今回は、勇者部の天使のお話になります。
優しいあの娘がどうなるのか……?
ではでは、どうぞ~
……とある古龍にボコボコにされ、心が折れそうな作者がお送りいたします(小声)
繁華街に出かけてきた俺は、目当ての小説を買おうと本屋へと向かっていた。
今日は土曜日だったので、勇者部の活動も午前中で終わり、帰宅した俺は昼食を済ませると繁華街に繰り出した。
目的は前述の通りだが、帰りに何かお菓子でも買って行って、それを食べながら読むか。
そんな事を考えながら本屋へと入ろうとしたのだが、急に出てきた誰かとぶつかってしまった。
「あっとと……済みません……あれ?」
「いたた……こちらこそごめんなさ……先輩?」
俺がぶつかってしまったのは、何と犬吠埼さんだった。
まさかここで会うとは思わなかったので互いに驚いていたのだが、俺とぶつかったせいで犬吠埼さんが買ったと思われる本が散らばってしまっている。
「ごめんごめん、これ君が買ってきた本でしょう? はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
ちらほら見えたタイトルには、発声、声楽といったワードが散らばっていた。
となると、何を目的として買ったのかある程度の予想はつくのだが、それをズバリと言っても良いものだろうか……?
目の前の後輩は、自分が買った本を胸に抱きかかえたまま顔を俯け、チラチラと俺の方を窺っている。
何ともおかしな雰囲気が漂っているが、このままさよならした場合、この空気を後日に引き摺ってしまう可能性が高い。
そんなのは御免なので、俺は犬吠埼さんに提案した。
「えーっと……俺も本を買いに来たんだけど、すぐ終わるからさ。そしたらそこら辺の店で、何か飲み物でも飲まない? 俺が奢るから」
「え、でも……そんなの悪いですよ」
「いいからいいから。俺に格好つけさせてよ、ね?」
「えっと……それじゃあ、ご馳走になります」
「よし! じゃあ、ちょっと待っててくれる?」
そう言って俺はすぐさま小説を買ってくると、犬吠埼さんを伴って近くのファストフード店に移動した。
席に座って待っていた犬吠埼さんにソフトドリンクを渡し、俺もテーブルを挟んで向かい側の席へと座る。
暫くは、お互いに自分の飲み物に口をつけるだけで無言だったが、こういう場合急かすのはダメだと分かっている。
犬吠埼さんみたいな、引っ込み思案な娘なら尚更だろう。
なので、のんびりとリラックスした感じで待っていたのだが、そんな空気に犬吠埼さんも感化されたのだろうか。
思っていたよりも早くに、ぽつぽつと話し始めてくれた。
「この前、歌のテストがあったじゃないですか。その時、やっぱり私は歌うのが好きだなぁって、改めて自覚して……。だから……」
そこで恥ずかしそうに言葉を切ると、こちらを窺いながらもしっかりと語ってくる犬吠埼さん。
「歌手になりたいなって、夢を持ったんです。だからそのために、声楽の正しい知識とか、正しい発声の仕方とか、そういうのが載ってる本を買おうと思って……」
そこで言葉を切ると、犬吠埼さんは俺の方を真剣に見つめてお願いしてきた。
「○○先輩……今日の事は全部内緒にして下さい、お願いします!」
「え? ……という事は、歌手になる夢って犬吠埼先輩も知らないの?」
「はい……誰も知りません。お姉ちゃんにも、何も……」
「どうして秘密に……? 先輩の事だから、反対なんてせずに全力で応援してくれると思うけど」
「私もそう思います……お姉ちゃんは応援してくれるだろうなって。でも……」
そこでいったん言葉を切ると、彼女はいままで見たことが無いような力強い眼差しでこちらを見た。
「自分の夢の事まで助けて貰ったら、私はずっとお姉ちゃんの隣を歩くことが出来ません。もちろん、ずっと隠しておくことが出来ないのも分かっています……。だからせめて、それまでは一人で頑張りたいなって……そう思うんです」
犬吠埼さんの思わぬ決意を、俺は息を呑んで聞いていた。
引っ込み思案であまり自分を主張しない娘だと思っていたのだが、それだけじゃなかったみたいだ。
先輩から大切にされている事をありがたく思いつつも、それに甘えるだけじゃダメなんだとずっと思い続けていたのだ。
