元は一つの個体だった魔獣は、魔法か或いは生まれ持った特性か。五体に分裂した。
圧倒的物量にて脆弱な人間を嬲り殺す腹積もりだったのだ。事実白鯨討伐に参加した人間の大半の心は折れる寸前まで追い詰められていた。
が、しかし。白鯨にとって最大の誤算が一つ。
白鯨が隻眼をギョロりと動かし、空から忌々しげに見下ろした赤い外套を着た男。彼によって二体もの分身が落とされた。
そして、彼に勢い付けられるように───或いは彼の存在を
殺し、そして殺される戦場に"たられば"を持ち込んだところでなんの役にも立たないが、アーチャーがいなかったならば、確かに人間を蹂躙することは容易だったはず。
───さて、どうしたものか。
現在残っているのは空に舞う二体。加えて、弱小種と戦火を交えている一体。勿論スバル達が推理したように、本体は一体のみだ。
はっきり言って、此度の討伐隊は強すぎた。正確には、直前に参加した"アーチャーが"ではあるが。
白鯨は『暴食の魔女』に生み出されたとは言え、生物である事には変わりない。
『生命』の究極の目的の一つは『生きること』。生を謳歌し、自身の欲望に忠実に時を過ごすことだ。
人間は所詮"エサ"でしかないが、明らかな自身の劣勢を悟れば逃げるのが最善手となることは当然だった。ここで命を絶たれれば、元も子もないのだから。このままでは、勢いに押されて敗北することは必定。
「ーーーーー」
取るべきは逃走の一手。念の為、と隣に置いた一体を盾に白鯨は戦闘区域から一気に抜け出す。
アーチャーのもとへ側に残しておいた一体を投入し、捨て駒として逃げるに十分な時間を稼がせるのだ。
「ーーー、ーー」
本体がそう考えると、マナで繋がっている分身体にもその思考が伝わる。すると、
「ーーーー」
地上から見れば、月の輪郭をなぞるように───しかしそこには美しさは無く遊泳していた片割れが、方向を変えて戦場へと空を泳ぐ。
「ーーーー」
前回、大規模にニンゲンと矛を交えたのはいつだったか。四百年という時の経過の中では、ほんの少し前の事だったようにも思える。
今回もまたニンゲンは自分を殺そうとして、何も出来ずに───もっと言えば、被害を出すだけ出して、終わるのだろう。
「ーーーー」
白鯨は人の尊厳を踏みにじる悪辣な魔獣。ここまで具体的な思考は叶わずとも、ニンゲン達が置かれた状況を理解し、愉悦に浸れるくらいの知能は持ち合わせていた。
ああ、残念だったな、ニンゲン。
白鯨がもし、人と会話することが可能だったなら。嗤って、嘲笑って、
あとは、このまま霧に乗じて逃げるのみ。
全身を震わせ、身体の随所から『口』が現れる。あとはこれらから霧を───。
───そう思っていた。
そんな時だ。
地上より飛来した氷の柱が白鯨の一本角を掠める。鬼の少女が練った魔力の結晶。それが白鯨目掛けて飛来したのだ。しかし、角を掠るに留まったその攻撃は攻撃としての意味を成していない。そんな
しかし。
「───よう」
どうやら先程の氷柱は違う意図で撃たれたものだったらしい。その氷の槍にて鯨の霧という暴力を、直接的に止めるためではなく。
「お前が本物ってことでいいんだよな……あ、なら逃げようとしてた?アーさんに追い詰められたから、
そう、氷の柱はこのニンゲンを、白鯨の一角に届けるためのものだった。
辺りに耐え難い『悪臭』を撒き散らす、このニンゲンを。
「けど、お前は逃がさねぇよ。───言っとくが俺は、シカトできないくらいウザさに定評がある男だぜ?」
白鯨は生き残るためには気付くべきだった。本能のままにしか生きられない、低知能なその脳みそで、その答えに辿り着くべきだった。
既に逃げることすら叶わない、詰みの段階に入っていたのだと。分身というタネが暴かれたことで、この戦いに決着がつく刻まで既に秒読み段階なのだ───と。
数分遡る。
「───白鯨をその身で、天より引きずり落とす訳か。……なるほど、卿の特異体質なら、成せるかも知れんな」
スバルが手短に作戦を伝えた。
つまり、こうだ。
彼が放つ強烈な『魔女の残り香』にて白鯨の全神経をスバルに向けさせる。そして、ただ魔法という暴力で地面に突き落とすのではなく、その体質で以て白鯨自ら大地に向かって泳ぐよう仕向ける。
