逆行のサシャ   作:木棒徳明

12 / 13
第十二話 戦の先

 トロスト区の外街。突出区からはみ出たように存在するその街は、住所としてはウォール・ローゼ南区に位置している。だが壁を挟んで日常トロスト区と行き来している住民にしてみれば、もはやトロスト区の一部といっても過言ではない。

 けれども壁の存在は大きい。特に外門を破壊されるような事態とあっては、内門のある壁の役割は単なる突出区との隔たりではない。人類と巨人、その境界線となり、外街は人類の最前線となる。

 

「首尾はどうじゃ」

 

 そんな新たな最前線の街をスキットル片手に闊歩するものがいる。

 ドット・ピクシス。

 部下からはもっぱらピクシス司令と呼ばれる彼は、駐屯兵団のトップであり、南側領土の最高責任者でもある。そしてそれに見合うだけの実力と実績を持つが故に、緊急事態であろうがなかろうが勤務中の飲酒を注意するものなどいなかった。

 ピクシスは常にトロスト区にいるわけではない。その地位の高さから様々な場所で様々な仕事があり、壁が破壊されたときも地方の有力者と会っていた。そこに早馬が駆けつけ、トロスト区のことを知ると急いでここまで来たのが先程のことである。

 首尾はどうかという曖昧な質問も、超大型巨人が現れ外門を破壊したという情報しか持っていないからだ。どれだけトロスト区に巨人が入り込んでいるか、兵士の消耗具合はどの程度か、指揮をする立場の人間として知らなければならないことは山のようにある。

 しかしピクシスに伴って歩いていた駐屯兵団隊長のキッツ・ヴェールマンは言い淀んだ。どう言うべきかを迷っているようだった。

 大柄な体格に似合わず小鹿のように繊細な彼は、報告を誤魔化すような性格ではない。ピクシスが怪しんでいるのが分かるとキッツは慌てて言った。

 

「今は住民に避難をさせているところでして……」

「まだ終わっておらんのか」

「もうすぐ終わるかと」

 

 ピクシスの顔つきが厳しくなる。

 避難、すなわち住民の命を守ることは兵士の任務としては最優先事項であり、真っ先に終わらせるべきものだ。ピクシスが馬で駆けつけるまでに、それができるだけの時間はあったはずである。それすらも出来ていないということは予想以上に深刻な事態になっているのかとピクシスは考えた。

 住民の避難が完了していないなら、内門の扉を閉ざすわけにはいかない。だがそうなれば巨人がウォール・ローゼ内に入ってくる可能性がある。それに避難が完了するまで兵士たちは巨人を抑えなければならない。犠牲は増えるばかりだ。

 だがピクシスは様子がおかしいことに気づいた。もし避難がまだ完了していないなら、とっくに巨人がこの外街にも入り込み、この一帯も地獄と化しているはずだ。しかし兵士が行き交い忙しく働いてはいるが、そんな様子ではない。ピクシスが視認する限り、門は開かれているが巨人が入ってくる気配はなく、普通に兵士が往来している。

 ピクシスは頭を捻らざるを得ない。

 

「ふむ。何か起きているようじゃの。キッツ」

「はい。見ていただいたほうが早いかと」

 

 

「はっ!」

 

 最小限の動きで巨人を狩る。この程度なら立体機動は必要なかった。一体狩ればまた次の一体が出てきた。それもまた狩った。巨人は倒れ蒸発していく。これの繰り返しだ。

 巨人は赤子の手をひねるように倒せた。サシャはあまりの呆気なさに逆に不安を覚えるほどだった。油断をしているわけではないが、それなりの覚悟と気合いで挑んだ割には肩透かしのような状況だ。

 一体づつか、多くても三体同時にしか出てこない。特別硬いわけでもない。意思もないので通常種だろうが奇行種だろうが動きにキレはなく、大きさも十五メートルが限度だ。

 六十メートルもある火を噴く巨人に、すばやく戦闘能力が高い巨人、硬くて止めを刺せない巨人。普通の巨人も闊歩する中でこれらの知性がある三体の巨人を同時に相手し討ち破ったサシャにとっては、この状況はぬるま湯のようで苦戦しようもなかった。

 

「ブレードをください!」

「分かった!」

 

