逆行のサシャ   作:木棒徳明

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第五話 怒る先

 そして、また目覚めた。

 いったい何度目覚めただろうか、そしてその分、何度死んだだろうか。目覚める時はいつも寝起きだが、もうずっと寝ていないような気がした。先程の死は、適当に掴んだ銃が運悪く壊れていて巨人に食われる結果となった。

 

「サシャ――」

「うるさい!!」

 

 ミーナの声が聞こえて、サシャは金切り声を上げた。ミーナは驚きで体が揺れ、まとめた髪が小さく跳ねた。それすらもサシャの神経を逆なでした。八つ当たりでしかないのは分かっていたが、すり減った精神状態では、何も知らずのうのうと起こしてくるミーナが鬱陶しくてしかたなかった。

 目覚めるとまず彼女がいる。故にサシャにとって、死の直後に見るミーナは失敗とやり直しの象徴のように見えた。

 もう何度も同じやり取りを繰り返し、無難かつ手短にミーナをやり過ごすことができるようになった。今回もそうするべきだったが、度重なる失敗と死に気が立っていてとっさに言ってしまった。

 しかし不都合はなかった。嫌われたからといって何も変わらない。このあと死ぬのだから、交わした言葉など無かったことになる。

 

「サ、サシャ?」

「うるさいって言ったのが聞こえませんでしたか?」

 

 困惑して覗き込んでくるミーナをサシャは睨んだ。これでも我慢したほうだった。一度吐き出し始めた鬱憤は抑えようにも止められなかった。

 サシャのトゲのある言い方に温厚なミーナもムッとした表情を見せる。

 

「何それ。せっかく起こしてあげたのに」

「誰も起きたいなんて言ってませんよ」

 

 二人の間に花火が散った。しばらく睨み合ったまま動かなかった。

 しかしミーナは急にシラけたとばかりに視線を外し、そのまま何もいわずに部屋を出ていく。サシャは遠のいていくミーナをじっと睨んでいたが、姿が見えなくなると消沈して布団に潜り込んだ。張りつめた空気の後は、静寂だけが部屋の中に残った。

 サシャは今すぐにでも行動を起こさなければいけないが、体が思うように動かない。自分の無力さ、バカさ加減に嫌気がさす。友人にまで喧嘩を売ってしまった。もう何もしたくなかった。

 サシャはしばらく寝て過ごそうかと考えた。いざとなれば銃を盗み出して自殺すればいいのだ。どっちみちそうなることは目に見えていたし、一度くらい何もしないまま死んでもいいのではないか。それを咎める者は良くも悪くもいないのだ。

 何度も何度もサシャは死んでいるが、それが理解されることはなく、礼を言われることもない。これだけの苦労が続いたことを知っているのはサシャだけだ。他に覚えているものは誰一人としていない。サシャが休もうが休むまいが、他の者たちは何も気にしない。なかったことになる。

 今までの苦労は何だったのだろう。

 その苦労を考えたとき、サシャの内にどっと黒い感情が沸き起こってきた。どうせ死ぬのだったら何もせず見ておいてやろうと考えた。他の者たちが巨人に食われる様を見て笑って楽しむのだ。恐怖を思う存分味わえばいい。やつらに次はないが、自分にはある。余裕の表情で銃を片手に、ただただ死んでいくところを眺めてやろう。何も知らずにのうのうと生きている報いだ。

 しばらくそんな暗い想像の海を漂っていた。すると布団越しに軽く体を揺すられ、ぼんやりした意識がはっきりしてくる。

 熱のこもった掛け布団に冷気が入る。何事かと顔を向けると、そこにいたのはミーナだった。まさか戻ってくるとは思わず、サシャは一瞬唖然となった。そして睨まずにはいられない。先程のやり取りの後で戻ってくること自体怪しかったし、想像の中でのミーナはサシャの復讐対象だった。

 不機嫌そうなミーナが手を差し出した。サシャは呆気にとられた。目の前に突きつけられたのはパンだった。食堂で出される普通のパン。まさかこれで攻撃するわけでもないだろう。

 

「なんで泣いてるのか知らないけど、食べたら元気でるでしょ」

 

 サシャははじめて自分の頬を流れる冷たい水に気がついた。袖で拭うが、後から後から流れ出て止められなかった。

 

「どうして泣いてるの?」

 

 睨むことはやめたが、返事をすることはなく、サシャは下を向いて涙を拭い続けていた。

 パンを受け取る様子もないサシャにミーナは逡巡するが、今は詮索せずに放っておくのがいいと判断し、再び部屋を出ようとする。

 けれどパンを持ったほうの腕をサシャに掴まれた。突然の無言の引き止めに、ミーナは目をぱちくりさせて振り向いた。

 