そうすることで、白鯨の耐久性を度外視して、強制的に人間の手が届く領域に引きずり込める。
重要なことは、白鯨を「生きたまま」落とすことなのだ。赤い弓兵がいる限り、殺すこと自体は何も難しくはない───いざとなれば、ヴィルヘルムには諦めてもらう可能性が無いとは言えないが。
「スバルの魔獣を引きつける体質か……それはどれほどの距離で効くのだね?」
「ついさっき使った時はあっちでまだ戦ってる白鯨も俺の臭いに惹かれたみたいだ」
スバルが指さした方では、兵士、そして傭兵団が分身の一体と現在も戦闘を続けていた。
「それに、前は森一つ覆うくらいはいけたから、守備範囲そのものは結構あると思うぜ?」
「……なるほど」
森の話をスバルが切り出すと、同じ地竜に跨っていたレムが少し悲痛な顔をした。───恐らく何かあったのだろう、アーチャーはそう察するも、それ以上詮索はしなかった。
「ならばこの距離でも十分か……。ああ、それと、恐らくだが白鯨はこれ以上の手札を持ち合わせていまい」
「それは何故?」
「簡単だよ。もし他に何か隠していれば、今も尚戦っている彼らでは均衡は保てる筈もないからね」
この弓兵によって既に二体の白鯨が狩られた。さらに、あろう事か人数が遥かに減った討伐隊と
客観的に見るに、明らかに大魔獣の劣勢。本体の白鯨もそれを悟っていないわけが無い。
にも関わらず、次の手を打たないところを見ると……警戒は解くべきでは無いが、やはり、これ以上のカードを白鯨は隠していないと考えるのが妥当だろう。
「目をくらまし、我々を混乱に貶める霧。そして、呑み込んだ者をこの世から痕跡ごと消し去る、奇怪な霧。確かに脅威だ───しかし、
「だったら、俺が白鯨の鼻先に直接乗り込むぜ。白鯨が逃げるにしても、また霧を打ってくるにしても、もう後手には回らねぇ」
圧倒的物量の奇襲にて序盤は先手を取ったものの、狂気を伝える霧に視界を閉ざされたのをきっかけに攻守が逆転した。
もう厄介な霧の魔獣には先手は取らせない。
スバルの考えは至極当然のものであり───そこにクルシュが現実的にこの作戦を見据えた疑問を抱く。
「確かに完璧な作戦に聞こえるな……しかし、ナツキスバル。肝心の白鯨の下へ行く手段はどうする?仮にそこまで飛べたとして、待ち受けるのは二体の鯨だ。卿には少し荷が重いように思える」
「あ……やべ。考えてなかった……けど、本体が逃げるとなれば、侍らせてた偽物はこっちに特攻させるんじゃねぇか?」
「そうだな……その可能性が高い、か」
「ああ、あともう一つの質問に対する回答だけどさ、アーさん、白鯨の下まで俺を連れて行ってくれねぇか?」
スバルから言わせれば、この場においてアーチャーはラインハルト同様に「何もかもを両断する理不尽さ」の体現のようにも思えた。だからこそアーチャーなら何とかできないか……と期待を込めて言ったのだが。
「ふむ……無理だな。諦めろ、スバル」
それはアーチャー本人によって却下される。とは言え、その理由は真っ当なもので───
「私があの鯨まで飛べたとして、踏み切ったときに一瞬で加速するぞ?君が耐えられるとは思えんな」
「あ、ああ……うん。それはたしかに無理だわ。俺が死ぬので、アーさん案は却下で」
それは、スバルが一番理解しているかもしれない。
大跳躍、そして急激な加速。アーチャーは耐え切れる。しかし、彼に連れられたスバルは、その慣性力による圧死───そんなアホみたいな理由で『死に戻り』なんて、スバルとしても御免だった。
「となれば……うぅむ……」
確実に白鯨を落とす策がある───などと言いつつ、本当に具体的な部分までは検討していなかったとは、何とも間抜けだ……と、そこでスバルに閃きが。
「あ!レム、あの野郎のすぐ近くに氷の山を浮かべるとか……」
「ごめんなさい。マナは手元から離れれば離れるほど、扱いが難しくなります。ロズワール様なら可能だと思いますが、レムの腕では恐らく」
状況を打開できる可能性が見えたのに、スバルに手を貸せないことを無力に思うレム。しかしならば別の方法で、
「……なら、氷の槍を飛ばして、俺を連れてってくれ!!」
「───え?」
・
作戦がまとまれば、即座に行動を開始すべきだ。スバルがこれ以上後手には回らないと言ったが、それは誰もが同じ考えだ。
