逆行のサシャ 作:木棒徳明
「あ……」
サシャ・ブラウスは絶望していた。
その視線の先には巨人がいた。数体の巨人が、丸腰のサシャに近づいていた。息がうまくできず、あごが震えてガチガチと音をたてた。
サシャの頭の中では、警告の鐘がこれ以上ないほど鳴り続けている。しかし足はすくみ震えるばかりだった。無理に動かせば倒れてしまうだろう。
逃げることもできない状況に、サシャの頭は目の前の現実に立ち向かうことをやめ、ただただ過去を巡っていた。
いったいどこで間違ったのだろうか、どうしてこんな目に合わなければいけないのだろうか。
この不幸の原因を順にたどるなら、父との諍いが始まりであろう。
サシャはウォール・ローゼ南区のダウパー村という場所で生まれ育った。良く言えば自然豊か、悪く言えば山奥の田舎だ。しかし巨人が人類を滅ぼさんとする世界の中ではウォール・マリアに住むよりマシであるし、餓えて死ぬようなこともないので恵まれているほうだろう。
小さな頃から母はいなかった。父だけが家族、そして一族がいた。サシャは彼らと共に狩りをして育った。狩猟民族は少数派で、一歩外に出れば野蛮だとバカにされることも多い。けれど幸せだった。
転機はウォール・マリアが突如現れた超大型巨人により突破されたことだった。ウォール・ローゼにマリアの人間が入ってきた。それに伴い、自然から得られるものも徐々に少なくなる。父は一族の伝統である狩りをやめ、外の世界と関わり、王政に従い生きていこうとしていた。
父に反発し、外の世界に怯えるサシャ。話し合い、最後はほとんど喧嘩別れのようになった。父はサシャにまともな人間になるまで帰って来るなと言った。村を出たサシャは、見返してやろうと訓練兵団に入った。そして上位十名に選ばれた。
だからだろう、きっと。サシャは調子に乗っていたのだ。才能があると思い込んでいた。立派な兵士になれると自負していた。父よりもずっと見事に義務を果たせると思っていた。だから調査兵団に入ってしまった。
才能がないことは分かりきっていたはずなのに。
思い出すのはトロスト区が襲撃された日。上位十名に選ばれた翌日。ガスが切れ、巨人に包囲されたトロスト区で、意気消沈する仲間を励ますことすらできなかった。本部にて、ガス補給のために立体機動なしで巨人を襲撃したとき、サシャは失敗し危うく食われかけ、巨人に屈服し謝罪までしてしまった。
それなのに勘違いした。もう戦おうとするべきではなかったのに。
ジャンが調査兵団へ行くと言い出した。エレンという人類の希望が見いだされた。それらに流されたのだ。サシャは自分を知らなかった、自分がこんなにも弱いとは思っていなかった。
「ひっ……」
詰まった喉から悲鳴にもならない声が出た。
地面をならして巨人がゆっくりと近づいてくる。巨人の挙動に絶対はない。突然走り出すやつもいれば、ゆっくり歩くやつもいる。飛び上がるやつもいれば、地面を這うやつもいる。ただ確実なことは、人を食おうとすることだ。
このままでは食われる。走って逃げたとしても捕まる可能性は高い。馬がいれば別だが、もう逃げてしまった。
サシャの頭は一色だ。後悔、後悔、後悔。
もはや弓矢すら持っていない、丸腰の私服でいったい何ができよう。ここで食われる。今日までの人生は何だったんだろう。自分は何を成し遂げたのだろうか。
「そ、そうだ。わ、わ、私は、あの女の子をた、助け……」
ウォール・ローゼに巨人が出現し、装備もないまま馬に乗って、各地の村々に避難勧告を行うことになった。同期のみんなとは東西南北バラバラになった。サシャは北を担当。そしてさっきまで一緒にいた上官とも分かれ、村の近くにまで来たのだ。そして新しい村を見つけた。そこで巨人に襲われていた女の子の母親は助けられなかったが、女の子のほうは無事に逃がしたのだ。それも巨人に立ち向かった。背の低い巨人だったし、目をつぶしただけだったが、それで女の子を救えた。
だから自分は無意味ではない。後悔することなんてない。そう思ってサシャは笑おうとした。けれど笑えなかった。人生の終わりが近づいて、女の子を助けたことすら後悔し、涙が流れる。あの子を助けなければ、馬を失うこともなかった。巨人の足止めに成功し、あの子のもとに行こうとして、地響きに振り向けば複数の巨人がいたのだ。
