「雪ノ下」
二人だけの静かな部室。
私も彼も手元の文庫本に視線を落としている。いつも騒がしい彼女がいなければ、私と彼の間に会話なんて殆どない。あったとしても、それは業務連絡程度のものか、何かのつけて私が彼を詰るだけ。
そんな折、彼から名前を呼ばれた。
それはとても珍しいことで、けれど、彼の視線は手元の文庫本から動かない。
「なにかしら」
会話をする時は相手の目を見て。
小学生でも知っているような常識だ。
私は顔を上げて、彼の目を見る。それでも彼は視線を動かそうとしない。
普段のやり取りの時はこちらに腐った目をぶつけてくると言うのに、これもまた珍しいこと、と言えるのかしら。
私が応答してから暫くの間が出来た。それはたった数秒程度だったとは思うけど、その数秒の間に彼の顔がこちらに向けられる事もなく、言葉が発せられた。
「......日曜とかって、空いてるか」
日曜、日曜日、その日は勿論休日で、その日の予定を聞いてくると言うことは。
もしかして、デートのお誘い......?
そこまで思考が辿り着いた所で、なんだか顔が熱を持ってしまって、彼の顔を直視出来なくて、私も文庫本に視線が釘付けになってしまった。
嬉しい。嬉しいのは確かなのだけれど、けれどここで無闇矢鱈に喜んでしまってはいけない。人に勝手に期待させておいて、実は全くそんなことは無くてただのぬか喜びだった、なんてオチは避けなければ。
状況と彼の態度から考えてそれはないとは思うけれど、そう言い切れないのが比企谷八幡と言う男だ。
でも、彼から誘ってくれたのは事実。
それを断る理由なんて、私にあるはずもない。
「......空けておくわ」
「......そうか」
ここで会話が途切れてしまった。
えっと、あの、それだけ? それだけなのかしら? どの様な用向きがあって、何時に何処に待ち合わせで、とか、そう言うのはないのかしらこの男は。
もしかして私を誘うので頭がいっぱいで、それ以外の必要最低限のやり取りが頭から抜け落ちてる、なんて馬鹿な事は......。
ちらりと横目で彼を見てみると、なんだか安堵した様にため息を漏らしてる所だった。
どうやら本当にこれでOKだと思ってるようね。流石だわ。
これではラチがあかないので、私から尋ねることにしよう。勿論恥ずかしいので彼の目は見れないのだけれど。
「その、それで、どう言った用向きなのかしら?」
「え? あぁ、そうだよな、説明してなかったよな」
あくまでも平然に、なるだけ声が裏返らないよう心掛けながら問うと、彼は今思い出したと言わんばかりに答えた。
「なんか、小町が猫カフェのクーポン貰ったらしくてな。そんで、その、お前さえ良ければ、なんだが......」
「そう。それは、小町さんも一緒に......?」
文庫本のページを捲る。内容なんて一つも頭に入って来ない。今私の脳が捉える情報は、比企谷くんの声ただ一つだ。
「いや、小町はなんか用事あるっつってたから、えっとだな......」
「つまり、あなたと二人で、と言うことかしら?」
「......まあ、そうなるな」
「そう......。分かったわ。では当日はお昼頃に私の家に迎えに来てくれるかしら?」
「お、おう」
「決まりね。では今日の部活はここまでにしておきましょう」
自分の気持ちを落ち着かせるために淡々と告げ、帰りの支度をする。
それにつられて彼も支度を済ませ、二人で部室を出た。そのまま昇降口まで、特に示し合わせるわけでもなく二人で歩き、いつもの通りそこで別れる。
「じゃあ、また日曜な」
「ええ、また」
彼が下駄箱の方まで歩くのを見送って、職員室へと足を向けた。
気を抜くと、一気に頬が緩んでしまいそうだ。なんとか、なんとか家までは堪えなければ。
職員室に鍵を返すと足早に学校を出て、駅まで向かう。電車はそれなりに混んでいたみたいだけど、正直あまり気にならなかった。
家に到着すると、制服から部屋着に着替えることもせず、ベッドへと倒れこんだ。
気を抜いたからか、心の底から一気に嬉しい感情が込み上げてくる。思わず足をバタバタしてしまう。
「比企谷くんが......、私と二人でって......。ふふ、ふふふっ......」
