逆行のサシャ 作:木棒徳明
サシャは厳しすぎる現実に衝撃を受けていた。
巨人が怖くて逃げたのに、逃げた先にはまた巨人がいた。ウォール・シーナが突破され、サシャどころか人類にさえ希望はなかった。
サシャは逃げ道を絶たれたのだ。故郷にはもう帰れない。いや、帰ってはならない。サシャがここから逃げ出し、故郷に帰ったところでどの道地獄しか待っていないからだ。父を連れてシーナに行っても、そのウォール・シーナが破られるのだから意味がない。
父は人類を守れと言った。確かにもうそうするしかないだろう。でなければ死が待つのみだ。やるしかないのだ。
しかし同時に無理だとも思っていた。サシャにはできる自信がなかった。
「ねえサシャ」
そもそも、どうしてそんなことになるのだろうか。
一度は巨人に破られたトロスト区も、エレンという存在により、巨人から奪還するはずだった。だが前回も前々回もそうはならなかったようだ。でなければウォール・ローゼに巨人が侵入するはずはない。
本来突破されないはずのトロスト区が突破される。ここが本当に過去の世界ならば、なぜサシャが知っているはずの結果にならないのだろうか。
サシャの記憶にあるトロスト区攻防戦。それとサシャが逃げている間に行われた攻防戦。双方の何が違うのかと言われれば、思い当たるのはサシャ自身が逃げたか逃げてないかの違いだけだった。
しかしサシャは疑問に思う。大して力のない兵士一人がいなくなったところで、そう大きく戦況は変わるものだろうかと。
サシャはあの日の自分の行動を振り返った。
作戦が始まってからは、中衛で班の仲間とひたすら巨人を避けていた。そのうち撤退の鐘が鳴ったが、ガスが切れかけており、逃げられなかった。
ガスを確保しに行った班が籠城を決め込み、みんなが死を覚悟した。やがてミカサが来て、本部に突撃。本部にて小型の巨人を討伐しようとしたがサシャとコニーは失敗。それをミカサとアニに助けてもらった。
ガスを補給できたところでトロスト区から脱出した。その後、ピクシス司令から作戦の説明があり、エレンが穴を塞ぐまで、巨人からエレンを守るためにおとりをすることとなった。
おとりといっても少しだけ巨人から逃げただけで、基本的に壁の上を移動しているだけだったし、気がつけば人類は勝利していた。
これが全てだ。考えれば考えるほど、自分が何の役にも立っていないとサシャには感じられた。自分一人が逃げたからといって何が問題だろうか。
「サシャ、聞いてるの!」
ミーナの大きい声に驚く。返答のないサシャに明らかに怒っていた。
また目覚めてしまったのだとサシャはミーナを見て実感する。巨人も巨人だが、この現象もどうにかしてほしい。これで三度目だった。もし目覚めなければ、本当に天国にでも行けて楽だったのではないかと考える。何が悲しくてこの世の地獄に舞い戻ってしまうのだろう。
「やっとこっち見た。ねえ、いっしょに固定砲まで行かない?」
「固定砲……」
固定砲整備。本来は駐屯兵団の仕事だろうが、訓練兵が滞在している時は、訓練兵の主な仕事となっている。口うるさい駐屯兵の先輩方は、これ幸いにと憲兵が駐屯兵に仕事を投げるように訓練兵に任せていた。
仕事自体は難しいものではないが、そこそこの手間がかかる。煤だらけの重たい壁上固定砲を掃除するのは人気のない仕事だった。緊急時でもないので立体機動を使うわけにもいかず、リフトに乗って壁の上に移動しなければならない。
壁の上。あの時から始まった。突如現れた超大型巨人。あのとてつもない熱風をサシャは覚えていた。故に即答する。
「行きません」
「え? そ、そう……」
仲のいい友達をわざわざ起こして誘いに来たのに、この返答は予想外だったのだろう。間髪入れず冷たく言い放ったサシャにミーナは存外傷ついた顔をした。
壁の上に行きたくないのはミーナのせいではなく、超大型巨人に会いたくないからだが、それが今ので分かるはずもない。サシャは慌てて弁解する。
「ほ、ほら。まだ朝ご飯たべてないじゃないですか」
「あ、そうだね。でもはやく食べなきゃだよ。待たせちゃうからね」
今が何時か確認できないが、整備はまだ始まっていないし、それに超大型巨人が現れたのは午前だったはずだ。ということは確実に昼は越えていないだろう。けれど急いで朝食を食べなければいけない程には遅い時間に起きてしまったようだ。
