逆行のサシャ   作:木棒徳明

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第十三話 進む先

 トロスト区にある兵団本部。兵士の施設ということもあり、基本的には飾り気のない場所である。だが公の重要施設でもあるが故に、一応客室や応接間といった部屋もあった。他の部屋では見られない重厚なソファに、足の低いテーブル、装飾の施された額縁。サシャは自分がいる部屋がそういう一室だと確信する。

 慣れない部屋にひとり置いておかれ、手持ち無沙汰に艶のあるソファを撫でる。サシャは背中を預けながら、自分の置かれた状況に思考を巡らしていた。

 夜まで巨人を討伐し、トロスト区を守れたことに安心して、いつの間にか眠っていた。そして知らない部屋で起こされたのがつい先程のことである。起こしたのはハンジで、寝ぼけ眼のサシャを誘導し、この部屋まで連れてきた。そしてここで待つように言われて十分ほど経った。

 つまりはほとんど寝起きの状態だ。そして状況的にこれから誰かに会う可能性は高い。

 サシャは自分の格好を確認した。人に会う格好ではなかった。ジャケットは脱いでいるし立体機動装置も着けてないが、装いは昨日のままだ。汚れているし、寝起きで皺が寄っている。せめて汚れを取ろうと、戦闘のせいで所々に付着していた砂を払い落とす。

 髪の毛も汗と砂埃でベタついて気持ちが悪かった。髪を切っていなければさらに酷いことになっていただろう。

 そこに複数の足音がこの部屋に向かってくる。サシャは慌てて髪を手ぐしで整えると姿勢を正した。

 入ってきたのは三人。全員サシャの知っている人物だった。

 

「調査兵団団長のエルヴィン・スミスだ」

 

 目の前の椅子に腰掛けたエルヴィンはサシャに向かって自己紹介をした。真向かいに座りながら、かつての上司が直々に自分に話しかけているのを見て、サシャは妙な気分になった。それにリヴァイとハンジの存在もある。調査兵団の幹部といってもいいだろう。死亡率の著しく高い調査兵団において長年生き残ってきた猛者たちだ。かつて単なる新兵だったサシャにとって、その存在は遠いものだった。それが今は三人ともがサシャに注目していた。

 

「寝ているところを呼び出してしまったようだ」

「い、いえ。大丈夫です」

 

 エルヴィンがサシャの直せていない寝癖を見て言った。サシャは油分を含んだ頭をなでつける。

 リヴァイが舌打ち混じりに小さな声で汚いと罵ったのを、サシャは気にしないように努めた。

 

「所属兵団を選択する本日、君を呼び出したのは他でもない。調査兵団への勧誘だ」

「勧誘ですか」

 

 万年人手不足の調査兵団が勧誘をするのはおかしなことではない。だが特定の一人に勧誘するのは珍しいだろう。普通は訓練兵全員に向けてやるものだ。それをわざわざ団長が直に出向くという特別扱いにサシャは戸惑うほかない。

 

「新しく調査兵団に迎えた君の友達から聞いた。君も調査兵団を志望していると」

 

 友達とは整備班の誰かだろう。みんな生きて調査兵団に入れたのだ。

 しかしサシャは別のところが引っかかった。

 

「もしかして、他のみんなはもう所属兵団の選択を終えたのですか」

「当たり前だ。朝には終わった。今何時だと思ってやがる」

 

 サシャの斜めに座っているリヴァイが紅茶をすすりながら言った。

 何時なのか分かるわけもないが、寝坊したのは確かなようだった。身だしなみに加え、いったいこの短時間でいくつの恥をかけばいいのか。サシャはきまりが悪かった。

 ハンジが苦笑いでなだめた。

 

「まあまあ。昨日は大変だったんだから」

「それでどうだろう、サシャ・ブラウス訓練兵」

 

 エルヴィンが改めて言った。

 

