逆行のサシャ 作:木棒徳明
「だから! 何回も言ってる! もうすぐここは地獄や!」
サシャは半泣きになりながら物分かりの悪い父親の胸倉をゆする。激しい前後の揺れに父の被っていた帽子がはずれ、疲労で動けない馬の前足付近に落ちた。
突如始まった親子喧嘩とも言えない一方的な感情の発露。それに注目するのは繋がれた馬ばかりであった。
なんとか抜け出そうと、父はサシャの腕を取る。力が込められた細腕は鉄のごとく固まっていた。体重をかけてなんとか揺れを止めるも、今度は押し合いが始まる。
どう見ても冷静ではない娘に、父は同じだけの声量で返す。
「お前の言うとることが何一つ分からん! いきなり帰った思ったら、有無も言わせんとシーナに行きよる言うて!」
父親の意地か、体をひねって無理やりサシャを離した。しかしサシャはまたも父を掴もうとする。口も体も、力押しの問答が続く。
「そうしな死ぬ!」
「なんでそんなこと分かるんや!」
「説明してる暇ないの! 急いでここまで逃げてきたんやから!」
目覚めてから状況を理解したサシャは、ミーナとまともに会話することもなく馬を盗み出した。二回目ということもあり早々に出発することができた。そして前回よりもさらに馬を酷使して帰ってきたのだ。
それも全ては父を救いたいがため、父と平和に暮らしたいがためであった。
何故か突破されてしまうトロスト区。もうすでに内門も破られ、巨人がウォール・ローゼ内に広がっていることだろう。
今こうしている間にも、巨人は生きた人間を捕食しようと、巨大な図体を動かしている。
そんなことを知る由もない父が抵抗するのは当然だったが、サシャはきちんと話す気がなかった。未来がどうとか話すとややこしい上に、時間が取られて巨人に食べられる危険性が高まるからだ。
かと言って何も言わずにシーナに連れて行こうとしても抵抗するだろうと思い、巨人が来て危ないことと、兵士をやめてシーナ内ですぐにでも一緒に暮らしたい旨を伝えた結果がこれだった。
サシャの焦った物言いをすぐに理解できるはずもないし、そもそも突然帰ってきた娘に色々と言いたい父。
そして結局は言い合いのようになっていた。
「今なら間に合うから! もう巨人来てるから!」
「ほな余計になんでここにおる! お前は兵士やろ!」
「やめたって言うたやろ!」
辛抱できなくなったのか、サシャはつかみ合っていた父の腕を思い切り引いた。突然の挙動に父は平衡を保てず前方に倒れる。
サシャは倒れてきた父の鳩尾に膝を入れた。鈍い声を上げながら父は崩れ落ちた。
兵士はやめたが、その鍛えた体は残っている。立体機動を扱う兵士の体は鋭く固い筋肉を持ち、細く見えてもその力や丈夫さは常人の比ではない。サシャは対人格闘訓練を真面目にやったことは少ないが、それでも成人男性一人をどうにかできるだけの技術はあった。
力と技術によって気絶させられた父親に向けるサシャの視線は複雑だ。自分の娘に気絶させられるのは屈辱だろう。
「ごめん、お父さん」
けれどもこれで父を守れるのだからとサシャは気持ちを切り替える。
疲労で眠ってしまった馬から鞍を取り外し、選別した一番イキのいい若い馬に装着する。
気の失った父をなんとか馬に乗せると、落とさないようにしっかりと支えながら走り出した。向かう先はもちろんヤルケル区だ。
◇
ローゼからの避難民は一様に首を垂れ、ヤルケル区の開閉門を通り過ぎた。みな閉口し、聞こえてくるのは泣きわめく子供の声と兵士の誘導ばかりである。
彼らが沈痛な面持ちで向かっているのは旧地下都市だ。
地下は元々巨人から逃れるために作られたと言われる。使われていないうちに、不法にそこをねぐらとするゴロツキのたまり場になり、ウォール・シーナの治安を悪化させる一要因になっていた。しかし今回のことで住処を失った避難民たちの避難先となり、元々の役割を果たすことになったというわけだ。
雨風に晒されるよりはずっといいだろう。しかし、太陽の当たらない場所に好んで行くような人間はいない。日が当たらない分だけ地上よりも巨人からは安全だが、殆どが岩とレンガと松明で構成されたその場所に豊かな人間らしさは微塵も感じられない。