女子寮から食堂まではほとんど距離は離れていない。ささっと準備をし、食堂に移動した。ミーナと向かい合わせで席につき、パンとスープを食べる。見慣れたいつもの食事だ。普通にお腹が空いていたので、サシャにはありがたかった。
ミーナはもう食事をすませたのか、何も食べずサシャに話しかけていた。
「それでね、エレンが調査兵団を見送りに行くんだって言って、すごい勢いでスープを飲んでたの。だからミカサとアルミンもがんばって早食いしてたんだよ。ふふっ。すごいよねぇ」
ミーナの穏やかで平和な話に毒気を抜かれそうになる。けれどサシャは、ぼんやりしているわけにはいかない。パンを含みながらも難しい顔をする。このままでは本当にあっという間に食べて、そのまま壁の上に行くことになりそうだからだ。
トロスト区から逃げても、巨人に食われる運命にある。だから何とかしなければならないというのはサシャとて了解している。だが超大型巨人や巨人と会うのはそれでも嫌だった。何とか回避はできないものかと口を動かしながら頭を動かす。
そんな心情など知らないミーナはずっと楽しげにサシャに話しかけていた。まさかこれから地獄が始まり、自分が死んでしまうとは露程も思っていない気楽さだ。サシャはそれが少し羨ましかった。
サシャが全て食べ終えると、それを確認したミーナは立ち上がった。壁の上に行くために食堂を出ようとする。しかしサシャは座ったままだった。それを見て訝しげなミーナにサシャはとっさに言い訳した。
「実は教官から少し他用を押し付けられまして、固定砲の整備には行けないんです。みなさんに言っておいてもらえますか?」
「そうなの?」
ミーナは他用の内容を聞きたいようだったが、それは逆にサシャが聞きたい位だった。そんなものは口から出まかせだ。超大型巨人を避けるために、教官まで利用して嘘をついたのだ。
とても大切な仕事だと具体的な内容をぼかしミーナを送り出した。あまり納得していないようだったが、追及はせずそのまま行ってしまった。やり過ごせたことにほっとするサシャ。しかし危難はミーナでなく巨人である。これからどうすべきか考えねばならない。
お腹が膨れたこともあってか、サシャは少し落ち着いて考えることができた。
サシャは経験上、自分が恐怖に支配されると、逃げるより先に固まって動けなくなってしまうことを分かっていた。三回も食われているが、慣れるどころかより恐怖が増している。巨人を前に固まってしまう兵士は、たとえ立体起動装置を着けていたとしても、単なる的にしかならないだろう。
そういう意味でも巨人には会わないほうがいいと、サシャは結論づけた。情けない結論だったが事実だった。
そこでふと、巨人に会わずしてトロスト区を救う方法を思いついた。
サシャは急いで寮の部屋に戻った。ちんたらしているわけにはいかない。もうすぐにでも超大型巨人が門を蹴り破ってもおかしくない。行動しなければならない。
「えーっと、紙とペンは……」
部屋に戻るとすぐに自分の荷物を確認した。サシャにとってこの部屋はあまり馴染みのある部屋ではない。トロスト区の滞在期間中にしか使わない部屋だし、それもサシャの感覚からすれば一ヶ月以上前のことだ。どこに何があったかなどほとんど忘れていた。
やっとのことで目的のものを見つけ出した。筆をすべらせる。簡潔に、エレンが巨人になれること、エレンがトロスト区を奪還できること、彼を使って人類に勝利をもたらしてほしいと書きつけた。
サシャの作戦は単純だった。サシャがいないというだけで、未来は大きく変わったように見える。それなら少し変化を加えるだけで、良い方向にも変わるのではないかと思ったのだ。変化といっても、例えば肉を全て盗み出すといったようなものでは、魅力的かもしれないがあまりトロスト区攻防戦に影響を与えないだろう。だから確実に人類に利益となる情報を報告することにした。
サシャが逃げた場合、なぜかエレンは穴を塞いでくれない。しかし、こうして先に手を打っておけば、この手紙を読んだ者はいざとなればエレンを頼るはずだ。穴を塞ぐ方向に未来は傾くだろう。
我ながらいいアイデアだとサシャは得意になる。未来の情報を知っているサシャにしかできない作戦だ。どうしようかと追い込まれたところに、このアイデアが出てきたのだから喜びもひとしおだった。
あとはこの手紙を上官に届ければいいだけだ。上官に渡すにしては粗末な紙だし、字は急いで書いたせいでまずかったが、渡した後は逃げる予定のサシャが気にすることではない。
