逆行のサシャ   作:木棒徳明

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第九話 涙の先

 目が覚めたと同時に、サシャは大声で泣いた。

 

「ちょっ」

「うああああああん」

 

 大口を開けて、二段ベッドの天井に向かって叫んでいる。人目も憚らない子供のような泣き方だった。

 いきなり泣き散らすサシャにミーナはどう対応すればいいか分からない。駄々っ子のように布団を引っ張ったり叩いているサシャは明らかに普通ではない。慰めて収まるものなのか。

 しかしミーナが泣かしたわけではないが、ミーナの前で泣き出したのも事実だ。放ってはおけなかった。

 

「よ、よしよし」

 

 サシャはミーナの手をいやいやと振り払う。いよいよ子供だった。言葉に耳を貸すわけもなく、ミーナは憮然としてサシャを見ていることしかできなかった。

 当のサシャはミーナを気遣う余裕がない。悲しみ。辛さ。その二つにサシャは支配されていた。

 サシャは自分の運命を呪うしかなかった。どうして自分だけこんな目にあう。どうして自分だけこんな事実を知らなければいけない。どうして仲間だと思っていた相手に首を絞め殺されなければならない。どうして。

 サシャの泣き声には悲しみと同時に怒気の色も多分に含まれていた。

 戦わなければいけない相手は巨人だと思っていた。ただ意思もなく、人間を食らう動物ともつかない化け物。殺しても害はなく、むしろ殺して然るべき相手だった。何の感傷もわかない。だからこそ戦えた。

 しかし巨人化した人間は違う。それも同期だったらなおさらだ。

 自らの浅はかさを憎む。こんな結果になるとは思いもせず、何の覚悟もないまま壁の下を覗いたのだ。サシャは後悔する。あのまま何も知らなければ楽だったのに、人類のためと思って覗いてしまった。

 真実を知った今、サシャの進むべき道は決まってしまった。同じ釜の飯を食った仲間と戦うしかない。でなければ人類は滅びるのだから。それをサシャは理解していた、そしてまだ受け入れられないからこそ、泣き叫んでいた。

 

「うぐっ……うううああああああぁぁ」

 

 大声を出し過ぎて喉を痛めたのか、段々と嗚咽混じりの泣き声に変わっていく。それをミーナはじっと見ていた。サシャが落ち着くまで待つことに決めたようだ。少し収まったとはいえ、まだ十分に号泣しているので、しばらく待つ必要があるだろう。

 そんな時、別の部屋にいた女子訓練兵たちが騒ぎを聞いて、何事かと詰めかけてきた。数人の女子同期に囲まれる中、それでもサシャは脇目も振らず泣いていた。涙でぐちゃぐちゃの顔を布団で拭っていた。

 同期たちも最初は啞然と見ていたが、やがてミーナと同じように慰めようとし、ミーナと同じように無視されていた。どうしたものかとサシャを見守る中から出てきたのはクリスタだった。

 

「サシャ、泣かないで」

 

 同期の中では誰よりも優しい彼女。当然、泣いているサシャを放っておくわけもない。ベッドに腰掛けると優しく手を包み込んだ。一同は感心する。何の反応も示さなかったサシャが握られた手を見て、嗚咽を少し収めたからだ。さすがは一部の同期から女神と評されるだけのことはあった。

 

「大丈夫? きゃっ!」

 

 暖められていた手が突如クリスタの腕を掴んで引き寄せた。クリスタは倒れ込み、サシャに抱き寄せられる。結果、サシャの膝の上に乗る形となっていた。まるでぬいぐるみでも抱くかのような扱いだ。顔をクリスタの後ろ髪に押し付け、涙を拭いていた。

 

「てめぇクリスタに何してんだ」

「いいのユミル。こうすると安心するみたいだから」

 

 涙が少しづつ収まり、すねた子供のような泣きかたになった。クリスタの髪を涙で濡らすだけでは物足りないのか、手を伸ばしてミーナも引き寄せた。

 

「え? 何? 私?」

 

 ベッドに座らせると、サシャはミーナにもたれかかった。これで完成とでもいいたげに、静かに泣いていた。

 クリスタを抱きしめ、ミーナに甘えるようにもたれかかる様を見て、ユミルはげんなりとして言った。

 

「酔っ払って女侍らせてるじじいにしか見えねえぞ……」

「何言ってるのユミル。サシャは女の子だよ」

「んなこと分かってる」

 

 ユミルはぐすぐすと鼻を鳴らすサシャに詰め寄った。

 

