に取ると輝きが増していく。タイトルは『不思議の国のアリス』、汚れ一つない綺麗な状態だ。

 本を開くと、室内を照らしていた輝きが弱く、小さくなる。そして、徐々に形を成していく。大きな耳と赤い瞳が愛らしい、二本足で立つ兎だった。首元には懐中時計がアクセサリーのように掛けられている。その兎は二度、三度、と耳を動かし、俺を見つめて口を開いた。

 

「ボクと契約して、ペルソナ使いになってよ!」

 

 声音は中性的で、とろけるような言葉遣い。高く美しい、幼い子供の声だった。

 

 

 

 

 

 --3

 

「まずボクの名前だけど、アマガツだよ。好きに呼んでいいけどアマくんって呼んでくれてもいいんだよ」

 

「よろしくアマガツ。俺は宇田須 壱縷(うたす いちる)、好きに呼んでくれていい」

 

「よろしくねイチルくん。ちなみにボクのことはアマくんって呼んでくれてもいいよ」

 

「信頼できるようならな」

 

「じゃあ今からだね」

 

 アマガツと名乗った無駄にポジティブな兎を抱えながら運ぶ。光り輝く真っ白な毛並みをもふもふとしてみたいが、当然のように感触は無し。残念だという思いが芽生える。

 そして、やはりというべきか、時間が停止している世界で動くのはひどく難しいらしい。話をするために俺が運ぶことになったのだ。

 

 

 

 

「ペルソナとは心の底に居る『もう一人の自分』の事だよ。それは神だったり、天使だったり、悪魔だったり、英雄だったり、色々な姿のビジョンで現れるんだ。そして、ペルソナを介して、様々な超常の力を使うことが出来るんだ。火の魔法を使ったり、傷を治したり、テレポートしたり。精神力みたいなものを消費するけど」

 

「時間を止めることも出来る、と?」

 

 図書館の談話室まで抱えて運び、机に乗せると兎が語り始めた。舌足らずなのは姿が兎のためだろうか。

 時間が止まる前の俺だったらペルソナなど信じなかったが、現状を顧みれば、むしろ受け入れるほかない。

 

「うん。ボクも一応時間に関して適性があるから、こうして話せているけど。君が近づいてくれなかったら入口を見つけらず、気付かないまま終わるところだった」

 

 アマガツが頷き、そう答える。そして、今日は運が良いと呟いていた。どちらにとって運が良いのだろうか。

 首元に掛かっている懐中時計の針は止まっていた。

 

「まあ、時間に関しては特殊だから誰にでも出来るわけではないし、普通は長く止められないよ。止められて数秒といったところかな。だから言っておくけど、今、君のペルソナは暴走している」

 

 アマガツが説明を続けた。

 ペルソナが暴走を起こすと、持っている特殊能力を使い続けてしまうという。心のタガが外れた自傷行為にも似たそれは、最後にはペルソナの宿主が死ぬことで終わりを迎えるのだと。

 

「暴走はわかったが、なら暴走しているときの力の源はどこにあるんだ。時間を無限に止め続けられるような才能が俺にあるのか? そもそも心は正常であるのだから暴走する心当たりがない」

 

「うん、そういう場合もあるよ。暴走と言っても、別に人間だけが原因じゃないからね。面倒な話になるから頭の片隅に置いてくれればいいんだけど、天使や神、悪魔、英雄、精霊、妖怪、あらゆる全ての人ならざる存在を悪魔と総称しているんだけど。悪魔は情報によって構成されているんだ。伝承によってその存在が左右されるし、信仰によって形作られたりもする。弱い存在だと学校の噂程度で姿かたちが変わってしまうこともある。逆を言えば情報があれば悪魔はこの世界に現れることが出来る」

 

 悪魔に似通った性質を持っている人間がいるとする。普段魔界にいる悪魔は、自身と少しでも似通っているという情報の土壌があれば、そこを苗床として力という種を与える。そうすると、人間が育つことで一緒に情報も育ち、魔界からこちらの世界に幾らか来られるという話だ。その種となる悪魔が強大であったり、人間への理解が薄いと、無理やり現世に来ようとして人間という器が壊れ、ペルソナの暴走が起きるのだとアマガツは言う。

 

「悪魔にとって、ボクらのようなペルソナ使いはこの世界に顔を出すための窓であり、また扉でもあるんだよ。そしてイチルくんは気まぐれに壊された窓とか扉みたいなもの。つまり世界を停止させている力の源は、その強大な存在が出所なわけだね」

