第2話「始まり」
「すいませんでしたっ!」
開口一番、俺は課長に頭を下げた。
時計の針はすでに10時を回っていて、この会社の始業時間は9時からだった。遅刻も遅刻、大遅刻だ。
「まぁまぁ、寝坊なんてよくあることだよ…俺もやったことあるし、何回もやらなければ問題ないよ、立花君」
「いえ…でも、ほんとうにすいませんでした。もう二度とないように気をつけます…」
「はいよ、それじゃ仕事の準備、ちゃっちゃとやっちゃいな」
そう言い残すと課長はヒラヒラと手を振りながら自分のデスクに戻って行った。
まだ研修中だってのに、やってしまった。でも…今日は…
「おいおい瀧…」
ため息をつきながら自分のデスクに座り、仕事の準備を始める俺のところに、チャラチャラした笑顔の男が近づいてくる
「お前ってやつは、早速ネタを作ってくるとは、なかなかやるじゃないか」
笑いながら俺の肩を叩くこの男は、同期で唯一同じ部署に配属された吉田だ。いいやつだが、こういところが癪に触る。
「うるせぇ、お前だって寝坊くらいしたことあるだろ?」
「残念、俺は小学生から皆勤賞だ、ん?」
ヘラヘラと笑っていた吉田の顔が怪訝な表情に変わる。
「お前、今日の遅刻、寝坊じゃねーな…」
あぁ、あとこいつは妙なところで鋭い。そんなところも癪に触る
「はぁ?ね、寝坊だっての!」
「ふーん、じゃあお前、自分の顔鏡で見てみろよ」
こいつは何を言っているんだ、そう思いながら手鏡を取りだし自分の顔を見た。
そこには…
「な、なんなんやさーー!!」
思わず方言が出てしまったがそんなことはどうでもよかった。鏡には、頰がだらりと下がって、始終笑顔の、言い方を変えるとニヤニヤした自分の顔が写っていた。頰を引っ張ったりつねったり、どんなに頑張って真面目な顔をしようとしても、すぐに笑顔に戻る
「な、なんで…」
「寝坊で遅刻した人がそんな顔できるとは思いませーん」
同期の夏海が怪訝な表情で詰め寄ってくる。夏海は同い年で、去年から一緒の部署に配属された、ショートカットが似合う女の子だ。今では一番気軽に話せる同期でもある。
「さっさと白状しなさい!なんか良いこと、あったんでしょ!」
「な、なんもないって!ほんとに寝坊なんよ!」
「ダウト、三葉の方言がでるときは焦ってるときか嘘ついてるとき」
「うっ…」
まだ1年くらいしか一緒にいないのに、どうしてこう私の癖を見抜いてくるのだろうか
「わ、わかったから!話すから!近い!夏海近いってば!!」
鼻先が擦れるくらいまで近づいてきた夏海を押し返して、三葉は観念する。もう逃げ場が無かった。
「その、なんていうか」
「うまく言えないんだけど…」
「「運命の人、見つけちゃいました…みたいな?」」
「「はぁ?」」
とある2つの会社で、とある男女が全く同じタイミングで同じ言葉を発した瞬間だった。
「立花…瀧です」
「宮水、宮水三葉です」
三葉…三葉、三葉、三葉
頭の中でなんども反復する。宮水さんに頭の中を覗かれたら、きっとドン引きされるだろう。でも、とても良い名前だ、とてもしっくりくる。なんだろうか、初めて聞いた名前なのに、初めてじゃないような、そんな名前だ
「三葉…良い、名前ですね」
「え、そ、その、ありがとうございます…瀧くんも、とっても良い名前だと思います…」
「瀧…くん」
「あっ、ごめんなさい!いきなり下の名前で…」
「いやっ!いいんです!むしろそっちの方が…」
「えっ?」
2人して顔を真っ赤にして俯く、あぁ何をやってるのだろうか、初対面の相手の名前をいきなり褒めるなんて…これじゃ下手なナンパだ…
「いきなり声をかけてごめんなさい、電車で貴方を見て、どこかで会った気がして、それで…」
「わ、私も!貴方をどこかで見た気がして!それで…電車を…」
今から考えると、おかしな話だ。どこかで会ったことがある気がする…それだけで電車を降りてわざわざ走ってくるなんて
そのことに気づいて、2人ともまた顔を赤くする
「あの…もしよかったら、連絡先、交換しませんか?」
首の後ろをかきながら、恥ずかしいけれどもそう聞いてみる。相手も俺のことを探してわざわざ電車を降りてきたんだ、つまり、脈アリってことだよな?