「我々はウォール・マリアの奪還を目指している。トロスト区の扉が完全に塞がれて使えない以上、東のカラネス区より新たに行路を開拓していかねばならない。シガンシナ区に着けば門を塞ぐ必要もある。それを実行するには、昨日のように君の力が必要になる。気持ちに変わりないのなら、ここで調査兵団に入ることを決めてもらいたい」

 

 門を塞ぐ。その言葉を聞いてサシャはエレンのことが真っ先に頭に思い浮かんだ。

 エルヴィンの口振りでは、まるでシガンシナ区でも、昨日と同じような方法で穴を塞ごうとしているように聞こえる。

 しかしエレンがいれば、もっと安全で確実な方法があるはずだ。それを言わないということは、エレンが巨人化できることを、団長をはじめ、サシャ以外は誰も知らないということだ。サシャはその当然の事実に今更ながら驚いた。

 

「エレンをご存知ですか」

「エレン?」

 

 勧誘に対する快諾でも拒否でもない、サシャの口から出てきた突然の人名に、エルヴィンは首を傾げる。

 

「調査兵団に入ったはずなんですが……」

「すまないが、まだ新兵の顔と名前を覚えていない」

「え、なになに? 恋人か何か?」

「違います……」

 

 ハンジの軽い調子に、サシャは二重の意味で頭を抱えた。

 

「エレンは……うまく説明できませんが、実は巨人なんです。それで人類の希望で……」

「えー! 何それ! 面白そうだねぇ!」

 

 ハンジが無駄に昂る。エルヴィンはサシャを見据え、リヴァイが苛立たしげにカップを置いた。

 

「話が見えねえな。巨人だの、人類の希望だの。お前の返事は調査兵団に入るか、入らないかじゃねえのか」

 

 サシャは口を噤んだ。一番大事なのは調査兵団に入るか入らないかであって、サシャの戯言は二の次。

 しかしサシャにとってはそうではない。一番大事なのはエレンのことだ。

 話しても信じてもらえるか分からない。信じてもらえたことなどない。事実が突飛すぎて誰も認めてくれなかった。無力感に何度も襲われた。それでも話す必要があった。

 調査兵団にとっても人類にとっても、エレンの力が必要だからだ。それにエレンのことだけではない。未来で何が起こるか、そしてあの三人のことも話さなければ、そのうち大きな被害が出るだろう。

 サシャは決心した。

 

「調査兵団には入ります……」

「では……」

「ですが交換条件です」

 

 条件をつけるという明らかに調子に乗った発言。それを声高らかに咎めるものはいないが、部屋の中には妙な緊張状態が生まれていた。サシャはそれに負けないよう、しっかりとエルヴィンの目を見ていた。

 

「私のこれからする話を信じてください」

「信じるかどうかは聞いてからでないと判断できない。話してみてくれ」

 

 

 サシャは全てを話した。経験し、知り得たことの全てを。

 話し終えると部屋は静寂さに包まれた。相変わらず紅茶を飲んでいるリヴァイの隣では、エルヴィンとハンジが腕を組んで考え込んでいた。

 サシャは唾を飲んで見守るしかない。

 

「信じてみようと思う」

 

 やはりダメかと諦めかけたときエルヴィンからその言葉が出て、サシャは信じられない思いで顔を上げた。

 驚いているのはサシャだけではなかった。ハンジも狐につままれたような顔でエルヴィンを凝視していた。

 

「エルヴィン、本気? 巨人化についてならまだしも、未来から来たっていうのも?」

「ああ」

「どうして」

「そもそも、こんな嘘をつく理由はないからだ。それに優秀な成績上位者とはいえ、ただの訓練兵があれほどの力を見せた説明にもなる」

 

 ハンジは眉をひそめていた。納得できていないようだ。

 だがハンジは団長としてのエルヴィンを何より信頼し、命を預けている身だ。そのエルヴィンが信じるというのだから、それを前提に話を進めることにしたらしい。息をつきながら、眼鏡をかけ直した。

