愛妻、と言う言葉の意味を正しく認識している人間は、どれほどいるだろう。
いや、何も特段難しい意味を孕んでいる言葉というわけではないのだ。愛している妻、妻を愛し、大切にすること。まあ大体こんな感じだ。その意味を正しく調べたわけでなくとも、ある程度察しがつくだろう。
が、待て。しばし。
このような言葉が出来上がっている訳だが、それは結婚した妻に対しては抱いて当然の感情ではなかろうか。結婚相手とは、好き嫌いよりも一緒にいて苦にならないかが大切なのだ、とはどこかで聞いたような話だが、それも大前提として相手のことを、即ち妻となる女性のことを愛していないと成り立たない関係だ。
その愛が冷めるからこそ離婚、妻と夫と言う関係性が解消されるのだ。
改めてこんな言葉を作る必要性など皆無であろう。
「と言う訳なんですけど、どう思いますか陽乃さん」
「いやいや、わたしに聞かれても困るんだけど」
駅前のカフェで俺の対面に座る元魔王様は、超げんなりとした様子でため息混じりに言った。なにがあったのか、その目も俺と同じく腐ってしまっている。ただそれを指摘しようものなら、社会的にも物理的にも殺される事になるのは火を見るよりも明らかだ。
「あのさぁ比企谷くん」
「なんすか?」
「君のその理屈にはわたしも反対しないよ。うん。確かにその通り。世の中愛さえあればなんでも出来るもんね」
「いやそこまで言ってないですけど」
「比企谷くんは雪乃ちゃんへの愛さえあればなんでも出来るもんね」
「いやその通りですけど」
「否定しないのね......。まあそれは置いといて、お姉さんは雪乃ちゃんとは最近どうなのー? って聞いただけだよ? それがどうして君の妙ちきりんな考えを聞かされる羽目になってるの?」
「あんたさっき同意したじゃねぇかよ。妙ちきりんって言うなよ」
事の発端は数分前まで遡る。別に遡るってほど前の話ではないけども。
雪乃が由比ヶ浜と遊びに出かけてしまったので、暇を持て余した俺は散歩をしていると元魔王と遭遇。カフェに連行されて最近の雪乃との仲を尋ねられたところ、俺があのような返答をしたと言う訳だ。
「つまり、なに、比企谷くんは愛する雪乃ちゃんからの愛を実感出来ていないって言うの?」
「いや別にそんなこと言ってないですけど」
「じゃああれだ。俺の嫁がこんなに可愛いわけがない、って言う惚気だ」
「そっちの方が近いですね」
「はぁぁぁぁぁ............」
めっちゃ長いため息を吐かれた。最初に話を振ってきたのは陽乃さんの方だと言うのに。解せぬ。
「あの頃の可愛い比企谷くんはどこに言ったのかしら......」
「そこら辺に落としてきたんじゃないですか?」
「まああの頃も可愛いってことはなかったけど」
「前言撤回が早すぎる」
「寧ろあれだよね。冷静になってあの頃の比企谷くんを見てみると、わがまま言ってるだけのただのガキンチョだもんね」
「辞めて、それは俺が一番理解してますから。それ以上俺の青春時代を掘り起こさないで」
「それじゃあ一応聞いといてあげようじゃないの。比企谷くんのお嫁さんでわたしの妹の雪乃ちゃんがどれだけ可愛いのか」
「お、聞いてくれます?」
「めんどくさ......」
「聞こえてるぞオイ」
さて、ではどこから語ってやろうか。しかし俺と雪乃の結婚生活において特段語るべきようなイベントはなにもない。毎日を普通に過ごしているだけなのだから。
と言うことで、その一日の模様をお届けしようではないか。
「まず朝起きた時なんですけど」
「そこから始まるんだ......」
「あいつ、絶対俺より早く起きてるんですよ。そんでベッドから降りることもせず、ずっと俺の寝顔見てるんです。俺が起きたら直ぐにおはようのキスを強請ってくるんですよ? もうこの時点で滅茶苦茶可愛いですよね。その後は毎日弁当作ってくれて、仕事行く時なんか行ってきますのハグとキス。正直それだけで社畜になった価値があると確信してます。昼休みの暇な時とかに電話したら絶対出てくれますし、弁当の感想を言ったら凄い嬉しそうにありがとうって言ってくれるんですよ。それから会社出る時はいつも連絡いれますね。そしたらなんて返ってくると思います? 『事故に気をつけて、早く帰ってきてください』とかそんな感じのメールが毎回届くんですよ? もうそれだけで通常の三倍のスピードで帰宅出来ますね。寧ろそのスピードがデフォなまである。家に着いたらお帰りのハグとキス。いっつも玄関で出迎えてくれるんですよ。晩飯は俺の栄養を気遣ってくれてるのが理解出来るし、嫌いなトマトもあいつが作ってくれた料理ってだけで克服しましたね。飯食った後は一緒に風呂入って、その後は雪乃の淹れてくれた紅茶を一緒に飲んでソファでゆっくりしてます。雪乃の機嫌が良かったら膝枕してくれるんですよ。ヤバイですよ、雪乃の膝。めっちゃ柔らかい。何回か寝落ちしたことありますし。いい時間になったら寝室に行って、お休みのキスをして一日終了って感じです。......陽乃さん?」
