後悔はしてない。
鋭い刃を粉にし混ぜたような、冷たい風が吹いている。
その風に運ばれ、咆哮が聞こえてくる。
狂いし竜の、断末魔の狂い声がしてくる。その巨体は郷までおり、家を破壊し田畑を崩し、生物が暮らせぬ死の土地へとかえた。
竜は死に際、狂う。狂った竜が人里まで来るのは極めて稀だが、どんな厄災よりも恐れるものだった。
葬送軍-それは狂った竜を殺す為に作られた軍隊はそう呼ばれていた。
竜の狂った咆哮が聞こえる。
徐々に大きくなっていくそれは勇敢な葬送軍でさえ怯ませた。
「決着をつける時がきた」
軍隊の先頭に立つ、他の騎士よりも小柄な騎士が声をあげた。
その声は吹き荒れる風にあおられてもなお、凛としていた。
「お下がりください」
近くに控える騎士がそう言った。
命を捨てて、切り込みに行くのは貴女で無くとも良いのだと、そう告げていた。
むしろ先陣に立つ、この美しい女騎士には国に帰ってもらわねばならなかった。
人の身には不可能と言われていた竜殺しの軍隊の為、一軍を率い、鼓舞し、剣が届く場所にまで追い詰めた。
狂竜を殺す事は重要な事だが、それ以上に、この騎士の存在は国の宝となりつつあった。
しかし、その騎士は首を縦に振ることはなかった。
「竜の首は私がとる」
そう言って脱ぎ捨てた兜から見えた顔は、雪の様なシミ一つない肌に同じ色の白い髪。雪の精の様に美しい。
出自も定かでない彼女は、聖女とも、姫騎士とも言われ、この遠征を終えて国にかえれば、姫君として王宮へと召し上げられる筈だった。
しかし、今の彼女には、それらのどの呼び名もふさわしくはない。美しい漆黒の剣を引き抜き、葬送軍と関の声を上げる。
その姿を人はこう呼んだ。
竜殺しのフィリア、と。
フィリアが育った場所は、人が竜の谷と呼び恐れている場所で、竜達は長い間暮らし続けている。
切り立った岩場には、枯れた草木が生えていた。
そして、その谷に住む竜の中で夜空の様に黒い竜がいた。
その竜は谷の中で最も強く、それでいて最も賢い竜であった。
その竜の性質は、獰猛にして聡明。そして狡猾にせて沈着であった。
この世の始まりから生き、この世の終わりを見届けると言われている巨竜が住まう谷に、かつて一人の赤子が捨てられた。
事故であったのか、誰かの策謀であったのかは、分からない。狼に喰われるか、鷹に拐われる筈であった赤子は、幸か不幸か、その谷の中で最も賢い生き物の巣へと落ちた。
竜に慈悲はない。しかし、何かの気まぐれを起こしたのか、あるいは実験であったのか。
その赤子は巨竜の巣の中で、竜の娘として育てられた。
白銀の髪。青空の色の瞳。月日が過ぎるほど、美しくなることが約束されたかの様な少女だった。
竜の谷には、時に絶叫が響きわたる。
「竜は最後に狂うて死ぬものだ」
寝かしつけのかわりに、巨竜は少女に彼らの歴史と知啓を語った。小さな少女が、遠吠えに怯えて、悪夢を見ることがないように。
曰く、狂いし竜は"竜に至る生物"により殺され喰われるのだという。
「末期の絶叫は、同時に誕生の産声でもある」
狼かも知れないし、蛇かも知れないし、鳥かも知れない。最後に竜の心臓を潰した者が、呪いと祝いを受ける。
そして竜ならざるものは、竜の魂をとりこみ、獣から竜へと進化を遂げるのだ。
だから、竜は滅びることはなく、世界の終わりにさえたどり着くのかもしれないと巨竜は、詩を語る様にして言った。
フィリアという人の名前を与えられた少女は、咆哮を子守唄に、竜の歴史を昔話として育った。
竜は少女に名前をつけたが、竜自身の名を教える事はなかった。人を人とし、竜を竜とす。はっきりとした線引きがそこにはあり、一方で、その一線を軽々と飛び越える恐れ知らずとして、フィリアは育った。
「貴方に名前なんていらないわ」
鈴のような明るい声で、可愛らしいその唇で、折れぬ言葉をフィリアは紡いだ。