自分に自信が無かったためかそれを表に出すことが出来ずにいたが、今回の事を通して自分の夢を見出したことで、とてもいい方向に彼女は変われたのだろう。
「うん、分かった。そういう事なら、絶対に誰にも言わないよ。……何時か、叶えられるといいね」
「えへへ……はい、ありがとうございます!」
俺の励ましに対して、控えめながらも目を輝かせての答える犬吠埼さん。
今現在、特に将来の夢などを持ち合わせていない俺には、その姿がとても眩しいものに見えて……何か力になりたいと、そう思ってしまった。
しかし、彼女は今自分の力で立って進み始めたばかりで、それに水を差すべきではない。
彼女が疲れた時、助けを求めた時にそれを察せる様に気を配る位がちょうどいいだろう。
勇者部五箇条にも、『悩んだら相談!』とあるのだし。
……ただ、勇者部のメンバーは揃いも揃って抱え込みがちな気質をしているみたいなので、何かおかしいと思ったらこちらから踏み込むくらいで丁度いいのかもしれないが。
ともかく、話を終えた俺と犬吠埼さんは店から出て、彼女を家まで送っていったところでその日は別れたのだった。
今日もまた、○○は犬吠埼姉妹の家で夕食を御馳走になっていた。
また、という言葉が出て来るくらい常連になってしまった事を悪いと思いつつも、それを拒むことは出来ない○○。
すっかり胃袋を掴まれてしまったような感覚を覚えながらも、風の料理の魔力には逆らえずに結構な頻度でご馳走になってしまう。
あの感謝状を贈った後からは、○○の好物を事前に訊いてからメニューを作ってくれることがたびたびある様になり、嬉しいけれど申し訳ないような二律背反の気分である。
因みに今日は○○が好きだと言ったアジの塩焼きで、鱗取りや腸出しといった下処理まで、全部風が自分で行なったという。
それを聞いた○○は感心するとともに、世の料理の出来ない奥様方は風を見習えとつくづく思ったものだった。
それは兎も角、そんな楽しい夕食会も終わり、姉妹の住むマンションから出ようとした○○だったが、出入り口に差し掛かったところで樹が後を追いかけてきた。
「あのっ、先輩……! 少し、いいですか……?」
はて、何か忘れ物でもしていただろうか。それとも、伝え忘れた事でもあったのだろうか。
そんな事を考えながらいいよと了承した○○に、樹はUSBメモリを手渡してきた。
取りあえず受け取った○○だが、一体どういう事なんだろうかと首を傾げる。
その様子を見て樹もいきなり過ぎた事を察したのだろう、つっかえながらも説明を開始した。
「あの、えっと……今、私のあの事を知っているのは先輩だけじゃないですか。秘密にして欲しいって言っておいて虫が良いとは思うんですけど……私の歌を聴いてもらって、感想が聞ければなって……」
そう言って、樹は恥ずかしそうに視線を逸らした。
そこまで言われて断るほど、○○も薄情ではない。
自分でいいのかとも思ったが、樹の言う通り、彼女の夢の事を知っているのは今のところ自分だけの様だし、歌を聴いて感想を言う位なら手助けの内には入らないだろう。
彼女もそう思ったからこそ、自分に感想を求めたのだろう。
そう考えた○○は快く了解すると、そういえばという感じで思った事を口に出してしまった。
女の子と秘密を共有するなんて、(前世も含めて)生まれて初めてだと。
それを聞いた樹は一瞬ぽかんとした後、見る見る内に顔を赤く染めてワタワタと慌て始めた。
「えっ……? ええっ……!? そ、そんな深い意味は、な、無いですから! ただ単に、ちょっと意見が聞ければなぁっていうだけで……うぅ……」
頬を真っ赤に染めながら俯いてしまった樹を微笑ましく思いながらも、ちょっとやり過ぎたかと○○は考え、冗談だよと軽く笑いながら撤回した。
「うぅ……ひどいですよ、先輩。 それに冗談って……そっちもそっちで何か納得いきません……」
まるで子供扱いだと感じて樹は口を尖らせるが、弱った顔をしながら謝罪してきた○○の顔を見ると、なんだかどうでもよくなってしまって、樹も一緒に笑ってしまった。
「それじゃあ先輩、お休みなさい。……感想、楽しみにしてますね?」
