「はぁ…」
この日何度目かも分からないため息をついた。手元に視線を落とすとまるで進んでいない仕事。
何をやっているんだ…と思うも体が働かない。
それもそのはず、心は一つのことに支配されていた。
(宮水…三葉…)
今日、何度この名前を心の中で呼んだだろう。
原因はただ一つ。間違いなくあの朝の出来事だろう。
〜〜〜〜〜〜
「「君の、名前は――」」
「「………」」
静寂に包まれる二人。
瀧は焦っていた。
初めて会った人に名前を聞いた。
当たり前のこと、それなのに瀧は自分の名前を言い出せないでいた。
自分の名前を言うのが違う気がして、彼女に名前を呼んでもらいたくて――
「ふふっ…」
彼女が笑い出した。
さっきまで泣いていた彼女が笑うくらいだ、誰から見ても相当焦っているように見えたのだろう。
そのことに気づき、自分でも分かるくらい顔が赤くなる。
「ごめんなさい。黙りこんじゃって」
「いやっ、全然、こちらこそ、あのっ…」
「三葉…宮水三葉です」
彼女は少し笑いながら言う。
(みつは…宮水三葉…)
名前を聞いただけ、それなのに、なぜこんなにも、心が落ち着くのだろう。
暖かな波のように、この名前が心に、体中に広がっていく。
止まりかけていた涙が再び溢れ出しそうになる。
それをぎゅっと堪えていると――
「君の名前、教えてくれませんか?」
彼女が少し苦笑いしながら聞いてくる。
名前を聞いて、ぼーっとしていた自分に気づきまた少し顔が赤くなるのを感じる。
「瀧…立花瀧と言います」
「瀧…立花瀧くん…」
彼女もまた、名前を呟いている。
と同時に、彼女の目に涙が溢れ始めた。
「あれっ…なんでだろう…名前を聞いただけなのに…ごめんね?」
「俺も…君の名前を聞けただけで、ただそれだけが本当に嬉しくて…心が満たされる気がして…」
彼女は取り出したハンカチで目元を拭う。
彼女も、自分と同じ感情を抱いていることが途方もなく嬉しかった。
そんなことを考えていると、何かを忘れているような気がした。
彼女の名前を忘れていたこととは違う、もっと身近なことを忘れている気がする。
そこで瀧は首をかしげる。
(初対面の人の名前を忘れる?今聞いたばっかりだろ?俺は何を思い出そうとしていたんだ?でもいつか、名前を聞いたことが――)
(違う、そんなことじゃなくて、もっと身近な、もっと簡単な――)
そこまで考えてはっとする。
反射的に、スマホの電源をつける。
スマホの画面写し出された時間は、出勤する時間をとうに過ぎていた。
それに気づいた瀧は血の気が引いていくのを感じる。
会社に入社して間もない瀧が遅刻するのはあってはならないことだった。
「やばっ!三…宮水さん!時間が!」
危うく下の名前を呼び捨てで呼んでしまいそうになった自分に疑問を抱く。
が、今はそれどころではなく――
「へ…?時間…?うわっ!」
「宮水さん!と、取り敢えず仕事に行きましょう!」
〜〜〜〜〜〜
「はぁ…」
またため息だ。
自分でもそう思う。
会社には遅刻してしまいこっぴどく叱られてしまった。
しかし、このため息は間違いなく怒られたことに対してではないだろう。
(宮水…三葉…)
また呼んでしまう。
でも、名前をずっと呼んでいないと、忘れてしまいそうで、もう二度と思い出せなくなりそうで。
スマホには交換した連絡先もある。
名前も登録してある。
名前を忘れてしまっても、スマホを見ればすぐに思い出せるのに。
それでも、ずっと呼んでいないと、考えていないとダメな気がしていた。
今すぐ話をしたい。
顔を見たい。
声が聞きたい。
名前を呼んでもらいたいーー
「立花!いい加減手を動かせ!」
「す、すみません!」
上司から名前を呼ばれてまた上の空だったことに気づく。
(課長じゃないんだよなぁ…)
呼んで欲しい人と違う人から名前を呼ばれ苦笑いをする。
よし、仕事に集中しよう。
そう自分に言い聞かせて手を動かし始めた。
「はぁ…」