「ーー、ーー」
「ッッ!」
苦痛に吼える白鯨。その背には鉄球で鯨の肉を抉るレムと、大鉈を振りかざし皮膚ごと肉を断ち斬るリカードがいた。
両者の表情は共に鬼気迫るものがあるが。それもそのはず。その白鯨の腹の中には、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが収まっているからだ。
最も、白鯨に食べられたというのも、ほんの少し前の出来事だ。すり鉢の如き白鯨の歯に、彼の頭が磨り潰されていなければ
いや。そもそもスバル以外の者達がヴィルヘルムのことを覚えていることこそが、生存の証とも言える。剣鬼はまだ死んでいない。だからこそ、事態は一刻を争うのだ。
「飲み込ませるなぁぁああ!!」
絶望的な状況には変わりないが、諦めるのは早すぎる。
「諦めるのは似合わね───っっ!!俺もみんなも、誰にでも!!」
スバルにとっても、万人にとっても。
「諦め」という感情は、到底受け入れられるようなものではないのだから───。
少年の怒声が霧に包まれた戦場に木霊した。
アーチャーという男から与えられた希望と、明らかにこの戦場において最弱であるスバルが未だ諦めていないという事実。それが討伐隊の彼らを再び奮い立たせる。───こんな所で膝を折っている場合では無い、と。
スバルだけならば、彼らはここまでの顔をしなかっただろう。直前に心を染める絶望が希望にひっくり返る情報を知り、若干の余裕が出来たからこそなのだ。恐らくアーチャーが居なければ、スバル達の奮闘を正常に認識することすらできなかったはずだ。
「……ほう。存外に頼もしい言葉を言うのだな」
しかし───例えそうだとしても。スバルの言葉に勇気付けられた者達が多くいるのは確かな訳で。
少年の言葉を聞いて軽く笑みを浮かべたアーチャー。彼は指揮官であるクルシュを、そして討伐隊の者達を一瞥して問を投げた。
「さて、私は行くが……君達はどうする?」
「行く」───とは、つまりヴィルヘルム救出に、である。即ちそれは白鯨討伐の継続を意味するところであり。
アーチャーは、クルシュと一度は折れた討伐隊全員に問うたのだ。
白鯨ともう一度戦う覚悟を。四百年に渡り人間を消滅させてきた忌々しい魔獣を落とす覚悟を。
何度も痛みに暴れる白鯨。白き鯨にとって痒い程度の攻撃もあれば、悶絶するに至る苦痛も時折与えられる。
「ーーー、ーー」
「リカードさん、一旦下がります」
「おう、ワイはもう少し粘るわ!」
そんな暴れる白鯨の背に立つことは出来ないと、レムはこれ以上危険だと判断して背中から飛び降りた。
リカードならばライガーに乗っているため、容易に着地できる。一方レムは身体能力に長けた鬼族と言えど、高所から生身で落ちれば無傷で済むはずはない。かと言って策もなしに飛び降りたのかといえば、そういう訳ではなく───
「スバルくん───っ!」
「っと」
パトラッシュが上手く落下地点に飛び込み、スバルが見事にレムを包み込む。スバルが衝撃を受け止めたことでレムの負傷はない。
依然、スバルは逃走を続けて白鯨がスバルを追う。
「……ご馳走様です」
「何言ってんの! とりあえずお疲れ。どうだ?」
「奇襲に耐えきっていたのである程度は想像していましたが……やはり硬いです。レムとリカードさんだけでは時間がかかるかも知れません」
魔法やヴィルヘルムによる斬撃、加えて低ランクだったとは言え、アーチャーの
白鯨は手負いとなっても埒外の耐久力は健在のようで。ヴィルヘルムをいち早く救出したい反面、打開策が無かったのも事実だった。
直後、爆音が響く。
「なんだ!?」
スバルが驚いて見ると、中空を漂っていた白鯨───天高く泳ぐ二体、そしてヴィルヘルムを呑み込んだ白鯨では無い───に撃ち込まれる
攻撃を仕掛けたのは勿論。
