逆行のサシャ   作:木棒徳明

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第十一話 決意の先

 傷ひとつないトロスト区は平和そのものだ。何てことない日常が今日も続いていた。空は真っ青に晴れ、開いた窓からやさしい風が舞い込むと、サシャの髪をさらさらと撫でた。それを見たミーナは窓もカーテンも閉めてしまった。

 

「本当にいいのね」

「お願いします」

 

 サシャの寝起きの乱雑な髪をミーナは櫛で丁寧に撫で付ける。サシャは苦笑いした。この確認はもう三回目だ。

 起きていきなり髪を切ってくれと頼まれて、ミーナは複雑そうだった。その理由は主に、せっかくの綺麗な髪がもったいないというものだ。それでも何度かの押し問答の末に切ってくれることになった。

 これから用事があるのだし、時間はそう多くない。切ってくれるだけでもありがたかった。

 だからサシャとしては、おかしくない程度に短くしてくれればよかったのだが、ミーナはそうはいかないようだ。ハサミを当てて、これから切る髪の長さを何度も調節している。

 髪は女の命だとミーナが豪語していたことを思い出した。

 

「じゃあ肩くらいの長さにするね」

「あの、もう少し短く」

「ダメ! これ以上は無理!」

 

 ミーナに言い切られてサシャは折れた。頼んでいる立場なのだから文句は言えない。

 髪が持ち上がり、ハサミの音が頭の周りを回った。切られた髪は前よりも高い位置に落ちていく。すべて切り終えると頭がずいぶん軽くなった。ミカサよりも少し長い程度だ。

 頭を振って髪のはね具合を確認する。女性兵士は男性と違って長髪が認められているが、立体機動のときは邪魔にならないように髪を括る必要があった。サシャの新しい髪型は少し顔にかかってしまうが許容範囲だろう。これで括らなくていいので楽だ。

 

「うん。よし。かわいい」

 

 何度目かの繰り返しのとき、サシャは髪をばっさりと切ってしまったことがあった。巨人になった三人をまだ倒せていない頃で、立体機動の途中で髪がほどけて、前を見れず建物に激突して死んでしまったのだ。目覚めると苛立ち半分で勢いのままざっくり切った。その時のミーナの剣幕をサシャは忘れられない。

 だが今回はお気に召したようである。サシャをあらゆる角度から観察すると満足げに頷いていた。

 

「そろそろ準備しないとね。男子たち驚くよ!」

「そうですか?」

「うん! 大人っぽくなった!」

 

 サシャがいきなり髪を切りたいと言った理由は、もちろん括った髪がほどけると危ないというのもある。だがそれなら自分で適当に切ってしまえばいい。

 わざわざミーナにやってもらったのは、一種の戒めだった。自らを変えて、あの愚鈍な繰り返しを二度と起こさないように、何度も犠牲になったであろうミーナにわざわざ切ってもらったのだ。だからサシャとしてはここまで丁寧にされると、その意味合いが薄れるようで少し微妙な気持ちになった。

 だがサシャのそんな気持ちとは裏腹に、ミーナは一人で盛り上がっている。準備を終えて壁に向かっている間も楽しそうにサシャの髪をいじっていた。

 そして盛り上がっているのはミーナばかりである。壁の上に到着し、今にも作業をはじめている男たちに向かってミーナは意気揚々とあいさつを終えると、サシャの肩を押して自慢げに見せた。しかし思ったような反応を返してくれる、例えばマルコのような気の利いた男子は、この班にはいない。

 

「遅かったな。さっさと作業するぞ」

「髪の毛? さっき? ふーん……」

「飯食うとき髪が汚れる心配が減るかもな」

「俺みたいに剃ったらどうだ。楽でいいぞ!」

「あ、あのねえ……」

 

 男の反応は一様に素っ気ない。サシャとしては特に気にしていなかった。褒められるのは無論うれしいが、別段何も何も言われなくても、それはそれで構わなかった。それにエレンやコニーが、ミーナのように髪型を褒めてきたらむしろ喜ぶ前に心配が先立つ。この反応のほうが彼ららしい。

 しかしミーナはそう思わないようだった。整備を放置して男子四人を並ばせると、説教が始まった。やれ女心を分かっていないと、くどくどと続けるミーナに男子たちはゲンナリとしている。

 サシャはそれがおかしくて思わず笑った。

 

「サシャ?」

 

 後ろからした笑い声にミーナは説教を止めて振り返った。それに応じて男子たちの視線もサシャに集まる。

 サシャは笑っていたが、大口を開けたいつもの笑いではなかった。喜びの中にどこか憂いのある笑みだった。

 

