レルゲン中佐のデート日記   作:homura1988

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デキていないターレルがデートする話です。


映画館編

 ダキア大公国の無謀ともいえる侵攻へ教育的指導を与えようと先陣を切った我が第二〇三航空魔導大隊は、六十万人という数だけの脅威に惑わされて無駄に慎重になっていた参謀本部の静かなるデスクを、首都陥落という結果で震えさせた。航空戦力を持たぬ敵など虫を潰すほどに容易く、実弾演習を見舞ってくれたダキアには足を向けてねむれないなと、今一度感謝を述べたほどである。

「では諸君、みんな揃ったな、せいぜい楽しんでくれまたえ」

「「はっ!」」

 今夜は華麗なるデビュー戦を成し遂げた我ら大隊へ褒美が与えられたのだ。それは、将校クラブの士官専用ラウンジで振る舞われる、後方勤務を感じさせる美味なる食事、そして浴びるほどに飲んでも減らないとまで言える数が準備された純国産の麦酒。飲めない者には本物の珈琲まで用意されているらしい。それは、心が躍らないはずはない。

 先に部下をラウンジへと見送り、わたしは少しばかり遅れて向かう。将来の後方勤務の予行演習だ。わたしの足取りは自然と軽快なステップを石畳で踏むのであった。

 

 

 

【レルゲン中佐のデート日記1】

 

 

 

 壁のハンガー掛けで静かに揺れていたワンピースを取る。それは、乾いた血のようなワインレッドのハイネックワンピース。適当に通販雑誌から番号を選んで届いた服だったが、なかなか嫌味に長けているようだ。頭から羽織ってみると身体のラインが強調され、右側にささやかなスリットが入っていることに気付いて驚愕する。

 しかしこのワンピース以外の秋物の私服が無いのが事実で、クローゼットの方に振り向いて改めて確認してみてもやはり軍衣しか並んでおらず、脱ぎ掛けたワンピースをもう一度羽織って観念した。

 お風呂上がりに時間をかけて乾かした髪は適当に櫛づいてみたが、普段の手入れを怠けていることが仇になっているらしく、横に跳ねに跳ねている毛先は落ち着いてはくれなかった。

 仕方なしにいつもより下の方で髪を束ねて結び、セレブリャコーフ少尉に貰った臙脂色のベレー帽を被った。靴は高さがそれほどない革のショートブーツ。今日は陽が暖かいためタイツではなくハイソックスにする。帰宅は遅い時間にならないだろうと荷物になる外套は持っていかないことにした。

 礼儀としてルージュの一つくらい引いた方が良いのかと考えたが、クラッチバッグを開けても財布と陸軍所属の身分証明書に、薬用のリップクリームしか入っていない。畏まりすぎても駄目だろう。最後に化粧台の鏡で身なりを再確認し部屋を出た。

 約束の時間まであと十分、待ち合わせ場所まで歩いて三分程度。早く着きすぎて相手に気を遣わせることもない丁度良い時間だろう。

「まったく、真面目な上司を持つのも、なんとも一苦労だな」

 それは、数日前に行われた大隊の慰労会。将校ラウンジへ意気揚々と向かったわたしだったが、何時ぞやの夜のゾルカ食堂の前で憲兵隊に連れて行かれた事を思い出させるように、夜間は未成年の立ち入りが禁止されていると入り口で憲兵隊に止められてしまい、わたしは部下とともに美味しい料理も本物の珈琲も味わうことが出来なかったのだ。

 その報告を受けたレルゲン中佐が直ぐに謝罪と改めて労をねぎらいたいと申し出てくれたが、それは憲兵隊の規則であって職務を全うしたにすぎないのです、参謀本部の責任ではありませんよと丁重にお断りした。しかしなぜか、切羽詰まる様子で頑なに中佐は引いてくれず、これ以上固辞するのは失礼にあたるだろうと、結局わたしは頷いてしまったのだ。

「お待ちしておりました、少佐殿」

 待ち合わせ場所は軍用車が並ぶ駐車場。微風に砂埃が舞う中で、本日の運転手らしき若い士官が一台の車の前でわたしを待っていた。見知った顔だ、おそらくレルゲン中佐の部下だろう。緊張した面持ちは仕方ない。何も知らぬ者が端から見れば、公用車と部下を使って幼女とデートに行くのだ。この下士官のなかのレルゲン中佐のイメージが崩れていないことを願う。