そんな場所にサシャは向かっている。馬はそこらに乗り捨て、歩いて移動する避難民の波に加わった。
父親を背負って歩くサシャは遅れないようについていく。誘導する兵士に自分が脱走兵だと気づかれないよう、視線はずっと下にあった。けれどそうする必要はあまりなかっただろう。誰もかれもが下を見て、人を気にする余裕などなかった。憲兵ですら戦々恐々としている。
サシャは改めて巨人の脅威を認識せざるを得ない。目につく人間を食うこともそうだし、それによって副次的に多くの土地を奪われる。
サシャの周りにいる人はみな巨人に故郷を奪われた。これらの人々に加えて、逃げ遅れた人や食べられた人はどれだけいるのだろうか。想像するのも恐ろしかった。
見ていた地面はやがて階段になった。下に降りていくと通路があり、しばらくするとまた階段を下った。
そして開けた場所に出た。サシャは初めての旧地下都市を見渡した。巨大な洞窟の中に無理やり街があった。陰気な場所だと思った。
兵士の誘導に従って避難民にはそれぞれ新しい住居が定められたが、戸籍をつくるわけでもなく単に人数ごとに割り振っているような状況だった。この取り決めに完全に従う者はおらず、避難民は自然と家族や仲間や村の単位で寄り集まる。それを兵士も黙認していた。
サシャは父と一緒に、割り振られた部屋にいた。埃っぽく、窓が一つの簡素な部屋だった。家具も最低限しかないが、毛布を配られているので寝ることはできよう。
ここが新しい住処だ。巨人はいないし、父と一緒だ。最高に良いとは言えないが、サシャの望んでいた暮らしだ。
父が目を覚まし、状況を理解すると、サシャに怒鳴った。
「この馬鹿娘がっ」
色々と怒られるだろう。もしかしたら殴られるかもしれない。そう考えていたサシャだったが、父から言われたのはそれだけだった。
父は覇気をなくしたように座り込み、頭をかいてため息をついた。その失望にはサシャもこたえた。これなら殴られるほうがずっと良いと思った。
父はサシャが他人を顧みずに逃げたことを残念に思っている。それをサシャは分かっていた。自分の行いが褒められたものでないことを自覚していた。けれど後悔はなかった。巨人に食べられるより悪いことがあるだろうか。たとえ失望されたままでも父と一緒に生きることができる。それがサシャにとっては一番大事だった。
配給が行われたので、部屋から出て列に並んだ。その時改めて人の多さを実感した。長い時間を並び、全員平等に配られたのは最低限の保存食だけだった。口に含むと美味くも不味くもない味だ。栄養はあるだろうが、ずいぶん味気なく感じた。サシャは食べ物ならなんでも美味しく食べられる自信があったが、そうでないこともあるらしい。
けれど食べられるだけ感謝しなければならない。ここには人がたくさんいるが、人の営みはない。生産できない生産者は、寝るか散歩か集まって話をするしかなかった。
ウォール・ローゼの住人全員を賄えるほどウォール・シーナに余裕はない。この配給はいつまでも続かない。誰もが分かっていたことだった。食えている現状は良いほうなのだ。
銃を背負った憲兵団が何度も通り過ぎる。暴動を警戒しているのは目に見えていた。
「なあサシャ」
スープを眺めながら父は話しかける。
「私は、マリアが突破された時に、何人もの人間がローゼに逃げてきよったのをよう覚えとる。けどなあ、そのうちのほとんどはローゼから追い出された。そうせんと、より多くの人が死ぬからだ。今回もたぶん同じよ。お前はまだ若いし大丈夫やろう。私は……」
サシャには父の言わんとしていることが分かった。
四年前、政府が打ちだした施策があった。ウォール・マリア奪還作戦だ。ウォール・マリアの住民が立ち上がり、自分たちの土地を取り戻すと言えば聞こえはいいが、要はマリアから逃げてきた大量の失業者の処分だ。