頬がニヤケてしまうのを抑えられない。抑えられるわけがない。きっと、今の私は人様に見せられないような顔をしているのでしょうね。
どうしましょう。こんなに嬉しいのは、彼から誕生日やクリスマスにプレゼントを貰った時以来かしら。
彼と二人きりで猫カフェ。あぁ、それは一体どれほど幸せな時間となるのだろうか。
今日は金曜日。日曜日までまだ時間はある。
それまでに当日着る服を選んで、美容室へも行って、下着は......。
「......っ! わ、私は何を考えて......!」
し、下着なんて見せる予定はまだ無いのだから、そんなところを気にする必要も......。いえ、まだ、と言うのは今後その予定があるとかそう言った話ではなくて......。
って、私は一体誰に言い訳しているのかしら......。
「ま、まずは着替えて落ち着きましょう......」
ベッドから立ち上がり、クローゼットの中の部屋着を取る。制服を脱いで下着姿になった所で、姿見に映った自分の姿が目に入った。
我ながら随分と貧相な体だと思う。勿論肌や髪の手入れを怠った事なんて一度もないし、食事もバランス良く取っている。
自分の顔に自信もある。くびれや脚にだって。でも、ある一箇所だけはどうしても自信を持てない。持てた試しがない。
それに......。
「比企谷くんは、もう少し大人っぽい下着の方が好みかしら......」
なんの飾り気もないブラとショーツ。もし、もしもの話。仮に、例えば、彼に見られるような事があれば、この貧相な体と相まってがっかりされるのではないだろうか。
べ、別にそう言った展開を期待しているわけではないのだけれど、万が一にもそうなってしまった時の事を考えると、なんだか気が重い。
「はあ......」
やめましょう。これ以上は惨めになるだけだわ。さっさと服を着て、夕飯の準備を始めてしまおう。それに、前に自分でも言っていたじゃない。大切なのは全体のバランスだと。
うん、大丈夫よ私。その点で言えば私の体は完璧と言えるわ。
さて、今日の夕飯は何にしようかしら。
それから、美容室の予約もしておかないと。
************
明けて土曜日。更にそれも明けて日曜日。
デート当日。私はかなり早い時間に目を覚ましていた。
いや、正確に言うならば、一睡もしていなかった。
正直に言わせてもらうと、楽しみ過ぎて全く寝られなかったわ。遠足前の小学生の様だけれど、事実なのだから仕方ない。
眠気はやって来ていると思うのだけど、翌日の事を考えてしまうとつい脳が冴えてしまって全く寝付けなかった。
これは少しマズイ。何がマズイって、私は体力が無いからデートの途中で寝てしまう可能性も捨てきれないのだ。それだけは何としても避けなければ。折角の幸せな時間を寝てしまって逃すなんてあってはならない事。
なにより、比企谷くんに寝顔を見られるだなんて、恥ずかしいし......。
「ふう......。それよりも、さっさと支度してしまいましょう」
ベッドを降りてから既に数時間経ち、朝食も済ませて朝のお風呂も入ってきた。
お昼頃と彼に言っているけど、今のうちに支度を済ませておいた方がいいだろう。
となると、まずは着ていく服装か。
現在は12月。上旬と言えど先月からの寒さは当たり前のように持ち越している。
それなりに暖かい格好をした方がいいだろう。ミニスカートやホットパンツを履くことも一瞬考えたけど、それは寒さに耐えれそうにない。いえ、タイツを履けばいけるかしら......? 彼はよく私の脚を見て着ているし、何かの拍子にタイツやニーソが好きだと気持ち悪い事を口にしていた気がする。いえ、それなら寧ろ普通のジーンズを履いてスタイルの良さを見せつけてやった方が効果的かもしれない。うん、そうしましょう。
さて、下は決まったわけだけれど、上の服はどうしましょうか。
改めてクローゼットの中を漁っていると、家のチャイムが鳴った。
比企谷くんが来るにはまだ早い時間だと思うのだけれど、さて誰だろうかと部屋の時計を見て、驚愕する。
「もうこんな時間......⁉︎」
長針が示しているのは『1』。
つまり、13時。お昼頃と十分に言える時間だ。着る服を悩むだけで二時間程使ってしまったなんて......!
