今日は二月十四日、つまりはバレンタインデーだ。女子が男子へチョコを渡す日。この世全てのモテない男子が悲しみに明け暮れ、チョコを頂いているリア充どもを殺意の篭った視線で睨む日だ。
そんな日に、あの雪ノ下雪乃がなにも仕掛けて来ないはずがない。
一ヶ月前くらいから俺を揶揄うことに楽しみを覚えている彼女は、確実にバレンタインデーを口実に俺を揶揄って来る事だろう。
だがまあ、それも良し。別に俺と雪ノ下は付き合っている訳でもないが、夜通しお互いに抱き合ったほどの仲だ。なんかここだけ聞かれると誤解を招きそうだが、なにも疾しいことなんてなかった。
そんな相手から揶揄い、それも少しでも好意が混ざっているであろうものを受けたところで、なにを思う訳でもない。寧ろちょっと楽しいまである。
だが、だからと言って油断は出来ない。相手はあの雪ノ下雪乃。眉目秀麗、才色兼備、完璧超人で負けず嫌いの常勝無敗。いかなる手を駆使して俺を揶揄って来るのかなんて想像も出来ないのだから。
このイベントに感けて、何か盛大に爆弾を落として来そうで怖い。
さりとて、ここで変に身構えて部室に行くのも、なんか期待してる風に見られてまたそれを揶揄われたりするのだろう。
結局俺は、例年通り朝にコマチョコを貰い、いつもとは少し違った学校生活を過ごし、しかし普段通りに放課後部室へと向かっているのだった。
由比ヶ浜は三浦達とチョコパなるものを開催するらしく、運悪くも雪ノ下と二人だけとなってしまう。あいつら虫歯になってもしらねぇぞ。
リノリウムの床を歩いた先の扉に辿り着くと、無意識のうちにグッと息を呑んでいた。どうやら、ここから先の戦いに体が震えているらしい。武者震い、という奴だろうか。それとも、恐れをなしているのか。
どちらだろうと変わりはない。今日こそ、俺は雪ノ下に白星を挙げるのだ。
扉にかけた手は自然と力が入ってしまう。しかしなるべく何時もの通り、ゆっくりと開いた。
「うす」
「こんにちは」
部室の中にいたのはいつもと変わらない雪ノ下。静かに文庫本を読み、短く挨拶を交わしたのちに栞を差し込んで立ち上がる。こいつはいつも俺が来るまで紅茶を淹れようとしない。
やがてティーカップと湯呑みに紅茶を淹れた彼女は、俺の方まで湯呑みを持ってきてくれた。
「どうぞ」
「サンキュ」
「......あら、それは?」
掛かったな、雪ノ下!
彼女が指したのは俺のカバンの隣に置かれている紙袋。その中には今日の戦利品が詰め込まれている。雪ノ下的にはまずそこから揶揄ってやろうとでも思っていたのだろうが、これは単なる罠に過ぎない!
「ん? ああ、これな。なんか今日貰った。ほら、バレンタインだろ? 全員が全員、口裏を合わせたように義理だって言いながら渡してきたよ」
戸塚も友チョコだとは言ってたけど、あれは本命だって八幡信じてる。
「そう。良かったじゃない」
「ん、まあ、な」
例え義理だとしても、今日という日に渡してくれた彼ら彼女らの好意を無碍にするほど、俺も捻くれてはいない。お返しだってちゃんとするつもりだ。
さて、そろそろ雪ノ下からの攻撃が来る頃だろうか。ふっ、いいだろう。来やがれ、ツラァ見せろ......、トミーガンが待ってるぜ......。
「では今日はあなたのお茶請けは必要ないかしらね。折角私もチョコを作って来たのだけれど、あなたはそちらを食べるのに忙しくなりそうだし」
......あ、あれ? なんか思ってたのと展開が違うぞ?
もうちょっと、こう、「あら、良かったじゃない。本命の子からは貰えたかしら?」みたいな感じでニヤニヤとしながら言って来るんじゃないの? まあその本命の子から言われるってのも釈然としないけれど。
そんでそれに対して俺が貰えたって答えて、ゆきのんは嫉妬のんにジョブチェンジじゃなかったの? うわ、冷静に考えるとこの作戦気持ち悪いな。なにが気持ち悪いって、雪ノ下が俺に好意を抱いてるってのが前提な辺り気持ち悪い。
その後特に何を言うでもなく自分の席に戻った雪ノ下は、言った通りカバンの中からセロハンの包みを取り出し、その中に入っていた綺麗な形のトリュフチョコをお茶請けにして紅茶を飲み出した。挙げ句の果てには文庫本を開いてまた読み始めてしまう。こうなれば、俺と雪ノ下の間にはおいそれと会話は発生しない。
おかしい。ここ最近の雪ノ下ならそろそろ攻撃して来るはずなのに......!
いや、向こうから来ないのだと言うなら、こっちから仕掛けるまでだ!
「そう言えば雪ノ下」
「なにかしら?」
「お前は誰かにチョコを上げたりしたのか?」
文庫本を読んでいる手を止めて、顎に手をやり少し考える素振りを見せる。いや、君考えるほど友達いないでしょ。
「そうね。由比ヶ浜さんに一色さん、後は一応姉さんにも今朝渡したわ」
「へぇ、お前が雪ノ下さんにねぇ......」
「何か変かしら?」
「いいや、別に。しかし、男には誰一人として渡していないあたり流石だな」
少し意地の悪い笑みを浮かべて長机の対面を見る。きっと雪ノ下は少しムッとなって、意地を張るために一人くらい義理で渡すわよ、みたいな事を言うはずだ。そして雪ノ下雪乃は嘘をつかない。そう言ってしまった以上は誰かに渡さなければならくなり、必然的に友好的な関係を築けていて、なおかつ今この場にいる俺に渡して来るはず! なんか俺、もう雪ノ下からのチョコが欲しいだけみたいになってんな。
まあそれでもいい。別に欲しくないわけではないのだし。
さあ雪ノ下はどう反応するのかと見ていると、彼女は俺の予想に反して、なんでもない顔で言ってのけた。
「あら、私にだって渡す男性くらいいるわよ? 勿論義理ではなくて本命で、ね」
「えっ」
えっ、いるの? マジで? 嘘でしょ?