 その上、サシャにはいつの間にか支援体制ができていた。最初こそ持ち場に戻るよう言われていたが、戦っているうちに徐々に変わってきた。今では付近の建物の屋根に待機し、サシャが頼めばすばやくガスやらブレードやらを持って来てくれる。先輩を小間使いにしているようで複雑な心境だったが、ありがたいことには変わりなかった。

 名前も知らない駐屯兵が飛び降りてくる。彼が持ってきた刃をサシャは鞘に収めていく。

 ブレードは基本的に使い捨てだ。消耗が激しく、どれだけ気をつけても徐々に切れなくなっていく。それ故に兵士はいくつもの替えの刃を鞘に収めていた。

 サシャも例外ではない。慣れない頃と違って今は随分と長持ちさせられるが、それでも限界がある。サシャはなるべく長くこの戦いを続けたかったが、そこが気がかりだった。戦えなくなるのはブレードが尽きたときだろうと考えていた。しかしこうして補給してくれるならば話は別だ。体力が続く限り戦うことができるだろう。

 

「!」

 

 今度は二体同時に巨人が出てきた。同じように殺そうとするが様子がおかしいことに気づく。

 巨人は穴の一番近くにいる人間、つまりはサシャを狙うはずだ。だが片方の巨人はサシャに興味を示すことなく、その視線は空の彼方にあった。奇行種だ。どんな動きに出るか分からない。

 奇行種は案の定、片方の通常種とは違い、サシャに突撃するよりも横に逸れて街に入ることを選んだ。サシャはそれにいち早く気づくと、立体機動に移る。

 通常種を躱し、奇行種のうなじへと一直線に飛んだ。巨人の図体はサシャに次の動きを教えてくれる。突然振り向いて、その勢いのまま腕を振り抜こうとしているようだ。奇行も分かっていれば対処は容易だ。すばやく身を翻して奇行種の腕を躱し、うなじを削いだ。

 倒れていく奇行種を足場にしてサシャは飛び上がると、空中で体をひねり、そのままもう一体の巨人にアンカーを刺した。ワイヤーを引いて突っ込む。通常種だけに特に大きな動きもなく、うなじを刈り取った。

 だがまだ止まらない。壁にアンカーを射出すると、大きく飛び上がった。二体と戦っている間にも、新たな巨人が穴を通っていることを耳は捉えていた。八メートルの穴をくぐるように出てくる巨人。そのうなじをほとんど自由落下の勢いで叩き切ると、サシャは軽やかに着地した。

 その間、数十秒も経っていない。その人間業とは思えない動きに大きな歓声が送られた。

 

 

 声を上げて喜んでいるのは、本来ならとっくに避難しているはずの住民たちだった。半分酔っ払いのような風貌の男が、押し止める兵士の隙間から拳を掲げていた。だが集まってきた兵士に無理やり担がれ避難させられていく。

 

「見事なもんじゃのう……」

 

 ピクシスが感嘆の息を漏らしたのは、無論酔っ払い仲間に向けてではなく、サシャに対してだ。見事と形容するほかにない、無駄の一切を省いた洗練された動き。それはもはや芸術的でもあり、人の心を大いに昂らせた。

 だが誰もが無邪気に喜んでいるわけではない。少なくともキッツだけは困り顔を浮かべている。

 

「あの訓練兵のおかげで、良くも悪くもこんな状況でして」

 

 多大なる戦果を上げているので完全には否定できないが、規律を尊ぶキッツとしては、サシャの兵規を無視した単独行動を素直に喜ぶことはできない。さらにはそのおかげで、既に終わっていたはずの避難が今でも続いて滞っている。

 未だに街に残る住民が壁の上からはよく見えた。だがこれでもマシになったほうである。

 

「見に行くやつはいるわ、荷物を取りに戻るやつはいるわ、勝手に誤報と勘違いするやつはいるわ。挙句商会の人間が荷台を扉に詰まらせまして、さらに避難が遅れました」

「まあ、死なれるよりマシじゃろう」

 

 ピクシスが望遠鏡を覗く。水晶体越しのサシャは大きく手を広げて伸びをしていた。巨人が来ていない間の小休憩だろう。退屈すらしているように見える。まだまだ余裕がありそうだった。

 

「うむ。なかなかの美人。将来も楽しみじゃ」

 

 組織を尊び、基本上官に逆らうことのないキッツだが、ピクシスのこの手の発言には無視を決め込む。

 

「それで司令。いかがしましょう」

 