「───総員、撃て!!」
女傑の号令と共に再び白鯨は業火に包まれた。
白鯨を落とさんと魔法を撃ち続けているのは『鉄の牙』の精鋭達だ。クルシュのそばには弓を射るアーチャーも立っていた。
傭兵団である『鉄の牙』は、今は総括であるクルシュの号令に合わせてありったけの魔法を白鯨に叩き込む。一度地に落とせば、ヴィルヘルムが集めた老兵達もまた心強い戦力となるだろう。
「おお、やっとるなぁ!」
リカードもそれには感嘆した。爆炎で霧が吹き飛ぶほどの光景に。
『鉄の牙』副団長の二人も、華奢な身体ながら、そのような幼い風貌からは考えつかないほどの咆哮を叩き込む。
見て分かる通り、彼らの目的はヴィルヘルム救出ではない。寧ろ彼を食べていない、別の白鯨を攻撃している。
一刻を争う救出ではあるが、何故そうしたかと言えば単純に「危険だから」だ。仮にヴィルヘルムを腹に収めた白鯨を攻撃して、その衝撃でヴィルヘルムまでに危害が及べば。それこそ主客が入れ替わるというもの。
「頼もしいぜ───って、うおっ!!」
「回避します!」
とは言え、余所見は禁物。
逃げたレムを、そして『魔女の残り香』を存分に香らせるスバルに対して白鯨は追撃を加えてきた。頭に生やす巨大な一角の根元付近から、狙撃するかのように『消滅の霧』が噴き出してレムとスバルを狙ったのだ。
しかしそれはスバルの思惑通りであり。『魔女の残り香』に惹き付けられる白鯨を引き寄せて、ヴィルヘルムを食べた白鯨を空へに逃がさない算段なのだ。
「余裕が出来れば、もう一度白鯨へ攻撃しに戻りますっ」
「そんな隙、今んとこ無いけどな……っ!」
パトラッシュの手綱は既にスバルからレムに手渡されており、彼女とパトラッシュがいち早く危険を察知して華麗に回避したものの。『消滅の霧』が着弾した地面は綺麗に抉れており、スバル達に直撃していたらどうなっていたか。攻守双方において、今も尚白鯨は脅威でしかない。
「……レム、回避は完全に任せられるか?俺は白鯨が増えた理由を考えたいんだ」
「分かりました。しっかりレムに掴まっていてくださいね?」
「おう」
白鯨に一度だけでなく何度も霧で狙撃されるが、だからこそスバルは回避をレムに任せた。スバルは彼女に全てを預け、今やるべきことをやり、レムもまたスバルに対して思考に没頭して欲しいと動く。
スバルが"今すべきこと"とは即ち、白鯨が増えた原因究明だ。確実に何かカラクリが存在しているはず。元より五体いたのでは前提に合わない。恐らく原因を突き止めさえすれば、再び局面は大きく変わる。
クルシュ達が白鯨落としに全戦力をつぎ込んでいる中、スバルだけは加勢できないほどに非力だ。彼の参戦は竜巻に飛び込む仔犬と同格。───ならば、彼の全意識は思考に注ぎ込むべきである。回避はレムに任せ、そして自身はいち早く白鯨が増えた謎を解き明かそう、と。
「考えろ……」
全幅の信頼を寄せたレムに身を任せ、回避に揺られる体を他所にスバルは思考の海に沈んだ。
パトラッシュに乗るのが一人だったら。或いは二人だとしても、レムでは無かったら。スバルはここまで深く考えられなかっただろう。
───明らかに不可解な点はある。それこそ、十四年に渡って白鯨を追いかけていたヴィルヘルムが、そんな情報を見落とすことがあるのだろうか。僅かでも「白鯨は複数個体で行動する」という類の情報が流れていれば、彼はそれを確かに掴んでいただろう。
(どうして急に三体に増えた?……なにか取っ掛りが掴めれば……)
「スバルくん、身体を傾けてくださいッッ!」
「───え?」
と、その時。レムが切羽詰まった声で叫んだ。後ろを振り向くと、白鯨がその巨大な口に『消滅の霧』を装填している、そのまま放たれれば、間違いなくスバル達が呑まれる───そのような軌道だ。
