「君の名前は」
病院のロータリーに、一台のタクシーが滑り込むように停車した
そして、そのドアが勢いよく開き、1人の男性が飛び出す
「お釣り!!いりませんから!!」
「あ!お客さん!!」
男性は、どう見ても多すぎる量のお札を運転手に投げつけるようにして、駆け出す
その背中を、タクシーの運転手は唖然としながら眺めていた
自動ドアが開く速度さえ遅く感じる。ひどくもどかしい。俺は、開きかけの自動ドアに肩をぶつけながらも、中に駆け込む。そして、周りの目線など気にせずに、総合受付と書いてあるカウンターへと直行する。
2、3人並んでいる人がいたが、その人達の間をすり抜けて、受付の事務員に叫ぶように話しかける
「立花!!立花三葉の夫です!!!彼女は!三葉はどこですか!?」
目の前の事務員は、一瞬驚いたような顔をして、やがて、事態を把握したのか、すぐにどこかに電話をかける。
そして、ほんの少しだけ話すと、受話器を置く
「立花さん!奥さんは3階の分娩室です!すぐに行ってあげてください!」
俺は、受付の彼女が指でさした地図の場所を一瞬で記憶すると、走り出す
階段を駆け上がり、3階の廊下を走る
病院は走ってはいけない。そんなことはわかっている。ただ、今だけは…今だけは許してほしい
そして、目的の部屋の前に立ち止まる
あれだけ急いで来たのに、目の前に立つと、急に臆してしまう。何が怖いのか、自分でもわからない。
震える手で、その手を引き戸にかける
どんな結末だろうと、きっと、それは幸せに繋がるはずだ
俺達は、幸せをこの手で掴み取ってきたのだから…
「瀧君…」
三葉は、微笑んでいた。愛する我が子を抱いて…
疲労が目に見えて現れているその顔には、疲れと一緒に、溢れんばかりの幸せが見えた
「三葉…」
俺は呼ぶ。君の名を
愛して止まない、その名前を
「瀧君…私、頑張ったんやよ…」
「三葉…本当に…本当に…」
俺は、目に涙を浮かべながら、三葉の側へ行く
そして…
「ありがとう…」
泣きながら、笑いながら、俺は伝える。全部言葉に出したら、キリがない。だから、一言だけでいいんだ…それだけで、俺達には十分だった
「うん…うん…」
三葉も、その目に涙を浮かべながら、笑って頷く
「遅くなってごめんな…こんな時に出張なんて、ほんと、ダメな夫だよな…」
「ううん、ええんよ…家族のために、仕事を頑張ってくれてるんやから…それに、ほら、こうして元気に生まれてきてくれたんやよ?」
三葉は、抱いているその子を、俺に見せてくれる。眠っているのだろうか、目を閉じてはいるけれど、その鼓動を、その命を、確かに感じることができる
俺は、三葉を思い切り抱きしめたい気持ちを必死に押し込める。出産で体力のなくなった三葉に、そんなことはできない。だから、その頭を、優しく撫でる
「よく、頑張ったな…」
三葉は、それを嬉しそうに受けると、少しだけ苦笑する
「もう…瀧君たら、それは、この子に最初に言ってあげんと…」
「あぁ、でも、俺は最初に、三葉に言ってあげたかったんだ…」
俺は微笑んで、三葉の目を見つめる。三葉の目からは、その言葉を聞いて、新たな涙をその頰に垂らしていく
「お前も、よく頑張ったな…」
そして、俺達の、愛する我が子に向けて、笑いかける
本当に…2人とも、よく頑張ってくれた
こんな幸せなことがあっていいのだろうか
俺は今この瞬間を噛みしめるように目を瞑る
「元気な、女の子やって…」
そんな俺に、三葉が話しかける
「女の子か…きっと三葉に似て、美人になるんだろうなぁ…」
「もう…またそんなこと言って…」
俺も三葉も、笑い合う。この子の将来を夢に見て
「大きくなって、彼氏とか連れてきたらどうしよう…」
「殴ったりしたらダメやよ?瀧君意外と喧嘩っ早いんやから…」
「うーん…まぁ、相手の出方次第だな…」
「あー…こりゃ親バカになるわ…」
「悪いのかよ?」
「度が過ぎると嫌われるんやよ、気をつけんさい」
そんな会話が、堪らなく楽しい。この子は一体、どんな子に育つのだろうか?どんな人生を送るのだろうか?
そして、どんな物語を作るのだろうか…
「なぁ、俺達で、最初に名前を呼んであげようよ」
名前は、俺達にとっては、命と同じくらい大事なものだ
「でも、本当にいいの?この名前で…私は良いんやけど、伝統とか、そんなものに縛られなくてもいいって、おばあちゃん言っとったよ?」
だから、最初に、俺達で呼んであげたいんだ
「散々考えただろ?それでも、この名前に決めたんだ。意味だって、ちゃんとある」
「そっか…それじゃあ、大丈夫やね。私も、とっても良い名前だと思う…けど、瀧君が良いのか、心配だっただけやよ」
これから一生を共にする。その名前を…
「じゃあ、問題ないな、それに、結婚記念日まで、名前を意識しちゃったしな…」
「ほんと、男の子やったらどうするつもりだったんよ…」
君と一緒に…
「ま、結果オーライだろ。それよりさ、ほら三葉も一緒に」
「うん、瀧君も、一緒に」
俺達は、愛する我が子の顔を覗き込む
2人一緒に、とびきりの笑顔で…
そして再び
まるで、せーのっと、掛け声を合わせたかのように
始まりの合図を
「「君の名前は」」
ここからまた、新しい物語が始まる
でもそれはまた、別のお話…
the end
これにて本編は完結となります。ここまで応援してくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。勢いだけで書き始めたこの物語が、こうして無事に完結するとは思わなかったです。気づけばランキングにも上がり、評価バーも真っ赤に染まり、沢山の応援や、感想を頂き、本当に本当に、嬉しかったです。そして、それは、ひとえに皆様のおかげです。
尚この後に、蛇足にはなってしまうかもしれませんが、番外編をいくつか投稿する予定です。
本当に、最後までありがとうございました。
では、またいつか、どこかの物語で