「わっ!」

 

 腕ごと引かれ、サシャの方向へと体が倒れた。布団のやわらかい衝撃を受けてミーナはわずかに目を閉じる。痛くはないが、少し鼻を打った。文句の一つでも言おうとサシャの方向に向きなおろうとするが、その前にまたやわらかい衝撃を受けた。

 気づけば、サシャがミーナに抱きつく形になっていた。抱き枕のごとく絡みつかれている状況にミーナは戸惑う。サシャはミーナの胸元に顔をうずめており、その表情を伺い知ることはできなかった。ただ泣いていることだけは分かっていた。

 

「疲れてるんです」

 

 顔をうずめたまま、サシャは独白する。ミーナは黙って聞いていた。

 

「少し疲れただけなんです。ごめんなさいミーナ」

「……そっか。大丈夫だよ」

「ごめんなさい……」

 

 謝っている理由をミーナは半分しか理解していないだろう。それでも優しく頭を撫でてくれるミーナの手はあたたかく、全てを許してくれるかのような慈しみを感じた。

 サシャはミーナに甘えることに決めたようで、動物のように擦り寄りながら、パンを食べさせるように要求した。

 ミーナは満更でもないようで、楽しげに要求に応えた。一口サイズにちぎっては口に運んでくれるミーナに、サシャは甘えるような鼻声で応え、顔を擦り付ける。ミーナは本当に動物でも相手にしている気分だった。

 ゆっくりと減っていくパン。全て食べさせ終えると、ミーナは大事なことを思い出した。

 

「あっ……固定砲整備……!」

 

 夢中になっていて本来の目的をすっかり忘れていたと、口元をおさえ焦りを表現するミーナ。そんなミーナに対してサシャに焦った様子は見られない。

 当然だ、最初から行く気などないのだから。思い切り甘えたことで、むしろ清々しい気持ちにさえなっていた。

 

「うあー、最後の最後に私……」

 

 しかしミーナにとってはそうではない。固定砲整備が特別好きなわけではないが、任務をサボるのは気が引けたし、訓練兵としての最後の仕事くらいはきちんとしたかったというのが本音だ。昨日解散式を終え、明日には所属する兵団を選択するというのに、これで教官に叱責でもされればなんと締まらない最後だろうか。

 

「はやく行こうサシャ」

「平気ですよ。そろそろですから」

「え、何が?」

「行きましょう」

 

 そのあっけらかんとした物言いにミーナは戸惑う。

 最初の不機嫌さはどこへやら、サシャは軽い足取りでミーナを連れ出した。まるで迷子の子供を道案内でもするように手を引くサシャ。されるがままにミーナは連れられて外に出た。このまま壁の上に行くのだろうと思えば、別の道を行きだしミーナは焦る。

 

「ちょっと、どこに行くつもり?」

「本部です。そのうちごたごたしますから。簡単ですよ」

「簡単……?」

 

 本部に到着しても手を離すことはなかった。変な目で見られてないかとミーナは気が気でなかったが、サシャの有無を言わせぬ態度に怯みそのままにしていた。

 しかしサシャは訓練兵ではまず立ち寄らないであろう場所にどんどん進んでいく。本部であるのに兵士の姿もない薄暗い廊下。その雰囲気にミーナはさすがにまずいと思ったのか抵抗を試みた。

 

「サ、サシャ」

 

 サシャは足を止めた。しかしそれはミーナが不安の声を漏らしたこととは関係がないだろう。

 突如、どこか遠くから信じられないくらい大きな音が響いた。

 その後には上のほうから鐘の音ががんがんと響く。ミーナはこの音を知っている。トロスト区に設置された緊急避難用の鐘だ。

 ミーナは思わずしゃがみ込んだ。そして一つの考えにたどり着き、青ざめる。

 

「こ、これって……」

「門が破られたみたいですね。こっちです」

 

 立ち止まってぼんやり上を見ていたサシャは、ミーナを起き上がらせると、再び手を取って歩き出した。

 平然と門が破られたと言ってのけるサシャにミーナは混乱する頭で何も言えず、抵抗もする余裕もなくついていくだけだった。

 

「ここは……武器庫? て、こんなとこ来てる暇ないよ!」

 