そのため、アーチャーもクルシュもここにはいない。クルシュは作戦の実行に必要な魔法を使える者達の下へ、その作戦を伝えに行ったのだ。
そしてスバルとレムもまた、作戦の実行の肝。
「それじゃ、頼むぜ……レム?」
「………」
スバルはレムが《アル・ヒューマ》により生成した氷に捕まって鯨へ飛ぶつもりだ。目的から逆算すると、それがベストの選択だから。
スバルがレムにそう頼むも───しかし、俯いていたレムは静かに顔を上げ。
「……本当は、反対なんです」
レムは胸の内を吐露する。
「スバルくんが率先して白鯨の鼻先を回ることも、レムは反対だったんです。氷に乗って飛ぶのも危険で、しかも飛んだ先は強大な霧の魔獣……スバルくんの命がいくつあっても足りないくらい、危ないんです。
これはレムのワガママだってわかっています。スバルくんのかっこいいところを見せてほしい、そんなことを言っておきながら、ワガママを言うのは反則だって分かってます。けど……」
「レム……」
その感情は、残酷なまでの自己矛盾。
自分の凍てついた時を優しく溶かした
その反面、彼を愛するからこそ、無茶は避けて欲しい。弱小種である人類の典型のようなスバルは、「何か」が起きればそれだけで命が消し飛ぶ。加護もなく、魔法も使えず、かと言って剣術のような一芸に長けている訳でもなく。そんな男が、自ら死地に飛び込むのだ。レムが容易に受け入れられるはずも無かった。
しかし。だからこそ───スバルもまた、真っ直ぐ彼女を見る。
「───ごめん。あと、ありがとう。でも、俺はやるよ」
……ゼロから始まる前の自分なら。王都の高台でレムと話す前の自分なら。或いはこんな選択を自ら手に取ることは無かっただろうと、スバルは自分を省みて苦笑する。
今この瞬間、スバルの中に存在する感情は純粋に、無垢に、真摯に自分のことを想ってくれるレムへの感謝と───
英雄になると誓った自分を裏切らないため、絞り出した勇気。相手は三大魔獣と謳われた白鯨。本当は怖い。本音を言えば逃げたい。ヴィルヘルムの為、スバルがやらなければ───という義務は別にないのだ。
けど、
「俺さ、アーさんが戦ってるのを見て、ほんとにかっこいいって思った。ラインハルトとかアーさんとかが"英雄"って呼ばれる人達なんだな、って本気で感じたよ」
レムは静かに頷く。
「……王都で言ったけどさ、俺は、弱いんだよ。一人だと何も出来ない。何も成せない。何者にもなれないんだ。
だけど、一人で出来ないから何だ。
今なら断言して言える。
魔女教のことを知っていたのにそのことを伝えず、そして彼女を殺したループもあった。信じてもらえないと考えたから、言えなかった。
しかしそれはスバルの思い違いでしかない。レムのスバルへ寄せる信頼は、そんな低次元ではないのだから。
「俺はレムを信じてる。何があっても、お前がいれば大丈夫だ───俺の止まっていた時を動かすことを、手伝ってくれ」
「……やっぱりスバルくんはずるいです」
不安そうな顔をしていたレムも、スバルの言葉を聞いて柔らかく笑う。不安ではある。安心はできない。しかし、自分の英雄がそう言ってくれたのだ。
だったらやることは一つ。
「レム。俺を白鯨の下まで連れて行ってくれ。頼むぜ!」
「はい───」
───スバルは剣鬼のために生け捕りしようと、白鯨の下へ直接殴り込んだ。一瞬とは言え心臓を鷲掴みされる苦痛があるにも関わらず、どす黒い『魔女の残り香』にて魔獣を逃がさない。
───レムは信愛する少年がそれを成し遂げられるようにと、最大限のバックアップをする。スバルが地上に白鯨を叩き落とした後も、共に鼻先を逃げ回るつもりだ。
───クルシュは白鯨が堕ちた後のことを考え、樹齢千年を超える大樹を倒せるだけの者をかき集めた。
───そしてもう一人の鍵であるアーチャーは。
「さて……スバルも無事に辿り着いたようだ」
氷の柱が、一直線に白鯨の下まで飛び───そして、鯨の角にスバルが飛び乗ったことを目視。
同時に、つい数秒前まで本体の護衛をするかのように遊泳していた白鯨が、自分へとなんの迷い無く接近して来ることも確認。
・
スバルにとっての関門は二つだった。
一つは、白鯨の鼻先へどうやって飛ぶか、だがそれは既に解決済みだ。
