「彩ちゃん、そこの文章、スペルが間違っているわよ?」
「え、あ!本当だ……!」
そういって、彼女、丸山彩は消しゴムで途中まで書いていた英文を消して、再びペンを手に取り問題文へと取り掛かる。それにしても、私が、白鷺千聖が休日を「友達」に勉強を教えるために過ごすだなんて……昔の私なら思いもしないのだろう。
丸山彩は不思議な少女であった。
彼女は決して特別な力を持っているわけではない。頭もあまりよくないし、歌やダンスが特別上手いわけでもない。頑張ろうとしても、それが空回ってしまうことの方が多い不器用な少女である。厳しい芸能界では、彼女のようなタイプは長続きしない……この目で何度も見てきたことだ。
……けれどいつも一生懸命な彼女に、不思議と周りは魅かれていく、そう、この私も含めて……
「千聖ちゃん?ここの文はこれで大丈夫かな?」
「えっと……そうね間違いではないのだけれど、同じ借りるという意味でもborrowは無料、rentは有料の意味が含まれているの。だから、シチュエーション的に公園でボートを借りるのはどちらが正しいかしら?」
「……え!そうなの!?……えっと、じゃあ……ボートを借りるなら有料だよね!こうして……出来た!ありがとう千聖ちゃん!」
「どういたしまして。でも、あまり私に頼りすぎるのも駄目よ、彩ちゃん」
「う……でも千聖ちゃんの解説がわかりやすくって、自分で解くより頭に入るから、つい……」
「もう、またそんなこと言って」
「えへへ」
彼女が私に勉強を教えてほしいといったのはきっと私が同じ学校で、同じバンドグループのメンバーだからだろう。それ以上でも、以下でもない。きっと仲良くなりたいと言っても、どこかで打算的なところがあるはずである。
……なんて、昔の私ならそんな薄暗いことを考えただろう、でも今は……。
「あ、薫さんが男の人と歩いてる」
ふふ、そうそう、本当に小さなころはかおちゃんくらいしか……?
「っ!!??」
ばっと、ガラス窓の向こうを覗く……!?た、確かに薫と、その隣には、ラフなジャケットを着た長身の男性が……。
「薫さんの隣の人誰だろう?何だかどこかで見たことのある雰囲気だけど……もしかして」
「……彩ちゃん、そろそろお店を出ましょうか?」
「え?まだ、問題……」
「出ましょうか?」
「あ、はい……」
はぐみの兄ちゃんは苦労人
「今日一日、一緒に過ごさせてほしい?」
「あぁそうとも、お願いできないだろうか?」
ある日、柿の葉を一枚口元に近づけて気取っているスラリとした紫髪の女性……瀬田薫が家の玄関の戸を叩いたかと思えば、そんな突拍子もないことを言ってきた。前から思っていたことだが、ハロハピのメンバーはみーくん以外事前のアポというものがない。必ずこちらが暇なわけではないのだ、もっと人の都合も考えてだな……
「おや、何か用事があったのかい?子猫ちゃんに尋ねてみれば、今日は家で暇そうにしていると言っていたけれど……」
……決して暇ではなかった、差し迫ってやることがなかっただけである。
「一緒に過ごすって言ったって、なにをするんだ?」
「何、言葉の通りさ。君はいつも通り過ごしてくれればいい、それに、私が付いているだけさ」
ぴっと、柿の葉を茂みに放ってそういう薫。よくわからないが、何か手伝ったりするというわけではないのか?だったら、かなり簡単なお願いに聞こえるが、いやでもな……。
俺が考え込んでいると、薫が額に手を当てて次の言葉を紡ぎ始める。
「実は今度、演劇部で十二夜という作品を演じることになったのだけれど……。いや、それは重要ではないか、兎に角、ムッシュ、君に協力してもらうのが一番だと思ったのだけれど……どうか、お願いできないだろうか?」
次には、胸に手を当てて真面目な顔をする薫。何やら嫌な予感がしたがここまで真剣にお願いされては……断りにくい。俺は薫の頼みを承諾することにした。