「おいバカ。わざわざクソでかい声で私とクリスタの時間を潰してくれた訳を話してもらうぞ」

「ユミル。そんなの無理に話させることじゃないよ」

「でもここにいるやつらは気になってるみたいだぞ」

 

 部屋に集まった女子たちは、もちろんサシャの心配もしていたが、それと同時にサシャがここまで泣く理由も知りたがっていた。訓練兵は自由が少ない。つまり娯楽も少ない。彼ら彼女らにとって、何かの事件や人の噂は大きな娯楽である。

 サシャの大泣きはすぐに噂として楽しまれてしまうだろう。その際に何故泣いたのか理由もあれば完璧だ。だが下手をすれば傷つける結果になりかねず、悪者になってしまう可能性もある。ユミルのように堂々と聞けるのは少数派だ。

 

「サシャ、平気? 話せる? 言っちゃったほうが楽になるかもよ」

 

 ミーナも理由を知りたがった。だがそこには気遣いの色が多分に含まれている。ユミルと違ってサシャにも優しいミーナは、手を頭に持っていき今度こそサシャを撫でた。

 サシャはこくりと頷いた。ミーナとクリスタに挟まれてやっと泣き止んでいた。ミーナが背中をさすってくれる。

 

「それじゃあ、どうしたの? 何かあったの?」

「ライナーとベルトルトが……」

「ライナーとベルトルト?」

 

 一同は口を閉じて、一様に耳を澄ませていた。サシャの口から発せられた意外な人選に、否が応にも期待が高まる。

 

「二人がどうかしたの?」

「二人は巨人だったんです……」

「へ?」

「はあ?」

 

 部屋の中の女子同期たちは、みんながみんな、ぽかんと口を開けてサシャを見いていた。当人は苦悩を色を浮かべているが、とてもそんな気になれなかった。

 部屋中がどっと笑い声に包まれた。中でもユミルは一番大声で笑っていた。

 

「たしかにあいつらデカいからな。間違いなく二メートル級の巨人だろうよ。実は私もそう思ってたんだ」

「やめなよユミル」

 

 諫めてはいるがクリスタ自身もその表情は緩んでいる。これはいい笑い話ができたと朗らかな雰囲気が流れた。

 だがサシャだけはこの不服な状況にまた泣きそうになっていた。

 

「信じてください! ベルトルトは超大型巨人で、ライナーはおそらく鎧の巨人なんです! それで今日トロスト区の門を破壊しようと企んでるんです!」

 

 また笑い声が起きた。先程より大きな笑いで、サシャの悲痛な訴えがまともに受け取られていないのは明白だった。

 未来の話をしたときの人々の反応をサシャは思い出していた。冗談だと受け止められて、突拍子もない話だと言って、笑うのだ。そしてそれを覆す方法をサシャは見つけられなかった。

 下を向いてしまうサシャをさすがに哀れに思ったのか、クリスタが頬を撫でてその顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、きっとサシャは夢を見たんだと思うの」

「違います……」

「それなら確認しに行く? 二人と話せばきっと違うって分かるよ」

 

 それを聞いてサシャは背筋がゾッとする思いだった。目を閉じればすぐにでも、二人がサシャを押さえつけ、窒息死させたところが思い浮かぶ。ついさっきの出来事だ。それに会ってどうすればいいのか、話すらできるかも怪しかった。

 逃げないと決めたはずなのに、とっさに拒否反応を示してしまう。

 

「私はこれからミーナと固定砲整備がありますから……」

「うーん。そっか」

 

 クリスタは少し残念そうにサシャを見ていた。心配の気持ちはありがたかったが、今は勘弁してほしかった。

 会いたくないと体が拒否する。けれど、やはりあの二人を放っておけないとサシャの冷静な部分は警告を鳴らす。そこにクリスタが目に入った。

 サシャはクリスタを抱きしめながら言った。

 

「クリスタ。代わりに言っておいてくれませんか? 巨人になるな。バカな考えはやめろって」

「ライナーとベルトルトに? でもどこにいるか……」

「食堂にいますから」

「そうなの? じゃあ伝えておくね」

「おいおい、そんなバカの話に付き合う気か?」

「いいじゃない」

 

 サシャが落ち着いて話せるようになり、一通りのことは終わったと思ったのか、一同は誰が言うともなく解散していた。

 急げば整備に遅れずにに済むらしくミーナは準備を急かしたが、サシャはそれを拒否した。遅れてはいけないからとミーナを先に行かせる。けれど本音としては、ただ一人で行きたいだけだった。裏切り者に対する憂鬱と、信じてもらえないことに対する落ち込みで、とてもお喋りをしながら壁を目指せる気分ではなかった。