「この世で一番強いのは貴方、一番大きいのが貴方、一番賢こくて、一番美しいのが貴方。どんなに遠くにいても、私の声を聞いてくれるのが貴方だし、低くて震える声で"フィリア"と呼んでくれるのが貴方よ。間違えることなんてない。だから、貴方には名前はいらないわ」
そんな言葉をしたり顔で言われるたびに、自分の育て方は間違っていただろうかと、巨竜は少し悔やんだ。
フィリアは巨竜を思い付く言葉の限りに誉めたが、一方で、巨竜からは一度も、フィリアの容姿についても、性質についても、言葉にして語ることはなかったし、親愛の情でさえ囁く事はなかった。フィリアは其を不満に思ったはいたが、種族の違いから、仕方ないことかもしれ
ないとも諦めていた。
いつの間にか、フィリアの手足はすらりと美しくのび、髪は溶かした雪のごとき美しい白色になった。
最後に竜は、彼女に剣を教えた。
物心がつく前に、守られることなく捨てられた少女が、己を己で守る事が出来るように。
竜の鬣を削って作られた剣はフィリアだけが扱える物となっていた。
そして、別れの時がきた。
ある朝フィリアが目覚めると、そこは冷たい竜の洞窟ではなく、藁の積まれた馬小屋だった。
「貴方?」
フィリアは眠い目を擦り、虚空に呼び掛ける。
「此処はどこ?貴方」
返って来る筈だと信じていた答えはいつまでたっても返って来ることはなかった。
代わりに、多くの人間が現れ、白色の髪を持ち、竜の鬣を剣として抱く少女を見つけた。
その段になってフィリアは気づいた。
自分は、捨てられたのだと。それは、彼女にとって初めての事ではなかったから、フィリアはすぐに分かった。
涙を落とし、絶望に身を任せた。恨み、憎しみ、自殺をしようとすらした。
別れの言葉もなく簡単に捨てられてしまう、自分はその程度の存在だと、あの巨竜に思われていたことが、何よりも辛かった。
しかし現れた人々は、フィリアを聖女として崇め立てた。
「違う・・・私はそうじゃない・・・」
戸惑いを否定するフィリアに、天啓があったのだと人々は口々に言った。
天の声を聴く占い師が、聡明なる巨竜から天啓を得たのだという。
曰く、馬小屋にて目を覚ます乙女はこの世で一番美しく、この世で一番強い聖女であると。
決して少女を称える事のなかった竜の、それが、たった一度の彼女への賛辞だった。
聡明なる巨竜は、この時大きな間違いを犯していた。
遅きに失した、と言ってもいい。その長き命故に、少女の心の成長を見誤った。彼の放擲は間に合わず、フィリアの心は育ちきってしまっていた。
「貴方・・・」
届く事のない呼び名で求める、そのたった一つの響きは、真の恋へと変わり果てていた。
人と竜とは、添い遂げる事は出来ない。
それでも少女は、己の恋の為に剣をとる。
聖女として突如馬小屋にて現れたフィリアは、その神聖めいた美しさとは裏腹に、国の誰もが敵わないほどに鮮烈に剣を振るった。
その剣筋は美貌よりも数多の男を虜にすることとなり、尊敬と揶揄、そして敬愛をこめて姫騎士とさえ呼ばれたほどだ。
しかし彼女はどんな男の求婚さえにも答えることはなかった。
「貴女の心に囚えている男は、一体なんという名前なのでしょう」
口惜しげに言った求婚者に、フィリアは言った。
「名前など、どれ程の意味がありましょう」
やがて、狂いし竜が人里近くに現れるという予言がなされた。
フィリアはその知らせに歓喜にうち震えた。ついに、待ちわびた日がやって来たのだと思った。
王の前に進み出て、一軍を賜った。王の出した条件は、竜を滅ぼし戻った暁には、姫君として王子に嫁げというものだった。
フィリアはその条件を受け入れた。もとより、帰るつもりもない出立だった。
フィリアが葬送軍を率いて討伐へ向かった事を、聡明なる巨竜はもちろん知りえていた。
「愚かな事を」
竜の谷の洞窟で、冬の様な冷気を吐きながら、巨竜はそう呟いた。
「剣を与えた事が間違いであったのか」