 作戦の立案と命令が司令であるピクシスの仕事だ。キッツはそれを実行に移すのが仕事。

 だがピクシスが来るまではキッツが代わりにその仕事を務めていた。結局作戦は実行されることなく、サシャの支援を承認するしかできていない。しかし上の立場故にこれから何ができて何ができないかの判断はつく。

 現状においてできることは少なく、それは有能な上官であるピクシスといえど同じことだろう。キッツは命令を待ちながらも、どんな命令が下されるかの予想をある程度していた。おそらく遅れている避難を終えて、内門を閉ざし、警備に務める。大まかにはこの流れとなるはずだ。

 だがキッツの予想は大きく外れた。

 

「壁を塞ぐしかなかろう」

 

 事もなげに言ったピクシスに対してキッツは一瞬口を噤んだ。

 

「それができれば、とうにやっています。ですが我々にはすぐに壁を塞ぐ技術はありません」

 

 ウォール・マリア奪還のため、兵団内においてはいくつもの作戦が立てられることとなった。だが五年が経った今でも目途が立たない。その主な原因の一つは人類に大穴を塞ぐ手段がないことだった。トロスト区内にある大岩を運ぶことまで考えられたが、動かすことすらできなかったのが実情だ。

 そんなことは訓練兵でさえ知っていることだった。無論ピクシスとて承知している。その上で言ったことだった。

 

「すぐに塞ぐ技術は確かにない。だが時間を掛けて塞ぐことはできる」

 

 キッツは信じられないという顔をした。

 確かに時間は掛かってしまうが穴を塞ぐだけの技術を人類は持っている。調査兵団を筆頭に人類の自由を求めるものたちによって反対され、実行には移されていないが、安全のために門を完全に密閉して塞いでしまおうという案は何度か出ていた。

 だがそれは準備にすら時間を要するし、それに何よりも大きな問題があった。

 

「巨人はどうするのですか」

 

 巨人の脅威に晒されながら、壁をのんびりと塞ぐことはできない。キッツはそれを指摘したが、ピクシスは軽い調子で言った。

 

「あの訓練兵に倒してもらうしかあるまい」

 

 キッツはさらに指摘する。

 

「ですが……そうなると門の外側で戦わなければなりません」

 

 外の危険は内側の比ではない。門が大きく削れており立体機動も使いにくいだろう。穴から数体ずつ巨人が出てくることはなく、全方位から巨人がやってくる。そんな中でいつ終わるかも知れない作業を守り続けなければならない。

 キッツはとても成功するとは思えなかった。その危険性をピクシスも分かっているはずだ。だがピクシスは実行に移す気のようだ。

 

「では外側で戦えるか、本人に確認してみるとしよう。呼んできてくれんか」

 

 壁の外では巨人がまばらに近づいている。だが歩みは遅く、しばらく来る気配はない。呼んで少し話すくらいの時間は取れそうだった。

 キッツはまだ言いたいことがあるようだったが、大人しく壁を降りていった。それを確認するとピクシスは門の上付近まで移動した。

 その辺りは超大型巨人によって大きく削られている。凸凹の壁上を靴の裏で感じながら、ピクシスは吹き飛ばされた壁上固定砲や線路の残骸を街の隅に発見した。

 そして壁から突出した柱部分に立つと、外側からの門を見下ろした。内側から見るのとは違い、大きく抉られて内部が見えている。細長い三角形に開いたそれは、超大型巨人が蹴り破ったときの衝撃を物語っている。

 それでも門の上のほうは無事に済んでおり、固定砲がいくつか残っていた。そこでは駐屯兵が懸命に弾の補充をし、射程範囲外にいる巨人の動きを予測して狙いを定めている。

 

「順調かの」

「ピクシス司令!」

 

 固定砲を操っていた兵士たちは突然の呼びかけに顔を向け、それがピクシスだと分かるとすぐさま敬礼した。

 

「質問をしたい。集団で来る巨人をバラけさせることはできそうか」

「申し訳ありません。我々もそれをやっているのですが、あまり効果は……」

「ふむ……」

 

 固定砲で巨人を殺すことはできなくとも、せめて足止めして負担を減らすことはできないかと思ったが、難しいようだ。それに壁の外側で戦うとすれば固定砲が邪魔になる可能性もある。