 部下の手で後部座席のドアがゆっくり開かれた。さて、あの堅物のお方がプライベートではどのような身なりをするのだろう。女性、いや同性として少しばかり興味が沸く。

 革張りのシートの匂いが真っ先に鼻を突き、車の高さに合わせて足を上げる為に落としていた目線を戻す。レルゲン中佐が、束になった書類と睨めっこの最中だった。ちらりと少しだけ顔を此方に向かせたが、直ぐにその眼鏡越しの鋭い目は書類へ向かう。仕事の案件を抱えているのならば、延期にでも中止にでもしてくればいいものを。

「レルゲン中佐、お待たせして申し訳ありません」

「いや、私も今しがた来たところだ」

 わたしが乗り込んだことを確認し、部下の手で丁寧に扉が閉められた。会話はそれだけで途切れる。運転席に部下が乗り込みエンジンが掛かると、ようやく中佐は書類の束を革のシートへと投げた。眼鏡を外し、眉間を指でギュッと抑える。わたしには随分とお疲れと見える。タイミングがあれば、お湯で濡らしたタオルなどで目を温めるだけでも効果があると言ってみよう。

「本日は、よろしくお願いいたします」

「ああ、少佐も忙しいなか、付き合ってくれて感謝する」

 遮光シートの張られた車内の窓ガラスでは視界も少し薄暗いが、それでもはっきりと中佐の顔色は随分と悪いように見えた。先日、ルーデルドルフ准将閣下から中佐の体調があまり芳しくないとは聞いていたが、前に会った時よりも頬が痩せていて、一気に老けて見えた。中佐はまだまだ青年と呼べる年齢だったはずだ。

 顔色をいっそう青白く見せる白シャツに、やはりブルーのレジメンタルストライプのネクタイ。膝丈の、濃いグリーンのPコートがうまく体型を隠しており、本当に病人が無理をしているようにしか見えない。今来たばかりというのは本当で、外套の大き目の襟が立てられたままだ。細めのネイビーのスラックスに、普段使いと思われるサドルタイプのビジネスシューズ。組まれた足とスラックスの間隙からちらりと見える靴下は黒のリブソックスだ。まあ、至って普通のビジネススタイルか。外套の中はまだ分からないが、いくらか想像はつく。

「では、予定通り向かわせていただきます」

 事前に中佐から行き先を告げられている部下がそう言うと、徐行運転だった車が一気にアクセルを踏み込んだ。浅く掛けていたため反動で身体がシートへ倒れたわたしに、中佐が無言の気遣いの目と同時に手を伸ばした。そういった気遣いは無しにしてもらいたいのが本音だが、幼い子どもが倒れそうになると大人は無意識に手を伸ばすものだ。しかしわたしは中佐の手は借りずにシートへ座り直した。

 そういえば、わたしは行き先を教えてもらってない。ランチの時間はとうに過ぎ、ディナーにもまだ早く、どちらかというとカフェタイムという言葉がしっくりくる。まさか参謀本部の将校が半ば無理矢理に馳走すると豪語しておきながら、帝都のカフェで本物の珈琲とそれに似合う甘いもの、だけということはさすがに無いだろう。

 仕方なく窓ガラス越しの景色へと視線を投げる。帝都の見慣れた外観が足早に過ぎてゆくなか、静かな車内はわたしと中佐と部下の三人の呼吸音と車の走行音が交差するだけだ。

 会話など弾むはずがない。確かに、帝国が勝利した暁には最高級の珈琲を用意しようと中佐は言ってくれた。しかし帝国は未だ戦時下だ。ドがつくほどの真面目が故の、少し過剰になりすぎた社交辞令だと思うのが普通ではないのか。

「おっと、すまない」

 中佐の言葉に振り向けば、取り出していたのはシガーケースだった。しかし直ぐにケースはポケットへと戻る。いつもの癖で愛煙を嗜もうとしたのだろう。意味の成さない謝罪が投げ掛けられた。

「気を遣わずとも、吸って構いませんよ」

「いや、今日は貴官をもてなすことが最優先だ、なるべく貴官に合わせよう」

 そう言いながらも、行き先さえ未だに教えてくれない男である。それでは合わせるという言葉に信憑性が持てない。てっきり、他の部下らにもこういった事をしているのかと考えたのだが、慣れていないようにも見える。わたしの見解は違ったようだ。会話はそこで再び途切れると思い車外へと視線を戻す。

「まずは、映画を観にいこうと考えている」

 危うく聞き逃すところであった。映画と中佐は言ったようにわたしの耳は認識したのだが、食事に行くのではないのか。あまりにも慣れない状況のせいか、ベレー帽を取るのを忘れてしまっていた。不自然にならぬように、車外に向いていた視線を中佐の方へ戻しながらベレー帽を取る。

