「ただいま、父さん」
糸守への旅行が終わり、東京に戻って三葉を家まで送った俺は、夜10時ごろに家の玄関を開けた。父さんはまだ起きていて、リビングでテレビを見ている。
「あぁ、おかえり。どうだ、旅行は楽しかったか?」
父さんは軽く手をあげると、そう聞いてきた。俺は父さんの対前に座って答える
「楽しかったよ、ほんと。なんていうか、旅行なんて久々だったからさ」
「そうか、そりゃよかった。三葉さんは元気か?」
「あぁ、相変わらずだよ」
「そりゃよかった」
俺は、視線をテレビに移す。テレビでは、今流行りのお笑い芸人が、持ちネタを披露している真っ最中だった。
俺は、テレビを見ながら言葉を発した
「…父さん、俺、結婚するよ」
今度は、父さんの方を向く。父さんは、少し目を見開いた後、微笑んで、一言
「…そうか」
そして、飲んでいたお茶を一口啜る
「…なんか言わないのかよ」
「何をだ?悪いが、三葉さんが相手なら、俺は何も文句はないよ」
「…そんなもんなのか?」
俺は、眉をひそめて父さんに聞く
「そんなもんさ。親が子供の決めたことに一々口出しするのは、俺はどうかと思うね。それに、お前は今まで、俺が口出ししなくても上手くやってきだろう?だから、今回も心配はしてない」
そこで父さんは、さっきよりも笑顔になる
「おめでとう、瀧」
そんな父さんに、俺も笑顔になる
「…ばーか、それは結婚してから言えよ」
「くくっ、もう結婚したも同じだろう?で、どうだった?相手の親へ挨拶はしたんだろう?」
「あー、まぁ、最初は気まずかったけど、三葉のお父さんもいい人だったよ」
「そうか…殴られはしなかったんだな…」
「なんで残念そうなんだよ!」
俺がつっこむと、父さんは楽しそうに笑う。父さんがこんなに楽しそうに笑うのは、久しぶりに見た
「じゃあ、俺とお前で、こうやってこのテーブルに座ることも、もうあまりないのか…」
「なんだ、柄にもなく寂しいのかよ」
「いや、まったく」
「っとにこの親父は…」
笑う父さんにつられて、俺も笑ってしまう。和やかな雰囲気が部屋を包む
「…なぁ瀧」
しかし、ふいに、父さんが真面目な顔に戻る。そして、言葉を続ける
「結婚というのはな、それから先の人生、一生お互いに支え合って行かないといけない。共に支え合い、共に生きる。それが結婚だ。だからまず、何があっても、三葉さんのことを信じろ。そして、お前が三葉さんを守れ。そうすれば、三葉さんもお前を信じてくれる。俺から言えるのは、こんなことだけだ。だが、できれば忘れないでほしい」
父さんは、まっすぐ俺の目を見つめる。俺は驚いた。父さんがこんな、アドバイスみたいなことを言ってくるのは、恐らく初めてだった。今まで父さんは、受験勉強のときも、就活のときも、お前なら何とかなる。そう言って、特に具体的な言葉を言ってくれたことはなかった。
だから、嬉しかった
「…ありがとな、父さん。俺、忘れないよ」
「あぁ、頑張れよ、瀧」
テレビは、すでにお笑い番組も終了して、夜のニュースが機械的に流れている
「それじゃ、俺はそろそろ寝るよ」
俺は席を立つと、自分の部屋の扉を開ける。そして、振り返る
「おやすみ、父さん」
「おやすみ、瀧」
息子が部屋に戻ると、ただ、ニュースの音だけが寂しくテレビから流れている。
俺は、ふいに、携帯をとる。電話帳を開き、押す番号は、もう何年もかけていない番号だ。繋がらないなら、それでいい。
トゥルルルル、トゥルルルル…と電子音が響く、やがて、ガチャと音がして、彼女が出る
『はい、もしもし…あなた?』