兎に角選んでる暇も無いので、適当に引っ掴んでそれを着る。
服を着てる間に二度目のチャイム。ああもう待って頂戴直ぐに行くから!
「はい......!」
『あー、雪ノ下? 俺だけど......』
「俺じゃ、分からない、わね、はぁ......。ちゃんと、ふーっ、名乗りなさい......」
『いや、比企谷だけど、お前大丈夫か?』
「な、なんのこと、かしら?」
『いや、なんか矢鱈と息切れしてるように聞こえるんだけど』
「気のせいよ」
ふぅ......。取り敢えず落ち着いて。時間を見ていなかった私が悪いのだから、比企谷くんにはあと少しだけ下で待ってもらうようにお願いするだけよ。
「所で、事前の連絡もなく突然女子の家に押し掛けるとはどういう了見なのかしら。確かに私はお昼頃にとは言ったけれど、それでも小町さん経由で具体的に何時頃か連絡をしてくれても良かったのではないかしら。こちらにも都合と言うものがあるのだから、その辺りの配慮はしっかりして頂戴。それと、まだ準備が終わっていないからあと10分ほど下で待っていて貰えると助かるわ。ではまた10分後」
『えっ、ちょっ、ゆきのし』
プツン、と。
無機質な音が部屋に響く。
......やってしまったわね。つい、やってしまったわ。ええ、分かってるの。今のは完全に私が悪いのであって、寧ろ約束していた時間の通り来てくれた彼はなにも悪くない。後でちゃんと謝らないと。
けど、今はそれよりも早く準備をしなければ。服はもうこの際今の格好で良いとして、後他に準備しないといけないものは......。
「あっ」
ふと、部屋の机に置いてあるそれが目に入った。
偶には、そう言う趣向を凝らしてみても良いかもしれない。
そう思いながらそれを取る。
「気づいてくれるかしら......」
気づいてくれたら、嬉しいけど。
彼は意外と人を見ているから、案外直ぐに気づくかも。
その時の彼の姿を想像してみて、つい笑みが零れた。
約束通り十分後。家を出てエレベーターで降りると、彼はエントランスのソファに座って待っていた。
「ごめんなさい、お待たせしてしまったわね」
「いや、いい。俺も何時に行くかとか言ってなかったしな」
そう言って、彼は私の全身をチラチラと見る。多分、服が似合ってるとか言いたいのでしょうけど、生憎と今日の服は急拵えで上下を揃えただけで、その上にコートを着ているだけ。そう言ってくれるなら嬉しいけれど、言われたらちょっと複雑な気分。
「そのリボン......」
「え?」
「......だから、リボンだよ。いつもと色違うけど、その、なんだ。似合ってるっつーか、可愛いっつーか......」
「......っ。そ、そう。ありがとう」
ちゃんと、気づいてくれた。それも一目で。
あまりにも嬉し過ぎて、素直に笑顔でお礼を言ってしまった。本心を取り繕う暇もないくらい、心が満たされる。
彼が指摘した通り、今日の私はいつも髪を縛っている二つのリボンを、少し変えた。
いつもは赤いそれを、ピンクのものにしているのだ。
クリスマスの時に彼がくれたシュシュもピンクで、私のイメージとは違うとは思うのだけれど、でも、彼がそう言うイメージを持ってくれていると言うことだから、ピンクのリボンも買っていた。
今まで一度もつけたことはなかったけれど。
今日、机の上に置いてあるのを見てつけてみようと思ったわけだが、そうして良かった。
だって、彼に可愛いと言われたのだもの。面と向かって言われるのは初めてかもしれない。
「と、取り敢えず行こうぜ」
「えぇ、そうね」
今日は幸先のいい日だ。彼に可愛いと言われた。そしてこの後は猫カフェ。それも比企谷くんと二人で。
存分に、存分に楽しむとしましょう。
************
ふわふわとした感覚。
なんだか、頭が上手く働かない。
ゆさゆさと揺れている事は分かる。はて、私は今どこにいるのだろう?