 ミーナは歩いて少し冷静になったらしい。さっさと武器庫に入ってしまうサシャについて行きながら言った。

 食糧庫ではなく武器庫なことに微妙な違和感を覚えるが、どちらにしろこんな場所にいるべきではなかった。

 これからどうするべきか。兵士となれば、緊急時にこそ冷静な判断をしなければならない。

 

「ええと、ええと……こういう時は訓練通りに……そうだ、たぶん招集されてる。はやく行かないと!」

「ありましたよ」

 

 そんなミーナをそっちのけでサシャはあるものを探していた。

 探していたといってもどこにあるかは既に知っているので取りに行っていたというのが正しい。武器庫の奥まったところに雑多に置いてあるそれは、少々埃を被っているが十分に使えるものだ。その隣に積まれていた弾も手に取り装填していく。

 ミーナは恐る恐る訪ねた。

 

「サシャ、その……何やってるの?」

「銃を使えるようにしてるんです」

「それは……何故?」

 

 背を向けて淡々と装填作業をするサシャの姿はミーナにとって不気味の一言だ。

 銃というのは巨人に対してほとんど効果がない。だから今はそれを準備する意味などないはずだ。兵士が銃を向けるのはもっぱら人間だ。その銃を使うとすれば、向けられるのは人間。そしてここにはサシャとミーナしかいない。ミーナは唾を飲む。考えたくもないことが頭をよぎった。

 作業を終えるとサシャは振り返った。ミーナの嫌な予感は当たる。その銃口はミーナを向いていた。

 

「サシャ……やめて……」

 

 凶行に走った友人に他に何が言えるだろうか。ミーナはサシャについてきたことを後悔する。

 起こしたときから様子がおかしかったが、まさかこんなことになるとは思わなかった。本部へ手を引かれたときにハッキリと意思表示しておけば、何か違っていたかもしれない。

 だがもう遅い。真っ黒な空洞は、ちょうどミーナの頭を狙っている。まだ撃たれてないが、ミーナはもう脳を射抜かれたような気分だった。膝はガクガクと震えていた。

 今にもサシャは引き金を引こうとしていたが、ミーナの様子を見てサシャは考えを変えた。銃口を下げると、ミーナのこわばった体もふっと力が抜けていた。

 

「すいませんミーナ。怖かったですよね」

 

 正気に戻ってくれたのかとミーナは縋る思いでサシャを見る。

 冗談にしてはたちが悪すぎた。ミーナはサシャにどういうつもりかと問い詰めたかった。

 しかしサシャは平然とした態度のまま歩きはじめ、後ろに回り込むと、ミーナの願い虚しく、そのまま後頭部に銃口を突きつけた。考えを変えたのは、位置だけだ。

 

「これなら怖くないですよね」

「なんで……なんでよサシャ……」

「ミーナは優しくしてくれましたから。そのお礼です」

 

 サシャはミーナに感謝していた。ただ腐るように布団にこもるよりもずっと息抜きができた。彼女のおかげで、非道な人間にならずに済んだ。だから恩返しをしなければならない。そしてこの残酷な世界でサシャのできる一番の恩返しがこれだった。

 しかしサシャの論理をミーナは理解できない。

 

「どうして優しくしたお礼が殺すことにつながるのか、説明してもらえる……?」

 

 ミーナの口から出てきたのは説得するような慎重な言葉使いだった。背筋を凍らせているミーナはサシャの頭がおかしくなったと考えている。

 サシャとしてはどう思われようがどうでもよかった。どうせ死ぬからだ。

 銃声は響かず、沈黙が空気を支配する。

 サシャの中で殺すことが一番のお礼だという考えは変わらなかったが、自分に優しくしてくれた目の前のミーナを作業のように冷たく撃つのは気が引けていた。何も分からず、いきなり頭を撃たれるのはいい死に方ではないような気がした。どうせなら納得の上で死んでもらうほうがいいだろう。

 サシャは銃口を向けたまま、静かに、確信をもって言った。

 

「人類は巨人に勝てないんですよ。そのうち食い殺されるんです。だったら、今ここで死んだ方がマシです」

「そんなの、分からないじゃない……」

「分かります。ミーナ。あなたの班はたしかアルミン以外は全員すぐ死んだはずです。あ、エレンは生きてましたね。でもミーナ、あなたは死ぬ運命にあるんです。死に目に会ったことはないですけど、間違いなく巨人に食われて死んでます。そんな怖い思いをミーナにしてほしくありませんから」

「なんでそんなこと分かるの……?」

 

 サシャはここで気づいた。納得してもらうのは不可能だと。ミーナの反応は何度か見たことのあるものだった。サシャが必死にトロスト区を救おうとして未来の話をすると、こういう反応が返ってくることがあった。