早速上官の元へ向かおうと、意気揚々と鼻歌交じりに本部を目指す。本部と食堂はほとんど一体で、同じように寮からほとんど離れていない。すぐに行けるだろう。しかしそこで問題があることにサシャは気づいた。
上官と言っても、訓練兵のサシャにとって上官はたくさんいる。だができるだけ上の人間に渡したほうが効果がでるだろう。ここは最前線の街だし多くの兵士がいるが、今確実に本部にいて、一番地位の高いものは駐屯兵団の隊長クラスだ。彼らは壁が破られたときの指揮もしていたはずだし、適任に思えた。しかし本部には間違いなくいるだろうが、上の人間であればあるほど、それに比例して会うのは難しくなっていく。一介の訓練兵でしかないサシャにいきなり手紙を渡しに行けるはずもない。どうすればいいだろう。
迷っている間にも超大型巨人は迫っている。どうせ逃げるのだし押しかけて手紙だけ渡そうかと大胆な考えをしたところで、目の前を駐屯兵が通り過ぎた。今日のサシャは頭がさえているらしい。その駐屯兵を呼び止める。
「あの、すいません」
「ん? 何だ?」
眼鏡をかけた女性の兵士はサシャの姿を認めると冷静に返した。
「この手紙を上官殿に渡しておいてくれませんか」
サシャは手紙を渡した。女性兵士はそれを受け取って確認している。さすがに中身まで見ないが、怪しんでいるようだった。
「上官とは?」
「誰でもいいので偉い人です。よろしくお願いします!」
「え、おい!」
なんとなく厳しそうな人だったし、追及されるのが嫌なのでサシャは捕まらないように全速力で逃げた。後ろから声が聞こえるが無視して走る。
少々乱暴なやり方だったし、上まで届くか心配だったが、少なくとも手紙の内容は誰かに確認されるはずだ。いざとなれば上に報告してくれるだろう。
あとはもうトロスト区から逃げるだけだった。馬を盗むのばかりが確実に上手くなっている。誇れることではないが役に立つ。
トロスト区の外街を背にして馬で駆け出した。結局は逃げた格好になったが、サシャとしては自然なことだ。やれることは全てやり終えた。完璧かと言えば否定するしかないが、これがサシャにできる限界だった。上手くいきますようにと天に祈るしかない。
さあ帰ろう、故郷へ。
サシャは父が自分のところへ来るなと言っていたのを覚えていたが、もう関係ないだろう。これでトロスト区は救われた。ひいては人類も救われた。
ローゼの平和は今しばらく保たれる。次にローゼが危うくなるまで一ヶ月以上の猶予があるのだ。その間に父を連れてシーナに入れば避難民としてあの地下に行かなくてすむだろう。
それどころか、また手紙でも書いて誰かにウォール・ローゼを守ってもらえばいい。楽観視はできないがやってみる価値はある。もしかしたらシーナでなく故郷で父と再び暮らせるかもしれないのだから。
こんなに簡単なことだった。こんなことをしないだけで何回も怖い目にあった。けれどそれも終わりだと、サシャの眼前には希望が見えていた。
草原を馬で駆ける。やがて村を越え、山を越える。しばらくすると馬が疲労で止まってしまった。少し休憩させてやった方がいいだろう。
もう焦って帰る必要はないのだ。ウォール・ローゼは無事なのだから。だから焦る必要はない。しかしサシャの焦燥感は収まらなかった。今にも巨人が後から追いかけていているような気がした。
トロスト区からある程度離れたことで分かったことがあった。サシャは自分がとにかくトロスト区から離れたくて仕方なかったことを自覚した。だから手紙を一枚書いたくらいで全てが解決したと思い込めたのだ。ごまかしていた不安がどっとサシャの胸にあふれだした。
もう帰ることはできなかった。帰郷すれば父がいる。そして父はサシャを助けようとして死ぬのだ。これ以上父を死なせたくなかった。もし帰るとするならば、安全を確認してからだ。
もしサシャの手紙が功を奏しているなら、トロスト区の方角へ走っても問題ないはずだ。巨人がいて閉鎖されたトロスト区はあるだろうが、巨人がローゼまで入り込んではいないだろうから。
サシャは馬を休めた後、そのまま踵を返し、トロスト区に駆け戻る。どうか成功していてくれと、祈りながら馬を走らせる。しかし結果はすぐに分かった。前方から複数の巨人。サシャは馬の上でへたりこんだ。
ウォールローゼは突破された。
◇
またも巨人に食われた。そしてまた目覚めた。そこからサシャの孤独な戦いが始まった。
