腕を組み、不敵に笑いながら白鯨の角に立つナツキスバル。
───あとはここから飛び降り、『死に戻り』を大胆に告白するだけ。それだけで逃走態勢に入った白鯨は、一転。本能のままにスバルを殺そうとするだろう。
「そんじゃ、そろそろやりますか」
スバルは意を決し、自分が置かれた状況を理解していない白鯨から腰を入れて飛び降りた。
「……っと!」
惑星に引かれるままに、加速度的に、自由落下するが───その姿を、醜怪な魔獣はただただ見下ろしていた。
つい数秒前まで自分の角に立っていたニンゲンは、確かに臭かった。ただでさえ見るに堪えない顔をさらに醜く歪めてしまうほどに。
しかし
多少体は向けたが、尾の動きを止めた。そして霧をまき散らすべく、白鯨は再び身体中から口を展開。
生存本能。なるほど、手強い。
何があっても生き残る。
生物元来───生まれながらに備えられた究極の本能。その枷はなかなか崩せない。
ならば、更に強い『悪臭』にて、その行動の足枷を吹き飛ばす他あるまい───。
「この野郎、逃げないでよく聞けや!てめぇのせいでレムが死んで、俺はすげぇトラウマ背負ったぞコラァ!!」
その刹那。
身体中の神経が全て断ち切られたかのように、指先ですらピクリとも動かせ無くなる。───いや、それほど生易しいものでは無い。
スバルを包む世界の時が、止まった。
視覚も生きており、白鯨も直前のまま静止している。スバルは朧気に思考も働き、
そして時が止まって、
『愛してる』
再び何か囁かれる。
『愛してる』
ヴィルヘルムを呑み込んだ白鯨を逃がさないようにした時と同じ声だ。
『愛してる』
不可思議で。
『愛してる』
魅惑的で。
『愛してる』
妖しくて。
『愛してる』
艷麗で。
『愛してる』
優しくて───。
『愛してる』
そんな女の言葉を聞き届けた瞬間。
スバルの心臓は掴み取られた。
その衝撃はまるで全身に稲妻が駆け巡るようなものだ。
背中側から全てを貫通する手が胸に入り込み、スバルの赤い炎を全身に循環させるポンプを直接掴んだのだ。その掌は、つい数秒前の柔らかな声とは裏腹に、荒々しくスバルの心臓を握った。
圧倒的な異物感と苦痛に、叫ぶことも許されない凍りついた異質な空間だが───
「戻って、きたぁあああ!!」
直前まで『何か』に心臓を鷲掴みされていた激痛と、一身に受け止める風圧。
加えて、ピタリと止まっていたはずの白鯨が、跳ねるように、スバルに向かって滑空してきたのだ。
「ーーー、ーーーッッ!!」
成功だ。
死にものぐるいでスバルを殺そうとする白鯨に、恐怖心を抱いていたため虚勢なのかも知れないが、スバルはニヤリと笑った。計画の遂行を考えると、この時ばかりは生存本能すら壊す『魔女の残り香』に感謝したくなる。
そしてもう一つ。
「え───?」
スバルの遥か頭上。
この白鯨討伐戦が始まった時だ。レムが《アル・ヒューマ》を使った直後に、アーチャーが放った矢がまさに今の流れ星に似た軌道を描いていた。ならば、恐らく
仮に、誰もが彼ほどの腕を持つ狙撃の名手なら、この異世界でも弓矢がさらに普及していただろう。この世の魔法体系に存在しない蒼炎を巻き起こす矢は、ともすれば《アル・ゴーア》よりも強力なのだ。
───なんて、スバルに迫りつつある白鯨から目を逸らすような考えに耽っているのは、覚悟を決めていたとはいえ、スバルも恐怖を覚えているからだ。所謂、現実逃避。
スバルは白鯨を挑発するかのように笑っているが、心の内に恐れがないと言えば嘘だ。何度も『死』を体験しているが、それは慣れるものでも無いし、恐怖は克服できそうにない。
「ーーーーーっ!」
それに、白鯨の狂気に染まった眼を見れば尚更。生物らしく生存本能の傀儡として、比較的冷静に行動しようとしていたこの魔獣が、スバルを殺すことだけに思考が染められているのだ。
口を大きく開き、咆哮を何度も上げ、空気を揺らし、強烈な『魔女の残り香』を匂わせるスバルとの距離を詰める。
このままではまた『死に戻り』をすることになるだろう。口にすっぽり収まるか、或いは空中で白鯨に轢かれるか。
だが───スバルの犠牲を、あの弓兵が易々と許すだろうか?