「えっと……どうしたの?」

「いえ、なんかいいなぁと思いまして」

「いい?」

「ええ。平和で、楽しくて。みんながいて……ずっとこんなのが続けばいいのに」

 

 サシャは心からそう思った。空も、風も、気持ちがいい。整然と並ぶ建物と、活気あふれる人の行きかう姿。仲間とくだらない話を続けられる穏やかな時間。この状況がどれほど尊いものかをサシャは知っていた。そしてどれほど脆く崩れ去るのかも。

 自然と神妙な面持ちになる。みんなはサシャの雰囲気に戸惑っていた。

 サシャの最後の呟きは誰に向けたものでもなかったが、その後訪れた妙な沈黙を破ったのはトーマスだった。

 

「まあ、明日にはバラバラだからな」

 

 明日は兵団の選択日であり、別れの時である。トーマスは、サシャが単にそのことで気が沈んでいるのだと解釈したようだ。

 

「勤務地によっては、しばらく会えなくなるな」

「なんか寂しくなるね……」

「みんなはどこの兵団に行くんだ?」

 

 話題は自然と所属希望へ移る。和気あいあいとエレン以外は希望を述べていった。エレンの場合は、聞かなくとも誰もが知っているくらい本人が公言しているので、言う必要はない。もしジャンがいれば同じように外されていただろう。

 エレンは少々不満そうだったが、みんなの希望を聞いていくうちにその顔は驚きへと変化していった。なんと全員が調査兵団を志望していることが分かった。駐屯兵団か憲兵団に行くのだろうと考えていたエレンはこの結果に開いた口が塞がらない。

 

「何で……」

「お前の演説が効いたんだよ」

「でもこれでお別れにはならないね。良かったねサシャ」

 

 同じ調査兵団なら一緒になる機会も多い。ほとんど訓練兵のときと変わらないだろうと、ミーナは安心させるような笑顔だった。

 だがサシャの表情が晴れることはない。調査兵団に入って実際に壁外調査に赴き、そこで何人もの兵士が犠牲になった。そしてそれは普通のことだった。もし全員が生きて調査兵団に入れば、この中で何人が一回目の調査で死ぬことになるだろう。それを考えると安易に喜べるものではない。

 

「死んだらお別れですよ」

 

 口に出すべきではないと分かっていたが、サシャは我慢できなかった。半端な気持ちで戦えば後悔しか待っていないことを知っていたから。

 サシャの言葉に場が凍りついた。

 

「調査兵団に行くというのは、巨人と戦うのと同じことです。当然、死がつきまといます……」

「そんなの……覚悟の上だ」

「本当ですか? 死ぬかもしれないんですよ? 巨人と戦ったこともないのに、どうして分かるんですか?」

 

 生きている限り必ず死がつきまとう。誰が死んで、誰が死なないかは分からない。

 強ければ死なないということはない。重要な何かを握っているから死なないわけではない。巨人の力を持っているはずのエレンでさえ、少しのことで死んだり死ななかったりする。

 だが死に近いものは確実に存在する。彼らのような普通の兵士だ。

 サシャは彼らを失いたくなかった。

 

「巨人は怖いですよ。きっと見たら逃げちゃいます。その時になって、私が近くにいれば助けられるかもしれませんけど、それも絶対じゃありません! きっと食べられて――」

「おいサシャ、いい加減にしろ!」

 

 声を荒げたのはエレンだった。

 

「さっきから何なんだ。オレたちをバカにしてるのか」

「違います……ただ私は、みなさんに死んでほしくなくて……」

「……心配してくれるのはいいけど、それはオレたちだって同じだ。サシャ。オレたちは兵士で、仲間だろ。なんで自分だけが戦えるみたいに言うんだよ。オレたちはお前に守られるだけの存在か?」

「いえ……」

「なら腰抜けみたいに言うのはやめてくれ」

 

 サシャは兵士だ。でもみんなも兵士だ。守らなければならない住民ではない。

 心配から出たサシャの物言いは、エレンの兵士としての矜持を傷つけるものでしかなかった。

 

「すいません。調子にのってました。みなさんは立派な兵士です」

 

 サシャは首を垂れた。重い空気が頭に乗っているようだった。

 何も言わなければよかったとサシャは後悔した。随分と図に乗った発言だった。サシャの一言二言で皆の気持ちが変わるわけがないのだから。

 

「な、仲直りだね! よかった!」

 

 重苦しい空気の中、ミーナはそれを壊そうと、無理やり明るい声をひねり出した。

 