一つは、そこで待ち受ける白き双璧。例え、分身がアーチャーへ特攻し、その場から離れたとしてと、スバルの異臭につられて双方共が引き寄せられれば、面倒なことになるのは言うまでもない。
分身とはいえ、相手は伝説の魔獣。四百年、人に対して害を為してきた阿漕。
クルシュが思ったように、スバルには───いや、彼でなくともそうだ。ただ独力で白鯨と対峙出来る者はそれこそ英雄の領域に住まう怪物のみ。強大な個に対抗出来るのは強大な個。怪物に対抗出来るのは怪物だけだ。
ならば、と。
ここに居るではないか。英雄が。神代の時代を生き抜いた真なる英雄と刃を交えた、英雄が。
スバルはなんの迷い無く、赤い弓兵に頭を下げた。
『本体を大樹に誘導してる間、分身の方の時間稼ぎはアーさんに頼みたい。任せても大丈夫か?』
『時間稼ぎ、か……無論だ。任された』
これをアーチャーは快諾。
しかし、スバルに見落としが一つ。
『しかし……別にアレを倒してしまっても構わないのだろう?』
『───』
そうだ───そうだった。スバルの目の前に立つこの赤い男は、紛れも無く白鯨殺しを成し遂げたのだ。それも、二体も。
『卿にかかれば、白鯨を相手にしても
『当然だよ、クルシュ。格上ならまだしも、自分より下の相手に"時間稼ぎ"は無いだろう?』
『それもそうだな』
スバルは、アーチャーが口にした白鯨に対する皮肉に対して、大船───所ではなく、軍艦か何かに乗った気分になった。
霧で視界が閉ざされた直後、白鯨の追撃を退けた時も。ヴィルヘルムを呑み込んだ白鯨を一刀で切り伏せた時も。
どんな時も、スバルはアーチャーに圧倒的な安心感を覚えた。
絶対的な安定。彼ならば容易くこなせるという信頼。出会って半日も経っていないが、アーチャーはスバルの中ではそれほどの人間なのだ。
だからスバルはもう一度頭を下げた。
アーチャーがいるならば、何の不安要素もなく作戦が遂行できる。そう確信しながら───。
・
弓兵を目掛けて、醜悪な魔獣が泳ぐ。自身を守る身代わりではなく、アーチャーを止める盾───いや、捨て駒として送り込まれたのだろう。
生き残っている分身は二体。内、片方は兵団や傭兵と戦っているが、この加勢に向かえば、
「ーーーー」
「実に醜いな、獣」
そんな白鯨を見て、アーチャーの表情は侮蔑に染まる。その外見もそうであるが、たかが分身体如きで足止めできると思われていることが不快。
「ーーーー」
聞くに耐えない声を上げながら偽りの白鯨は、
外野が何か言っている。危ないぞ、逃げろ、と。
だがアーチャーは周囲の警告を全く無視して、魔術を行使。エミヤシロウにただ一つ許された魔術だ。
手に現れたのは漆黒の長弓と、同じく虚空より創造した剣を───それは剣と呼ぶには歪な形をしていた───
刀身は万物を貫くとも思える螺旋を描いているのだ。
「ーーーーッッ」
迫る白鯨。
勇敢にその魔獣に立ち向かうでもなく、恐れをなして逃げ惑うでもなく。この弓兵は平坦に、冷静に、研ぎ澄まされた瞳で見据え───力強く大地を踏みしめながら、詠唱と共に弓を引く。
すると、まるで剣が呼応するように細長く伸び、一瞬にして「剣」が「矢」になる。
「───
アーチャーが詠唱を口にしたその瞬間、目に見えるほどの膨大な魔力の奔流が引き起こる。
これほどの勢いで、そしてこれほど膨大な魔力が収束することは滅多に見られる現象ではない。六大元素全ての魔法を最大限扱えるロズワールでさえ、或いは難しいかも知れない。
その危険性も異常性も全て本能で察知していた白鯨だが、所詮は
しかし弓兵の中に焦燥など無い。
何故なら、その名を解放する時点で生中な反撃を試みようが。
背を向け、惨めに逃げようが。
空間ごと転移し、脅威から逃れようとしようが。
真作では無いとはいえ───神話に於いて無敵の剣と評されたそれは、全てを喰い破るのだから。
「
放たれた矢は一瞬にして音を超え、光と成り。向かい来る霧をものともせず───それどころか、吹き飛ばしながら突き進む。
霧を抜けた先には無防備な魔獣。
音速をはるかに超えた
赤い弓兵の足止めという使命は果たされぬまま。魔獣の皮をかぶった幻影は、その矢によって空間ごとこの世から抉り取られた。
ズタズタに、引き裂かれた。