サシャは棒になっていた足をやっとのことで動かし後ずさる。けれどもう遅い。巨人特有の気味の悪い表情がサシャに向けられた。
サシャは思い出す。トロスト区の本部で、殺し損ねた大きな目の巨人を。
「ああああああ!!」
叫んだのが先か、巨人が動いたのが先か。一瞬後にはのろのろと動いていたはずの巨人が驚くほどの速さでサシャの足首を掴んでいた。反転する視界。浮遊感。そんなものはすぐに関係なくなった。宙吊り状態にされたサシャは圧迫され潰れた足の痛みに悶える。しかしそれも束の間、今度は腕を掴まれた。それも別の巨人だ。巨人たちはまるで子供がおもちゃを取り合うようにサシャを引きあった。
「あああっ! やめてええ! やめてください、お願いですから!」
情けないことを言ってるのは自覚していたが、サシャは叫ばずにはいられなかった。痛いのが嫌だった。巨人が怖かった。死が、今まで他人事のように見てきたたくさんの死が、今は目の前にあった。
「サシャ!」
サシャは痛みに呻きながらもそちらの方向を見ないわけにはいかなかった。自分の名前を呼ばれたのもあるが、その懐かしい声の主に心当たりがあったからだ。
そこにはもう二度と会えないだろうと思っていた父親の姿があった。
父親だけではない。この付近の村人だろう人々も、大勢馬に乗って恐怖の表情でこちらを見ていた。村人たちは巨人がいることが分かると叫び声をあげ、方向転換する。当然だ、巨人は人の多いほうへ集まる習性がある。このままでは彼らに興味が行くだろう。
だが一人だけ逃げずにこちらに向かってくるものがいる。
「ブラウスさん! ダメです、戻ってきてください!」
「サシャ!! 今助けたる!」
サシャは目を見開く。弓矢すら持っていない、腰に下げていた小ぶりなナイフ一本で巨人に向かってくる父親。そんなものが巨人に効くはずがない。逃げるなら今しかないのに。
サシャは一瞬痛みを忘れた。代わりに別の恐怖が沸き起こってきた。サシャはあらん限りの力で叫ぶ。
「お父さん! 逃げて!」
「安心せえ! 今助けたるからな!」
声が聞こえていないのか、聞こえて無視しているのか、止まる気配はなかった。その目はサシャしか見ていない。彼を掴もうとしている大きな手のひらにすら気づいてない。
「うがあっ」
父が掴まれる。頭を噛み取られた。単なる肉片となった。胴体だけがボトリと落ちた。
サシャにはそれが嫌にゆっくりに見えた。その一連の現実を理解したとき、猛烈な悲しみに囚われた。
「あああああっ!」
痛い。痛い。右手がちぎれた痛みではない。左足がなくなった痛みではない。自分の無力さを呪う痛み。大切な家族を失った痛み。サシャは痛みで泣き叫ぶ。
サシャが最後に見たのは、巨人の大きな歯が自分の首を分けるために、静かに閉じていく瞬間だった。
◇
「サシャ。起きて、サシャ」
意識が覚醒していく。暗闇しかない視界に、あたたかな光が瞼を通して伝わってきた。頭を包むやわらかさと、足をなでる布の感触。サシャはこの感覚をよく知っていた。朝だ。
半分まどろみの中、サシャは重たい頭をなんとか持ち上げ、上半身を起こした。薄く目を開く。光が目に入ってきて眩しい。少しずつ目が慣れ見えてきたのは、布団にくるまる自分の足と、そこに置いてある自分の手だ。
五体満足。サシャは困惑した。寝起きで働かない頭を、必死に働かす。さっきまでの記憶がサシャの脳裏を駆け抜ける。叫び、恐れ、痛み。自分は巨人に食べられたはずだ。それがどうしてこんな状況になっているのだろうか。
「あ、起きた?」
サシャは重たい頭をかきむしりながら考えた。自分は助かったのだろうか。まったく覚えていないが、あの後いくつかの奇跡が起きて、どこかの病院のベッドにでも寝かされているのだろうか。しかし即座に否定する。確実に手も足も食われていたし、あの状況で助かるとは思えない。
ではあれは夢だったのだろうか。今まで夢を見ていたのだろうか。それも否定する。夢なら目が覚めたとたんに夢と分かるはずだ。あの生々しさは夢ではなく現実に起きたことだ。あの恐怖を、あの痛みを、サシャははっきりと思い出せた。