そして、早くも後悔している。
「……さ、どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
とりあえず事情でも聞くかと近くの珈琲店へと足を運んだのだが、何だか今日は薫との距離がやけに近い。その上、店に入るまでの間もじーっと、こちらを見つめる赤い瞳。いつもギターを教えているときにはあまり考えていなかったが、こう見えてこの瀬田薫はすごく整った顔をした美人なのだ。おまけに、今日は黙っているからいつものような頓珍漢な言動もない、そう見つめられると妙に気恥ずかしい……。
「あ、いらっしゃい、お兄ちゃん!それから……瀬田、先輩?」
「やぁ、つぐみちゃん。エプロン姿も良く似合っているね」
「あ、はい、ありがとうございます」
俺と薫の組み合わせが意外、という顔を正直に浮かべるつぐ。まぁ確かに練習するときは家にいることが多いから、薫と二人でどこかへ行くのは珍しいかもしれない。
つぐの案内で少し歩いた2人掛けの席に通されるとスっと、俺の座る椅子を引いてくれる薫。こういう、細かい気配りがモテる秘訣なのだろうか。椅子に腰を下ろすと、つぐみが羽沢珈琲店お手製のメニューを手渡してくれる。
「今日は私が出すよ。遠慮せず、好きなものを頼んでくれ」
「そうか、じゃあ、ブラック・アイボリーってやつにしよう。薫もこれにしたらどうだ」
「ブラック・アイボリー……!ふふ、とても儚い響きの飲み物だね……ん?」
俺が指さしたのは、この店で一番高いコーヒーだった。一杯5000円。薫がマジか、という顔で俺を見る。
「前から一度飲んでみたかったんだよ、これ。なんでも象の糞から作ってるらしい」
「ぞ、象の?」
値段にもコーヒーの内容にも顔を青くさせた薫に冗談だというと、ほっとしたように息をつく。しかし、それはそれで儚い飲み物だね、と少し気になったようである。俺は飲みたくない。
注文が決まったので近くにいたつぐに再び声をかけると、カフェモカを注文する。続いて薫はブラックのコーヒーを頼んでいた。なんか負けた気がした。
「それで、十二夜っていうのはどんな話なんだ?シェイクスピアの話っていうのは知ってるけど……」
恥ずかしい話だが、俺はシェイクスピアなんてものは生まれてこの方読んだことがない。
ハムレットやリア王なら聞いたことがあるが、十二夜というタイトルは聞いたことがあるような、無いような、そんな感じである。俺の問いに対して、薫が、うん?と目を泳がせる。
「そうだね、十二夜は「シェイクスピアの中でも最高の、そして最期の喜劇……」!「ち、千聖!?」
すっと、俺たちの座っていた隣のテーブルに腰を下ろしたのは金色の髪に赤い瞳、そしてどこか鋭い雰囲気を持った小柄な女性だった。そして、その後ろには赤いメガネを掛けたピンク髪のふわふわした髪の少女。
「ど、どうしてここに……」
「いえ、たまたま彩ちゃんとここの喫茶店に行こうという話になったの、ね?」
「え?……えーっと、うん、そうだった、かも」
にこりと微笑む千聖と呼ばれた少女。何だろうか、あの笑顔、何だか関係ないのに俺までちびってしまいそうなほどの凄味がある。
「それで、薫。そちらの方は……」
「あ、ああ。はぐみのお兄さんだよ。私のギターの師でもある」
「はぐみちゃんの?」
「どうも、初めまして」
そう軽く頭を下げるとあ!とピンク髪の子が声を上げる。
「ち、千聖ちゃん!この人だよ」
「え?」
「ほら、前に日菜ちゃんが言ってた!この前会えなかった……」
「……あぁ、そうだったのね」
話に置いてかれているが、ピンク髪の子に納得したように頷く千聖さん。さっきまでの鋭い雰囲気もどこか柔らかいものになった気がする。それにしても、薫が先ほどからこの千聖なる人物が来てからというもの、冷や汗を垂らしてどこか落ち着かないようである。何かあるのか?