彼女は力に溺れたのかと、巨竜は嘆いた。
「聡明なあなたには、似合わない言葉じゃないか」
洞窟の暗闇から笑う声が聞こえる。
巨竜は時として、人に似た人ならざるものを呼ぶことがある。
「去れ、悪魔よ」
ごう、と竜は氷の息を吐き出し、悪魔と呼ばれた存在は笑った。そして、囁く。唆すことが彼らの本質であるかの様に。
「本当に去ってもいいのかい?」
弱気人の身で、竜をうたんとする、愚かなフィリアを止めることが出来るのは、自分しかいないかも知れないのに。
悪魔の語りの囁きを巨竜は聞くことはなかった。
「狂いし同胞は私が滅する」
大きくて強い彼には造作もないことだった。
同族の魂を食らうことで一体どんな毒が回るのかは、聡明な彼でもわからなかったが、それでもフィリアが命を落とすよりもいいと思っていた。
かは、と悪魔は笑った。
「驚いた。さすれば彼女が人の世界に戻るとでも思っているのかい?そしてふさわしい相手を見つけ、人らしい恋をするとでも?」
私が予言してあげようかと悪魔は笑う。
「彼女は何度でも剣をとる」
竜をその手でほふるために。諦めることなく、絶望することなく。
「竜か、彼女か。どちらかが死ぬまでは終わりはしない」
大きく巨竜は吠え、暴れる尾が悪魔を狙った。洞窟の壁が震え剥離した岩壁は崩れさった。
濃い闇を漂わせながら悪魔の声は反響する。
「彼女の代わりに私があなたへ聞いてあげようか」
それは真実の愛を問う言葉だった。
「例えば、彼女がどんな姿になったとしても、あなたは彼女を愛せるかい?」
まるで、それは。
すでに誰かを愛してしまった物への問いかけではなかったか。
竜の鬣を研いだ剣を使ったとしても、人の身にありながら竜を倒すのは容易ではなかった。
「貴方・・・」
血を吐きながらフィリアは膝をつき、泥にまみれながらそう言った。
フィリアの髪は無残にも千切れて乱れ、腫れ上がった顔では目を開けるのも難しい。
彼女を守ろうとした葬送軍の騎士達はほとんど命を落としていた。
笛のように肺を鳴らしながら、フィリアがこぼすのは、懺悔のような言葉だった。
「・・・私にはもう美しさなんてない。強さなんてものもない。大きく、聡明で優しく勇敢な貴方を愛する資格なんてない・・・」
多くの人を死なせ、狂竜をもまた殺そうとしている。いかに狂った相手とはいえ、原罪を抱えた自分は聖女などではないとフィリアは思う。
狂いし竜の叫び声が、すぐそばから聞こえる。それは欠片も怖くはない。
ただ、今、全てを諦めてしまいそうになる、自分の心だけが怖かった。
きつく目を閉じ、崩れた臓府の破片を吐く。
その口元に、細い指が伸びた。フィリアのものではないそれは、小さな種のようなものを押し込んだ。
それは薬だった。植物の種の形をした、古く、そして強烈な薬だった。
その薬を押し込んだのが何者であったのか。
竜であったのか人であったのか、悪魔であったのかも、彼女にはわからなかった。
ただ、フィリアはその薬に、つかのま意識を明瞭にさせた。
まるで、心臓に薔薇でも咲いたようだった。
そして空色の瞳を開き、立ち上がりながら言った。
「それでも、私は誇り高き竜の娘として」
漆黒の鱗を思い出す。それだけで、再び力が戻ってくる。剣をとる。この力は、この剣は、このために、自分に与えられた物だとフィリアは確信した。
「この恋に殉じてみせる‼」
轟く咆哮は果たして。
狂竜のものであったのか、人のものであったのか。
それとも・・・新しい竜の・・・産声であったのかは・・・まだ誰も知らない。
勇ましき葬送軍は、命を落として竜を葬り、誰一人として戻らなかった。聖女と呼ばれ、竜殺しと呼ばれたフィリアもまた、伝説として残るばかり。
竜の谷では咆哮が轟き、冷たい風が吹いていく。
そして聡明なる巨竜傍らには、世にも珍しい、白色の竜が寄り添っていた。
感想、誤字報告よろしくお願いします‼