 

「けど、そうなると壁内に壁の破壊を企む巨人が三人もいる。さらには、正確な日付は分からないけど、おおよそ一ヶ月後の壁外調査の後にはウォール・ローゼが破られることになるわけで……」

「いや、おそらくそれだけではない。サシャ、君はウォール・ローゼは突然破られたと言ったな。超大型巨人や鎧の巨人が壊したのを見たわけではないと」

「はい。ライナーとベルトルトはその場にいましたし、壁を壊してないと思います。アニは分かりませんけど、憲兵でしたから中央にいたはずですし……」

「じゃあ、アニって子がこっそり壁を破壊したのかな」

「時間をかければ分かりませんけれど、アニが壁を壊せるほどだとは思えません」

 

 ウォール・ローゼに突如現れた巨人たちは、門から入ったのではなく、壁のどこかが破壊されて入ってきたと考えられた。でなければトロスト区は大騒ぎになり、巨人を見つけるより先に、調査兵団に連絡が来ただろうから。

 だが壁を直接壊すのは、ベルトルトとライナーでさえ困難だろう。なので二人より戦闘能力はともかく破壊力では劣っていたアニが、壁を壊していたとは考えにくかった。

 

「つまり敵は三人だけではない可能性がある」

 

 エルヴィンはサシャに目を向けて言った。

 

「壁を破壊できる者が他にいるとして、心当たりはないか」

「すいません。ありません」

 

 謝りながらもサシャはぞっとする思いに駆られていた。あの三人ですら厄介極まりないのに、それ以外にも同じような敵がいる。もしかしたら複数かもしれない。エレンも巨人になれるし、この世界にはいったいどれだけそんな人間がいるのだろうか。

 

「エレンってやつはどうなんだ。お前の話じゃ人類の希望だそうだが、巨人になれるなら裏切り者の可能性もある」

 

 リヴァイは不機嫌そうな顔をサシャに向けた。だが怒っているわけではなく、これが標準の表情だ。

 サシャはすぐに否定する。

 

「違うと思います。自分が巨人になれると知らなかったくらいですし。それにローゼが破られたときは、たしか憲兵に引渡しをするとかで中央に行ってたはずです」

「とにかく三人のことも、まだ見ぬ敵のことも、いろいろ探る必要があるな」

 

 エルヴィンは仕切り直すように言った。

 

「サシャ、君はどうするべきだと思う。何か意見はあるか」

「どうするべきと言われましても……」

 

 行き当たりばったりな作戦で行動し、死に戻ったのは数知れない。

 唯一まともな結果に終わったのは昨日だけだった。なるべく巨人を狩ることで人命やトロスト区を守った。

 だがそれは、三人を倒すことを一先ず諦め、記憶の中のトロスト区攻防戦の結果を少しでも被害を抑えたものにしようとした結果だった。それが偶然うまくいっただけの話で、作戦と呼べるかは微妙なところだ。

 まともな意見を具申できる気がしなかった。

 

「たぶん……私はそういうのを考えるのに向いていません。兵士として人類のために戦い続けるだけです」

 

 リヴァイがそれを聞いて口を開いた。

 

「戦い続けるか……一度は逃げ帰ったらしいが、ずいぶんな心境の変化だな」

 

 サシャは思わず苦笑いを浮かべる。

 確かにそうだ。もしあの頃のサシャが今のサシャを見れば、別人のように思うだろう。

 

「そうですね。私は戦い続ける……いえ、戦い続けなければいけないんです」

 

 サシャは今までの長い旅路を回顧する。

 何度も死に、その度に目覚めた。何度も繰り返した。

 だがいつしかサシャは考えるようになった。自分が死んだ後の世界はどうなっているのだろうかと。

 もし世界の全て逆回転して元に戻っているのなら、それが一番だ。しかし、もしかしたらサシャの死後もあの世界は独立して続いていて、大勢の人が巨人に食われ、人類が滅んでいるのかもしれない。