 だらだらと準備をして、その歩みのまま出発した。しばらくはとぼとぼ歩いていたが、あまりに遅れてサシャがいない間にまたサムエルが死のうものなら目も当てられない。少し足を早めた。

 サシャは歩いている内にさらに冷静になり、先の自分を恥じた。同期の前で年甲斐もなくわんわんと泣き散らしてみんなに迷惑をかけた。その上、クリスタとミーナにずっとベタベタとくっついていた。友人の範疇に収まるような行為ではなく、ユミルの呆れも当然だった。精神的に弱ると誰かに甘えてしまう癖があることをサシャは今はじめて自覚した。

 だが問題はそこではない。確かに恥ずべき行為だが、それよりもサシャは危惧していることがあった。

 最後にクリスタに妙な頼み事をしてしまった。クリスタはきっとあの二人に巨人になるなと話してくれるだろう。

 もし話していなくとも、笑い話にされたが、同期たちに二人の正体をサシャは喋ってしまっていた。話はすぐに広まるだろう。

 巨人のことを話された二人はどんな行動に出るだろうか。

 サシャは青くなった。絞め殺された紀億を思い出す。何か悪いことが起こるのではないかと気が気でなかった。

 このまま壁に行っている場合ではない。もしかしたらクリスタが同じ目にあう可能性だってある。

 サシャは来た道を走って戻ろうとした。だが振り返った少し先で、人影が待ちわびていた。

 

「待ちな」

 

 サシャは足を止めた。小さくて金髪という点では同じだが、クリスタとは違った印象を受ける人物。アニだった。

 こんな状況でなければ少し話してもよかっただろう。だが今は急がねばならない。

 

「すいません。急いでるんです」

「いいから」

 

 通り過ぎようとしたが、進行方向を塞がれた。サシャは眉をひそめる。アニが制止させる理由は思いつかなかった。

 

「なんですか。手短にお願いします」

「ベルトルトとライナーのこと、どこまで本気なの」

 

 サシャは頭を抱えたくなった。アニはあの場にいなかったのだから、そのことは人づてに聞いたのだろう。噂が広まるのが思っていた以上に早い。

 けれど所詮は噂のはずだ。わざわざ急いでいるサシャを引き留めてまで、そんな話をするような人間だっただろうか。アニは平然としていて、その感情はあまり読み取れない。本当に聞きたがっているのかも分からなかった。サシャは不審げな目を向けた。

 

「ただの夢ですよ。寝惚けてたんです」

「それにしては、ずいぶん具体的だね」

 

 アニが詰め寄る。その小ささとは裏腹に鋭い目つきは人を気圧すには十分であった。

 

「今から時間ある?」

「整備に行くところで……」

「なら、いっしょに行こうか」

 

 サシャは断りたかったが、それは叶わなかった。

 クリスタを心配する気持ちはあったが、アニの雰囲気にのまれ、逆らうことができず、壁の方向にまた振り返ることとなった。整備に行くと言いながらサシャが逆の方向に向かっていたことをアニは気にも留めていないようだ。

 有無を言わせぬ物言いと、軽く背中を押してくる歩き方は、ほとんど強制と言って差し支えないだろう。サシャは刃物でも突き付けられている気分になった。

 

「何がしたいんですか……?」

「いいから」

 

 この調子が続いて、まともに答えてさえくれない。だが道を逸れようものなら、背中を掴まれて真っ直ぐ歩かされる勢いだ。憲兵に連行される犯罪者はこのような感じだろうか。サシャはいよいよ嫌な予感がした。

 屋台が立ち並ぶ通りを抜け、門の辺りをまでやってきた。このまま壁の上まで行ってしまいたかったが、大きな開閉門の隣にある小さな扉までアニに誘導されてしまう。中は飾り気のない部屋で、駐屯兵団の備品がそこかしこに置いているだけだった。隅の方には階段があり、これを登れば、外側の開閉門上段にある固定砲まで通じるのだろう。

 ここが目的地のようだ。人目につかないこの空間にサシャの本能は警鐘を鳴らした。案の定サシャが振り向くと、そこには蹴りの構えをとるアニがいた。

 とっさに避けようとするがアニの速さには叶わず、脛を蹴られる。単なる力技ではない。骨に響くような痛みと共にサシャはふらつく。

 