「映画、でしょうか」

「好きではないか、映画は」

「いえ、そういうわけでは」

 運転手の部下よ、この重苦しい状況に助け舟でも出してくれないだろうか。上官の意見に水を差すことは出来ないだろうが、バックミラー越しにこちらの様子を心配そうに窺っているのは分かっているのだ。

 薬用リップを塗ったはずの唇がもう乾きはじめていた。

 車は大きな道から外れ、街中の間へと滑り込む。一本道を外れただけだが、すでにわたしの知らない風景になっていた。大通り沿いの街並みは賑やかに見えたが、中通りもいっそう賑やかだ。

 子ども数人が道路脇で遊んでいるのを恰幅の良い女性が叱っている。飲み屋の入口の前にテーブルとイスを置いて男性らがチェスを楽しんでいる。カフェらしき場所で若い女性がコーヒーカップ片手に談笑している。少し上を見上げればアパート一室の窓枠に肘を置いて一服している老人が見えた。

 後方勤務が叶えばわたしの日常の一部になるかもしれない。喜ばしい風景なはずなのに、軍用車の後部座席でスモークガラス越しから見ているせいか、あまり実感が沸かないのが事実だ。これこそ、スクリーンでモノクロ映画を観ている気分と言えよう。

 プライベートでも交流のある関係柄で、わたしの後方勤務への協力として人脈を作ってくれる等の食事会なら話は別だが、今日は映画を観に行くのだと中佐は先ほどおっしゃった。わたしを後方勤務にと尽力してくれているとはいえ、なぜ貴重な休暇を潰して上官と映画など行かなくてはならないのか、付き合いたてのカップルの初デートじゃあるまいし。

 デート、いやまさか、それはあり得ない。先ほど、端から見れば幼女とデートをする青年に見えるだろうと皮肉くってはみたが冗談の一つだ、当たり前だろう。

 なら、年の離れた兄妹という設定はどうだ。顔見知りの将校らに目撃された場合は中佐によからぬ噂がついてしまうが、中佐が誘ったのだ、仕方ないだろう。

 斜め上を行こうとする思考を掻き消して、深く呼吸をした。わたしは女性ではない、中身は男性だ。十年余り幼女の身体になっているせいか、女性寄りの考えに時々支配されてしまいそうになる。

「外では市民の目がある。互いに私服なのだから今日は名前で呼びたまえ、私はデグレチャフと呼ぶとしよう」

「了解いたしました、レルゲン殿、いえここは、レルゲンさん、でいきましょう」

 中佐は頷いただけで座席に置いてあった書類に手を伸ばし、持っていた鞄へと入れた。そのタイミングで車がゆっくりと減速し路肩へ止まる。映画館に到着したようだった。ベレー帽を被り車から降りる準備をする。車から降りようとしたが、既に降りていた部下が扉を開けてくれた。

 移動時間は数十分程度。思ったよりも近くにあったのか。わたしに続いて中佐が降りてきたのを確認し、映画館の看板を見上げる。小さな映画館で、お世辞にも見目が良いとは言えない程度には古めかしい。上映作品のポスターを張るスペースはほとんど空いていた。

 この時世に娯楽映画は誰が言わずとも自粛対象になるのだろう。市民らに戦場の影を背負わせるのは、いつだって、こういった物だ。

「帰りは適当に車を呼ぶ、非番だったのにすまなかった、今度改めて休暇を取るといい」

 部下は中佐の言葉に答礼をしたが、わたしの方をちらりと一瞥しながら中佐に耳打ちをした。なにか気に障ったことをしてしまったのだろうか。知らないふりをした方がいいと、背を向けておく。しかしながら、部下がわたしに向けた視線は車内のバックミラー越しに見えた目と同じだった。

「そうだが、なにか問題でもあるのかね」

 疑いを持った口調ではなく、あくまでも疑問符が含む口調。やはり部下は何か失言をしたのか。振り返ると、部下は失礼いたしましたと頭を下げて早急に車へ乗り込み、わたしと中佐の前から消えた。慣れない事をする上官を気にしたのだろう。後日、わたしからも礼をしておこう。

「次の上映までもう少し時間があるはずだ」

 中佐が指差す方は、映画館の隣に併設されているカフェ。アルコール類のメニューが一番に目につくが、わたしの鼻腔はすぐに珈琲の匂いを感じ取った。中佐はわたしの応えを聞くまでもなくカウンターへ向かう。

 街の真ん中あたりにある小さな映画館は、案の定、帝都市民であふれかえっている。数少ない娯楽施設なのだ、仕方がない。しかし、ポスターの数を見ると戦時下であるため上映しているのは最近公開されたプロパガンダ映画一本のみだった。目を引く派手なポスターには『北方戦線、異常なし』と、笑い声も出したくないタイトル。恋愛要素も含んでいるのか男性の航空魔導師と女性将校が、なぜか戦車の上で抱き合っていた。