それからいつも通りに別れた二人は、お互いの家に戻った。
戻る途中の樹の足取りは、楽しみな事を待ちかねる子どものように軽やかだったが、彼女自身は全く無自覚で、意識もしていないのであった。
一方、帰宅した○○は入浴を済ませると、早速預かったメモリから樹の歌を再生して聞いていた。
スローテンポのしっとりした感じの曲で、しかし明日への希望や日常への感謝などを謳っている明るい歌詞。
それを歌い上げる樹も、ついこの間夢を抱いたとは思えないほどの歌唱力を見せており、思わず聞き惚れてしまう○○。
聴き終わった後、暫くの間ぼうっと余韻に浸っていた彼は、感想を伝えなければと思い立って樹へとメールを送った。
自分の語彙力では上手く伝えられないけど、何というか……心が震えるような感じがして、とても良かったと。
感動した事を正確に伝えられない己の表現力の貧困さを恨めしく思いながらも、○○は樹に自分の感想を伝えた。
自室で発声についての本を読んでいた樹も○○からのメールを読んで、頬を綻ばせた。
自分の力で夢に近づき、何時か姉の隣を胸を張って歩きたいと思っているのは確かな事だが、それでも誰かが自分の頑張りを認めてくれると心が満たされる。
温かい気持ちになりながら樹はベッドに横になり、眠気でぼんやりしてきた頭で先輩ってお兄ちゃんみたいな人だなと思うのだった。
それから半月も経たない7月7日、勇者部は今まで撃破したものを除く7体全てのバーテックスを迎え撃ち、これを撃破することに成功した。
とはいえ簡単にはいかず、満身創痍になってしまった結果か、夏凜を除く全員が検査入院をした病院で何らかの身体の不調を訴える事となった。
友奈は味覚、美森は左耳の聴覚、風は左目の視覚、○○は左腕の自由、そして樹は声を失った。
検査自体はすぐに終わり、既に家に帰って動かない左腕に四苦八苦しつつも何とか夕食をとっていた○○は、もう戦いも終わりかと改めて息を吐いていた。
ただ、現状を再確認すると、もろ手を挙げて万歳とはいかないと○○は考えていた。
自分の事は置いておくとしても、他の少女4人は割と……いや、かなり深刻なのではないかと思わずにはいられない。
友奈は勇者部の皆で食事をしている時、前と同じような自然な笑みを見せていない気がする。
作り笑いとまではいかないが、あれは能動的に、笑おうとして笑っているのであって思わず零れた自然な表情とは違う。
食事に楽しみを見いだせなくなりはしないかと、結構心配ではある。
美森は左耳が聞こえなくなっているので、人とコミュニケーションをとる時にこれから不便になってしまうだろう。
すでに両脚が不自由というハンデを負っている彼女が、更に上乗せでハンデを背負うことになるとは……溜め息しか出ないとはこういう事かと○○は思う。
風は左目の視力を喪失した……本人は眼帯をしておどけた調子で振舞っていたが、女の子が自分の顔の部位に不調が出て、傷つかないはずがない。
本人はすぐ直ると言われたみたいだし、○○もそれを信じていたが、どうにも無理している感が拭えずにいた。
樹は……本人の夢を知っている○○としては、掛ける言葉を失ってしまったと言う他ない。
夢を抱いた矢先にこんな出来事が起こる――しかも、世界の為に戦った結果としてこんな事が起こるなんて、絶対に間違っている。
その様な感情が胸の内に渦巻いていて、ここ数日の間○○はモヤモヤを抱えながら過ごしていた。
片腕で何とか食器の後片付けを行なった○○は、ここ数日増えてしまった溜め息を吐きながら考えを巡らす。
今の樹は、治ると言われてはいるが、自分の夢が絶たれるかそうでないかの瀬戸際にいる。
本人の態度自体はいたって平静であったが、心のバランスなど本当にちょっとしたことで崩れるものだ。
彼女の夢を聞いた人間として、そのあたりの心配りをしておくべきだろうと○○は考える。
普段の様子は家族として風が見ていてくれるだろうから、それ以外の観点から自分は見ておくべきだと。
それ以外にも、何か出来る事は無いだろうかと○○は考える。
あの姉妹には夕食の事を始め、色々と気を使ってもらっている。こういう時にこそ骨を折るものだと、自然と頭に浮かんだのである。