 

「そんな強大な存在とやらに接する機会は無かったと思うんだがなあ」

 

「時間よ止まれーとか冗談でも思ったんじゃないかな。あとは運が悪かったら魅入られて終わり」

 

「運が悪かったってそんな……」

 

「悪魔ってそういうものだよ。強い力を持ってるから、なんとなくで人生を捻じ曲げるんだ。気を付けていても、どんなに頑張っても、それは無いと同じことだよ。ただ目に留まったから、そんな理由で殺されるし、永遠に生かされることも或る。多分神様が祈られても何もしないのって、あまりに人間が小さすぎるのかもしれないね」

 

 

 

 

 

「さて、イチルくんの運がひどく悪かったという話はこれで終わり。ペルソナっていうなんか凄い超能力のせいで今の状態になってるっていうのはわかったでしょ。もっと詳しく聞きたければ明日から聞かせてあげるし、今は契約の話をしよう。……どうせ断ったら君は朽ちて死ぬだけだし、無駄話は要らないよね」

 

「さらっと怖い事が聞こえた気がするんだが」

 

「どうせボクと契約するんだから何も怖いことなんて無いし、不安も何処にもないよ。植物のような平穏と、スリリングな毎日を一緒に過ごそうじゃないか。こう見えてボクは尽くす男だよ」

 

 二本足で立っていた姿勢から机に後ろ足を伸ばして座りながら、親しげな声でアマガツがそう言った。

 

「ああ。アマガツはオスなのか」

 

「うーん、どうかな。昔は男の子だったんだけどね。今は時計兎の姿だし」

 

 アマガツの股間に手を当ててみる。動物なら当然あるのだが何も無い。

 まあアマガツ自身、リアルな兎というよりもぬいぐるみに近いし、マスコットのような感じなのだろうか。

 

「……ボク、恥ずかしいんだけど。好感度も足りてないよ」

 

「それはすまなかったなアマくん」

 

「足りた! 今、この瞬間、好感度が足りたよ! もっと触ってもいいよ!」

 

 アマガツが凄い勢いで立ち上がって、両前足を天高く持ち上げた。

 そう、その姿はまさに全てを受け入れるマスコットのポーズ。

 

「いや、そんな趣味ないんで」

 

「そっか。まあボクはいつでもうぇるかむ!なんで」

 

「あ、はい」

 

 何故かテンションが上がったアマガツに引きながら、気が向けば、と付け加える。

 それで一旦満足したのか、アマガツは机に腰かけた。今度は何故か机の淵に座り、後ろ足はだらりと垂らしている。

 心なしか、距離が近づいてきた気がするのだが。

 

 

 

「契約の話に戻そうか。そんな難しい話でもないよ。ボクを君の魂に住まわせてくれて、ついでにマグネタイトを幾らかくれたらそれで終わり。ね? 簡単でしょ」

 

 ふふん、良心的でしょうとアマガツが言う。

 どことなくその兎の顔にもドヤ顔が浮かんでいた。

 

「うーん……」

 

「そ、そんなに渋る条件あった? もしかしてマグネタイト? ダ、ダメだよ、絶対ムリだよ。ボクだって甘い物を食べたいんだから譲れないよ?」

 

 親し気だった声にも、焦りが混ざった。それでもとろけるように甘い声なのだから、不思議な物だ。

 マグネタイトとやらは、どうやらアマガツが甘い物を食べるのに必要らしい。

 

「譲るとかそういう話の前に、まずマグネタイトがなんだか教えてくれないと判断できないんだが。鉱物のやつなら毎月一万円くらいまでなんとか。それ以降は様子見しないことには頷けないな」

 

「あ、そっか。マグネタイトなんて普通わからないよね。鉱物じゃなくて、人間の感情から生まれるエネルギーのことだよ。普通の人は全然気づいていないし意識もしていないけど、感情って魂を揺り動かすから実は凄いエネルギーを持っているんだ。で、そのマグネタイトはこの世界で悪魔が生きるための身体を構成する物質になるってわけだね。また、魔界からこの世界に来ようとするのは、まあバカみたいな別の理由があるから後にしよう。とりあえず、悪魔はマグネタイトが欲しいからこの世界に現れるってことも覚えておいてね」

 

 悪魔は情報によってこの世界ではその存在を確立する。その際、マグネタイトを利用して磁界を形成し、実体を作るのだという。

 つ

「つまり、マグネタイトというスクリーンを通して、悪魔を見れるようになる映画ということか?」

 