当時でさえ抱えきれなかったのだ。今回も抱えきれなくなるだろう。残されるのは前途のある若いものばかりで、父は処分される可能性が高かった。
「嫌」
世界は残酷だ。巨人から逃げれば安泰ではない。人が生きるには食べていかなければならない。
考えの隅に追いやっていた容赦ない現実にサシャは立ち向かうことができない。
「また逃げればいい」
「逃げれるとこがあるんか?」
サシャは押し黙るしかなかった。ウォール・シーナにアテなどない。そもそも逃げられるかさえ分からない。せいぜい憲兵に捕まるか、餓死するのが関の山だろう。
ここまで逃げてきたのに、また父を失うのはサシャには耐えられなかった。それも巨人の蔓延るウォール・ローゼに向かわせるなど絶対に許容できなかった。
けれどサシャには何もできない。もう逃げる先はない。自分の弱さを呪うしかない。
「サシャ。兵団は普段、腐っとるだの税金泥棒だのと言われとるが、私は彼らを尊敬しとる。彼らはいざとなれば、自分の命を賭してでも人の命を守れるからや。だから私はお前が訓練兵になったんが誇らしかった」
「私には無理や……」
「みたいやな」
サシャの頭に触れたのは父の手だ。硬い皮膚が乱暴にサシャを撫でた。髪が顔に垂れ、ちょうど涙を隠した。
「でもいつかできるようなる。そんでそれが嬉しい思える日がくる。やから生きろサシャ。しっかり生きろ」
「お父さんも生きて」
「口の減らん娘め」
父が笑い声を上げた。虚を衝かれ、思わず顔を見る。そこに失望の色はなく、ただ笑顔でサシャを見る父の姿があった。
何の解決もしていないはずだが、サシャの心は不思議と落ち着いていた。味気ないと思っていた配給もなんだか美味しく感じられる。こんな時間が永遠に続けばいいのにとサシャは思った。
けれど世界は残酷だ。こんな小さなひと時すら許してくれない。
サシャの耳に聞こえてきたのは、明らかに発砲音だった。この場所で鉄砲を持っているのは憲兵しかいない。何かトラブルがあったのだ。視線を音がした方へ移すと人が慌てて逃げている様子が確認できた。
「何や?」
発砲したということは、威嚇か、誰かを撃ったということだ。もし威嚇ならそう慌てることではない。丸腰の一般市民相手ならその一発で大抵の事は収まるだろう。
けれども、なぜか喧騒は大きくなるばかりで、発砲音は二つ三つと増えていき、ついにはもう数え切れないほどの音となった。
どこかで銃撃戦が始まっている。まさか憲兵同士で争っているわけではないだろう。誰かが銃を持ち込んだのだ。
何が起きたのかつかめず音のする方向をぼんやり見ていた避難民たちも、何事か起きたのを理解したのだろう、慌てて音のする方向から離れ、建物の影へ隠れた。
もはや聞こえてくるのは銃撃の音ばかりではなかった。人の叫びが、怒号が、あたりに響いた。
そこからもっと離れようとして、押し合いへし合い、移動する避難民。あたりは軽いパニック状態になった。
数人の若い憲兵が何とか収めようとしているが、全く効果はなかった。人に押され、怪我をする者が多発する。それを契機として喧嘩をする者が後を絶たない。人ごみで、それから抜けようにも抜けられない人もいた。
サシャと父はそんな状況を確認すると、お互いくっつき、部屋の隅で騒ぎが収まるのを待っていた。
騒ぎが収まったのはそれからしばらくしてからだった。所々が流血で赤く染まっている。あちこちで怪我をしている人がおり、憲兵はその対応に追われていた。
一体何が起きたのか。それは避難民全員が知りたいことだった。
巨人に追い詰められ、地下に住むことを余儀なくされても、人の探求心は収まらないらしい。人々が冷静になり始めると、どこからか野次馬根性丸出しで銃撃戦のあったところを調べにいった者が出てきた。
彼によると、この旧地下都市に不法滞在していたものどもを憲兵が立ち退かせようとして今回のことになったらしい。ごろつきらしくどこからか手に入れた銃を使って憲兵と戦ったようだ。
死んでいるのかいないのかは分からないが多くの人間があそこに倒れていると彼は述べた。