「私は白鷺千聖……よろしくお願いしますね、お兄さん」
白鷺千聖……白鷺千聖!?聞いたことがある。まさか
「あの、はぐれ剣客人情伝の!?」
「え、えぇ……」
「おぉ!」
はぐれ剣客人情伝は小さなころからとーちゃんと一緒によく見ていた。カッコいい殺陣が魅力的な時代劇である。中でも白鷺千聖と言えば、子役で昔準レギュラーを張っていた芸能人である。本物の芸能人、初めて見た。一人興奮していると、隣にいたピンクちゃんがちらちらとこちらを見てくる。そして、目が合う。
「こほん、まん丸お山に彩を!丸山彩です!」
「あぁ、よろしく」
俺の返しを聞いて、なぜか少しムッとする丸山彩。そしてメガネを外し…
「……えー、パステルパレットのふわふわぴんく担当、丸山彩です!」
「?あぁ大丈夫、ちゃんと覚えたから。よろしくな」
ビシッとポーズを決めていたが、そう言うと何故かがっくりと項垂れる丸山彩。それにしても、なんで二回も自己紹介したんだろうか。なんとなく、自己主張の激しいことはわかったが。
「はい、お待たせしました、カフェモカとブラックコーヒーですね」
「……ブラックコーヒー?」
そうこうしているうちに、つぐが俺と薫の注文した飲み物を持ってきてくれる、次いで、何やら薫のブラックコーヒーに文句ありげな目をした千聖さんたちの注文を取りに移る。その隙に、身を乗り出して薫に声を抑えて話しかける。
「薫。千聖さんと知り合いだったのか。しかし、すごいな千聖さん。近くで見ると小さいしすごい綺麗だ」
「……そうだね、そう思うよ」
こっそりと薫にそう告げると、どこか力なく笑う薫。何だか、普段と様子が違うな……。
つぐが注文を取り終えて厨房の方へと向かうと同時に、隣にいた丸山彩が俺の方へと椅子を寄せる。
「あのですね、こういう人、見たことないですか?」
見せてもらった携帯の画面には、ギターのピックを咥えて笑う薄いターコイズブルーの少女……。うーん、ん?
「ああ、見たことある。確か、氷川、紗夜さんだろ?ここのお手伝いしてるときに、あった事あるよ」
そう答えると、全員が顔を合わせて微妙な顔をする。あれ、結構自信があったんだが……。
「紗夜さんは、彼女のお姉さんで……あ、ほら!川の中に入って、携帯を拾ってあげた……」
「ん?あぁ、あったあった。そういえば、あったなそんな事」
そういうと、丸山彩の頬が一段と緩む。確かに会った。
そうか、あのはぐみの友達の、妹さんだったのか。思い出したぞ、あの後、服がドロドロでかーちゃんにこっぴどく怒られてしまったっけか、そういえば。
「えっと、一度会ってみたい、そうなんですが……」
「え?なんで」
「え、えっと、ほら、お礼を改めて言いたいらしくって……」
「お礼って……うーん、ああ、じゃあ今度ウチのコロッケでも買ってくれよ」
「え?え~っと、コロッケはこの前買って……」
「え、そうなのか?」
「はい!とっても美味しかったです!」
「彩ちゃん」
「と、あの、今度その子に会ってもらえますか?」
「え?でも」
「お願いします!」
ばっと頭を深く下げる丸山彩。この子に会うって、別に彼女自身は関係ないだろうに、どうしてそこまで真剣に……?
「わ、わかったから、そんな大きい声出さなくても」
「本当ですか!?やった!」
顔を上げて笑顔を浮かべる彩ちゃん。なんか押し切られてしまったが、また面倒くさいことになりそうな予感が……。
「ところで、薫。あなた、十二夜をやるのよね」
「あぁ、そうとも。私は……」
「ヴァイオラ、いえ、シザーリオ役じゃないかしら?」
「!……ふ、流石だね、千聖」
「シザーリオ?へぇ、薫さんまた男の人の役なんですね!」
「いいえ、シザーリオは、ヴァイオラという女性が男装しているときの名前よ」
「え!じゃあ今度は……」
「女性であり、男性である、そんな役だよ、ヴァイオラというのは」
ふむ、男装の麗人というやつだろうか。確かに薫にピッタリの役だと思うが……。
「お待たせしました、紅茶2つと、チーズケーキです」
「ありがとう、つぐみちゃん」
「あの、私も一緒にお話ししても良いですか?今なら抜けても良いって、お父さんも言っていたので……」
「えぇ、もちろん歓迎するわ。そうね、彩ちゃんたちにもわかるように、十二夜がどんな話か簡単に説明するわね」
十二夜。シェイクスピアの戯曲の一つで、先ほど話していた男装の麗人シザーリオ、彼女が仕えている主君オーシーノ公、そして、彼が求婚中のオリヴィア姫。この3人の恋の三角関係の話である。シザーリオは、男装していることを主君オーシーノに隠し、ひそかな恋心を抱く、オーシーノ公は、オリヴィア姫へ報われない恋をして、オリヴィア姫は、男だと思っているシザーリオに対して恋心を抱き始める……。なるほど、薫好みの儚い話だな。
「えっと、シザーリオが、ヴァイオラでオーシーノが……えっと」
「例えば、そうね、そこの彼をオーシーノ公だとするわね」
え、俺?