「雪ノ下ー?」
耳を打つ心地の良い声。比企谷くんの声だ。
なんだか直ぐそばからいい匂いがするから、そこに顔を埋めてみる。すんすん。とても安心する臭いだ。匂いの発生源をよく見ると、少しばかり赤い。
「まだ寝てるのか?」
聞こえてくる言葉の意味はよく理解出来ない。必死に記憶を辿ろうとして、思い当たった。
猫カフェに着いて、そこでお昼ご飯も済ませた私は、猫と戯れ過ぎるあまり体力が切れたのだった。
その先から記憶がないということは、そこで眠ってしまったと言う事か。
つまり、これは夢? えぇ、そうね、これは夢よ。だって、状況を推察するに私は現在比企谷くんにおぶられていて、あの捻くれたヘタレ男がまさかそんなことをする筈がないのだから。
「はぁ......。全く、なんでこんなやつを好きになっちまったかねぇ......」
「......っ!」
これは夢の中の出来事で、私に都合が良いことが起きるのは当然で、でも、だからこそ、せめて夢の中でくらい、私も素直に口に出してみよう。
「......私も、あなたのことがとっても好きよ、比企谷くん」
彼の耳元に口を寄せて言ってみた。
ふふ、面白いくらい耳が真っ赤になってる。本当は返事の言葉が欲しいところだけど、眠くなって来てしまった。
夢の中で寝たら、現実に目を覚ますことが出来るのだろうか。
もし、目が覚めたら。
もう少しだけ、彼に自分の気持ちを伝えられるように、頑張ってみても良いかもしれない。
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背中に掛かる重みにはもう慣れた。そもそも羽のように軽いやつだから、元から気になる程の重さではなかったけれど。
伝わる柔らかい感触にも慣れた、と思う。貧相だとばかり思っていたのだが、いざこうしておぶってみると、やっぱり女の子なんだなぁと感じさせられる。
スヤスヤと寝息を立てる音にも慣れた。まさか猫と戯れながら寝るなんて器用な真似をしやがるとは思いもしなかったが、流石にあのまま店の中にいると言うことも出来ない。
だからこうして仕方なくおぶって店を出て来た訳なのだが。
まさか。まさかまさか。
普通そのタイミングで目を覚ますか?
しかもまた寝てるってどう言うことなのこのお嬢様。
「虚言は吐かないって、言ってたもんなぁ......」
さて、どうするべきか。
まずは俺の首元に顔を埋めた我が想い人を家に運んでやるところからなわけだが。
......いかんいかん。さっきのこいつの発言を思い出してしまうと、つい顔に熱が集まってしまう。しかも漸く慣れて来た背中に伝わる柔らかい感触とかをまた意識してしまってなんかもうやばい。
「本当、なんでこんなやつを好きになったんだか......」
本日2回目の言葉。今回は誰にも聞かれてない、と思う。背中の彼女はスヤスヤと寝息を立ててるし。
だがまあ、こんなやつを好きになってしまった自分を気に入ってるのも事実で。
「家着いちまったし......。おい雪ノ下、良い加減起きろ」
「んっ......」
今度は、ちゃんと目が覚めてる時に。
まあ、そのうち言うから、今は夢の中の出来事ってことにしといてくれよ。