巨人は恐ろしい。だが人の争いも恐ろしい。直接巻き込まれていなくても、たくさんの怪我人ができた。もしこんな事が日常茶飯事で続くとしたら、いよいよ人類は終わりだろう。だが起きない話ではない。
どんよりとした空気と嫌な緊張感にサシャの気分は打って変わって信じられないほど重くなった。
◇
それから五日が過ぎた。嫌な雰囲気は銃撃戦の後からもずっと続いていた。
日の下では快活だった者も、地下に来てからは鬱屈としている者が多い。誰とも話さず座り込む人間があちらこちらにいた。希望を見いだせないものがたくさんいた。
こうなったのは何も事件だけが原因ではない。配給される食料が、配給されるたびに少しずつ粗末で少なくなっている。これが大いに人を不安にさせた。食料が少ないのは分かっていたが、まさか一週間も経たずにここまで追い込まれるとは考えていなかったのだろう。
避難民は日々を戦々恐々と過ごしている。気の休まる時間がない。ずっと空腹だ。いつ食料を巡って五日前のような争いが起きるか分からない。そうでもしないと明日も生きていけないような状況に多くの人が追い込まれていた。その時は奪う側なのか、奪われる側なのか。
サシャは空腹を我慢して祈るばかりだった。自分はもう二回も恐ろしい思いをしながら死んだ。その分幸せなことがあってもいいではないか。これ以上のひどい仕打ちはやめてほしい。せめてお腹いっぱい食べさせてくれてもいいではないか。
けれど世界は残酷だった。
人々の叫び声が聞こえた。暴動が起きたのだと思った。危険ではあるが、ありがたかった。運が良ければ混乱に乗じて外に逃げられるかもしれないからだ。
しかし人々が逃げているのは憲兵の銃ではなかった。それよりもずっと恐ろしいものだった。
巨人がいた。
ウォール・シーナは突破されたのだ。サシャは半狂乱になった。
こんなこと誰が予想しただろうか。百年の安寧を過ごしウォール・マリアは崩れた。次は五年後にウォール・ローゼ。そしてその次はたった五日でウォール・シーナだ。
地下は日光が当たらない関係で地上より安全だが確実ではない。巨人は完全に日光を遮断しても、すぐに動きを止めるわけではない。巨人によって個体差はあるが、夜になってもしばらく活動している個体はいる。
それに地下とはいえ、昼には微量ながらも、天井に空いた穴から太陽光が降り注いでいる。
その証拠に地下に入ってきた巨人は普通に活動し、普通に人間を食らっていた。
もはや食料がどうとかいう話ではなくなった。人類にとっての最後の砦が打ち破られた。本当に終焉だ。どこにも逃げる場所はない。
地下は未曾有の混乱状態に陥った。巨人から離れようと人々は右往左往していた。
サシャもその一人だった。父に抱きついて泣き叫んでいた。逃げ場のない地下で終わりが近づいてくるのをひしひしと感じていた。
「サシャ。泣くな。周りを見ろ」
サシャは顔をつかまれ方向転換させられた。そこは阿鼻叫喚の嵐だった。サシャと同じく絶望し、多くの人が泣いていた。
サシャは父を見上げる。悲痛な面持ちでサシャを見ていた。
「お前、話してくれたな。二回も死んで、なんとか助けようとしたって言うてくれたな。けどそれじゃあ足らん。お前はこの人達全員を守らにゃならん。もし次があれば、私のところには来んな。ローゼを、人類を守ってくれ」
サシャは目を見開いた。地下の生活は退屈で、自然父との会話が多くなっていた。自分が何をしてきたか、どんなことが起こったのかも全て話した。
だからサシャがどれほど巨人を恐れているか知っているはずだ。兵士に向いていないことを知っているはずだ。守る力などないことを知っているはずだ。なのにサシャに人類を守れという。
「そんなん、私には無理やって……!」
「けどもうそれしかない。サシャ、お前は臆病や。けど知っとるやろが。臆病な獲物ほど厄介なもんはない。誰よりも巨人の怖さを知っとるお前なら、必ず立派な兵士になれる。頼んだ」
やがて巨人が目の前に現れた。
動けないサシャをかばって父は食われた。
そしてサシャも食われた。