長い長い語りを終えると、目の前の陽乃さんの顔には疲労の色が浮かんでいた。はて、一体どうしたと言うのか。
「ねえ比企谷くん、わたしのブラックコーヒーに砂糖混ぜるの辞めてくれない......?」
「混ぜてないですけど」
「本当にあの頃の比企谷くんは、もうどこにもいないんだね......」
「逆にあの頃の俺に今更戻っても仕方ないでしょ」
「あの童貞丸出しだった比企谷くんがこんな惨状になってるだなんて......」
「こんな惨状」
「独り身のわたしを虐めてそんなに楽しい⁉︎」
「正直ちょっと楽しかったです」
「うわーん! 静ちゃんの気持ちが分かっちゃうなんて屈辱ー!」
わざとらしく泣き声を上げて、陽乃さんはテーブルに突っ伏した。なんでか知らんが勝った気分。雪乃の負けず嫌いが移っちゃったかね。
しくしくと泣いている陽乃さんを見ていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。その長さから察するにメールだろう。
メーラーを起動して新着メールを確認すると、雪乃からだった。噂をすればなんとやら。
「......雪乃ちゃんから?」
「そうですけど......。あー、陽乃さん、すんまんせんけど俺そろそろ帰りますね」
「えー」
「由比ヶ浜がうちに来るみたいなんで。あ、陽乃さんも来ます?」
「遠慮しとくよ......。もうお腹いっぱいだし......」
「そうっすか」
「はぁ......。比企谷くん、本当雪乃ちゃんのこと好きなんだね」
陽乃さんの言葉に、思わず苦笑が漏れる。
ああ、本当に。感情を理解出来ない自意識の化け物とまで呼ばれた俺が、こんなにも誰かを愛することが出来るなんて。あの頃の俺は想像出来ただろうか。
しかもその相手が氷の女王で、今こうして魔王様と談笑しているだなんて。
「当たり前ですよ。なんせ俺は、愛妻家ってやつですから」
妻を愛し大事にしているものの事を、敢えて別の呼び名で表すのなら、俺はそう言うことになるのだろう。
いいじゃないか、愛妻家。俺が比企谷雪乃を愛しているのは事実として変わらないのだし。
「......わたしも愛してくれる旦那様が欲しいなぁ。どう比企谷くん? ここはひとつ姉妹丼なんて」
「何言ってんですか。て言うかもう帰るから。ちょっと、腕掴まないで。離して」
「ほらほら〜、お姉さんの良いことしようぜー?」
「もうお姉さんって歳でもいだだだだだ!!」
「何か言ったかな?」
「なんもないです! なんも言ってないから腕離して!」
あ、待って、マジで痛い。関節キメられてる。胸当たってますよとか心底どうでも良いくらいに痛いんですけど! しかも変に抜け出そうとしたら余計に痛いし! 性格悪いなこの人!
いい加減にマジで離してください、と言おうとして陽乃さんの方を見ると、何故かその顔は窓の方を見て固まっていた。
不思議に思い俺も同じ方を向いて、全身が硬直した。
窓の向こう側、店の外。そこに直立不動でニッコリと深い笑みを浮かべながら立っている、彼女の姿を見てしまったから。
その背後では由比ヶ浜が苦笑していた。
真に恐ろしきは我が妻。まさかあの雪ノ下陽乃を恐怖で硬直させてしまうほどの冷気を放つとは。
雪乃は徐に携帯を取り出し、それを耳に当てる。勿論震え出す俺の携帯。
「......もしもし」
『随分と楽しそうなことをしているのね、八幡?』
「いや、これは陽乃さんが全面的に悪いと言うか俺は全くの無実と言うか」
「酷い! 比企谷くん酷いっ! わたしにあんなことをしておいて......!」
「ちょっとあんたは黙ってて!」
『詳しい話は家で聞くわ。勿論、姉さんもね?』
プツッと一方的に電話を切られた。
それをポケットにしまい店を出ようとすると、陽乃さんから胡乱な目を向けられる。
「比企谷くん、さっき言ってたのって嘘じゃないの? ていうかなんで雪乃ちゃんあんなに怖くなってるの?」
「......普段可愛い反動とかじゃないですかね」
「反動大きすぎるよ......」
まあ、そんな怖いようなところも含めて、彼女のことを愛している。
なんて、そんな事を言えば、陽乃さんにまた呆れられるだろうか。