そして、ひとまず考え付いたことを行うべく、PCで調べ物をしていく○○。
役に立つかどうかは分からないし、無駄になる可能性もある。
だが、そうじゃない可能性ももちろんあるのだ。
そうやって自分の心の弱気を追い出し、作業に邁進するのであった。
それから夏休みに入り、合宿などの楽しいイベントもあった後の、新学期を一週間後に控えた夏のある日。
○○は夏風邪により、自室のベッドで寝込んでいた。
夏風邪はバカしかひかないらしいから俺ってバカだったんだなーと、熱に浮かされた頭で益体も無い事をつらつらと考えている○○。
食欲が無くて昨日の夜から何も食べていないが、未だに何か食べる気力も無い。
辛うじてスポーツドリンクの類を飲んでいるので、脱水症状にはなっていないのが不幸中の幸いではある。
昼はとっくの昔に過ぎており、部屋の窓からは西日が差し込んで来ていて少し眩しい。
その差し込んできた光で目を覚ました○○は、霞がかかった様な思考を無理やり働かせ、スポーツドリンクの補充と、ついでにトイレも済ませておくことにした。
未だに怠い体を壁で支えながら歩き、トイレで用を足すとキッチンに向かって飲み物を補充する。
一息吐いて、また自室に帰ろうとしたときにインターホンが鳴った。
誰だろうと思って玄関カメラを確認すると、何やら荷物を携えた樹が玄関の前に立っていた。
思わぬ来客に驚いた○○だったが、まだ暑い中わざわざ来てくれたのだ。すぐに気分を切り替えると、玄関まで出向いて扉を開けた。
『こんにちは、先輩。まだきついんですよね?』
相変わらず声が出ず、スケッチブックの筆談で会話をする樹。
それでも表情は気遣わし気に曇っており、○○を心配している事は十分に伝わってくる。
また何かしらをサラサラとスケッチブックに書くと、それを○○に見せてくる。
『今日はお姉ちゃんが作ったおかゆとスープを持って、お見舞いにきました』
どうやら持ってきた物は、おかゆとスープが入ったランチボックスだったらしい。
とりあえず玄関で話し続けるのも何なので、樹を家に上げて自室まで招く○○。
何故か樹は少し緊張した面持ちだったが、多分同年代の男の部屋に入ったことが無いからだろうと○○は考えた。
まだ頭がぼんやりしているが、それでもお見舞いに来てくれたことは素直に嬉しかった。
そのまま樹とやり取りをしていると、昨日の夜から何も食べていない身体が腹を鳴らして不平不満を訴えた。
かなり大きく響いたその音に、呆気にとられたような表情をしている樹。
○○もバツが悪くなり、自分の腹を撫でながら樹から目を逸らした。
『おなか減ってるなら、今食べますか?』
さっきまで食欲が無かったというのに、風が作ったおかゆとスープがあると分かっただけでそれを復活させる自分には呆れた○○だったが、逆らう事など出来はしない。
樹が書いた言葉への返事は、照れつつも頷く以外には無いのだった。
ランチボックスから容器を取り出した樹は、蓋を開けておかゆとコンソメスープを開帳する。
その良い匂いを嗅いでまた腹が鳴ったが、これについては既に諦めていた○○は努めて無表情を保った。
……樹が、仕方ないなぁという表情で微笑ましく彼を見ていたのも、何も気づかないふりをしていた。
ともかく、ありがたくそれらを頂こうとしていた○○は、未だに容器もスプーンも樹の手に握られているので手を差し出したのだが、樹は首を横に振った。
困惑した○○は首を傾げたが、樹はそれには構わずに一口分のおかゆをスプーンで掬い取り、ふーふーと息を吹きかけて冷ましはじめた。
その行動で察した○○の顔が強張り、静止の言葉を樹にかけるのだが、彼女は再び首を横に振り、行動を止めない。
そして、樹自身も頬を染めながら、冷ましたおかゆが乗ったスプーンを口元に差し出してきた。
最後の抵抗を示したかった○○だったが、ここで彼女の厚意を無下にすることは、見舞ってもらっている身としては躊躇われた。
何より、樹も顔を赤くしているという事は、からかう様な意図など微塵も無いということだ。
観念した○○は、餌を貰う小鳥のように口を開け、口元まで運ばれていたおかゆを大人しく受け入れた。