寒気がした。とてつもない恐怖に襲われる。全身が震えてまともに上体を起こせないようになった。鉛でも飲み込んだような苦しさだった。胸の苦しさをなんとか吐き出そうとして力なく首を垂れる。
「あああ……」
「サシャ?」
こんなに苦しいことがあるだろうか。サシャを助けようと果敢に殺されに来る父親を思い出さずにはいられなかった。首のなくなった父の胴体が、頭から離れない。思い出さないように努めるほど、より鮮明に思い出してしまう。サシャに後悔の念が迫る。
自分のせいだ。自分のせいで父は食べられたのだ。見捨ててくれれば、食べられずに済んだのに。もういない。もう帰れない。
サシャの苦しむ声に心配そうな声が重ねられる。
「しっかりしてよ……」
肩に力がかかり、優しく体をゆすられた。それによってサシャは先程から自分の隣に人がいたことに気づいた。心配そうに呼ぶのは女性の声だ。いったい誰なのだろう。
サシャは項垂れたまま、静かに顔を横に向けた。よく見知った顔がそこにあった。
「ミーナ……」
「う、うん。私だよ。大丈夫?」
知り合いがいたことで安心できたのか、苦しさが少し楽になった。
訓練兵時代、ミーナとはそれなりに仲が良かった。量の多い髪を両横でくくっているのが特徴的で、髪に自信があるとよく言っていた。なのでサシャの長い髪を何度も代わり整えてくれたことがある。幾度と同じ班になり、常識的で優しい彼女には何度もお世話になった。サシャは彼女のおかげで女子寮でみんなと女の子らしい話に交じることもできた。
しかしそんな彼女ももう死んでしまった。トロスト区の戦いのときに死んだ。あの時はたくさんの仲間が一度に死んで、彼女一人を悲しむ暇さえなかったことが思い出された。
そこでふとおかしいことに気づく。
「え?」
サシャは思わず呆けた声を出した。
死んだはずの友人がそこにいた。ミーナはサシャの呆然とした様子を見て頭にハテナを浮かべている。その表情は生き生きとしており、確実にそこにいるように見えた。
「ミーナ?」
「だからそうだって。どうしちゃったのサシャ」
サシャは自分の目を疑うしかない。もしくは頭だ。ミーナがここにいるはずはないのだから。
「ミーナ……」
失ったはずの右手を伸ばした。わけの分らないことが続いている。どこまでが現実なのか、もはやうやむやだ。確認しなければならない。
サシャはミーナの括ってまとめてある横髪を一房すくいあげた。ミーナは戸惑っているが、避けることはなく黙ってなすがままにしてくれた。すくった髪を手で遊ばせる。やわらかく、よく手入れされた綺麗な髪だ。たしかな質感を感じる。
髪を戻すと、今度はミーナの頬に触れた。押せばその分やわらかく沈む。撫でるとさらさらとして温かい、そんな肌だった。
生きている。そしてここにいる。
サシャはミーナの瞳を見つめた。サシャの真剣な瞳に、ミーナは唾を飲んだ。
「サ、サシャ……」
「ミーナ……ここは天国ですか?」
「はい?」
今度はミーナが呆けた声を出した。
サシャは目の前にいるミーナが自分の幻覚ではないことを確認した。ミーナはここにいる。けれどミーナは死んだはずだ。そこから導き出された結論が天国だった。やはり巨人に食われて死んでいたのだと思った。それなら死んだミーナと一緒にいる説明にもなるし、なくなったはずの手や足があるのも納得できる。
謎が解けて晴れ晴れとした気持ちになったサシャは落ち着いて周りを観察することができた。
想像していた天国とだいぶ趣が違う。サシャの想像していた天国には間違いなく食料の類があったが、ここにはそれらしいものが一つもない。普通の部屋だ。二段ベッドと少しの棚と花瓶。やわらかい風が窓から入り込みカーテンをゆらしている。居心地はいいが少し気落ちした。どちらかというとミーナもいるし訓練兵時代にでも戻った気分だった。
しかしここが天国ならば、そんなことを気にしている場合ではない。サシャは確認しなければいけないことがあった。
「お父さんはどこですか?」
ミーナに尋ねる。天国経験では先輩にあたる彼女なら何か知っているのではないかと思って。
少しの時間だったが、父は自分より先に死んだのだから、先に天国に着いていてどこかで待っているのではないかとサシャは考えた。この部屋にはいないようだから、外にいるのかもしれない。