「仲直りなのか?」

「さあ……」

「なあ、話がよくわかんねえんだけど」

「みんな立派な兵士だよってこと!」

 

 ミーナはわざとらしく大手を広げる。ブレードが音をたてて揺れた。

 サシャの耳が反応した。しかしブレードにではない。金属音を飛び越えて、微かな軋みを聞き取った。扉が開く音だ。

 サシャは思い切り深呼吸した。気持ちを切り替えていかねばならない。冷たい空気は肺へと広がる。だが次の瞬間には熱風に変わっていた。

 熱風に吹き飛ばされると、落ちないように壁に吊り下がる。サムエルだけは姿勢を正すことなく頭から落ちていた。

 

「オイ! サムエル!」

 

 エレンがそれに気づいて彼の名を叫んだ。だがそれよりも早く、サシャはアンカーを抜いて、壁を力いっぱい蹴っていた。

 自由落下するサムエルにすばやく追いつく。彼の足をなんとか掴んだ状態で壁に吊り下がることができた。アンカーで足に穴を空けられるよりはずっといい助かり方だろう。

 ゆらゆらと揺れるサムエルを落とさないようにしっかりと掴み、サシャは上を確認する。そこではエレンが、サムエルをサシャに任せて、他の班員と共に超大型巨人に突撃していくのが見えた。助けるかどうか迷ったが、踏みとどまった。サムエルを抱えていくのは危険だし、そもそもサムエルが死んでいないのだから、なんだかんだで生き残るはずだ。

 サシャはサムエルを落とさないように、ゆっくり地面まで下ろした。

 おそらく整備用の工具が頭に当たったのだろう。血を流して気絶していた。だが命に別状はなさそうだ。

 しばらくするとエレンたちは立体機動を使って壁を降りてきた。エレンはサシャに気づくと一目散に駆け寄ってくる。

 

「サシャ! サムエルは!」

「頭を打って気絶してますけど、無事です」

 

 エレンはそれを聞くとほっと息をついた。だが気を抜いているわけではない。その瞳は先程消えてしまった超大型巨人をまだ見ているようだった。

 

「本部に報告しに行くぞ」

「おいエレン、さっさとサムエルを担ぐぞ! 巨人が入ってくる!」

 

 コニーがサムエルの装備を外しながら言った。鐘はすでにがんがんと響き、住民に避難を促している。その音が焦燥感を煽り、なかなか装備を外せないようだった。

 なんとか協力して班は移動を開始した。トーマスがサムエルを担ぎ、エレンがそれを支え、装備をコニーが持ち、ミーナが誘導している。だがそんな中でサシャだけは場違いに自分のブレードの具合を確かめて突っ立ていた。

 

「サシャ! 行くよ!」

 

 サシャがついてこないことに気づいたミーナが呼びかける。サシャは黙って歩き出した。だが向かう先は本部の方向ではない。

 

「サシャ! どこ行くの!」

「おいサシャ! 何してんだ!」

 

 サシャは班から離れていく。その向かう先は、つい先程まで門があった場所だ。今は門の破片と大きな穴だけしかない。人のための門ではなく、巨人を通すだけの穴に成り下がった門の前では、駐屯兵が迎撃のために忙しく砲台を準備していた。

 

「サシャ!」

 

 サシャは張るような振動を腕に感じ、体が止まった。二の腕を捉えた先にはエレンがいた。奇行に走る同期を止めるため、ここまで走ってきたのだ。

 エレンはそのまま引きずって班の場所まで戻ろうとするが、力を入れて捻られ、簡単に振りほどかれる。エレンの目は釣り上がり、明らかな怒りの色を見せた。悪人面と評されることの多いエレンの怒った顔がサシャに向けられる。

 

「何やってんだよ! 行くぞ!」

「本部には行きません」

 

 サシャの突然の言明に、エレンは怒った表情のまま押し黙った。本部に行くのは義務のようなものだ。臆面もなくそれを放棄したサシャに何を言おうか迷っているようだった。けれど間違いなく怒りを露わにする言葉をぶつけられるだろうと予想して、サシャは先に断言する。

 

「私はここで、できるだけ巨人を狩っておきます」

 

 エレンはまた沈黙せざるを得なかった。だが怒りの色は消えた。混乱のせいか口を呆然と開けてサシャを見ていた。

 

「いつまで持つか分かりませんが、ここでなるべく巨人を減らせば、生き残る人は多いでしょうから」

「はあ!? 死にたいのかお前!」

「死ぬつもりはありません。いざとなれば逃げますから。エレン、はやく行ってください」

 