サシャはまず猛省した。あまりに安易な発想だったと。
考えるような時間がなかったこともあるが、狩りで鍛えられたサシャの頭は、深く考えることよりも、短い時間で直感的に行動するほうに向いているようだ。トロスト区を救うことと巨人と会わないこと、それを両方同時に、しかも短時間で達成させるための作戦をサシャは思いつけない。結果行きつく先は最初の作戦の焼き直しだった。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
様々な方法を試した。
最初は手紙が届かなかったのだろうと思って届ける相手を色々と変えた。しかし効果はなく、巨人に食われた。
手紙が悪いのだと思い、わざわざ質の良い紙とペンを使い、できる限り時間をかけて書いた。内容も簡潔なものではなく挨拶から入り、サインもし、エレンについての特徴まで事細かく書いた。しかし巨人に食われた。
今度は直接上官の所へ出向き、直接エレンのことを伝えた。信じてはもらえなかったが、伝えることはできたはずなのにダメだった。巨人に食われた。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
時には反逆者に見られた。
説明している途中で超大型巨人が壁を壊してしまったことがあった。それに慌てたサシャは逃げ出そうとして捕まった。
駐屯兵団の隊長は、半信半疑で聞いていた態度をやめ、ひどく怯えた目でサシャを見た。どうしてトロスト区が破られることを知っていたのかという質問を投げかける隊長に、サシャは正直に答えた。しかし未来から来たという話は納得できるものではなかったのだろう。隊長はサシャを兵団に敵対する反逆者だと決めつけた。
嘘つき呼ばわりをされ、巨人の仲間呼ばわりをされ、結果的に銃殺された。
あまりに一瞬の出来事だった。音が鳴ったと思えば衝撃と共に視界が暗転し、また目覚めていた。人に殺されるのは、巨人に食い殺されるのと違った種類の恐怖と悲しみがあった。けれどもまだマシだった。少なくとも歯で潰される痛みはない。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
時には異常者に見られた。
銃殺されたことで上官に頼らず何とかできないものかと考えたサシャに新たな閃きがあった。その閃きは前の作戦よりもっと単純だった。報告する相手を上官ではなく、上官以外の人たちにした。つまり、ただ誰彼構わずエレンのことを言いふらすのだ。寮で、食堂で、本部で、街中で、仲間も見知らぬ人も関係なくだ。
しかし反応は良くなかった。真面目に聞いてくれる人などいない。
見知らぬ人はそもそも話を聞いてくれないし、変な顔をされるか、鬱陶しがられればいいほうだった。
仲間内でも、サシャの言葉にただ笑うばかり。仲の良い者は最初こそ笑っているが、必死に話すサシャを見て途中から心配してくる。
それでもいざ超大型巨人が現れれば信じてくれるだろうと、銃と馬を盗んで何度も逃げた。けれども内門は破られ、巨人がサシャに向かってくるたびに、サシャは持っていた銃で自殺した。
今度はより多くの人に聞いてもらおうと、大勢の人がいる中で演説のようなことさえやった。適当に小高い場所を見つけるとそこに立ち、まるで予言者のごとく高らかに宣言した。トロスト区はもうじき破られる。されど巨人の力を持つエレン・イェーガーという男が大穴を塞ぎ英雄となるであろう。
サシャは話を聞いてもらうために宣言し続けた。多数の人からの注目を受けるのは落ち着かなかったが死ぬよりはマシだ。
しかしこれは一番悪い結果となった。住民からの通報によって兵士に捕らえられた。尋問を受けていると、なんと超大型巨人が現れ壁を破壊した。そしてどこからか鎧の巨人が現れ、内門を破壊した。あっという間の出来事だった。
混乱状態の中、逃げ出そうとしたが、なんと鎧の巨人はサシャを追いかけて来た。その恐怖に屈したサシャは青果店の屋台にあった小ぶりなナイフを喉に突き刺した。
銃よりもはるかに苦しかった。死ぬなら銃に限ると思った。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。
何度やっても上手くいかない。何をやっても上手くいかない。必ず銃で自殺することになるか、運が悪ければ巨人に食べられることになる。
サシャは自殺できないことが不幸だと考えるようになった。