「ぐっ」

 

 首に巻きつかれ、そのまま地面に倒された。息ができない。この状況には覚えがあった。

 

「ア……ニ…………」

「悪いけど、しばらく眠ってもらうから」

 

 アニが自分を組み敷いている。そして先程の質問。

 答えはもう出ていた。敵はベルトルトとライナーだけではなかった。アニも敵だったのだ。

 嫌な予感はしていたし、サシャは実際には勘付いていたのかもしれない。走って逃げるべきだったかもしれない。だがアニのことを信じたくて、サシャは結局ついてきてしまい、こういう結果になった。

 サシャはまた泣き叫びたくなった。けれどアニがそれを許してくれない。

 やがてサシャは意識を失った。

 

 

「サシャ、起きろ」

「……ミーナ?」

 

 目覚めたときには、いつも隣にミーナがいたので、サシャは反射的にそう返してしまった。だがすぐに後悔の念に駆られる。見下ろしているのはミーナとは似ても似つかない屈強な男だった。彼はばつが悪そうにしていた。

 

「悪いが、俺はミーナじゃない」

 

 ライナーは分かりきったことを言った。

 このバカバカしいやりとりを笑うものは一人もおらず、ただサシャを囲うように佇んでいたアニとベルトルトが神妙な顔つきをしているだけだった。

 サシャは身を起こそうとするが、そこで自分が寝ている場所をやっと把握できた。継ぎ目のない硬い石が細長く続き、空はずっと近くに感じる。壁の上だ。

 吹きすさぶ風を受けながら、サシャは立ち上がった。

 壁の上であるが、どうも様子がおかしいとサシャは気づいた。まず真っ先に目に付くのは眼下に広がる突出区の様子だった。あちこちの家は荒廃し、いやに埃っぽい。寂れた景色の中に人の気配はなく、数匹の巨人がうろつくばかりだ。まるで人類の全てが滅び去った後を見ているようだった。

 

「ここは……」

「シガンシナ区だ」

 

 ウォール・マリア南側突出区シガンシナ区。かつての最前線の街にサシャはいた。壁の上にあるはずの線路や固定砲がないことからも、それが確認できた。

 巨人に蹂躙され、もはや死に絶えた街。かつての街の面影も、巨人の領域となれば、ただ寂しい印象しか受けない。あまりに希望のない景色に、サシャは胸が張り裂ける思いだった。

 だがそう感じているのはサシャだけのようだ。目の前のありさまを実際に作り出した張本人たちは、シガンシナ区に一瞥もくれることなくサシャを見ていた。

 三人の中でも役割は変わっていないらしく、ライナーが代表してサシャに言った。

 

「起きたなら、質問に答えてもらいたい」

 

 サシャはライナーの言うことを真剣に聞く余裕がない。

 巨人の領域となったシガンシナ区を見て、すぐにでも確認しなければいけないことがあった。

 

「トロスト区はどうなったんですか」

 

 もしかしたらトロスト区も同じ景色になっているかもしれない。そう思うと気が気でなかった。

 だがライナーはサシャの言葉に不快感を示す。

 

「質問をするのはこっちだ。お前はどこまで知ってる。誰にどこまで話した。どこで俺たちのことが分かったんだ。答えろ」

「嫌です」

 

 サシャの頬に衝撃が走る。そのまま横に吹っ飛び、壁の上に叩きつけられた。口の中に血が滲んで、咳と共に鮮血を吐く。目がちかちかとして、サシャは一瞬方向感覚を失った。ライナーを睨もうとして空を見ていた。

 

「容赦はしない。俺たちは、もうお前の知ってる俺たちじゃないぞ」

「トロスト区はどうな……ぐぅっ」

 

 ライナーの固い拳が、またサシャの頬を貫いた。今度は逆側を殴られた。サシャは苦痛の声を上げる。

 傷めつけられるのは辛いことだが、サシャは質問に答える気はなかった。意地でもトロスト区のことを聞こうとしていた。

 

「サシャ、頼む。こんなことはしたくない」

「トロスト区は――」

 

 サシャは殴られ続けた。反撃する暇も与えられず、サシャの唯一の抵抗は意地でも質問に返さないことだった。ライナーの質問を無視する度に、サシャがトロスト区のことを聞く度に、傷はますます増えていく。気を失いそうになると叩き起こされた。答えるまで続けるつもりのようだった。