 本当のところは分からない。人知を超えているだろう。知りようもない。しかし一度そう考えると、無視できなくなった。

 

「私の臆病で、私の力不足で、私の愚かさで、滅んだ世界がたくさんありました。その苦しみは確かに存在しました。それらを越えて今の私がいます。その犠牲のためにも、私は生きて、戦い続けなければいけません」

 

 サシャは覚悟を掴むように拳を握りしめる。小さく身を屈めて拳を額に当てていた。何かに祈るようにも、何かを背負っているようにも見えた。

 エルヴィンは薄く笑った。

 

「命を賭して情報を集めてもらい、また過去に戻ってもらうことまで考えていたが、それをやるわけにはいかないな」

「うわぁ、うちの団長はえげつないなぁ」

 

 ハンジはエルヴィンから身を引いた。だが半分面白がっているようにも見えた。

 

「あくまで最終手段だ。不確定要素が多すぎる。サシャ、その過去に戻る力について君自身、何も分かってないのだろう」

「はい」

 

 サシャはうなずいた。この力については巨人以上に謎だ。

 確実に分かることは、死ぬとあの日のミーナの隣で目覚めるということだけだ。それも経験則でしかない。

 しかしサシャは確信していることがあった。だが根拠のあるものではないので言うべきか迷った。しかしエルヴィンがそれに気づき促したので、結局言うことにした。

 

「おそらく、この力は私が最初に死んだあの時間まで生きていれば、自然と消えると思います」

「確かに何かあるとすればそこだろうが、どうしてそう確信できる」

「勘のようなものですが、これはきっと運命なんです」

「運命?」

 

 非科学的な話に、さらに非科学的な説明が加わる。おかしなことと分かっていたが、サシャはそうとしか考えられなかった。

 

「私はあの時点で死ぬ運命ではなかったんです。生きてなければいけない運命なんです。ですから、その時点で生きていれば力は消えます」

 

 本人がそう言うのだから信じるほかない。この話に否定も肯定もできないエルヴィンは静かに頷いた。

 サシャの過去に戻る現象を有効活用できないものかという考えは、エルヴィンの中で順位を下げていく。

 エルヴィンは口を閉じて、静かに考えを巡らせていた。はじめはサシャの能力を何とか調査兵団に引き入れようとしていた。しかしサシャが持っていたのは、その類まれなる能力だけではなかった。未来の情報、敵の情報というサシャの能力に劣らない得がたいものがあった。だがそれらを上手く活用できるかはエルヴィン次第だ。

 

「サシャ。確認するが、この話は我々以外にはしていないな」

「していません」

「では秘密にしておいてくれ。他の者には話さないように。さて……」

 

 エルヴィンが立ち上がったのを見て、サシャは話が終わったのだと思った。しかし違った。エルヴィンは部屋を退出することなく、その場で真っ直ぐに休めの姿勢をとる。サシャは慌てて立ち上がると、同じように休めの姿勢をとった。

 机を挟んで、真剣な顔つきがサシャに向けられる。

 

「我々が君の話を信じ、そして行動に移すことは伝わったはずだ。改めて問おうサシャ・ブラウス訓練兵。君の力が必要だ。我々と共に戦ってくれるか」

 

 サシャは今何をすべきか分かった。

 握りこぶしを胸に打つ。

 心臓を捧げた。

 

「ハッ!」

「いい敬礼だ。よろしく……いや、お帰りサシャ。君を歓迎する」

 

 苦労の末、再び調査兵団に入った。差し出された手を握り返しながら、サシャは感慨深いものを感じていた。

 しかしエルヴィンは手を握りながら、事も無げに言う。

 

「ではさっそく仕事だ」

 

 サシャは目を丸くした。エルヴィンはサシャに命令できる立場になったわけだが、いくらなんでも早い。

 いったい何を言われるのかとサシャは身構える。

 

