猫。
この日本に生きている人間ならば皆が等しく一度以上は目にしたことがある動物だ。
その品種は多種多様であり、多くの人に愛されている。飼い猫であろうとも気まぐれで家の中をうろちょろしている憎めないアンチクショウだ。
うちの飼い猫であるカマクラも、家の中を割と自由に闊歩している。俺に懐かないのも気まぐれという奴だろう。その気まぐれが随分と長く続いているが。
そんな可愛げのないカマクラでも俺の家族だ。俺よりもカーストが上な辺りが特に。
しかしこの日本には、飼い猫以外にも野生の野良猫なんかが大量にいらっしゃる。日本のどこかには猫島なんて言う、うちの部長が行ってしまえば一生帰って来ないんじゃないかと心配になりそうなものまである。
俺もアニマルスキーヤーの端くれ。街中で野良猫を見かければ目で追ってしまうし、ペットショップなんかで猫を見ていると癒される。
さて、何故突然猫について語り出したのかと言うと。
その理由を語るには少し長くなってしまうので重要な事だけを述べるのならば。
親愛なる小町へ
前略、お兄ちゃんは猫になってしまいました。
************
目が覚めた時には何故か公園にいた。
そして瞬時に気がつく違和感。周囲に存在するあらゆるものが常よりも大きく見えるのだ。もしかして俺以外のこの世の全てにビッグライトでも当てられたのかと思ったが、むしろその逆。俺が小さくなっていた。
公園の噴水、その水面に映る自分の姿を見て、俺は絶句するほか無かった。
そこに写っているのは紛れもなく猫。
目が若干腐っていて、頭のてっぺんから毛がピョコンと跳ねている黒猫だ。
え、何その猫全然可愛くねぇな。特に目が腐ってる辺りが。こんな猫がペットショップに並んでいたら最後まで売れ残って、最終的に独身アラサー女教師が「独りぼっちは、さみしいもんな......」とか言って購入しちゃうまである。
しかしここで慌てないのがぼっち王比企谷八幡。伊達に無駄な思考力で様々な妄想をしていない。
しかるに、これはただの夢だろう。
そもそも人間が猫になるなんて非現実的なこと起こるわけがない。
それが許されるのはラノベや二次創作SSなんかの設定のみ。いかにも材木座が書いてきそうだ。
さて、折角猫になったのだから猫としての人生、いや猫生を謳歌しようではないか。
日向に当たって只管眠りこける。なんとも理想的な生活だ。この夢は八幡的に超ポイント高い。
早速絶好の日向ぼっこプレイスを探そうと歩き始めた時、そいつは俺の視界に写った。
よく見慣れた総武高校の女子制服。烏の濡れ羽色の髪の毛にチョコンと付けられた可愛らしいリボン。
その姿を見間違える筈もない。
俺の所属する奉仕部の部長、雪ノ下雪乃だ。
夢の中にこいつが出てきている事に些かの驚きは隠せないものの、所詮は夢の中。これが誰かに知れ渡る訳でもなし。どうせ起きたら忘れているだろう。
そんな雪ノ下と、目が合ってしまった。
そうなるとどうなるかと言うと
「にゃー」
こうなる。
彼女はなんとも無防備に俺の眼前へとしゃがみこみ、共鳴を始めた。
これは俺もにゃーと答えるべきなのだろうか。でも同級生の女子相手に猫語で喋る男子高校生ってちょっとどころじゃなくヤバイ奴だろ。
いや、冷静になれ比企谷八幡。ここは夢の中だ。俺がどれ程の醜態を晒そうが俺以外の記憶には残らないしどこの記録にも残らない。なんなら目が覚めると同時に忘れている可能性が大だ。
ならば、俺が取るべき行動は一つだろう。
「にゃー」
「......っ!ふふ、にゃー、にゃー」
俺がにゃーと鳴いたのを聞いて嬉しそうに破顔する雪ノ下。ものごっつ笑顔ですぜこいつ。由比ヶ浜相手にも向けた事ないんじゃないの。
そんな笑顔を見れていると思うと、なんだか悪い気はしなくなってきた。寧ろこの子のこの素敵な笑顔をもっと見たいと思う。
「この猫、よく見ると誰かさんに似ているわね」
ここで漸く雪ノ下が人間の言葉で喋った。
一瞬こいつも猫語でしか喋れないとか言う謎の夢なのかにゃーとも思ったが、どうやら違ったらしい。
まあ君が今戯れてる猫はまさしくその誰かさん本人なんですけどね。
「毛が一房跳ねているし、目も愛嬌があって可愛いわ」
え、この目を可愛いとか言っちゃう? 君の美的感覚大丈夫? いっつも君が腐った目とか犯罪者の目とかボロクソに言ってるそれだよ?