ポカンと口を開いたままだったミーナは混乱し、口をつぐんでいる。どう答えたらいいか分からないのだ。
サシャはそうと気づかず急かした。
「ミーナ」
「いや知らないよ……サシャの故郷にいるんじゃないの?」
「もういませんよ。ここに来たはずです」
「トロスト区に?」
「トロスト区?」
お互い見つめあったまま首を傾げた。どうも会話がかみ合わない。
「ここは天国じゃないんですか?」
「いやいやいや。たしかに最前線の町だし、ある意味天国に一番近いのかもしれないけど」
「…………」
サシャは再び混乱し始めた頭のままベッドから立ち上がった。
風が入ってくる窓から顔を出す。見える景色は間違いなくトロスト区だ。けれどサシャの知っているトロスト区ではない。サシャの記憶ではここまで綺麗なはずがなかった。巨人に襲撃され、どの建物にも大なり小なり傷がついて、人ももっとまばらになっていたはずだ。これではまるで巨人に襲撃される前のようではないか。
サシャは呆然と立つほかなかった。
「これ、何なんですかね」
「何って……トロスト区でしょ?」
「何で私、トロスト区にいるんですかね」
「今はトロスト区に滞在中だし……」
「何でミーナは生きてるんですか」
「逆に何で死ななきゃいけないのよ」
「意味が、分かりません……」
様子のおかしいサシャをミーナはいよいよ心配した。手を引いてベッドに促す。
ミーナは力なく座り込むサシャの額に手を当てた。特に熱があるわけではない。しかしぼうっと虚空を見つめるサシャは明らかに異常だ。自分では手に負えないと考え、ミーナは医者を呼んでくるために部屋を出ようとした。
「ま、待ってください。一人にしないで……」
サシャの弱々しい声にミーナは立ち止まった。この状態のサシャを一人にしておくのは不安だ。医者に診てもらうべきなのは変わらない。しかし小さく震えて、今にも壊れそうなサシャを歩かせるのも心配だった。
ミーナはサシャの隣に腰かけると背中を撫でた。
「本当にどうしちゃったのサシャ……」
サシャは頭を抱え込む。ミーナはよけいに心配になり顔を覗き込んだ。サシャは吐き出すように言った。
「いえ、大丈夫です。大丈夫。ただ、ただ……そうです。少し、怖い夢を見て……」
「夢?」
「は、はい。きょ、巨人に食べられる……」
ミーナは呆気に取られる。確かにそれは怖い夢かもしれないが、それだけでこんな状態になるだろうか。しかし、それを否定してしまうのはまずい気がした。サシャの余裕のない声色はミーナに向けられたものだが、サシャが自分に言い聞かせているようにも感じたからだ。
ミーナは励ますように言った。
「大丈夫よサシャ。ここに巨人はいない。それにサシャは明日にでも憲兵団に入れるんだから、すぐ内地に行けるでしょ。どっちかというと私のほうが食べられちゃう確率高いと思うな」
なるべく元気を与えようと、ミーナは努めて明るい声を出した。サシャの手を握り陽気に上下に振る。
しかしサシャは返事ができない。手を取って励ましてくれた友人の言葉を反芻する。それはサシャにとって一つの恐ろしい可能性を想起させた。
「憲兵団に……入れる……?」
「そう。昨日の解散式で上位十名に選ばれてたじゃない」
「つ、つまり……」
息が詰まる。喉が渇く。
「ここは解散式の翌日の……トロスト区……?」
「変な言い方だけど……そうだよ」
サシャは戦慄した。
なぜ自分の手足があるのか分からない。なぜ自分に意識があるのか分からない。生きているのか死んでいるのかも分からない。なぜ死んだはずのミーナがいるのかも分からない。
分かるのはここがトロスト区だということだ。そして今は解散式の翌日だということだ。つまりサシャは壁が破壊され、巨人が入ってきたあの地獄のような日にいるということだ。そしてサシャの記憶が確かならば、あと数時間もすれば、その地獄は始まるということだ。
サシャは思わず立ち上がった。急がなければならない。
サシャはもう逃げることしか考えていなかった。
◇
サシャが後ろについてきていたミーナに気づいたのは、鞍も馬も盗み出し、首尾よくそれに乗り込んだ後だった。いざ走り出さんとしたまさにその時、後ろから大声で名前を呼ばれて思わず飛び上がった。