『あぁ、突然すまない』
『いや…いいのよ、久しぶりね。でも、どうしたの?』
俺は、少しだけ間をあけて、言う
『瀧が…結婚することになったんだ』
『それは…』
彼女は、なんて言おうか迷ったようで、少し逡巡する間があった
『私には…いえ、言っていいのかしら…おめでとうと、あの子には、言えないわよね…」
放たれた言葉には、悲しみが籠っている。電話越しでも、それが痛いほど伝わる
「あぁ、だから、お前の代わりに、俺がおめでとうと言っておいた」
『そう…ありがとう…』
また、しばらくの間。お互いに、言葉を発することができなかった。やがて、彼女が先に喋り出す
『あの子は…あの子は元気?』
「元気だよ、最近は本当に。よく笑うし、仕事も頑張っているようだ」
『よかった…あの子ももう、仕事をする年になったのね…』
「もう、23だからな」
彼女は、瀧が物心ついて、成長してから一度も会っていない。もちろん、会えない理由があるのだが
『私達も、歳をとったのね…ねぇあなた、あの子の相手にはもう会った?』
「会ったよ。とてもいい子だった。美人で、心から瀧のことを愛していた。見ただけですぐわかったよ。あの子なら、瀧を任せられる」
『あら…あなたの目じゃ心配だわ…』
彼女はそこで、一度言葉を区切る。そして、また、悲しみの篭った声で言う
『だってあなたは、私を選んだじゃない…』
その言葉に、しばらくの間無言になる。やがて、俺は目をつぶりながら、答える
「あぁ、でも、後悔はしてない」
『…本当に?』
「あぁ…」
『そう…』
そこで彼女は、初めて笑みをこぼす。俺が昔、惚れた笑顔が、脳裏に浮かぶ
『あなたは、変わらないのね…』
「君も変わらないな」
『そうかしら?きっと今の私を見たらそんなこと言えなくなるわよ』
また、彼女は笑う。
『ねぇあなた…』
「なんだ…」
『あの子を…たっちゃんを…お願いね…』
今度は、寂しそうな声で、彼女は言う
「…わかった。だが、もうあの子は、私がいなくても、きっと大丈夫だろう」
『ううん…それでもよ、それでも、あの子にとっては、あなたが…あなただけが…唯一の、親なんだから…」
あなただけが…唯一の
その言葉に、いったいどれほどの悲しみが籠っているのか、俺にはとても想像ができなかった。ただ、彼女の想いは、しっかりと伝わった
「…わかった」
『お願いね…それじゃあ、私はもう寝るわ』
「…そうか、突然電話してすまなかった」
『いいのよ、嬉しかったわ』
そう言った彼女は、本当にどこか嬉しそうだった。そして、別れの言葉を紡ぐ
『おやすみなさい。龍一…』
「おやすみ……」
……
ほんの少し、何かを待つような、そんな間があった後、電話が切れる。機械的な電子音が、やけに耳に触る。
名前を、言えなかった…
君の名を…
俺は、天井を仰ぎながらため息をつく。そして、おもむろに冷蔵庫を開けると、食材や調味料の奥に転がっていた、いつ買ったかもわからない缶ビールを取り出す。
テーブルに座ると、その蓋を開ける。プシュッと、爽快感のある音が、リビングに響き渡る。
「やめてたんだがな…」
俺は、缶ビールを見て一言呟く。そして、その缶を、頭の高さまで上げる
「息子の結婚に」
一人で、乾杯の音頭を取り、一気に飲む。ゴクゴクと、苦味のある、ビールが胃を満たしていくのを感じる。
俺は、缶をテーブルに置くと、また、天井を仰ぎ見る
「美味いな…」
その言葉は、寂しくリビングに響き渡った
この話は、一応番外編になります。
瀧のお父さんと、「彼女」との間に何があったかは、読者様方のご想像にお任せします