--1
白い雪が降っている。
人間の手から離れた世界の雪は何処までも白く澄んでいる。
幻想的な世界へと彩る舞台装置のようだった。
それは幻のように、視界を、行き先を曇らせる。
視界が酷く悪い。
人類の未来に似ているとラリー・フォルクは内心で皮肉る。
「こちらイーグルアイ。全機上がったようだな」
次世代型揚陸艦ウスティオ号の指令コマンドである高性能AI、イーグルアイの声がコックピット内に響く。
風が、雪が、機体表面を撫でる音が、今だけは静まっていた。
「諸君らも幾らかは把握しているだろう。現在、ウスティオ号はシュバルツバース内に突入した直後、航行不能に陥り、早急に修理を要する状況へと転じた。原因は先の異常フラックス、及び正体不明の知的生命体による干渉であると推測されている。君たちには外部の調査、警戒、そして迎撃を行ってもらう」
了解の意を返すとコックピットが静まり返った。
機械音声のくせにいい声をしていたな、一番機へと通信する。
落ち着いた笑い声が返ってきた。
飛ぶ前に一番機のパイロットとは言葉を幾つか交わしたが、静かで穏やかな印象を与える男だった。
進化する特殊強化スーツである『デモニカスーツ』とやらの技術を転用された次世代型戦闘機の内部は動力音すら拾わない。
外部の音を、まるで直に耳で聞いているかの如く聞くことが可能だ。
その機能は現在オフにしていたが。
目の前を飛ぶ一番機であるガルム1の様子を知るためだ。
相棒となるのか、ただの一番機で終わるのか。重要なことだった。
「ガルム1、ガルム2は現在の方位を維持し、調査を進めてほしい。ガルム2はガルム1の指示に従うように」
北海道襟裳岬に突如として出現した未知の空間、シュバルツバース。
発生直後は半径一メートルにも満たない奇妙な黒い柱だった。
町興しに利用しようと訪れた公務員や、SNSへのアップロード目的で写真を撮っていた能天気な人間を呆気なく呑み込むほどに、急速に拡大するまで余り時間を必要としなかった。
柱が半球状のドームへと変化しても、国の対応は鈍重だった。
急速に膨れ上がったそれが、高度数千メートルに達するプラズマ雲を纏い、北海道の南を百キロほど分子崩壊させるまで重い腰を上げようとしなかったのだから、どれほど楽観していたのか。
この不明な空間に畏怖していたのか。
そして、どれだけこの空間があまりに早く大きくなったのか。
「最初の印象は……そうだな、筋は良かったな」
男は自身を拾った写真家の女性とやらに物語を聞かせるように話し始めた。
血みどろの怪しい男を治した奇妙な女性は、代わりに何があったのか少しでも知りたいと言う。
ならば礼の代わりに話すのも構わなかった。
それは『ピクシー』にとってはどうでもいい過去の話だった。
どうでも良いと思い込もうとして、必死に捨てた残骸だった。
だが、人間を辞めた今でも強く思い出せるのだから、やはり『ラリー・フォルク』にとっては『彼の2番機であったこと』は忘れることのできない思い出なのだろう。
もしかしたら未だに忘れたくない記憶なのかもしれない。
妖精と混ざって人間としての感情が薄れた今の『ピクシー』にはどうにもわからないことだった。
--2
東京の中心で、魔王召喚が果たされた。
神に規せられた約束を破り、幾度となく書き換えた末の禁断の遊戯は形となった。
この瞬間だけは、魔王は神と同等の力を持っていた。
混沌の戦場と化した東京に撒き散らされていたマグネタイトが、神への供物とでも言外に伝えるように集まっていた。
高濃度のマグネタイトが空気中で結晶化したそれは、まるで濃緑の靄だった。
その中心で望外の喜びに包まれる筈であった。世界を支配する力を傅かせ、法則すらもその手にする、確定していた未来だった。
だが、実際はどうだ。
虚無と絶望だけが与えられた結末だった。
愚かな男を甘く蕩かせていた栄光の蜜は、掻っ攫われる形で徒労の毒へと濁り腐った。
オルドレイク・セルボルトの目の前で、野望が、夢が、露と消えようとしていた。
四十年前、オルドレイク・セルボルトはただの『オルドレイク』だった。
スラムの片隅で泥に塗れて震える愚かで無力な子供だった。
スラムの泥に紛れて立ちんぼをしていた母と、顔も知らない男から生まれた。
母はオルドレイクが物心つく頃に死んだ。
いつものように薬中の男に二束三文で体を売って、途中で粗悪な薬が切れたのか気が狂った男に殺された。
スラムにもルールはある。
顔が潰れた母だった肉は、内臓を取り出されて、薄かった体がさらに薄くなって、最期にはオルドレイクの目の前でドブ川へと捨てられた。
男も同様だった、制裁のため生きたまま内臓を取り出されたのだから、まだ母よりはマシだった。
そう思うしかなった。
父は頼れない。
どこにいるかもわからないし、顔だって知らない。
生前の母に尋ねたが何も答えず、オルドレイクを強かに何度も叩くだけだった。
おそらく母を殺した薬中のように、狂って襤褸屑としてドブの一部になったのだろう。