 大して意味がなく危険が増えるだけならば撃たないほうがいい。固定砲による支援はないものとして考えるべきだろう。

 ピクシスは大穴を注視した。穴の場所には大小の瓦礫が散乱している。足の踏み場もない状況だ。何も気にせず進む巨人ならまだしも、普通の人間ならただ通るだけでも苦労するのが目に見えた。穴を塞ぐとなればこれらのことも考慮に入れねばならない。時間はより必要となるだろう。

 キッツの言う通り、ピクシスの作戦は無理があるように見えた。

 現状一人の死者もでていないし、トロスト区とローゼを結ぶ門は無事だ。何もしなければ、とりあえずはここで平和に終わらせることもできるだろう。トロスト区は失うが損害はそれだけだ。だからそれ以上は何もしないという選択肢もある。

 だがそれでもピクシスは実行したかった。わざわざ危険を冒してでも門を塞ぎたいのは、それが人類のためになると信じているからだ。そこがキッツとピクシスの違いだった。

 

「呼んできました!」

「ふむ」

 

 ピクシスは振り返る。

 息ひとつ上がっていない。汚れもない。先程まで巨人と戦っていたとは思えない、出撃前のような風貌での敬礼がピクシスに向けられていた。

 

「訓練兵、名前は何という」

「はっ! サシャ・ブラウスです!」

 

 ピクシスはその名を頭に刻みつけた。

 

「サシャ訓練兵。手短に話そう。この壁の外側で戦えるか」

「はい」

 

 即答が返ってきた。サシャの平然とした顔つきを見て、虚栄で言っているのではないことをピクシスは読み取った。壁の内で戦おうが、外で戦おうが、本当に何も変わらないという意思表示に見えた。キッツが懸念していた事柄はサシャには些細なことのようだ。ピクシスは思わず笑う。

 

「我々は今から穴の閉塞作業に入る。明日までかかるじゃろう。少なくともこれから夜まで戦うことになる。できるか」

「できます」

「一匹とて巨人を通してはならん。作業が完了するまで守り通せるか」

「はい」

「おい見栄を張るなよ訓練兵! もし失敗すれば……」

 

 失敗すれば多大な被害が出る。そう言おうとしたが、ピクシスの強い視線にキッツは自然黙らざるを得なかった。

 ピクシスはサシャに敬礼を返した。

 

「では頼んだぞ」

「はっ!」

 

 サシャは横を向くとゆっくりと倒れていく。その先に体を支えるものは何もない。壁から足を離すと、頭を下にして地面に吸い込まれていった。

 落下していくサシャに固定砲のそばで作業をしていた兵士が驚きの声を上げる。

 壁にアンカーを突き刺してゆっくり降りていくことはあっても、飛び降りることはあまりない。立体機動にかなりの自信がなければできない芸当だろう。

 キッツは喋ることを許されたと判断したのか、ピクシスの隣に移動して言った。

 

「ピクシス司令。危険です。あれだけの逸材をむざむざ殺すことにも……」

「のうキッツ。わしは賭け事は好まん」

 

 ピクシスは飛び降りたサシャを見ながら言った。

 

「勝ちを見極めてから勝負にでるほうが好みじゃ。そしてわしは先程、人類の勝機を見た」

 

 サシャは壁の柱にアンカーを近距離で刺すと、ほとんど地面まで落下して、跳ねた。ワイヤーを巻き戻し、その場で一回転して地面に降りる。ブレードを確認すると、巨人を待つ姿勢になった。

 ピクシスはキッツに向き直った。その顔はどこまでも力強さに溢れていた。

 

「駐屯兵総員に命令する。これより穴を塞ぐことに全力を傾けよ。駐屯兵団は壁と共にある」

 

 

 サシャの後方では駐屯兵たちが慌ただしく駆け回っていた。大急ぎで街中を移動し大量の資材を集めている。瓦礫の撤去も同時に進めていた。それもこれも、すべては穴を塞ぐためだ。

 サシャはこっそりと安堵の息を漏らす。

 最初は、エレンが生きているのだから大穴はそのうち塞がるものだと想定していた。戦っていれば巨人化したエレンが大岩を持ってきて全てが解決するような気がしていたのだ。

 だが当ては外れた。エレンが来るはずがない。その事実に気づいたとき、サシャは自分の安易さに頭が痛くなった。エレンはまだ自分の正体を知らず、巨人になれることなど夢にも思っていないだろう。そんなことをすっかり失念していたのだった。