「君には人類の希望になってもらう」

「はい?」

 

 サシャはさらに目を丸くした。

 

 

 ウォール・ローゼ東の突出区であるカラネス区は、かつてないほどの賑わいを見せていた。壁の外へと続く開閉門、そこに続いていく大通りは人で溢れている。彼らの目的は、本日ここを通過する予定の調査兵団を見送ることだった。

 壁外調査は巨人に対する人類の攻勢を象徴する。命を賭して戦いへと挑む英雄たち。自然、その見送りには人が集まるのが常だ。

 しかし今回は毛色が違う。

 

「ここからならよく見えるだろ」

 

 男は二階の窓から顔を出している甥っ子の後ろ姿を見ていた。無邪気にはしゃいでいるところを母親に止められている。

 ここは男の自宅。大通りに面した場所にある。

 トロスト区からやってきた弟家族は大喜びだった。

 

「ありがとな兄さん」

「いいってことよ」

 

 窓の外を覗くと大通りがよく見える。男にとってはいつもの景色だ。だがここまで人でごった返したところは見たことがなかった。

 道の中心だけ開けており、端には見物人が身を押し合いながら行き交っていた。カラネス区の住民もいるが、ほとんどはトロスト区やウォール・ローゼ南区から来ている。

 カラネス区は経済的利点の多い城郭都市の一つであるが、特に何か珍しいものがあるわけでもない。せいぜい兵士と商人が行き交う普通の街だ。そこにこれだけの人が一斉に来たのは初めての経験だった。商店を営んでるものはさぞかし儲かっているだろう。

 

「すげえなこりゃ。一人を見るために、これだけ集まるか」

 

 憲兵まで出動して人を誘導しはじめる事態だ。

 窓の外を見ながら言った男の言葉に、弟は思わず笑った。

 

「確かにすごい人気だ。トロストじゃ毎日話題に上るほどだよ。特に戦ってるところを直に見た人の盛り上がりはすごい。それにはじめて公に顔を出すんだからね」

 

 それでこの盛り上がりかと男は思う。

 彼女の噂はこのカラネス区にも轟いていた。トロスト区ではなおさらだろう。

 男は時計を確認する。

 

「そろそろ来るんじゃねえか」

「うん。そうだね」

 

 弟は甥っ子と同じように窓から体を出して外を眺めた。いつもは冷静な弟でさえこれだけ夢中にさせるとは。

 男はトロスト区民の熱狂ぶりに目を見張るばかりだった。

 

 

 サシャは微笑みを浮かべていた。余裕を感じさせる、美しい微笑みだった。

 しかしその表情とは裏腹に、内心は落ち着かない。前後左右、さらには建物の上からも喝采が常に浴びせられている状況にあるからだ。

 大勢の人々に手を振られ、サシャは馬上から漠然と誰に向けるわけでもなく手を振り返していた。その仕草一つで盛り上がる見物人たちに、サシャは頬をひくつかせないように必死だった。

 歓迎されるのは嬉しいのだが、ここまでくると戸惑いしかない。

 サシャの耳は人々の歓声の内容まで正確に聞き取る。大半がトロスト区を救ったことに対する感謝の言葉だった。だが中にはサシャの功績を褒めあっていたり、直接戦っているのを見たことがあると自慢する者もいて、誇らしいよりも居心地の悪いほうが勝っていた。

 サシャへの称賛が功績だけでなく容姿にまで移ってきたので、気恥ずかしくなり慌てて意識を別に向けた。

 

「わあ、すごいねぇ」

「うるせえ連中だ……」

 

 すぐ後ろに並んでいるのはハンジとリヴァイだ。ハンジは呑気に見物人を逆に見物していた。リヴァイは人の多さに辟易している。

 

「こいつの暴食ぶりを見せりゃ、少しはマシになるか」

「エルヴィンの努力が無駄になっちゃうよ」

 