「毛並みも随分と整っているし、どこかの飼い猫かしら?」
そう呟いた後、雪ノ下は何やら考え事をするかのように顎に手を当てた。
て言うかさっきからなるべく考えないようにしてたんだけど、雪ノ下さんスカートの中見えそうです。いつもはスカートとニーソの絶対領域によって隠されていた秘密の花園が今にもこの腐った目の視界に入り込みそう。
いや、それよりもヤバイのはその絶対領域を作り出している太腿。常日頃なら120%の確率でこんな近距離で拝めるわけがないものが今まさしくめちゃくちゃ見えちゃってる。
意識してしまうと、そこから目が離せなくなる。
華奢に見える雪ノ下の体でも、その太腿はしっかりとした肉感があって、視覚情報のみでもそこが柔らかいのだと分かってしまう。
「よし、決めたわ」
目の前の猫に危ない目で見られていることなんて全く知らない雪ノ下が意を決したように声を上げる。
「これからあなたを私の家に招待してあげる」
は?
「もしかしたら迷子猫かもしれないものね。そうなると本来の飼い主が探している筈だから、家でネットの掲示板などを確認しなくてはならないわ」
いやいやいや。ちょっと待て。
こいつ適当な理由をつけて猫(俺)ともう少し一緒にいたいだけなのでは?
それに仮に俺がどこかの飼い猫だったとして勝手にお持ち帰りってのはそれ常識的にどうなの?
「そうと決まれば早速帰りましょうか」
そんな俺の想いが届くわけもなく、俺はヒョイっと軽々しく雪ノ下に抱きかかえられた。
目の前には雪ノ下の綺麗な顔。俺がいつもより小さいせいでその顔は大きく写り、俺の小さな視界いっぱいに広がる。
そんな綺麗な顔に、頬擦りされた。
人間よりも鋭敏になっている嗅覚は、ザボンの香りを強烈に脳へと叩きつけてくる。
まるで麻薬のように甘美な毒となったそれは、俺から正常な思考能力を奪い去る。
果たしてそのせいなのか。
ペロリ、と。
舌で舐めてしまった。
雪ノ下の、白磁のようなその頬を。
「きゃっ、もう、擽ったいわ」
猫に構ってもらえたのが嬉しいのか、言葉とは裏腹にその声色はどこか嬉しそうだ。
オレハナニヲヤッテイルンダ?
いや、落ち着くんだ比企谷八幡! こう言う時は素数を数えるんだ。素数は孤独な数字。ぼっちの俺にも寄り添ってくれる優しい数字。所で素数って1も入りましたっけ?
よし、落ち着いてきたぞ。
そう、これは夢だ。
現実ではない。
つまり目が覚めたら、今俺が雪ノ下の頬を舐めたと言う通報待った無しの変態的行動も無かったことになる! Q.E.D.! 証明終了!
............雪ノ下の頬、柔らかかったなぁ。
************
その後俺は雪ノ下に抱きかかえられ、背中に感じる柔らかな感触から来る煩悩と戦いながら、なんとか雪ノ下のマンションへと辿り着いた。
文化祭でこいつが体調を崩した時以来の雪ノ下宅は、あの頃と比べて少し生活感のある部屋になっていた。
ソファの上にはパンさんや猫のクッションが所狭しと並べられており、ビデオデッキにはパンさんの円盤が。多分あれ全作品揃ってるんじゃないかな。
雪ノ下の腕から降ろされて漸く色々なものから開放された。
これで嘘でも一息つけると思っていたのだが、そんな矢先だった。
「さて、では一緒にお風呂に入りましょうか」
そう提案して来たのだ。
どうやらこの夢は悉く厄介らしい。
勿論俺だって健全な男子高校生であり、そう言うことに興味がない事はないのだが、何が悲しくて夢の中で体験せにゃならんのだ。
しかし俺がどれだけ否定の言葉を並べようとしても口から出るのはにゃーにゃーと可愛らしい鳴き声のみである。
「あら、そんなにお風呂に入りたいの? ふふ、用意するから少し待っていて頂戴ね」
盛大に勘違いしてた。
いや確かに楽しみっちゃ楽しみだけど! 学校一の美少女とお風呂とか夢のようだけど! ってこれ夢じゃん! じゃあ問題ないな!