「はい!是非!そうしましょう!」
できる限りの笑顔で、そう答える。恥ずかしさやら、嬉しさやら、色んな感情が折り重なって、変なテンションになっている自分がわかる。
また、2人して顔を赤くする。
なんだか恥ずかして、でもどうしようもないくらい嬉しくて思わず笑ってしまう。
今度は2人して笑い出す。
「ふふっ、なんだかおかしいですね、私たち」
「ええ、こんなこと普通はしませんよね」
笑いながら、泣きながら、穏やかな雰囲気の2人を春の陽気が包んでいた、が
「「あっ!」」
連絡先を交換しようと携帯を開いた2人は同時に声をあげる。
それもそうだろう、2人の携帯には出勤時間を過ぎてもなお姿を見せず、連絡もないことを心配した同僚や上司からのメールや電話がひっきりなしに入っていた。
「あっちゃ〜…やっちまった…」
額に手を当て思わず空を仰ぐも、失った時間は元には戻らない。いや、この場合は戻ってもらうと困るか…
「私も…初めてやっちゃったかも…」
宮水さんは困り顔でそう言ったが、俺とは違ってなんだかちょっと、楽しそうだ。
だが、新人研修中の俺にとっては遅刻で評価が下がるのは結構痛い…
とにかく、俺達はささっと連絡先を交換すると、携帯をポケットにしまう
「とりあえず、連絡先は交換したし、今はお互い会社に急ぎましょうか」
「そうしましょう。ごめんなさい、私のせいで遅刻になってしまって…」
「いえいえ、声をかけたのは俺ですから。宮水さんこそ、俺のせいで遅刻してしまってすいません…」
「大丈夫ですよ、私はそんなに怒られないと思うし…立花君は、怒られちゃいそう?」
「実は俺、まだ研修中なんで、きっと大目玉です」
はにかみながらそう言う、怒られることは目に見えてるのに、何故か気分は悪くない
「あっ、それは大変!早く行かないと!」
俺の言葉を聞いて、宮水さんは焦り出す。
「そうですね!宮水さんも!遅刻はまずいですよね!」
俺も、そんなことを言って、でも、まだそこに立ち止まっていた。
「……」
「………」
お互いに、相手の目を見ながら、動けない。頭ではわかってる。さっさと会社に行かないと、上司や同僚に散々なことを言われると。でも、なんでか、体が動かない、動きたくない。宮水さんと、もう少しだけ一緒にいたい。
俺は、別れの言葉を言おうとして、口を開くけど、やっぱり言えなくて、口をパクパクとさせる。よく見ると、宮水さんも、苦しそうな表情で口をパクパクさせている。それが面白くて、俺は吹き出してしまう。笑う俺を見て、宮水さんも口を押さえて笑い出した
「くくっ、ご、ごめんなさい、早く行かないとですよね」
「ふふっ、私こそごめんなさい。なんだか、もう少しだけ話していたくて…」
あー、ダメですよ。宮水さん。そう言うことを言うと、男は期待しちゃうんです。そんな馬鹿なことを考えながら、俺は自分の顔が赤くなるのがわかった。
「あ…えっと!俺も、宮水さんともう少し話していたいんですけど、ここは、お互い急がないとですよね」
とにかく、顔が赤いのをごまかすために、会話を続ける
「そうですね、それじゃあ、行きましょうか…」
宮水さんは、どこか悲しそうにそう言う。そんな顔をされると、このまま会社をさぼって宮水さんと一緒にいたくなってしまう。俺は、宮水さんにバレないように太ももあたりをつねって、正気を取り戻す。
「じゃあ!俺、行きますね!」
俺が笑顔で言うと、宮水さんも、笑顔に戻る
「うん!私も!」
その別れの声とともに、俺たちは振り返る。
そして、俺は階段を駆け上がり、宮水さんは下って行った
階段の一番上で、また振り返る
下を見ると、宮水さんもこちらを見ていた
「宮水さん!あの!…会えて、会えて良かったです!また連絡します!また会いましょう!!」
「私も!立花君に会えて良かったです!連絡待ってます!また会いましょうね!」
そう言った宮水さんの笑顔は、まるで花が咲くような
美しい笑顔だった