「ーー、ーーっっ」
大地衝突まであと十数メートルまで迫った時。鯨の白き岩肌が青に爆ぜた。
当然、白鯨は大きく逸れた。苦悶と共に、隙が生まれる。
「レム───!!!」
「はいっっ!!!」
それを見逃さなかったスバルの叫びに応えたレム。パトラッシュに乗っていた彼女は、モーニングスターの鎖でスバルを巻き取り、手元に手繰り寄せた。
「ぐぇ"っ………」
レムのおかげでスバルは白鯨が進む軌道上から外れ、そして白鯨は勢いのままに頭から大地に突っ込む。スバル達はそれを背にして、ただただ逃げる。
「レム、助かった。んで、俺の匂いは?」
「はい。さっきより、凄い匂いです!」
「あ……うん。やっぱ言い方ひどいね!」
などと軽口を叩きながらも、スバルはパトラッシュに激を入れる。
「頼むぜ、パトラッシュ!ドラゴンなんだろ!? かっこいいとこ見せてくれ!!」
この地竜に命を託す。
白鯨は莫大な質量を持つ惑星に正面衝突し、既に満身創痍だろう。相手が人間なら蹂躙できる。しかし、自身より重いモノに激突すれば、白鯨とてただでは済まない。
しかし、スバルはまだ逃げる。何故なら白鯨の目は、未だ狂気一色なのだから。
「ーーーーッ!」
魔獣の咆哮が空気を激震させる。
怒りのままにスバルに追いすがっていた速度はかなりのものだったようで、地揺れさながらに大地が激震し、土は大きく抉られる。白鯨の質量・速度を考えれば、隕石が地球に激突した衝撃のちょっとした下位互換とも言える。
土煙が高く舞い、しかし白鯨は止まらない。
ここまで怒り狂わせる『魔女』は、魔獣とどんな軋轢があったのか少し気になるところだが、そんなことを考えている暇は無い。
「ーーー!」
スバルは背後から襲い来るプレッシャーを感じつつ、目的の場所へ誘導する。今の今まで
「ーーーーッ!ーーーッ!」
白鯨はより一層憤怒を内包した叫びを上げる。逃げることなど頭にない。あるのは、憎悪を煽る悪臭を全身から発するスバルを、何がなんでも殺すことだけ。
だからだろうか。白鯨は周りをあまりに見ていなかった。
「食らいやがれ───ッッ!!」
白鯨が物の見事に誘導されたそこは───樹齢千年を超えるフリューゲルの大樹だ。これをへし折り、白鯨の真上から叩き込み、そして動きを封じ込める算段だった。
タイミングを見計らって上げたスバルの声と同時に、クルシュも合図を出した。
「放て!!」
その合図と共に放たれるのは、数々の魔法による破壊。
業火による閃光。真空より作り出された見えざる刃。巨大な岩石による轟き。音の振動による破壊。その全てが幹を抉り取り、大樹が崩壊の音を立てながら───。
そこで、パトラッシュで逃げながらも後ろを確認したスバルが叫ぶ。絶望的な不都合に。
「なっ……!やべぇ!
「なんだと!?」
つまり、それだけ大樹は頑丈だったのだ。十二分の破壊はあった。ここでケリを付ける。
そして大木は折れ、倒れる寸前までなった。
しかしこのスピードで倒れていては、白鯨が大樹の下を通過してしまう。
かと言って、白鯨の横腹に魔法を打ち込んでの足止めは厳しい。───魔法を唱えるには
この場にいる魔法使いは誰もが一流ではあるが、樹を倒すことに力を入れすぎたのだ。
つまり白鯨が大樹を通り過ぎる前に再び魔法を、ということは難しいのだ。
「スバルくん!!」
「分かってる!!」
ならばどうする。
どうする、どうする……!