 だからといってサシャには何もできなかった。次々と出てくる巨人を街に入れずに倒せるのはサシャだけだった。故に持ち場を離れてエレンに会いに行くわけにもいかなかった。

 その上、そもそもサシャはエレンが巨人化に至った経緯を知らない。記憶をたどると、アルミンが涙ながらにエレンの死を報告したことがあるのだから、死ぬほどの危険な事態が巨人化には必要なのかもしれない。であればエレンをわざとそんな目に合わせるべきかとも考えたが、すぐに却下した。守らせてくれと言った人間の所業ではない。

 だがこれでは穴を塞げない。どうしたものかとサシャは巨人と戦いながら考えた。だが良い案は出なかった。そんなときにピクシスからの話があったのだ。

 サシャの記憶とは随分ずれているが、とにかく穴を塞いでくれるのなら、この際誰であろうと喜んで受け入れた。

 穴が塞がるまで戦うというのも、長い繰り返しの記憶からすれば大した時間ではないように思えた。それに普通の巨人なら何体来ようがあまり体力は使わない。

 

「来た!」

 

 後方の駐屯兵が呻いた。前方には五体ばかりの巨人が一斉に押し寄せてきていた。全方向からほとんど同時に来た形だ。

 サシャは一歩前に出ながら、この戦いは今までのやり方ではダメだと気づいた。巨人は五体とも奇行種ではなく通常種だが、その視線はサシャ単体に向けられていない。巨人は大勢の人間に引きつけられる習性を持つ。サシャを含め、後ろの駐屯兵たちに反応しているのだ。下手をすればサシャを無視して後ろに走り抜けてしまうかもしれない。今までは奇行種でもなければ勝手に近づいて来ていたが、ここからはおびき寄せる必要があった。

 サシャはどの巨人にも離れすぎないようにして注意を自分に向けた。そしてはみ出していく巨人がいないかを常に気にかけた。もし一体とて逃せば大惨事になる。進めていた作業も無駄になるだろう。全てはサシャに懸かっていた。

 巨人を何体か倒し終えたところでサシャは気づく。この戦いは想像以上に神経を使うと。

 だがどの道これ以外の方法はない。サシャは気合を入れ直した。

 

 

 夕暮れから夜闇に変わり幾分かの時が過ぎた。点々と現れていた巨人も今ではすっかりその姿を見せない。

 冷たい地面に胡座をかきながら、サシャは静かに耳を澄ませていた。夜の冷たい風の音。ずっと聞こえていた巨人の足音は聞こえなくなった。日光がなくなり、闇の中で活動を停止しているのだ。未だに地面を鳴らしているのは人間だけだった。

 否、地面の音だけではない。サシャの頭上からはワイヤーを伸ばす音が聞こえる。誰かが降りてきているのだ。

 サシャが閉じていた瞳を開き、上を確認すると火がゆっくりと壁を下っているのが見えた。地面に降り立つと、火は左右にゆらゆらと揺れた。

 

「ここです」

 

 サシャの声に反応し近づいてくる。火の持ち主はサシャを照らすとニコリと笑いかけた。

 

「やあやあ。ごくろうさん」

 

 自由の翼をもつ緑色の外装を着用している。立体機動用の眼鏡をかけ、長い髪を後ろにまとめていた。ハンジ・ゾエ。調査兵団の分隊長だ。

 調査兵団はまだ日のあるうちに壁外調査からトロスト区へと帰ってきていた。そしてサシャが戦っている間ずっと上で待機していたのだ。

 

「もう巨人は来ないだろうし、戻ってこいだってさ」

 

 壁際まで誘導するハンジ。

 サシャはどうしてハンジがそれを報告するのか疑問だったが何も言わずついて行くことにした。

 念のため耳を澄ますが相変わらず巨人の音は聞こえない。急かすハンジの声ばかりが大きい。

 火を持って降りてきたが、さすがに登るときは危ないと思ったのか火は消して捨てていた。明るい光が急に消え、一気に闇に包まれる。壁の上では火を焚いているのか、ぼんやりと明るくなっているのが見えた。

 

「暗い中でよく戦えたねぇ」

「耳が良いんです」

 

 日光がなくなってもしばらく動き続けていた巨人を相手に、サシャは暗闇の中で耳だけを頼りに戦った。もし火を持てば片手が塞がってしまうし、地面に置いてても見えにくいし危ないだけだからだ。巨人は図体が大きい分、何をするにも大きな音が出る。火に頼るよりも、それらに頼るほうがサシャには向いていた。