「おいおい、お嬢ちゃんにはまだ早えぞ」

 ビール瓶を片手にした男性が、ほろ酔い気味の口調でポスターの右下の方を指差した。そこには『十五歳以下の観覧を禁ず』の文字があった。男女のベッドシーンか、それとも戦場が舞台であるからグロテスクなシーンか。どちらにせよ、先日十二歳になったばかりのわたしは、残念ながらこの映画を観ることが出来ないということだ。中佐、いやレルゲンさん、事前に映画情報は確認してほしい。軍務以外はそれほどしっかりしていないのだろうか。

 カフェの方を振り向けば、すでにドリンクを二つ持って会計を済ませたらしい中佐がこちらへ戻ってくる最中だった。

「ありがたく頂戴、いえ、ありがとうございます」

 片方のカップを渡されると、手元から漂う珈琲の香りに力が抜けそうになる。仄かな甘さの正体は、わたしのカップの珈琲にはミルクが入っているらしい。しかし中佐のカップの中身はどう見てもブラックである。交換してくれないだろうか。と考えている間に先の上映を終えた客がぞろぞろと劇場内から出てくる。ポスターの注意書き通り、客の中には子どもは見られなかった。

「あの、レルゲンさん、ここに十五歳以下の観覧は禁ずるとあるのですが」

 酔った男性がわたしに親切に教えてくれたように、ポスターの右下を指差す。中佐の目はわたしの指の後を追うと、少しばかり間を空けて、なんだと、と呟いた。そのまま眉をいっそう厳しく歪ませてポスターと睨めっこをしはじめる。この映画館自体がもしかすると成人者を観覧対象とするものではないだろうか。

「どういうことだ、なぜだ、」

「ええ、ですから、この映画、わたしは観られないようです」

 上映案内の看板を見に行こうとする中佐を静止させ、とりあえず、廊下のベンチに座るように施してご馳走になった珈琲を飲む。ああ、やはりミルクの甘さが混ざり合って無駄に舌上に残ってしまう。隣の湯気が妬ましい。部下が中佐に何か耳打ちしていた件はこれだったのではないかと思うと、笑いが込み上げてきた。

 狭い廊下に大人数が行き交っているため少し暑くなってきた。しかし中佐はコートをまだ脱ぐ気配は無い。横を向けば、珈琲片手に項垂れる中佐と目が合った。

「すまない、こんなことになるとは―」

「レルゲン中佐と、デグレチャフ少佐ではありませんか」

 気にしないでください、と返答する準備をしていたのだが、中佐の謝罪を遮って声を掛けてきた者がいた。ベンチに座るわたしと中佐の前で靴を揃え、姿勢を正して見せた見事な敬礼は間違えるはずはない、我らが同胞である陸軍将校の一人だろう。名と所属先を口にするが、あまり馴染みのない部署だった。休暇を利用して映画を観にきたと見える。至って普通の休暇の過ごし方だ、まったく羨ましい。

 立ち上がり答礼をしようとしたが、わたしと中佐も、そして目の前の将校も私服だ。上がりかけた右手を下ろし、少女の真似をしてお辞儀をする。その将校の後ろを通り過ぎようとしていた女性がわたしを見て驚いた顔をした。

「ターニャちゃんですよねっ」

「え、ターニャ・デグレチャフちゃんがいるのか」

「あ、白銀だっ」

「本当だ、小さいな」

 女性がわたしのファーストネームを叫んだ途端、出入り口へ向かって歩いていた客が一斉にこちらを向き、ベンチの周りを囲う。中佐も突然のことに驚きわたしと客を交互に見ている。目の前にいたはずの将校があっという間に客の波に飲まれ遠ざかっていった。

「なんだ、一体なにが起こっているのだ」

 気づけば横にいたはずの中佐まで人の波に消えていた。熱気に包まれる廊下。映画館のスタッフが何事かと慌てている声が耳に届くが、わたしの身長では大人の肉の壁が犇めきあっている姿しか見えない。次々に握手が伸びて勝手にわたしの手を握っていく。

 会えて嬉しい、可愛い、応援しています、頑張って、という様々な声が掛けられ、否応なしに手を握られる。わたしは今どのような顔をしているのだろう。死人は出したくない、落ち着けターニャ・デグレチャフ。ここで市民にアピールをしておけば後々役に立つかもしれないのだ。貴様は、あの地獄のラインを生きて還り、鮮血如き真っ赤なドレスを着させられた苦痛のあの時間さえも成し遂げたのだぞ。笑え、心を無にして笑うのだ。しかし無理に上げた口角がそろそろ痛い。助けてくれ将校よ、何とかしてくれ中佐よ。