 鼻は折れ、顔は腫れあがり、まともに喋るのも辛くなる。手足も容赦なく折られ、立つこともできない。それでも抵抗を続けるサシャにライナーは足を踏み落とした。もはや体の内側全体が熱く、どの骨や臓器が傷ついてるのかも分からないほどだ。

 途轍もなく苦しい。だがこれより苦しい思いをサシャはずっとしてきた。だから耐えられた。

 血反吐に汚れた壁の上で、ボロ雑巾のようになりながら、サシャはライナーを見ていた。

 

「もう……もうやめよう。ライナー……」

 

 もはや半ば死にかけているサシャを見て、ベルトルトは震えていた。ライナーは動きを止めて息を切らしていた。

 

「これ以上やっても意味がない……」

「けどよ……」

「拷問しても、答えないやつはいる。サシャはそれだった。見てられない。もう、殺してやろう……」

 

 重たい沈黙が壁の上にできた。聞こえるのは風の音と、サシャの掠れた呼吸音ばかりだった。

 その静かな空間に響いたのは靴音だった。今まで黙って見ていたアニがサシャのほうへと進む。蹴られることを想像して、サシャは身構えようとしたが体はぴくりとも動かなかった。だがサシャに向かってきたのは足ではなく手だった。ゆっくりと仰向けの状態から上半身を起こされる。

 

「ごめんなさい……」

 

 脇の下に手を入れながらアニが呟いた。満身創痍のサシャの体を少しでも痛くないように抱えようとしている。壁から落として殺すつもりのようだ。これはアニの優しさだった。このまま放置していれば苦痛と共に死んでいくことになる。それなら落下して一瞬で散ったほうがいい。

 だがサシャは諦めてはいなかった。力を振り絞って言った。

 

「トロスト区はどうなったんですか……」

 

 その弱々しくも力強い声に、アニは耐えられないとばかりに顔を歪めた。抱えていたサシャを離し、後ずさる。

 

「トロスト区はもうない! 外側の門も、内側の門も、壊した! あんたを抱えてここまで逃げてきた! 今頃はもう巨人の街になってる!」

 

 サシャの目には、空を背景に、涙を落としてこちらを見下ろしている逆さまのアニが見えた。サシャは涙を見つめながら、苦しげにまくしたてるアニの激情を冷静に受け止めていた。

 

「おいアニ!」

「……! どうせこいつは死ぬ……いや、私たちに殺される。なら、最後に餞の言葉として……ね……」

「アニって優しいんですね……」

「やめて……」

 

 サシャは本当にそう思った。表面の印象からでは伝わらない彼女の人間的な魅力を初めて理解できた。あとの二人もそうだ。サシャを痛めつけたが、その辛そうな表情は、サシャの良く知る優しい同期の二人だった。

 だからこそ、この三人がトロスト区を滅ぼしたという事実が、サシャをやるせない気持ちにさせる。

 

「どうして……壁を壊したんですか。仲間だと思っていたのに……」

 

 三人は聞きたくないとばかりに、一様に苦悶の表情を浮かべながら目を背けた。

 

「あなたたちの目的は何ですか……どうすれば……やめてくれるんですか。どうすれば、また元に戻れるんですか……」

 

 傷だらけになり、死にかけ、これから殺されるというのに、トロスト区の門を破った三人に対して、また仲間に戻りたいと願っているサシャ。それを見たライナーは、途轍もない自己嫌悪に陥り、崩れるように膝をついて頭を抱えた。

 

「サシャ……ああサシャ! 俺たちは故郷に帰りたいんだ。そのために壁を壊した! これは俺たちの使命なんだ! だから……俺たちがやめることはない……俺たちは最初から、仲間じゃないんだ! すまない……すまない……」

「どうあっても……私たちを追い詰める気ですか……」

「ああ、そうだ……!」

「なら、あなたたちは私の敵です……」

 

 サシャは全身を駆け抜ける痛みに震えた。何をしても気絶しそうで、空気を吸うことさえまともにできない。それでも全身に力を入れ、呻き声を上げながら、無理やり膝を立てた。骨が折れていようが関係ない。徐々に体を起こしていく。

 あまりの痛々しさと、あまりの気迫に、三人は動くことができない。信じられないものを見る目だった。

 

「やめろ……立つな! サシャ!」

「あなたたちは敵です……巨人と同じです……必ず……必ず、必ず! 必ず!! 必ず!!!」

 

 サシャはついに立ち上がった。

 呆然とする三人をそれぞれ睨みつける。

 

「必ず殺します……」

 

 そして息絶えた。


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