 立体機動装置を使って壁に足をつくと、サシャは自然と空を見上げる形になった。雲があるせいか月は見えず、どことなく暗い空間が永遠に続いているように見える。こんなに暗い中で戦っていたのかとサシャは他人事のように思った。

 

「穴はどうですか」

 

 サシャは一番気になっていることを聞いた。最初こそ後ろを向けば作業風景が見えていたが、途中から木枠がはめられだんだんと見れなくなった。音で聞いてもよく分からないし、仮に見えていたとしてもやっぱりよく分からないだろうが、どれだけ進捗しているのかはずっと気がかりだった。

 

「まだ完成とはいかないみたいだね」

「そうですか……」

「夜通し作業だって。まあ朝になれば立派なのができてるさ」

 

 壁の上ではピクシスがサシャを迎えた。敬礼をするサシャに敬礼を返すと、ついてくるように言って歩き出した。

 兵士たちは壁の上でも必死に働いている。朝起きたときには、まさかこんなに働くことになるとは考えてなかっただろう。その顔には疲れが感じられた。

 そんな彼らの中を突っ切るようにして進んでいくピクシス。サシャはその後ろをついて行く道すがら、ぎょっとしてしまう。二人が歩いていることに気づいた何人かの兵士が敬礼をしてきたのだ。ピクシスにしているのなら何も思わないのだが、どうもサシャに向けているように見えた。ここにいるのは全員サシャより目上のはずだ。敬礼を返さないといけないが、どんどん進むピクシスに遅れないよう、ついて行くことしかできなかった。

 

「ここからならよく見えるじゃろ」

 

 半円状のトロスト区。その頂点から円の中腹あたりまで移動した。横側からトロスト区を一望できる場所だ。

 ピクシスの視線の先を見やる。闇に沈むトロスト区の中で、そこだけは一際明るかった。開閉門があった場所だ。サシャが最後に見たときは無惨に穴がぽっかりと口を開けていた。だが今、炎に照らされて見えるのは穴ではない。強固な壁だった。

 穴の内側から柱のほうまでびっしりと煉瓦が積み重ねられ固められている。さらには鉄格子のようなものも用意されており、今からそれを取り付けるようだ。

 

「お主のおかげでここまできた。巨人が入ってくることはないじゃろう」

 

 壁の穴は塞がった。トロスト区も住民が避難しているせいで静まり返っているが無事だ。その事実はサシャに衝撃を与えた。

 サシャは力が抜けて、壁の上にへたり込むとそのまま横になってしまう。張り詰めていた緊張感が一気に体から抜け出した。安堵と疲労がサシャの内部を駆け巡る。上官の前でこの態度は失礼にあたるだろうが、サシャは立つことも、ろくに返事をすることもできなかった。

 真っ黒な空を見上げながら、大きく息を吐き出した。

 

「お腹空きましたぁ……」

「ふむ。では何か用意しようかの」

 

 サシャのそれは、頼んだのではなくほとんど独り言、それも思わず出てしまったものだった。けれど何か食べられると思うと自然と期待した。司令ともなれば美味しいものを食べさせてくれるに違いない。上官の食糧庫にあった肉を盗まなくても食べられるかもしれない。

 そんな幸せな妄想にふけるサシャの隣に人影が近づいて座り込んだ。

 

「まさか本当に一人でやりやがるとはな」

 

 人類最強と謳われる兵士、リヴァイ兵士長その人だった。

 

「お前は巨人に立ち向かい、化け物じみた戦いを見せた。だが俺には分かる。お前は誰よりも臆病だ。なのに戦い続けた。だが何のためだ。いったい何がお前を、そこまで駆り立てる」

 

 返事はなかった。リヴァイに返ってきたのは身を投げだして寝ているサシャの寝息だけだ。

 

「…………」

「しっかし本当にすごかったねぇ。調査兵団に入ってくれないかな。ねえ、エルヴィン」

 

 いつの間にかリヴァイの後ろにはエルヴィンとハンジがいた。

 サシャの寝顔は、ハンジが地上で見たときと打って変わって、鋭さの抜けたあどけない年相応の少女に見えた。調査兵の三人は一様にその顔を覗き込む。

 エルヴィンは目を細めてうなずいた。

 

「ああ。必ず入ってもらう。忙しくなるぞ、サシャ・ブラウス」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。