それから死んでいるようにオルドレイクは生きていた。
都会とやらから廃棄されたごみの山に登って、同じように無価値な肉と一緒になってごみを漁る。
そこでのオルドレイクは、やはり無価値でただ動いて排泄する腐った肉だった。
ごみ漁りは常に死と隣り合わせだった。
捨てられたごみが合わさって、奇妙である種の奇跡的な化学反応が起きていた。
山の中や下、時には地下の至る場所で、轟々と青白く燃え続けていた。
触れてしまえば燃え尽きるまで下手くそな死の舞踏を強制される。
有害なガス溜まりの上にある物を退かしてしまえば、苦しみながら死亡するか、運が良ければ内臓や眼が潰れるだけで済む。
濁った虹色の液体に振れてしまえば黒く爛れ、燃えるような炎症の熱さと腐る痛みに苦しみ悶えながら、やがては溶け落ちる。
飲食物にも毒物が多い。
腐敗しているのなら高級品だ、万が一の奇跡で見つかることもあるという。
オルドレイクにそんな経験はなかった。
中には粗悪なクスリが溶け込んでいる物もあり、数瞬の絶頂の後、永遠に思える地獄とともに死ぬ。
溶けた金属は歯や骨を溶かし、内臓を汚す。だからごみ山で見つけた物はドブに紛れた鼠で試し、草や木の根を齧り、時には酔っ払いの吐しゃ物で飢えを凌いだ。
母が体を売ったお金で、貧しくてもひもじくても何かを胃に物を詰めることができた頃よりも遥かに貧しくみすぼらしい。
雨露から体を守ることすらも難しかった。
同じように住み着いているチンピラに遊び半分で指や歯を折られることも珍しくなかった。
血の混じった吐瀉物に沈むオルドレイクは、鈍る思考で世界を呪いながら、その世界にしがみ付いて生きていた。
どこまでも無様で、哀れで、無価値だった。
その日、オルドレイクは死に瀕していた。
食べ物が悪かったのか。
チンピラに絡まれた傷が悪かったのか。
オルドレイクには原因などわからないことだが、酷い高熱がその幼い体を蝕んでいた。
その結果、ほとんど死に体となったオルドレイクは、ドブ川へと捨てられた。
誰も治さない、邪魔だから捨てる。
霞む視界は反吐が出そうなほどに最悪だった。
どこも汚れている。
汚れきっている。
その汚れが自身をこのようにしたのだ、激痛を憎しみによって抑え込んでいた。
誰でも良かった、どうしても殺したかった。
自分だけがなぜ。
誰でもは間違いだと気づく。
全員だ。
全員を殺したかった。
その殺意が運命を捻じ曲げたのか、その時煮詰められた悪意はオルドレイクに微笑んだ。
「そういう腐った瞳と魂、嫌いじゃないよ。ああ、すばらしい。なんてすばらしいんだ。これだから人間は大好きさ。だから種をまき続けたくなる」
オルドレイクを奇妙な動物が見つめていた。
ドブに生息するドブネズミよりもずっと大きい白い動物だった。
スラムにいる動物など草臥れて痩せ細った犬や猫がせいぜいで、そいつらだって食われることが多い。
だから、これほどまでに綺麗な動物がいることが不思議で、そして心惹かれるほどに神秘的だった。
「オルドレイク、いずれオルドレイク・セルボルトとなる少年よ。世界を支配したくはないかな? ボクならできる。いや、キミの力なら高望みさえしなければ魔王を呼ぶことさえ可能さ」
汚れた水に半ば沈んでいるオルドレイクを、宙に浮かびながら小動物は見つめていた。
「魔王の力は強大、世界は君の望んだように動き続ける。そんな未来だってあるんだよ」
赤い瞳が、薄汚れたドブ川の一角で死にかけている少年を見つめながら、爛々と輝いていた。
--3
視界は霧がかかったように白い。
これは夢だ、ゴトウには漠然と理解できた。
キィキィと錆びた金属がこすり合わさった音が近づく。
警戒する必要はないと訴える自信を感じながら、体は自然と身構える。
左手には刀を握っている、それは実によく手に馴染む。
霧の奥から車いすに身を預けている老いた紳士然とした男が現れた。
記憶にはそのような男の姿など該当しない、だが何故か懐古と悲哀の念がゴトウに去来した。
老いた男は何かを告げるように口を動かすが、無音のままだった。
そうして、寂しそうに去ってゆく。
ゴトウは待ってくれと叫ぶも声にはならない。
キィキィと錆びた音が遠ざかり、白かった世界が霞んで……。
「話したいことがあったんだ! 後生だ、待ってくれ……!」
はっと目が覚めた。
自分の声で目覚めたようだった。
そこは日が十分に登り切っていない薄暗い部屋の中だった。
見慣れた天井しか見えてこない。
全身が冷や汗で濡れていた。
何か夢を見ていた気がするが、何も思い出せない。
しかし、胸中に芽生えた罪悪感と無力感は消えそうになかった。
気分が晴れず、眠れそうにない。
仕方がないと思い、ゴトウは寝床から起き上がろうとする。
音は立てない。
まだ活動するには早すぎる時間だ。
ふと違和感を覚えた。
何かが布団に引っかかっていた。
「悪い夢だったのか……?」
警戒しながら引き出した左手は、見慣れぬ刀を握っていた。