逆行のサシャ 作:木棒徳明
食堂では訓練兵たちが男女入り混じって思い出話に花を咲かせていた。
解散式も昨日のこととなり皆がそれぞれの道を歩む。ほとんどは同じ駐屯兵団に行くが、中には調査兵団を志望している者もいる。それに駐屯兵団といってもその規模は大きく、師団ごとに分かれるので、一緒に働けるかは上の取り決め次第だ。本日、何の任務も課せられていない運の良い者たちは、訓練兵としての最後の時を仲のいい者同士で過ごしていた。
そんな穏やかな空気の中、食堂へと顔を出したのはサシャだった。幾人かがそちらを向くが、サシャを認めると、目を丸くしてコップを落としかける。
今期きってのお調子者が両手に持っているのはブレードだった。腰に下げているならまだしも、抜き身のまま構えてさえいる。
まるで今から巨人でも狩ろうかという鋭い目つきのサシャ。入口付近にいたサシャは、そこから一気に食堂の真ん中を駆け抜けた。
それは一瞬のできごとだった。真っ直ぐ目標に近づいたサシャはブレードを振り下ろした。しなやかでよく曲がるが、それと同時に硬い。対巨人用の武器として兵士に支給されているそれが、人に降り注ぐ。
「ベルトルト!」
狙われたベルトルトは後ろを向いていて気づくのが遅れた。
ライナーは立ち上がり、とっさに庇う。鈍く光る刃はライナーの前腕を捉えた。角度が悪かったのか、刃は肉に食い込むと骨の位置で止ってしまう。
ベルトルトの首を狙っていたものが、ライナーの片腕を中途半端に潰すに留まってしまい、サシャは舌打ちをした。
一連の惨事。これがウォール・シーナの治安の悪い場所で起きたなら不思議でもないかもしれないが、ここは兵士が集まる食堂だ。何が起きたのかが分かると、先程までの緩やかな雰囲気も雲散し、食堂が騒然とし始めた。
「サシャ!」
遠巻きに見ていた訓練兵が声を上げた。凶行に及んだサシャはそれに反応することなく、目は真っ直ぐベルトルトに向いていた。
ブレードを脇に挟むと、前方に引いて血を拭う。刃がまだ使えることを確認すると、サシャはゆっくりと進み出した。
このままでは、また彼を切りつけるのが目に見えていた。止めなければならない。だが先程まで安楽を享受していたこの部屋で、サシャ以外に武器を持っている者はいない。下手に近づくことができず、兵士たちはいびつな輪になってサシャを見ていた。
「サシャ! やめろ!」
標的にされているベルトルトとライナーは後ずさるしかない。
刃物を持った相手を無力化する訓練が、いかに実践では使い物にならないかを証明していた。あの訓練の想定は、せいぜいナイフを持った小悪党を倒すことだ。だが今の相手はブレードを躊躇なく振るう兵士だ。その上、ライナーの片腕は確実に使い物にならない。
食堂は途轍もない緊張感に包まれていた。
サシャを捕らえるとするならば、全員で押さえにかかるのが得策だった。何人か切られるかもしれないが一番安全で確実だ。それも隙をつけたらなお良い。そして一番隙ができるのは攻撃を仕掛けたときだ。
皆が隙を伺っていたが、サシャもそれを分かっているのだろう、派手な動きは見せず、ただ刃物を揺らしながら、ゆっくりと近づいていた。その歩みと連動して、ベルトルトとライナーも徐々に引き下がる。ライナーの腕から血が垂れて、一本の道ができていた。やがてその道も行き止まりに差し掛かる。
「サシャ、落ち着け……話をしよう」
サシャの歩みは止まらなかった。
それを見て覚悟を決めたのか、二人はすばやく動けるように腰を落とした。サシャは立ち止まる。だが躊躇しているのではない。どうすれば上手く殺せるのかを必死に考えていた。
一撃目を失敗した時点で二人同時に殺すことは難しくなった。壁際まで追い詰めたとしても、左右に分かれて二人に逃げるのならば、一人を殺すよりずっと悪い。せめてベルトルトだけは絶対に殺そうとサシャは決めた。
しかしサシャは後ろから複数の足音が近づいてくるのに気づいた。目の前の二人はあからさまにほっとした表情を浮かべている。足音はサシャを取り囲む。
「動くな! 武器を捨てろ!」
サシャはちらりと横目に見ただけで、武器を落とすことはなかった。兵士たちが一様に並んで銃口を向けている。
サシャの冷徹な双眸が再び二人を見据えた。その落ち着きはひどく不気味で、銃を向けられている人間の反応ではない。そして皮肉げな笑みを見せた。