流石は風が作ったものというべきか、味も口当たりも優しいもので、これなら病人である自分でもするりと食べられるだろうと○○は思った。
続いてスープも飲ませて貰った。……やはり、樹にスプーンで運んでもらってであるが。
自分が食べるたびに嬉しそうな顔をする樹を無下にすることなどできず、結局完食するまで一連の介助は続いたのだった。
食事が終わると、樹は○○の家のキッチンを借りて、おかゆとスープの容器を洗っていた。
その間、○○は携帯に入れていた樹の歌を聴いていた。
以前貰ったものをスマホに移し、パソコンでなくとも聞けるようにしたものである。
彼女の歌声を聴いていると、心が落ち着く――そういう風に○○は感じていた。
そのまま暫らくボーっとしていた○○だったが、容器を洗い終えた樹が部屋に戻ってきたので歌の再生を止めて彼女を迎えた。
そこで、樹の様子が何処となくおかしい事に彼は気付いた。
何かを堪えるような表情でこちらを……正確にはイヤホンが刺さったままのスマホを見つめている。
自分が戻って来るまでの間、○○が何をしていたのか見当がついたのだろう。
どうかしたのかと○○が問いかけると、樹はハッとしたような表情でスケッチブックに言葉を書いていく。
『いいえ、何でもないですよ?』
言葉の意味だけ受け取れば、書かれてある通りだが……その書かれた文字の形がそれを裏切っている。
ここに来たばかりの時に書いた文字と比べ、明らかに形が崩れているそれは、彼女の内心を如実に表している。
笑ったまま泣いているような、今にも崩れそうな表情も見ていられない。
そう思った○○は、下手な芝居を始めて、しかし真摯に言葉を紡いでいく。
今日の自分は風邪でボーっとしていて、頭も霞がかかったみたいにはっきりしない。
だから、何を聞いたとしても明日になったら忘れてるだろうなぁ……と。
それを聞いた樹は無理をした笑顔のまま一瞬固まり、その数瞬後には今にも泣きだしそうな表情へと変わってしまった。
持っていたスケッチブックに、震える手で、ゆっくりと自分の気持ちを書いていく樹。
やがて○○が見せられたそこには、悲しみに歪んだ文字で、彼女の隠していた心の一部が綴られていた。
『歌いたいです……でも、それ以上に』
手の震えで必要以上に大きく書いてしまったため、1ページに収まらず、崩れた表情のままページをめくって続きを書く樹。
『みんなとお話しできなくて……悲しいです』
心優しい彼女は、自分の夢が事実上絶たれている事よりも皆と言葉を交わせないことこそが悲しいと言う。
どうしてこんなに健気なのだろうか……普通ならこの状況に苛立って当たり散らしてもおかしくない年頃なのに、彼女はそんな姿を欠片も見せていない。
放っておけなくなった○○はふらつきながらも立ち上がり、樹の所まで行くとその頭をあやすように撫で始めた。
一瞬吃驚したような表情をした樹だったが、またすぐに表情が崩れた。
そして大粒の涙を零しながら、○○の胸に縋りついて泣き始めた。
泣いているというのに声は全く出ず、しゃくり上げる息遣いの音、悲痛に歪んだ表情と涙のみが流れ落ちる、一種異常な光景。
普通なら大声を上げて泣いていてもおかしくない状態で、しかし声を失った樹には悲しみを言葉に乗せて吐き出すこともできない。
その代わりと言うように樹の瞳から零れ落ちる大粒の涙が、その悲しみの大きさをこれでもかと○○に伝えてくる。
しかし、○○に出来る事は自分の胸に縋って泣いている優しい少女を、あやす様に頭を撫でる事くらいしか無い。
他に何もできないのなら、せめて彼女の悲しみくらい受け止めようと、○○は何も言わずに樹を宥め続けるのだった。
そして、一頻り大泣きして幾分か落ち着いた樹は恐縮しきりで謝っていた。
『ごめんなさいごめんなさい、お見舞いに来てこんな……』
それだけスケッチブックに書いて、ひたすらペコペコと○○に頭を下げ続ける樹。
お見舞いに来た人間が病人の前で大泣きして慰められるなど、前代未聞の珍事ではあるから、樹がこうなるのも無理はない。
○○は気にしなくていいと笑いながら軽く言ったのだが、樹は到底納得できないような様子で自分を見てくる。