拙い。 拙い。 拙い。
レムも咄嗟の判断でパトラッシュに指示を出して直角に曲がる。最短距離で霧の軌道からの離脱を図るが───数秒足りない。スバルもレムも焦燥が極まる───。
しかしその数秒を、
「ハ───ッッ!!」
リカードが稼ぐ。
「ーー、ーー」
「ハハハッッ!余所見すんなや!!」
ミミとへータローのような咆哮を真上から白鯨の脳天に叩き込む。しかしその威力は彼らよりも強烈で。白鯨はあまりの威力に強制的に口を閉じることとなり、その反動で大地に叩きつけられる結果となった。
彼が放つ咆哮とは、ミミとへータローが放つそれのオリジナルだ。元はと言えばリカードが元祖なのだ───と、彼は主張している。威力は言わずもがな、ではあるのだが当然デメリットもある。
一つ目は、ミミとへータローは二人で放つ咆哮をリカードは一人で放つ。つまり身体への負担が大きいのだ。
「あー!!だんちょー、また真似した!ミミとへータローの技、真似すんなーー!」
「何言っとんのや!ワイのや言うとるやろが!」
二つ目はミミも自分でその技を元祖を主張しているため……たまにモメる。他の白鯨を攻撃していたミミに遠くから抗議の声が飛んで来るほどだ。それが可愛らしいのだが……。
「はぁ……助かった。……それにしてもリカードさん、すげぇな」
だが安堵もつかの間。リカードの攻撃に弾かれて地面に激突した白鯨は、一度空へと退くことを選択した。スバルの追撃から一転、頭を天に向けて高度を急上昇。
それはリカードの奮戦に耐えかねたことと───同時にヴィルヘルム救出が遅れることも意味する。
「うおっ───」
リカードは白鯨の背に立っていたわけだから、彼は落ちるように滑り降りた。ライガーに指示を出し、巧みに降りることで衝突の衝撃は無かったが。
「スバルくん!」
「ああ……ここで逃がしちゃ結局何も変わんねぇぞ……!」
低空にいれば、まだリカードとレム次第で救出の可能性は高まる。しかし逃げられたならば───。それだけは防がなければならない。
「レム、耳を塞ぐぞ」
「はいっ」
要は白鯨を逃がさなければ良い。何も武力で落とす必要は無い───と、なればスバルの特性を活かして昇ろうとする白鯨をもう一度引き付ければ良い。
勿論、レムには耳を塞いでもらう。彼女は手綱を握っているため、スバルの手が塞ぐことにはなるが。
当然リスクもある。強力な『魔女の残り香』に惹かれてスバルの元に飛んでくる白鯨がその一体だけでは済まない可能性が出てくるのだ。同じく中空でクルシュ達と戦闘中の白鯨すらもスバルに目を向けるかもしれない。無力なスバルと二体の白鯨という明確な
然し───
「そんな
スバルの言葉は途切れ───直後、
『愛してる』
耳元で囁きかけられる、弱々しい小さなか細い声。或いは何処かで聞いたことがあるような、そんな声。
どこか恐怖を感じさせるような黒い腕が見え隠れする中、聞こえてくるその声には熱が込められている。その熱はスバルの目の端に涙を浮かばせるような、そんな衝動を与える。
不気味なのに抱きしめたい。
奇妙なのに愛おしい───。
そんな非現実がスバルを埋め尽くすも、次の瞬間には、
「───戻った」
スバルの意識は覚醒する。
寸前までスバルを支配していたあの感情は消え失せて、それがどんなものだったのかすら思い出せなくなる。ただ心臓を握られるような激痛が訪れなかったという感覚と───
「レム、どうだ。俺から魔女の臭いは?」
「はい!臭いです!」
「狙い通りだけど、それ酷くね!?」
強烈な『魔女の残り香』だけが残り───。
「ーーーー!」
「ーーーー!」
空気を揺らし高く、高く、高く吠える二体の白鯨が、体の向きをスバルの方に変え。
「来た来た来た───ぁぁ!!」
「───っ」
霧の中を泳ぎながら、ゆっくりと巨体を進め始めた。