こちらに走ってくるミーナ。括った髪がぽんぽんと跳ねる様をサシャは馬上から黙って眺めていた。
「ど、どこに行くつもり」
息も絶え絶えのミーナが言った。
サシャは答えたくなかった。答えることは、今から自分は逃げると宣言することのように感じた。逃げることはもう心に決めているが、臆面もなく言うのはばつが悪かった。そもそも兵団管轄の馬を盗み出している時点でそんなことを気にするのはおかしかったが。
しかし無視することもできなかった。何も言わず去ることが、直接的に彼女を傷つける気がしたからだ。
サシャは少し考えていたが、そんなことをしている間にも巨人が来てしまうので、しかたなく答えることにした。
ミーナから視線を外し、たいして面白くもない馬の首を撫でながら言った。
「故郷に帰ります」
「どうして……」
突然の言動にミーナはそう言うほかない。ミーナとしては今すぐ医者のもとへ行ってほしかった。
てきぱきと行動し、何やら準備をしているサシャを止めようとしたが、移動の度に全力で走るサシャに追いつくのは至難の業だったし、呼び止めてもまったく聞かなかった。
「帰ります。どうしてもです」
サシャは断言する。理由を聞いても意味がなく、止める余地など残されていないとばかりに。
「固定砲整備はどうするの?」
サシャはそれを聞いて思い出した。確か固定砲整備のために壁の上に行き、そしてそこで超大型巨人に出くわしたのだ。それが起きると分かっていて行くわけがなかった。
「やりません」
「任務を……放棄するの?」
その気遣わしげな声色はサシャの良心にちくりと突き刺さる。兵士にとって命令は絶対だ。それを破るとなればどうなるかは分かりきっている。罰則は当然あるだろうし、脱退させられるかもしれない。場合によってはすぐ死刑にもなりうるのだ。もちろん憲兵団への通行証は間違いなくダメになるだろう。それを心配してくれているのがよく分かった。
だがサシャにとっては全て関係のないことだ。巨人に食べられれば、そんなもの何の意味もないのだから。
「もう兵士はやめます。やめることにしたんです」
「え!? な、なんでっ、せっかく……」
ミーナの言いたいことがサシャにはわかった。あと少し我慢すればいいだけだということだ。あと一日トロスト区にいて、適当に仕事をこなせば、誰もが羨む内地での安定した暮らしが手に入る。
しかしサシャには憲兵などどうでもよかった。調査兵団よりもマシだろうがそれだけだ。兵士であることには変わりない。サシャはもう兵士になどなりたくなかった。
今回のトロスト区襲撃はエレンのおかげで人類の勝利で終わる。しかしそのうちウォール・ローゼは破られる。また人類の領域は後退することをサシャは知っている。そこまで追い詰められれば憲兵団とて他人事ではないだろう。兵士となればいざというとき戦わねばならない。
サシャはもう戦えない。戦う気がないのだ。複数の巨人が目の前に現れた、巨人に父を食い殺され、自分自身も食い殺された。あの時から巨人と戦う意志など消え去っていた。
「すいません迷惑かけて。さようなら」
「サシャ……」
もう二度と会うことのないだろう友人を一瞥する。今日、死んでしまうことが決まっている友人を。
けれど連れていくことは考えていなかった。一緒に乗れば馬の走力が落ちるし、もう一頭馬を用意するだけの余裕がサシャにはもうない。
サシャの頭にあるのは、一刻も早くここから離れることだ。もしこの現実が、過去にいるような状態だと仮定すれば、今すぐ逃げないとまずいことになる。事態は一刻を争う。もう二度と、巨人を見たくない。
けれど悪いことばかりではない。ミーナが生きているように、父親も生きているはずだという希望があった。だからこそすぐにでも故郷に行きたかった。
自分勝手な考えというのは百も承知だ。それでもサシャはここを離れることに迷いはなかった。
サシャは走り出す。最後に一瞥すると、そこには悲しげに目を伏せるミーナがいた。サシャは罪悪感にかられる。
「ごめんなさい……」
聞こえたかどうかはわからない。言っていい言葉なのかもわからない。けれど言わずにはいられなかった。