 エレンとサシャを心配しているのか、班員たちはあまり移動できていない。

 今に巨人が入って来てもおかしくない状況で、悠長に話して彼らを遅らせる時間などなかった。

 サシャはエレンに行ってほしくて促すが、彼は少し黙り込むと、覚悟を決めたようにブレードを引き抜いた。

 

「オレもやる」

「そんな! 危ないですよ!」

「どの口が言うんだよ……それにさっきオレたちは兵士だって認めあっただろ」

 

 サシャが人類を救いたいと願うように、エレンもまた人類を救いたいと思っている。サシャに戦う理由があるなら、エレンにだって戦う理由はあった。確かにそこは対等な関係かもしれない。その点で、一緒に戦おうとするエレンを制止させる資格がサシャにはない。

 しかしサシャとエレンでは大きく異なるところがある。サシャは申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「でもエレンには荷が重いと思います。私くらい強くないと……」

 

 単なる戦闘能力において自分はエレンの遥か高みに位置している。サシャにはその自負があった。それは経験に裏付けされたものだ。それ故に不遜に思われるような今の言葉を堂々と言えた。それを知る由もないエレンは怪しげに目を細めた。

 

「そんなに実力差なかっただろ。それに順位はオレのほうが上だったし」

 

 サシャがそれにどう答えたものかと迷ったとき、ワイヤーの引く音が聞こえた。立体機動の音だ。

 その音は穴付近の建物に着地する。一人の兵士がサシャとエレンに叫んだ。

 

「そこの訓練兵! 持ち場に戻れ!」

 

 薔薇の紋章をつけている彼はおそらく先遣班だろう。入ってくる巨人を真っ先に討伐するのが彼らの仕事だ。そして今からサシャが奪おうとしている仕事でもある。

 駐屯兵の一喝にエレンはたじろいでしまう。トロスト区が超大型巨人に襲撃された際の訓練は何度か行っている。その通りに動かないのは立派な兵規違反だ。

 しかしサシャは無視していた。兵規違反よりもずっと厄介なものが、すぐそこまで来ているのを音で確認できたからだ。

 

「来ますよ」

 

 エレンは、何が、と聞こうとしたがそれよりも早く答えがやってきた。八メートルもの巨大な穴。そこから最初の巨人が現れる。

 巨人は穴よりも大きいようで、身を屈め、ほとんど四つん這いの状態で這い出てきた。うなじを狙ってくれと言っているようなものだが、先遣班が動く気配はない。その代わり、駐屯兵が慌ただしく設置していた砲台が火を吹いた。

 砲弾は巨人に直撃し煙を上げる。当たったことに駐屯兵たちは歓喜しかけたが、すぐに絶望の表情に変わった。煙がはれると損傷した体の一部はもう再生し始めている。巨人はほとんど動きを止めることなく、目の前の人類に向かっている。駐屯兵たちは砲撃を止め、慌てて逃げ出した。

 

「お、おい! さっさと逃げろ!」

 

 先遣班が声を荒げた。

 砲撃をしていた駐屯兵が逃げてしまい、次に巨人が目を付けたのはサシャとエレンの二人だった。

 サシャは刃を両手に持って広げた。狙ってくる巨人を歓迎しているようだった。

 

「サシャ!」

「私は人類のため、助けられるものなら兵士だろうと何だろうと助けます」

 

 先遣班の一人がアンカーを巨人に刺して突っ込んだ。恐怖を振り払うためか、大きく叫びながらうなじを狙っている。だがその叫びは単純な恐怖の叫びへと変化した。巨人が彼に反応し、振り回した手がワイヤーに引っかかってしまったのだ。歪んだ顔面が兵士を覗き込んだ。

 兵士は顔を青くする。そして周りで見ていた者も。こうなれば、あとは食われるだけだと思われた。だが突如巨人は手を離し、その場に倒れる。

 その背からサシャがひらりと舞い降りた。

 

「は……?」

 

 一瞬のできごとにエレンは愕然とする。目の前にいたはずのサシャが気づけば巨人を討伐していた。

 サシャはエレンに近づく。

 

「ですからエレン、今は守らせてください。あなたは人類の希望です」

 

 巨人を討伐したことに対して何の快哉もなくサシャは言った。そしてすぐに踵を返した。その耳は壁の向こうから近づく巨人の足音をしっかりと捉えていた。

 

「サシャ……」

「はよ行かんかい!」

 

 巨人が次々と穴から出てくる。

 サシャは一人進撃した。


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