───どう手を打てば、白鯨を足止めできる!?
スバルは頭から煙が出そうほど、考え尽くす。猶予ははあと数秒。それだけ時間が経てば、白鯨を生け捕りする夢は潰える。
───白鯨が血眼で追いかけているのは、スバルだ。パトラッシュから飛び降り、死を覚悟して囮になれば、足止めができるか。
(どうする、菜月昴……やるか!?)
「スバルくん、
背中でスバルの考えを察したのか、レムが考え直すよう説得する。
「でもレム、時間が───いや……違う」
あ……居た。一人。
「───アーさんッッッ!!!」
「了解した」
瞬間───いや、スバルの叫びと重なるように。
都合数十もの紅い矢が降り注ぎ、撃ち込まれ。そして、白鯨の眼前から尾ひれにかけて剣山を作り出す。木を倒すタイミングが少しずれたのを見て、初めから動いていたのだろう。
───今宵、この弓兵に与えられた何度目の悶絶か。結果として、身体を
「間に合った!!!」
スバルの誘導とアーチャーが作り出した刹那の足止めが功を奏し、賢者が植えたと伝えられる大樹が───白鯨の動きを完膚なきまでに停止させた。
樹齢千年。想像も絶する時間の流れを体験した大樹は、白鯨の岩肌の如き装甲をまるで無視して、魔獣を叩き潰す。白鯨とて逃れはしない。
白鯨の質量すら嘲笑うほど重いその木は、先程白鯨が激突した時以上の衝撃が大地を襲う。
巻き上げられた土が周囲全てを、未だ戦いを続けていた残る分身の白鯨すら飲み込み、霧が吹き飛ぶ。
───四百年だ。世界に忌み嫌われるこの魔獣が世に姿を見せてから、それだけの年月が経過していた。
この間、この魔獣を殺してみせた者は存在しない。ルグニカ王国が誇る『剣聖』率いた討伐隊ですら、『霧の魔獣』の前に敗走を強いられた。それほどの、脅威。神出鬼没の災害。
人を喰らい、彼らを知っていたはずの人々の記憶すら喰らった。
星の歴史に刻まれるであろう強大な魔獣。
そんな『霧の魔獣』が生み出し続けてきた悲しみの連鎖は、遂に───遂に、ここで終止符が打たれる。
「最愛の妻、テレシア・ヴァン・アストレアに捧げる」
スバルも、クルシュも。誰もがこの男のために動いた。それを理解しているからこそ、多大な協力をした彼らに対する恩義に報いるため。そして十四年前、自身が打ち立てた誓いを果たすため。
未だ息がある白鯨の頭に立つこの男、『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが剣を振り下ろす。
───閃き。
宝剣が白鯨の肌を斬り裂く。ヴィルヘルムが雄叫びを上げながら、それを追うように白鯨から吹き出す赤が世界を染める。
その在り方は、まさに『剣鬼』。
ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが振るった宝剣が、長く、深く、鋭い斬撃が、白鯨の巨躯を両断し───最後は目から光が失われた。
死だ。霧の魔獣は、ここに沈んだ。白鯨は、確かに討たれた。
しかし、そのような歴史的事実を前に、誰も声は上げなかった。
「やっと……」
ただ一人を除いて。
「終わったぞ、テレシア……」
満身創痍。腕は千切れかけ、白鯨の背を暴れたことで傷口という傷口から血が吹き出し。圧倒的な疲労感から、宝剣は手から離れ落ちた。
ヴィルヘルムは小さく、掠れた声で。
「私は、お前を……」
しかし、こうも気高く。そして、力強く───。
「俺は、お前を……愛している!!」
仇の屍の上で、最愛の妻への告げられることの無かった感情の昂りを───愛を。数十年の時を経て、一人の男は叫んだ。
朝焼けに向かって叫ぶ男の姿は、とても美しかった。
誰もが、そう思った。