朝、目が覚めると、なぜか微笑んでいる、そういうことが時々ある
見ていたはずの夢は、いつも思い出せない
ただ…心が…優しい愛で満ち溢れている
そういう気持ちにとりつかれたのは、多分あの日から
あの日
君と出会えた日
そして、2人で恋をしたあの世界は
まるで
まるで夢のように
ただひたすらに
美しい世界だった
目を開けると、言いようない幸福感が全身を満たしている。まるで、幸せという何かが詰まった風呂に浸かっているような、そんな気持ちだった。腕の中には、愛する嫁がすやすやと寝息を立てていて、彼女もまたその顔は幸せに満ち溢れていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、寝室を幻想的に照らしていて、その光に照らされた彼女は、まるで天使のような美しさを感じさせる。
「三葉…」
俺は思わず呟く。全てを分かたれたあの日から、追い求めて、追い続けて、探し続けた。そして、ついにその手に掴んだ君の名は
三葉
忘れない。もう、忘れることができない。この世界が無くなろうとも、魂に取り付いてしまったこの名前を、俺から剥ぎ取ることはできないだろう。たとえ、神様だって。
「うぅん…」
三葉が寝言を言いながら、さらに俺の胸の中に顔を埋めてくる。そんな三葉が可愛くて、俺はその頭を撫でる。そのよく手入れされたサラサラの黒髪は、掬っても掬っても、すぐに手からこぼれ落ちてしまう。寝ていても撫でられていることがわかるのか、三葉の顔は、気持ちよさそうに微笑んでいた。やがて、薄っすらと、三葉が目を開ける。
俺と視線が合った三葉は、微笑みから、笑顔に変わる
俺が恋をした笑顔に
朝目を覚ますと、何故か微笑んでいた。その理由は、すぐ目の前にある。
「瀧君…」
口を出るその名前は、私がいつも追い求めていたもの。探しても探しても、見つからない、出口のない迷路のような場所をくぐり抜けて、やっと見つけた君の名は
瀧君
忘れちゃいけない、忘れることのできないその名前は、私にとっては、命と同じくらい大事なもの。あの日、星が降った日に、分かたれてしまった私の片割れ、私の半分が、夢の中に留めてくれた、2人の愛のカケラ
微笑みながらこちらを見つめる瀧君に、私はそっと口付ける。恒例になってしまった、朝の挨拶。おはようの言葉よりも早く出てきてしまうそれは、愛故に、止められない。そして、その余韻を確かめ合ったあと、どちらかとなく、言葉を発する
「おはよう、三葉…」
「おはよ、瀧君…」
毎朝、こうやって2人で朝のひと時を楽しむ。なんてことのない日常。それでも、私達にとっては、特別で、かけがいのない日常だった。
君と2人で過ごすその毎日は
ただひたすらに
美しい世界だった
「はい、どうぞ!」
三葉がテーブルに並べるのは、簡単な朝食。ウィンナーに目玉焼き、納豆に味噌汁。これぞ朝食と言ったところだろう。ただ、そのどれもがしっかりと調理されており、ウィンナーの皮はパリッと、中は柔らかい。目玉焼きはしっかり半熟になっている。簡単と言えども、三葉が手を抜いていないことが窺い知れる。
「すげぇ美味しいよ」
俺は、本当にそう思ってその言葉を口にする。
「当たり前やろ?私を誰やと思ってるん?」
胸を張って威張る三葉が可愛くて、俺はエプロン姿の三葉を抱きしめる
「な、なに…」
戸惑う顔も、また可愛い。俺はいったい、1日に何度三葉に恋をしなくてはならないのだろうか?
「んー?俺の奥さんが可愛くてさ、思わず」
俺はニヤッと笑って、三葉のほっぺたを少しつねる。すると、三葉はいきなり俺の腕の中から脱出して、カウンターキッチン(三葉の夢だったらしい)の中に逃げ込んだ。そして、頰を膨らませて、こちらをジッと見つめ出す
「な、なんだよ…」
「…ずるい」
「なにが?」
「そういうこと言うの。ずるい…」
三葉は頰を膨らませたまま、キッチンから顔を半分だけ出してこちらを覗いている。
あーもう、ほんと…可愛いなぁ…
「ほら、隠れてないで来いよ。三葉も早く食べないと遅刻するぞ?」
俺は、このまま三葉をベッドまで連れて行きたい衝動を抑えて、食事を勧める。その言葉で時計を見た三葉は、焦ったようにテーブルに着く。
そんな三葉を見て、俺は笑いながら、また食事を再開する。
なんでもない、朝のひと時。しかし、それは、堪らなく幸せな時間だった。
「瀧君!お弁当!忘れとるよ!」
ピンクのパジャマから、いつも会社に行く時に着るカジュアルな格好に着替えた私は、お弁当を持ちながら玄関に走る
「あ、わりぃ」
頭の後ろをかきながら謝る彼は、愛しい旦那様
私と瀧君は、会社の最寄駅は違うけれども、路線は一緒だった。みんな大好き、JR中央線だ。だから、行けるときは毎日一緒に出勤するようにしている。何年もお互いを探し続けた私達は、他の人達よりも、一緒にいれる時間というのを大事にしていた。むしろ、私達に1人の時間というのはいらなかった。もう、私と瀧君は2人で一つのようなもの。2人でいれる時が、心の底から幸せだった。
ドアを開けてくれた瀧君にお弁当を渡すと、私もハイヒールを履いて外に出る。一瞬、目が眩みそうな太陽の日差しで目を瞑るが、すぐにその景色が見えてくる
都心に住んでいたときは、まず目に入ってくるのは高層ビル、そして人。
雑多な大都会は、まさに日本一の人口を誇る東京を表していた。けれども、ここには、高層ビルも、ごった返す人々の姿もない。ただ閑静な住宅街と、綺麗な公園、はるか遠くに薄っすらと見える山々がある。そんな景色が、私達の前に広がる。
「なんか…落ち着くね…」
私は、故郷の糸守を思い出しながら言う。もちろん、ここ三鷹市は普通の街で、住宅街に溢れているし、ビルだって沢山ある。それでも、私の目には、都心の景色よりも、こちらの景色の方が心地よく入ってくる。
「まぁ、そうだな…俺もずっと都心に住んでたから、こんな静かな朝は久しぶりだな」
瀧君も、私と同じ景色を見ながら言う。
「新宿とか、朝からすごいもんね。初めて入れ替わったときは、なんかお祭りでもあるのかと思ったほどやし…」
私は、あの頃を思い出す。初めて入れ替わった日。藤井君に呼び出され。迷路のような新宿を彷徨い歩き。一度も通ったことのない学校までやっとの思いで辿り着いたのだ。あの頃は、まだそれを夢だと思っていたから、夢を楽しむつもりで学校に行ったが、まさか、その未来がこんなことになるなんて思わなかった。
けれど、その未来は、本当に、素晴らしい未来だった
瀧君の横顔を見ながら、私はそう思う
「瀧君!」
私は、満面の笑みで瀧君を呼ぶ。呼ばれた瀧君は、キョトンとした顔でこちらに振り向く
そんな瀧君に手を伸ばして、私は言う
「ほら!行こ!」
瀧君は、微笑んで、その手を取る。
「あぁ!」
2人で一緒に、階段を降りていく
もうすれ違わない。なぜなら、この手は離れないからだ。
人の一生は、およそ3万日と言われている
これはその中の、ただいつもの、朝のひと時
でも、それは
私達にとっては
かけがいのない幸せな
3万分の1の朝…