「その人は今部活中だから、終わった後に靴箱にでも入れておこうかと思っているのだけれど、まさか比企谷くんに気づかれてしまうなんてね」
雪ノ下がチョコを渡すような男で、今は部活中。まさか、葉山か? それとも戸塚? もしくは俺の全く知らない新キャラか?
「所で、比企谷くんは本命の子からもらえたの?」
「......貰えてねぇよ」
その質問はもうちょい別のタイミングが良かったな! お陰様で本来答えようと思っていたのとは別の答えを口に出してしまった。単なる事実を口にしただけだけと。
「あら、それは残念ね。まあ、バレンタインは後数時間続くのだし、期待して待っていたらいいのではないかしら」
「はん、歴戦のプロぼっちを舐めるなよ。そもそも最初から期待なんてしてないっつの」
嘘ですちょっと期待してました。
「そんな哀れな比企谷くんには、特別に私のチョコを恵んであげる」
「え、マジで?」
「ええ、マジよ」
マジか。マジなのか。え、嘘、予想してたよりも嬉しいんですけど。ほら、まあ、雪ノ下料理上手いし、美味しいチョコが食べられるって意味でね。
「んじゃ、まあ、貰えるなら貰っとく......」
あまり言葉尻に感情が出ないように、比較的低い声で返事をする。
しかし、この時の俺は喜びのあまり、その時の彼女の顔を見逃していた。あの、俺を揶揄う時に見せる、小悪魔のような笑顔を。
トリュフの乗った紙皿を持ってこちらにてくてくと歩いてきたかと思いきや、何故かトリュフを一つ摘んでこちらに差し出してきた。
「では。はい、あーん」
「......は?」
その予想外の行動に、思わず間抜けな顔を晒して素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だから、あーん」
「いや待て待て落ち着け待て。どうしてそうなった?」
「あら、私の手からは食べられないと言うのかしら?」
「べ、別にそんなことはねぇけど......」
ゆ、雪ノ下め......! 最初からこれが狙いだったのか! これまでのやり取りは全てこの状況に持って来るための布石でしかなかったと、そう言うのか!
「なら良いじゃない。ほら、あーん」
「............あー」
結局あーんを甘んじて受けることにした。
ん、と口を閉じると、雪ノ下の指がチョコを押し込んで行き、俺の唇に軽く触れる。ほんの数瞬しか触れていないと言うのに、その白くて柔らかくて繊細な指の感触は、いやに口先に残る。
「どう? 美味しいかしら?」
「まあ、美味い、な......」
味なんて分かるはずもないのにそう答える。きっと美味しいはずだ。雪ノ下が作っているのだし。
「ふふっ、それは良かったわ」
微笑みながら、自分でも一つ摘んで口へと運んでいる。その度に見せつけるようにして、俺の唇に触れた指先を自分の唇へ触れさせるのだから、こちらとしては心臓が止まる勢いで高鳴っている。
「もう一ついかが?」
そのくせ、雪ノ下のこの提案には首を縦に振るのだから、俺はどこまでいっても雪ノ下には敵わないのだろう。
「今日はそろそろ終わりにしましょうか。比企谷くん、悪いのだけれど戸締りをお願い出来るかしら?」
「ん、分かった」
二月の中旬に差し掛かってくると、日が落ちてくるのが気持ち遅く感じる。しかし18時前にもなると、やはり外は暗闇に包まれているようで。最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴る前に本日の奉仕部は終了となった。
きっと、雪ノ下はこの後、本命チョコをどこぞの男子の靴箱へと入れに行くのだろう。俺がそれに対してとやかく言える筋合いはない。
「では、また明日」
「ああ、また、な」
ここで彼女を引き止めることが出来れば、どれほど良かっただろうか。勿論そんな事ができる俺ではなく、雪ノ下は先に部室を出て行き、俺も任された戸締りをして、鍵を職員室へと返しにいく。
この世全てを呪わんばかりの平塚先生に鍵を無事返し、昇降口へ。
雪ノ下は一体誰の靴箱に入れたのだろう。部室であんなことをされたのだから、もしかしたらと言う思いもある。けれど、そんなわけがないだろうと思う自分もいる。
マフラーに顔を埋めてふもふも考えながら靴箱を開けると、目に飛び込んで来たのは愛用のローファーなどではなく、ハート形の箱と、そこに貼り付けられた猫のメモ用紙だった。
唖然としながらもそれを取り出し、メモ用紙に書かれた文字を読む。
『私が本命チョコを上げると言った時のあなたの百面相は実に面白かったわ。随分と悩んでいたようだけれど、比企谷くん以外に上げるわけがないでしょう? 雪ノ下雪乃』
「あいつ......」
脳裏にあいつの意地の悪い笑顔がよぎる。
ホワイトデーは、どうやって仕返しをしてやろうか。
さっきまではあんなにも暗い考えばかりだったのに、今はもうそのことで頭がいっぱいだった。