苦笑した○○は、それなら自分が眠ってしまうまで傍にいて欲しいと彼女にお願いした。
そんな事でいいのかと樹は首を傾げたが、このまま押し問答をしていても不毛なだけなので、そこは○○が押し切った。
そして、布団に入って目をつぶった○○を静かに見守っていた樹だったが、十分もすると規則正しい寝息が聞こえてきたので、その寝顔を確認する。
口元が半開きになり、いかにもリラックスしているといった寝顔の彼を見た樹は、静かに微笑んでそのまま帰ろうとした。
しかしそこで、一冊のノートが本棚から零れ落ち、静かな部屋に響いた唐突な物音に思わずびくりとしてしまう。
いきなりの事に少々驚きながらも落ちたノートを拾おうとした樹だったが、落ちた拍子に開かれたページに書かれていた事に視線が釘付けになってしまった。
喉に負担をかけない呼吸法、喉に良い飲食物、簡単にできる肺活量増加の訓練法、声楽について書かれた本の紹介――――他にも様々な事が手書きで記載されていた。
困惑しながらページをめくっていくと、やはり声や喉、発声といったワードが目に付く。
○○に悪いと思いながらもページを繰る手を止められず、今更ながら最初のページにも目を通す。
そこに一言書かれた言葉は、今の樹をどんな言葉よりも揺さぶった。
【犬吠埼さんが声を取り戻す日を願って】
書かれていること自体は樹も知っているような知識が大半で、これはと思うようなものはあまり無かった。
ただ、その量はかなりのもので、素人が一から調べたのならかなりの時間が掛かったはずだと樹にも分かった。
(治るかどうかも分からない、私の為に……?)
そう認識した樹の瞳が潤み、再び涙が零れ落ちてきた。
つい先ほど散々泣いたというのに、またもあふれ出てきた涙に自分のことながら困惑してしまう樹。
先程まで流していた悲しみの涙とは違う、感極まった心が流させた、温かい涙。
両手を口元に当てて、止め処なく涙を流しながら、安らかな寝息を立てている○○を見やる樹。
涙で潤んだその瞳は、兄の様だと思っていた少年を一心に見つめている。
でも違ったんだと、今更分かった。分かってしまった。
(先輩はお兄ちゃんじゃなくて……私の大切な人で、初恋の人……)
初めて好きになった男の人がこの人で良かった――樹は心からそう思った。
今すぐにでも、彼に自分の想いを伝えたい。
しかし――――――自分は声を失ってしまった。いつ戻るのか……見当もつかない。
(声を失った人魚姫も、こんな気持ちだったのかな……)
今の自分の境遇が、童話の主人公のそれと重なる。
その結末が頭を過ぎり、やるせなさと切なさで心が挫けそうになるが、自分には姉も、勇者部の皆も、そして○○もついていると思い直す樹。
みんなが――○○が信じていてくれるなら、自分も絶対に諦めない。
初恋の人の寝顔を見つめながら、そう心に誓った樹であった。
月日は流れ、勇者部の文化祭の出し物も大成功に終わった後のこと。
勇者部の部員たちは失っていた身体機能を取り戻し、そして掛け替えの無い日常も取り戻していた。
そんな、いつもと変わらない風景の1ページである犬吠埼姉妹の夕食後の風景。
風は樹に訊きたかった事があったのだが、決心がつかずに先送りしていた事があった。
しかし、いつまでも後回しには出来ない。
そう思った風は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、リビングで声楽の本を読んでる樹に声をかけた。
「ねえ樹。今からちょーっとデリケートな事を聞くけど、答えてくれない?」
「どうしたの、お姉ちゃん? ……そんなに改まって」
怪訝な表情で風に問いかける樹に、風は出来るだけいつもの様な軽い態度で問いを重ねた。
「樹ってさ……○○の事、好き……なのよね?」
「えっ!? えっと……うん、好きだよ。本当に大好き」
驚きながらもきっぱりと肯定した樹に、風はああやっぱりかと、最近の○○に対する妹の態度を思い出しながら考える。
色々と思い出せることはあるが、以前と一番違うのは、時折樹が見せる、○○を見つめる眼差しだった。