 サシャはため息を吐く。

 

「どうせ言っても信じません」

 

 残念な気持ちだが、やることは変わらない。これで終わりだとサシャは引き金に指をかける。

 これでいいのだ。巨人に食われるのも、銃に頭を撃ち抜かれるのも、死ぬのには変わりない。であればマシな死に方をしたほうがいい。それをサシャはミーナにしてあげられる。ただそれだけの話だ。

 

「どうせ死ぬなら巨人と戦って死にたい」

 

 サシャは指を止めた。目を細め、そして皮肉げに口元を歪める。

 

「ミーナは巨人の恐ろしさを知らないから、そんなことが言えるんですよ」

 

 もし巨人の恐ろしさを知っていたら喜んで銃に撃たれているはずだ。しかしミーナは喜ぶどころか震えている。

 

「確かに知らない。けど戦いたいの」

「エレンに感化されて調子に乗ってるだけです。実際にはミーナがいてもいなくても同じです」

「そうかもしれない。でも戦いたい」

 

 物分かりが悪い。自分の力を過信している。サシャは苛立たしげに吐き捨てた。

 

「どうしてですか。どうせ死にますよ。痛い目にあって、怖い目にあって。それで終わりです」

「だって……」

 

 ミーナが震える体を動かした。襲い掛かってくるかと警戒して、サシャは銃を構えなおす。

 しかしミーナの動きはぎこちなく、錆びた歯車のようだった。

 

「だって、戦わないと生きるのを諦めたことになるから。私は生きたいの。だから戦うの。痛くても、怖くても、戦うの」

 

 ゆっくりとサシャの方に振り向き、構えをとった。対人格闘訓練で習った型通りの構えだった。実戦はこれでどうにか出来るほど甘いものではない。サシャが指先を動かせば、いとも簡単にミーナは倒れてしまうだろう。ミーナもそれが分かっていて恐怖で震えている。けれどもその目は死んでいなかった。

 サシャはミーナよりも強いという自負がある。これでも成績上位者だ。身体能力や、立体機動でミーナに劣っていたことなどなかった。だが、それがどうしたというのだ。サシャに立ち向かうミーナは美しく、その目の涙の奥にはサシャにはない強さがあった。

 サシャは思わず息を吞んだ。

 

「え、えい!」

 

 ミーナが銃を飛びつくように奪い取った。避けられるものだったが、放心状態のサシャはあっけなく手放した。

 形勢逆転だ。サシャは銃を取り返そうとはせず、その場に座り込んだ。どっと疲れが押し寄せて、さっさと消えてしまいたかった。

 

「はあ。もういいです。殺してください。勝手に生きてればいい。私は死にます」

「だ、ダメだよ!」

「なら、自分でやるので返してください」

「渡すわけないでしょ! サシャも生きるの!」

 

 ミーナの言葉にサシャは乾いた笑みを浮かべる。その言葉に是と返せるほど、サシャは世界に希望を持っていない。

 

「生きる……生きるって、そんなに大事なことですか? ミーナはどうして生きたいんですか。生きることがそんなに良いことですか」

「大事に決まってる。生きてないと、大切な人といっしょにいられないもん。いっしょに笑ったり、泣いたりできないもん。それを壊そうとするやつがいたら、私は戦う……」

 

 ミーナは銃を抱えながら言った。

 

「みんなそうじゃないかな。人は人を守ろうとするんだよ。だから人類のために心臓を捧げた兵士は、誰よりも生きることを諦めちゃいけないの」

 

 サシャはうつむく。成績など関係ないと心底思えた。サシャよりもずっと立派な兵士が目の前にいた。兵士をやめてしまったサシャはミーナの目を見れなかった。

 

「ミーナは強いですね。私はそんな風に考えられません。生きることは死んでいくことですから」

 

 無理解か侮蔑を得て、自殺か捕食に行き着くだけ。そして死んでも次がある。長く続いた繰り返しの中で、生きることの価値はサシャの中で次第に下がっていた。

 ふわりと風がふいた。サシャはミーナに抱きしめられていた。ミーナのにおいがサシャの鼻をつきぬける。さっきも嗅いだ臭いだ。けれどよりいっそう暖かくて優しかった。

 

「そんな寂しいこと言わないで。こうやってくっついてると安心するでしょ? 部屋でもこうやってて、整備も忘れちゃうくらい楽しかったじゃない」

 

 涙まじりの声がサシャの耳元をなでる。

 