「そして、つぐみちゃんが、オリヴィア姫」
「え?わ、私ですか!?」
突然名前を指されてびっくりするつぐみ。なるほど、それぞれに配役を割り当ててわかりやすく説明するのか。確かに、外国人の名前で説明されても、覚えるのが大変だからなぁ。
「彼はつぐみ姫に恋をしていて、熱烈な求婚をするの」
「きゅ、きゅうこ…!?」
「けれど、つぐみ姫は彼の事を気に入っておらず、理由をつけて断り続けている……」
……なんか、俺の事じゃないとわかっていても傷つくなぁ。
「だ、大丈夫だよお兄ちゃん!私はも、もし、その……求婚、されたら……」
「ん?」
なんだ、つぐみが何か言ったかと思ったら真っ赤になって両手で顔を覆うと小さくなってしまう。
「……つづけるわね。そんなある日。彼の下に、シザーリオ、薫が現れるの」
「フ、あぁ、オー「薫、台詞はいらないわ」……」
「そして、薫は、彼の下に小姓として仕えることになるのだけれど……薫は、性別を偽ったまま次第に彼が好きになってしまうのよ」
「へぇ!薫さんがお兄さんの事を?」
「っ!!……い、いや、それは劇の話で、その」
珍しく顔を赤くして狼狽える薫。役なら恥ずかしがらなさそうな薫だが、意外だ。千聖さんの目が細く光ったような気がしたが、次には何事もなく言葉を続ける。
「そして、つぐみ姫は、男装をした薫が好きになってしまう。どう、こんな感じね」
そう一息に語り終わると、紅茶に口をつけて目を伏せる。絵になるなぁ。
「なるほど~!やっぱり千聖ちゃんの説明はすっごくわかりやすかったよ!」
「うん、教師とか向いてそうだ」
「くす、ありがとう……物語の最後には、薫にそっくりなシザーリオの兄、という双子の兄が登場して、薫は彼と、つぐみ姫はそのシザーリオの兄と結婚して、全て解決する、という話ね」
「そうなんだ、何だか面白そうなお話だし、今度読んでみようかな」
「それなら、今度劇を見に来てくれないか?話もさることながら、私はこの十二夜の歌のような儚いセリフをとても気に入っていてね」
「良いんですか!薫さん!」
「あぁ、つぐみちゃんもムッシュも、もちろん千聖も、是非見に来てくれ」
「考えておくわ」
話を一通り聞き終わって余韻と少しの疲労感を感じていると、隣にいたつぐみがカップを見つめて難しい顔をしていた。
「どうした、つぐ」
「ううん、私だったら……例え、好きな人のそっくりさんが急に出てきても、その人を好きになったりしないなって。多分、ずっと、同じ人を、想い続ける」
思いつめた顔をしていたので……はぐみにやるみたいに、ぽんぽんと軽く頭を撫でるとはっとした顔をして、俺の目を見て、へへっと目を細める。
「さぁ、お店の手伝いに戻らなきゃ!みんな、おかわりはどうですか?」
立ち上がって、いつも通りの笑顔を浮かべるつぐみ。確かに、顔が同じならそれで良いというわけじゃないだろうな。まぁ劇だからと言ってしまえばそれまでだが。
俺には何故か、つぐみのその一言が、劇の話よりも深く印象に残った。