熱の籠った、ひた向きな視線――俗な言い方をするなら、恋する乙女の眼差しというものを、樹は勇者部唯一の男子に向けるようになっていた。
「そっかー……うん、○○なら私も心配ないかな。お姉ちゃんも応援するからね!」
自分の恋心に完全に蓋をして、妹の恋を応援すると風は言い切った。
いつもの様に言えた自信があった風は、その後に続いた樹の言葉に一瞬固まる事になる。
「ありがとう。……でも、お姉ちゃんも先輩の事、好きだよね?」
「――――っ。そ、そんな訳ないじゃないのー、もう。樹の気のせいよ、気のせい! 大体○○は年下じゃないの。好きになるなんて無い無い!」
真実と真逆の事を口に出している風の内心は悲鳴を上げていたが、それよりも妹の恋を成就させたいと願った風はそれを無理やり封じ込めた。
知らなかったとはいえ、自分は樹の夢を断つ引き金を引いてしまった。
今は失った声を取り戻せているが、その事実は消えない。
そんな自分が妹の恋の障害となるなど、たちの悪い冗談でしかない。
「なら訊くけど……私が先輩に告白して、先輩がそれを受け入れたとして……。目の前で恋人として振る舞う私達を見ても、全く平気でいられる? 100%祝福できるの?」
「――――――――――――」
何か言わなければならない……しかし、口がパクパクと無意味に開閉するだけて、掠れた声すらも出てこなかった。
考えなかった訳ではない。しかし、妹から直に指摘された事で改めてその事を突き付けられた風は、自分の覚悟がいかに甘かったか思い知らされた。
俯いて何も言えなくなってしまった風に、先程とは一転して明るい口調になった樹が話しかける。
「だから、みんなで幸せになりたいなって私は思ってるんだ。そのために、お姉ちゃんも頑張ろうよ!」
「い、樹……? あんた、何を…………って、まさか!?」
唖然とした表情で樹を顔を見つめる風。
相変わらず樹は優し気な笑みを浮かべていて、いつも通りにしか見えないが、だからこそ先程の言動のおかしさか際立つ。
「ちょっと樹……あんた正気なの?」
「私はどこもおかしくないよ、お姉ちゃん。……他の人だったら絶対イヤだけど、お姉ちゃんや勇者部の先輩方となら、○○先輩を共有できると思ってるの」
澄んだ、誠実な瞳で風を見つめ返す樹。本当に、どこにもおかしな態度は見られない。……その言動以外は。
「だから先輩には、私達と一緒にいる事が当たり前になって貰って、私達といる事に幸せを感じて貰って、そして努力して絶対に私達を好きになってもらうんだ!」
キラキラと輝いた表情で、自分の思い描く未来図を語る樹。その輝き具合は、歌についての夢を語っている時と遜色ないほどのものになっている。
「でも、無理やりは絶対にダメだから。○○先輩には自然に私達を好きになって貰わないと……。その為には、私一人じゃ無理だけど、お姉ちゃんや皆とならやれると思うの」
「ちょっと待って、皆って……もう同意した部員がいるって言うの?」
信じられない情報に風は驚愕するが、樹の態度はそのまま……いつも通りである。
「うん、友奈さんと夏凜さんは私に賛成してくれたんだ! 東郷先輩はまだわからないけど……だからお姉ちゃんも一緒にやろう?」
天使の微笑みを浮かべながら、世の道理から外れた事への誘いをかける樹。
風の理性は妹を止めろと、全力で引き戻せと最大限の警鐘を鳴らしている。
こんな事はおかしい、間違っている、正しくない……しかし、風の口からは拒絶の言葉は一向に出てこなかった。
風は夢想してしまっていたのだ――――――樹が語る、その幸せな日常を。
○○を樹と、皆と共有し、いつまでも平穏な毎日を送る――――――そんな日常を。
「――――――いいんじゃないかしら?」
「――――――お姉ちゃんもそう思うでしょ?」
そう言って笑い合う姉妹は、普通から外れてしまった自分を自覚しつつも、決意を固めた。
――――――もう戻れない……戻るつもりもないけど、と。
やり切った! 樹ちゃんのお話は完!
すっごいやっちまった感もあるけど、やり切ったっていう満足感もある不思議な心境……!
最後は樹ちゃんフルスロットル状態になりましたが……皆さんが満足してくれることを祈るのみです(震え声)
では、また次回に……