「まあ、簡単じゃないとは思ってましたけど」
「何言って……」
刹那、サシャが地面を蹴り上げる。全身の筋肉を使い、身をねじって刃を敵に叩き落とさんとする。狙うは首。超大型巨人の首だった。首が落ちる音を聞くまで止まるつもりはなかった。だがそれよりも先に食堂を支配したのは発砲音だった。
体を貫く銃弾に、サシャは音をたてて倒れる。ブレードを手放し、床に広がる自らの血の中で悶えていた。
だがそれでも視線だけはじっと敵に向けられていた。必ず殺す。サシャはそう言った。
そして意識は暗黒に落ちた。
◇
サシャは殺しに行く。そして死んでしまう。また殺しに行く。そして死ぬ。殺しに行く。死ぬ。
幾度も、幾度も、繰り返した。これも全ては人類のため。人類の脅威であるライナー、ベルトルト、アニの三人を一人残らず殺すため。死んではその都度反省し、手を変え品を変え、三人を殺そうとした。
しかしサシャは自分の愚鈍さを再認識するに至る。何度か繰り返せば勝てると単純に考えていた。だがその想定は非常に甘かった。厄介な問題があり、成功の兆しは見えなかった。
問題は主に二つあった。
一つはサシャに力がないことだ。三人が三人とも、サシャより遥かに高い戦闘能力を有している。ミカサを除けば上から連続して成績がいい。その相手に挑むため、丸腰のときを見計らって強襲した。だがそれですら勝てない。隙をついて怪我を負わせることはできるのだが、最後には必ず無力化させられた。
二つ目は時間がないことだ。アニが食堂へ来ると、ベルトルトとライナーの二人は壁に向かい始める。目的は無論壁の破壊だ。あっという間に超大型巨人が出現する時間になってしまう。
一度ドジをやらかし、悠長に隙を伺いすぎて何もしないまま門が破られたことがあった。トロスト区を救いたくて三人と戦っているのに、これでは本末転倒だ。
それにアニは基本的に単独行動を取る。どこかから食堂にやってきて、その後は二人と一緒に壁に向わず別行動だ。故にアニをとるか、ベルトルトとライナーをとるかを選ばなくてはいけない。無論壁を破壊しに行く二人を殺そうとするのだが、やはり失敗するし、もし成功したとしても、サシャは銃殺されて、アニは生き残ってしまうだろう。
なのでサシャに好機があるとすれば、食堂に集って話している数分間だけだ。その時には三人が揃っているので同時に襲える。だが、一人ですら倒せるか怪しいものを三人同時、それも一瞬で片付けなければ騒ぎを聞きつけた兵士に銃に撃たれて死ぬか、あるいは連行される。簡単ではない。
サシャは何度も突撃した。ある時は盗んだ銃を使い、またある時は爆弾を使った。けれども殺せない。
失敗し、殺される。その一巡は短く、サシャは息をつく暇もない。それが延々と繰り返されていた。
サシャは気が遠くなりそうだった。けれど諦めるわけにはいかない。そんなサシャの作戦は単純だった。
できるまでやる。それだけだった。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
ある時を境にサシャは自分の動きが変わっているのを自覚できた。もはや格闘で勝てない兵士などいないと思えた。途方もない数の繰り返しによって、三人を同時に相手取ることができるようになる。
その際使う武器はブレードだ。彼らは巨人と同じように再生能力を持っており、銃弾を入れても死ぬことはない。それに弾が尽きればそれで終わりだ。ブレードのほうが確実に傷を負わせられた。
だがその再生は脅威のもので、一度、首を断ち切ることに成功したが、それでも生きていたことがある。驚きで固まってそのまま殺されてしまった。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
首の骨を潰そうが、心臓を貫こうが、どうなっているのか死ぬことがない。そしてそこまで追い詰めると確実に巨人化し、壁を破壊してしまう。
殺す方法はただ一つ、完全なる不意打ちだけだった。どうやら意識しなければ能力は使えないらしい。だが逆に言えば、不意打ちでしか殺せないのだ。三人集まるところに不意打ちをしても、確実に取りこぼしができてしまう。
何度も戦って、ようやく一人だけ仕留められるようになったところだ。仲間が殺された怒りからか、残された二人は巨人化した。壁を守ろうと懸命に戦うが、サシャは踏み潰された。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