「白銀の君、吾輩と食事でもどうだね」

 ようやく握手の順番が回ってきた、と嬉しそうな表情でわたしの手を擦る小太りの男が、屈みながら食事の誘いをしてきた。幾らなんでもそれはお門違いだ。己の力じゃ男の手を振りほどくことが出来ず、その醜い腹を揺らして今すぐ養豚場に直行しろ、と心の中で吐露する。

「ああ狡いぞオッサン、ターニャさん、美味しいパンケーキの店を知っているんだ、俺と行きませんか」

 小太りの男を押しのけ、次は少し若い、グランツ少尉と同い年ぐらいの青年がわたしの手を握る。パンケーキか。薄めのパン生地にシュガーバターを控えめに垂らしたものがわたしは好きだな。青年の誘いに一瞬ぐらりと傾きかけたが、直ぐに列が動いて一期一会は呆気なく終わった。皆一様になんなのだ、この、わたしが成長期で食べ盛りだということを認識しているかのような食事への誘い。いや、そもそも十二歳の少女を食事に誘うことにもっと危機感を抱いてくれ。

「フランソワ料理のお店を経営しているの、どうかしら」

 その次は年配の老夫婦がわたしの前へ立った。穏やかな表情の、大きくて派手な帽子が似合う初老の女性がわたしの手を取り、その隣で旦那様がにこりと笑っていた。料理が他国と圧倒的に差をつけて美味しいと聞くフランソワの料理。これは行かねば。チャンスを逃せば、欲しがりません勝つまでは、になってしまう。

「すまないが、今日は彼女の数少ない非番だ。これくらいにしてやってくれないか」

 ようやく、中佐がこの騒ぎを止めようと人の波を押しのけながらわたしの隣へ戻って来た。あともう少し遅かったなら、わたしは中佐を放って老夫婦の誘いに乗っていただろう。

 「そうね、ではまた今度、そこの殿方と一緒にいらしてね」

 女性はいたずらに微笑んで、店の名刺を中佐の方に渡し出入り口へと消えていく。

「知り合いだったのか」

「いえ、はじめてお会いしました」

 頂いた名刺をコートのポケットに忍ばせながら、中佐はわたしにカップを渡す。大人数の握手を捌いている間に消えていた珈琲が、いつの間にか中佐の手に渡っていたらしい。

 ベンチへ座り直し、一息つきながらカップに口つける。少し冷めた珈琲は、わたしの舌が欲しがっていたブラックだった。出掛ける前に、薬用リップだけでなくルージュも引いていたならば中佐は間違えなかっただろう。

「デグレチャフ、どうやら映画がはじまる前に、君の、例のプロパガンダ映像が流れているみたいだ」

 渡すカップを間違えたことに気付かないまま、中佐は溜め息混じりにそう言う。

 これは初耳だ。なぜわたしを起用している映像が流れているというのに、その本人が知らないのか。印税は、使用料は、わたしの口座にはそれらしきお金は入っていないぞ。意味の無い呆れと怒りが沸々と湧き上がってくる。しかし落とした視線の先の、膝下の丈であっても右側のスリットのせいで太腿が見えてしまっている自分の下肢を見て正気に戻った。やや開いていた足を閉じ、珈琲を一気に飲み干す。

「帰ったら、真っ先に広報局へ抗議を入れましょう」

「ああ、そうしたほうがいい、本当にすまなかった、私の情報不足だ」

 ベンチから立ち上がり出入り口へ向かう。ドアから流れ込む風がやや冷たくなってきたが、支障があるわけでもない。しかし時刻は確実に夕方に向かおうとしている。中佐が練ったデートプランは初っ端から頓挫したようだが、さて、これからどうするおつもりなのか。

 視線を上げて中佐と頷き合う。映画は諦めよう、声に出さずとも中佐もわたしも意見は一致しており、早足に映画館を出た。チケットを買う前に気付いて良かった。売上には貢献せず、ただ館内を騒がしくしてしまったことに気付き、スタッフに声を掛けて謝罪をした。すると、女性スタッフがわたしの敬礼が見たいと言うので靴を揃えてやってみせた。今日一番の黄色い声が耳を劈く。

 唯一の救いは、中佐が持っていたわたしのカップを飲まずにそのまま外のゴミ箱に捨ててくれたことだった。

 

続く

 




次回は遊園地編です。

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