 ハンジの言葉を聞いて、サシャは怒涛のように過ぎたここ一ヶ月に思いを馳せた。

 エルヴィンは本当にサシャを人類の希望にしようとした。

 まず始まったのは訓練だった。だが戦闘訓練ではない。エルヴィンが連れてきた初老の女性がサシャに施したのは行儀作法と演技指導だった。地獄を抜け出したと思ったら、また趣の違う地獄が待っていた。

 サシャの顔は幾度となく罵られた。間の抜けた顔をするな、かといって無表情や仏頂面でもいけない。気品に溢れていて、兵士としての矜恃も失っておらず、女性らしい包容力もある、そんな顔をしろ。

 苦労の末に、サシャは微笑むことを覚えた。今も人々に向けているこの微笑みだ。初めて鏡で見たとき、こんなにも爽やかに微笑むことができるものかと、微笑んだまま驚いた。

 訓練は顔に留まらず、言葉遣いや挨拶作法、食事作法、会話の進めかたと多岐にわたった。

 慣れていた敬語は褒められたが、女性らしい言葉遣いには苦労した。だがそんな苦労も食事作法に比べれば楽なものだった。サシャは食べたいものを、食べたい順に、食べてはいけない世界に衝撃を受けた。

 なんとか作法も習得し、微笑みを携えて、サシャは壁内の様々な人と会った。貴族、区長、町長、会長、兵団関係者。団長に同行する形でそれらの人と会っていた。極めて政治的なやりとりに、ある意味では巨人よりも恐ろしいと思った。

 何とかそれらを乗り越え、次は何かといえば、休む暇もなく壁外調査であり、この状況である。

 サシャは目の前を進むエルヴィンを見る。彼は他にも色々動いていた。辺りに響く歓声はサシャの功績あってのものだが、エルヴィンの力も少なからず影響しているだろう。

 

「まさか、こんなことになるなんてな……」

「噂じゃトロスト区に像まで作るらしいぜ」

 

 サシャの優れた耳が漫然と盗み聞きをしてしまう。列のずっと後方にいる同期の声だとサシャは気づいた。

 彼らはサシャと同じく調査兵団の新兵である。それにも関わらず、サシャは彼らとろくに会話をしていない。それどころかずっと会ってすらいなかった。入団してから作法の訓練か、エルヴィンとの挨拶回りで忙しかったからだ。隊列を組む前に少し時間があり、その時に声をかけたのが、久々の同期との交流である。

 しかもどう話しかけるか迷った末に、照れ隠しなのか何なのか、お得意となった微笑みのまま、みんな今日はよろしくね、と声をかけてしまった。

 せめて敬語を使えばよかったとサシャは反省する。同期はサシャと気づかず、先輩だと思い込んで、畏まって挨拶を返したのだから。あんなに気まずいことはなかった。

 サシャはため息を噛み殺して微笑み続ける。

 人との交流は、会食であっても雑談であっても色々複雑だ。

 父の言葉を思い出す。他者と向き合うのはそんなに難しいかと。心の中でサシャは答える。きっと何よりも難しいと。

 

「サシャ」

 

 目の前のエルヴィンが呟いた。辺りを確認すると予定されていた位置だ。

 やるべき事はたくさんある。分からないこともたくさんある。いつかは乗り越えて、帰らなければならない。

 けれど今は仕事をこなそう。

 ブレードに手をかけ高々と掲げた。

 その姿に人々はさらなる歓声を上げる。

 進む。どこまでも。

 進む。巨人を狩るために。

 進む。人類のために。

 進む。生きる限り。

 民は叫ぶ。新たな希望の名を。

 サシャ・ブラウス。

 人は彼女を、トロストの勇者と呼ぶ。




これにて完結です。
稚拙な文でしたが、少しでも楽しんでいただけたでしょうか。
みなさまのおかげでランキングにも乗ることができ嬉しかったです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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