三人同時に不意打ちするのは現実的ではない。それに何度も巨人化する三人に対処しなければいけなくなった。サシャは巨人化した三人を殺すことも視野に入れた。
だが四メートル級の巨人を一体倒しただけのサシャには途方もない試練だった。彼らは単なる巨人ではないのだ。
ベルトルトは超大型巨人になった。彼の巨大な図体は少し動くだけでも武器になる。さらには熱を噴出することで攻撃もできた。街は簡単に焼き尽くされる。サシャは何度も焼け死んだ。
ライナーは鎧の巨人になる。彼の硬い皮膚にはブレードが通らない。その硬い体で何度も門を破壊した。サシャは何度も圧死した。
アニは女型の巨人になる。小回りが利く彼女は確実に兵士を刈り取っていく。さらには皮膚が一部硬質化し、ブレードの効かない防御力に加えて、鋭い攻撃力も見せた。サシャは何度も潰された。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
超大型巨人はとにかくでかい。足を一歩踏み出せば建物は崩れ、瓦礫の雨が降り注ぐ。その被害は尋常ではなく、多くの兵士と住民が建物に潰されて死ぬこととなった。そんな巨人が食堂の場所から門まで移動し、さらには固定砲を壊して回る。
兵士たちも必死に止めようとするが、近づけば熱を噴出されてアンカーを外されてしまうし、それでもなお近づけば焼き殺された。
繰り返す度に、戦う度に、サシャは自分の感覚が鋭くなっていくのを感じていた。
降り注ぐ瓦礫を避けられるようになった。どこに何が落ちてくるか、予想をつけて超大型巨人に近づいていく。特に聴覚は優れ、耳を澄ませればだいたいどこで何が動いているのかが把握できた。故に熱を放出する瞬間も、耳で気づくことができるようになった。
サシャは超大型巨人を討伐することに成功した。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
女型の巨人は機動力が高い。あちらこちらに駆け回り兵士を殺していく。小回りが利いたその動きは兵士の行動を熟知している。すでに大混乱に陥っているトロスト区を確実に落とすため、指揮をしている兵士を中心に狙っていた。
兵士も反撃に出るが、アンカーが刺さろうものならそれを逆手にとってワイヤーを振り回し、囲まれようものなら叫び声をあげて普通の巨人を呼び寄せて逃げる。仮に運よくうなじを狙えても、すばやく手で守るか、硬化するので削ぐことができない。
繰り返す度に、戦う度に、サシャは立体機動の動きが洗練されていくのを感じていた。
女型の巨人に捕まることなく飛び続けられるようになった。集まってきた普通の巨人も苦労なくすばやく処理できるようになった。女型の巨人が目に追えないほど、速く複雑に動くことで、防御される前にうなじを狙えるようになった。
サシャは女型の巨人を討伐することに成功した。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
鎧の巨人はとにかく硬い。常に全身硬質化した状態だ。そして一直線に内門を破壊する。止めようとしても、その硬い体には刃は通らず、砲撃も意味をなさない。門は守れず、大勢の住民も踏み潰されることとなる。
だが弱点がないわけではない。関節部だけは硬化しておらずブレードで切ることもできた。しかし少しの足止めになるだけで決定打にはならず、それもすぐに再生してしまう。
繰り返す度に、戦う度に、サシャはより長く戦えるようになっていくのを感じていた。
鎧の巨人は仲間の二人が倒されるとウォール・マリアに逃げようとする。決定打はないが、逃げられるのはまずいとサシャは足止めをした。
最初はすぐに体力がなくなり、動けなくなって殺されていたが、体の使い方を覚えて、息が上がらなくなった。すぐにガスを使い果たし落っこちていたのが、少量のガスで長く飛べるようになった。刃こぼれが絶えなかったブレードも、長く使い続けられるようになった。
足止めを続けると、鎧の巨人は限界を迎え、巨人化を解いてしまった。
サシャは鎧の巨人を討伐することに成功した。
そして繰り返しは終わった。
サシャはついに人類最大の敵である三人を殺すことに成功したのだ。
◇