......なんだかテンションがおかしくなってる気もするが察してくれ。こうでもしないと色々と持ちそうにない。もしもこれで俺が目覚めた時に夢の内容全部覚えてたりしたら雪ノ下に合わせる顔が無いし。
それから数分も経たずして、部屋着に着替えて準備の終えた雪ノ下に連れられて風呂場へ。
なんかもうワクワクしちゃってる自分がいて軽く自己嫌悪。
因みに雪ノ下の部屋着は上下ともに猫の柄が入ったスウェットだった。前に見た時と比べて随分とラフな格好で割と予想外。
その格好で俺を抱えた雪ノ下は洗面所で一旦俺を降ろした。
ついにその神秘のベールの向こう側を見てしまうのかとドキドキしていたのだが、彼女はスウェットの裾と袖を捲るだけに終わり、再び俺を抱えて風呂場へと向かった。
え、それだけですか? これだけ期待させておいて?
も、弄ばれた......。男子の純情を雪ノ下に弄ばれた......。
そんな俺の心情を見透かしたのかは分からないが、雪ノ下は困ったように笑って言った。
「ごめんなさいね。本当は一緒にお湯に浸かりたかったのだけれど、あなたに見られていると、なんだか彼に見られているようで恥ずかしいの」
うん、まあそうだよね。今の俺は猫とは言えオスだし。目なんてまんま俺だし。
「その代わり、しっかり綺麗に洗ってあげるわ。元の飼い主の下へと帰る時に汚れた体だと嫌だものね」
心底楽しそうに笑って、雪ノ下は俺の体を洗い始めた。
************
風呂場で雪ノ下に全身をくまなく弄られた後は飯が待っていた。
雪ノ下は猫を飼っているわけでは無いのでキャットフードなんてなかったが、その代わりに鯖缶が出て来た。
いや、キャットフード出されても困るけど鯖缶て。お前鯖缶とか家に置いてるようなキャラじゃないだろ。
出された鯖缶を美味しく頂き、なんやかんやあって寝室に通された。
どうも猫(俺)と一緒に寝たいらしい。でも雪ノ下さん、今まだお日様が出てる時間ですよ? お前昼寝するようなキャラじゃry
その部屋に入った時、真っ先に目に入ったのは少し古ぼけたパンさんのぬいぐるみ。
他にもパンさんのぬいぐるみなんていくつも置いてあるのだが、枕元に置かれたそれだけがやけに目に付いた。
失礼かと思いつつもベットの上に飛び乗ってそのぬいぐるみの前へ向かう。
あぁ、どうやら俺の見間違いじゃないみたいだ。
「そのぬいぐるみが気になるの?」
そんな俺の様子を見た雪ノ下がベットに腰掛けて、とても優しい笑顔で語り出した。
「それはね、大事な人に取ってもらった大事なものなの。と言っても、そのやり方は褒められた物ではなかったけれど」
クスクスと微笑む雪ノ下は俺と同じくあの日を思い出しているのだろう。
由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに向かったららぽーと。そこにあるゲーセンで俺が店員に取ってもらったものだ。
何故そんなものが今更出てくるのか。聞いてみたいが、今この状態ではそれも叶わないし、もし可能だとしてもそれを聞く勇気が俺には無いだろう。
「そのぬいぐるみだけじゃないの。あの人には色々なものを貰ったわ。形のあるものから、言葉にすらできないものまで。きっと彼はそんな事はないと否定するのでしょうけど。それでも、私は彼から沢山のものを貰った」
とても大切で、どこまでも愛おしいものを、そっと胸のうちに抱くように。
本当に、この夢は厄介だ。
今まで目を逸らしていた感情すらも見せつけて来やがる。
俺だって沢山のものを貰った。形あるものから言葉にすらできないものまで。本当に、沢山のものを。
だけど、今この姿ではそれを伝えることすら出来ない。
「さあ、私のお話はお仕舞い。そろそろお昼寝しましょう?」
もしもこの夢を覚えていられることが出来たのならば。
いつかきっと、未だ明確な名前すらつけることの出来ないこの感情を伝えられたらな、と。
そんな風に思いつつ、俺は雪ノ下の胸に抱かれて眠りについた。
果たしてこれは泡沫の夢まぼろしだったのか、現実に起きた奇跡だったのか。そこはみなさんのご想像にお任せします。