「この戦いが終わったらまたしようよ。サシャともっと仲良くなりたい。そのためには死ぬわけにはいかないでしょ。ね?」

 

 涙を拭ってサシャを鼓舞するミーナ。だがサシャはそれに応えることができずウジウジと尻込みした。

 死ぬわけにはいかない。そんなこと分かっていた。サシャだって好きで死にたいわけじゃない。だが死ぬしか選べない。

 

「無理です……怖いです……」

「サシャには大切な人、いる……?」

 

 気弱なサシャにミーナは無理やり目線を合わせた。

 サシャはしばらく間をおいて言った。大事な者はたくさんいるが、一番大切な人は一人しか思いつかない。

 

「お父さん……」

「じゃあお父さんを守るためにも戦おう。私はこの街に家族がいるの。だから死ねない。生き残るためにも、守るためにも、死ねない。サシャもそうでしょ?」

 

 無言でこくりと頷いた。

 サシャは父を思い出した。笑いあった父の姿を、サシャを守ろうとした父の姿を、そしてその死に様も。

 何故父が人類を守れと言ったかが少し分かった気がした。

 

「大切な人のことを考えれば、私は怖くても前に進める。さあ行こう。今回のことはなし! なんにもなかったの! 私とサシャはちょっと道に迷ってここにいるだけ」

 

 銃を捨てると、ミーナは脱力するサシャを無理やり立ち上がらせた。今度はミーナがサシャの手を引く番だった。ぐずる子供を引っ張る母親のようにミーナは本部の集合場所を目指した。

 みんなはとっくに集まって慌ただしく立体機動装置を整備し、装着していた。あちらこちらで兵士が駆け回り、まさしく緊急事態だった。

 

「あ、おいミーナ! サシャ!」

 

 遅れないよう準備に取り掛かろうとすると、そこに一人の訓練兵が飛び出してきた。男子にしては身長が小さく、わかりやすい頭が特徴的なコニーだ。コニーは二人の前に躍り出るとぐしゃぐしゃと髪のない頭をかいた。

 

「ああ、どう言えばいいんだ。クソ。仲良くサボりやがって。お前らがいない間、大変だったんだぞ!」

 

 サシャはコニーを見た。ひどく動乱しているようだ。超大型巨人が目の前に現れ、開閉門を破壊したのを直接見たことを言いたいのだろうと思った。本来であればサシャとミーナも見ていたはずだったものだ。

 門が破壊される光景は今でも鮮明に思い出せる。それほど物理的にも精神的にも人に衝撃を与える。しかしサシャは過去の記憶と比べて、少し違和感があった。たしかに衝撃的ではある。だがここまでコニーは動揺していただろうか。

 

「超大型がいきなり出てきて、壁を壊して……それでサムエルとエレンが死んだ!」

「えっ、うそ……」

 

 サシャにとって聞き捨てならない言葉が出てきた。死んだ。エレンが。

 ショックを受けるミーナを押しのけサシャはコニーに詰め寄った。

 

「死んだってどういうことですか。なぜエレンが」

「あいつ、超大型に向かっていって、それでそのままやられた」

「そんなはずありません……」

 

 エレンは超大型巨人に立ち向かう。そこまではいい。だが、その時点で死ぬようなことはなかったはずだ。駐屯兵の先輩方に促されて、いっしょに本部に戻り、超大型巨人が現れ何があったのかを報告したことを覚えている。

 だから死ぬはずがないし死んではならない。もし死んだとしたら、いったい誰が壁の穴を塞ぐというのか。

 

「サシャ……悪い。いきなりこんな話するんじゃなかったな。ミカサも錯乱しちまってるし……」

 

 立ち尽くすサシャにコニーは気遣いの言葉をかける。

 サシャは泣けばいいのか笑えばいいのかも分からなかった。今までの努力が全て無駄だったと思い知った。どれほどエレンの力を流布させたところで、トロスト区が救われるわけがなかった。ずっとエレンは死んでいたのだろうから。

 エレンがいない以上、この街は終わりだ。もう穴を塞ぐ手立てはない。サシャだけは知っている。ここで戦っても無駄骨だと。五日後にはウォール・シーナも破られるだろう。そして人類は終わる。

 だがみんな戦おうとしている。ミーナも落ち込んではいるが意志を失ってない。もうすぐ死ぬのに。みんな死にに行くのだ、生きるために。そのために準備している。

 

「私も……死にます」

「サシャ?」

「逃げるためじゃなく、生きるために、進むために……」

「お、おお。よく分かんねえし物騒だけど、がんばろうぜ!」

「ええ……」


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