命乞いをするライナーの首を刎ねたとき、サシャの中を駆け抜けたのは大きな達成感だった。サシャは感極まって声にならない叫びを上げた。門の破壊を企てる巨人はもういない。人類はもう巨人に怯える必要はない。大きな痛手を負ったが、これからは平和になるだろう。
瓦礫の上に身を落とす。筋肉が緩んでいくのが分かった。戻ってこれるのは記憶ばかりで、体は普通の訓練兵のままだ。それを戦闘経験や技術によって無理やり動かしていた。突然の酷使に体は悲鳴をあげていたが、やっと休ませることができる。
「はあ……」
しかしサシャの耳が足音を捉えた。巨人の足音だ。その方向を見ると、積み重なった瓦礫の山の間から一体の巨人がサシャ目掛けて歩いてきている。
十五メートルはあるだろう。大きな巨人だった。これが近づいてくるまで気づけなかった。サシャは自分の疲れを再認識する。だが体を休めるのはもう少し先だ。一度抜けた力を入れなおし、サシャはブレードを構えた。
巨人はサシャの目の前まで迫ると、叩き潰すようにして掴みかかった。サシャはその単調な攻撃を予見して、先に飛び上がっていた。巨人の腕の軋みが、骨の鳴る音が、肌の擦れる音が、空気が押されてできた風が、全てがサシャの味方だった。次にどうなるのか、何もかもを教えてくれる。
サシャは腕に飛び乗ると、一気に駆け上がる。巨人のもう片腕の攻撃も避け、近づけてくる歯を前に一回転してうなじに回り込んだ。一太刀でうなじを削ぎ落し、ブレードを巨人に刺して緩やかに落下する。
十秒程の戦闘が終わり、サシャは息をついた。耳を澄ませると、巨人があちこちにいるのが分かる。外門も内門も破られ、ここはもう巨人の領域だ。こんなところでは碌に休むこともできないだろう。
幸いにもまだガスは切れていない。サシャは壁を上った。そこでなら巨人に邪魔されることなく眠ることができるだろうと考えた。しかしそれが叶うことはなかった。
サシャは絶句した。壁の上からはかなり恐ろしい景色が見えた。シガンシナ区以上の地獄が広がっている。巨大な瓦礫のゴミ箱をひっくり返したようだ。そこはもうトロスト区と呼べるかも疑問だった。
辺りにちらばる巨人はサシャに反応するか内門の方向へと向かっていた。ここにはもう生きている人はいないのだ。途方もなく長い戦いの旅を終えて、その結果がこれだった。喜んでくれる者はなく、ただ三人を殺したという事実だけを持っていた。長い戦闘で、しばらく使っていなかった頭の部分がじんじんと痺れるようだった。
「あああ……」
サシャの中にはもう達成感の一欠けらも残っておらず、ただ虚しさのみが心を支配していた。
もう巨人が攻めてくることはない。ウォール・シーナが破られることはない。これから人類は安寧の時を過ごす。なので人類を救うという意味においては目的を達成できたのかもしれない。だがこれはサシャの望んだ景色ではなかった。
人類を救うために、トロスト区を救おうとしていたはずだ。そのために三人を殺したのだ。だがそれは結局達成できなかった。サシャがどれだけ努力しようが、門を破壊しようとする一撃を止める手立てはなかった。もうウォール・ローゼは巨人の領域だ。
サシャは父に思いを馳せる。記憶の中の最後の父は巨人に食われて死んでいるところだった。旧地下都市に巨人が進入し、混乱の中サシャより先に食われた。あの人々の阿鼻叫喚はもう起こらないはずだ。しかし食料の問題が解決したわけではない。きっと無事では済まないだろう。
この事態を引き起こしたのは三人ではない。サシャが自ら作り上げた悲劇だ。
サシャが殺意に任せて動かなければ、愚かにも三人を殺そうと考えなければ、自分の限界を把握して途中で諦めていれば、ここまで酷いことにはならなかったのだ。
巨人化した三人を殺すことも、門が破られることも、トロスト区が滅茶苦茶になることも、住民や兵士の命が散ることも、繰り返しによって、いつの間にか当たり前のこととして受け止めていた。
父の言葉が脳裏を駆け巡った。助けられる命があるのに助けないのは殺すのと同じ。きつい言葉だと思った。それならサシャはいったい、いくつの命を奪ったことになるのか。トロスト区を見捨てて逃げたことを思い出す。あの頃と何も変わっていない。サシャが殺したのだ。
「ごめんなさい……これで最後やから……最後にするから……」
サシャはブレードを胸に突き刺した。今だけは痛い思いがしたかった。
死んだトロスト区を見ながら、サシャも息絶えた。