「ちょっと違うけど近いかもね。もっと現実的で触れ合えるて、自由に動き回れる的な」

 

「ラジコン?」

 

「あ、それだと映画より近いかな。ただ、操作は受け付けてないけど。悪魔はマグネタイトで捏ねた人形に意識や考えを植え付けてるって感じだし。この世界に現れた時は根幹は一緒でも別存在になるよ。ボクも同じようにマグネタイトで体を構成してお菓子を食べたいからマグネタイトはどうしても外せないよ」

 

「ああ、まあ、わかったようなわからないような。マグネタイトは俺が生活している分で賄えるのか?」

 

「どうかなあ、難しいかなあ。毎日感情的だったらわからないけど。でも弱い悪魔からカツアゲしてくれたら十分だと思うよ」

 

 悪魔なんて噂のあるところになら湧くから意外と大丈夫、とアマガツが付け加えた。

 まるでゴキブリを示すような表現だった。

 

 

 

「そうだな、悩んでもしょうがない。折角戻れるなら契約しようか。……ホントに元に戻せるんだよな?」

 

 兎が後ろ足で立ち上がり、前足でその胸元を叩く。止まったままの懐中時計が、少しだけ揺れ動いた。

 

「もっちろん! ボクに任せてよ! やったことないけど多分できるよ!」

 

「ポジティブだな。……え、多分って聞こえたんだけど?」

 

「ダメだったら朽ち果てて死ぬだけだし、期待しててね! 正直に言うと、停止世界での君の活動によって生じたエントロピーの回収とか色々な調整があるから、意外と難しいことになると思うんだよね。複雑に分岐した全てを調整するとか、想像するだけで怖くなるね。ボクたち二人なら乗り越えられるさ。いや、パスが繋がるから力自体は余裕があると思うだけど」

 

「何処を期待すればいいのか教えてくれないか」

 

「ペルソナが暴走したけど制御を奪い返したボクの優秀さを信頼してなおかつ期待してくれていいんだよ。まあ、取り返したら時間がかかりすぎて肉体が消滅して別世界に来てたのはお茶目な愛嬌ってことで愛でてくれてもいいし。失敗したら二人で朽ち果てようね! さあ、死なばもろとも!」

 

「一度心の準備をさせろ。朽ち果てるって怖すぎるんだが」

 

 鼻歌を歌いながら、アマガツがちょこちょこと動き出す。

 短い手足を一生懸命動かす兎というのはどうにも可愛く見えてしまう。

 

「どうせダメなときはダメだし、良い時は良いからそういう準備なんて意味ないよー。あ、そうだ。ボクは隠者を司るペルソナ使いのアマガツ、今後ともよろしくね! ……今後があればだけど」

 

 

 

 

 




1章を終了します。



宇田須 壱縷(うたす いちる)
・この物語の主人公です。正気は完全に失われています。
・彼はペルソナ使いとして目覚め、暴走しました。
・ペルソナは『The Testments of Carnamagos』と呼ばれる古びた巻物です。

アマガツ
・主人公の相棒です。正気は完全に失われています。
・その優れた能力でナビゲーターとして様々な範囲で主人公を助け、導いてくれるでしょう。
・彼はペルソナ使いでしたが、暴走の末、肉体を失いました。
・ペルソナは『不思議の国のアリス』です。




「久遠の未来か刹那の明日か、イチルくんが交わる運命がちょっとだけ見えたよ!」

『メシア教』
・法と秩序をつかさどるロウ(Law)を体現する宗教です。
・一神教であり、法による秩序、いつの日か現れるメシアによる救済を説きます。
・他の世界では、洪水で気に入らない全てを流そうとしたり、空から破壊の光を地表に注いで滅ぼしたり、人々を洗脳したり、人間を餃子にするお茶目な組織です。

『聖騎士派』
・主にテンプルナイトからなる質実剛健と祈りを大事にする派閥です。
・神による救済はあまり信じておらず、説教による自立を促します。
・トップは信徒からあっくんと呼ばれる超人のようです。正気は完全に失われています。
・聖騎士派は、聖人をいい人と断定しています。つまり救世主もいい人です。いい人を助けるなら自分たちもいい人にならないといけないと、毎朝町内の掃除を頑張ったり、ボランティアに励んだりしています。
・弱者を救済することに重きを置いていないので、炊き出しはしません。

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