この日、総武高校にまた一つ、確かな終わりが訪れた。
それを喜び、新年度からの生活に胸を踊らせる者もいれば、それを悲しみ、友人達との別れに涙する者もいる。
我がクラスでは殆どが後者だ。戸部とかめっちゃ泣いてる。大和や大岡と泣きながら抱き合って、それを見た海老名さんがいつも通り血飛沫をあげ、いつも通り三浦が介抱する。
けれど、ただ一ついつも通りで無いとしたら、由比ヶ浜が、三浦が、あの海老名さんまでもが、目尻に涙を溜めていることか。
あの騒がしいような鬱陶しいようなやり取りも今日で見納めかと思うと、少し寂しく、はならないな。うん。ならない。
他にも周囲を見渡せば、川崎はこんな時でも一人で椅子に座り外を眺めているし、戸塚は他に親交のあった友人と何事か会話を交わしている。
誰も彼もが教室内で別れを惜しむ中、俺は一人特別棟へと足を向けた。その背中にかかる声はない。
由比ヶ浜や戸塚には春休み中に遊ぶ約束を取り付けられた。川崎とは大志と小町経由で今後もなにかしら接点があるかもしれない。
けれど、彼女だけは。
クラスも違えば、連絡先も知らない、あの少女だけは。
きっと、このまま家へと帰ったら、由比ヶ浜達とは違い今後会うことも無いのだろう。例え由比ヶ浜や小町経由だとしても、俺は恐らくそこで関わりを絶ってしまう。いや、由比ヶ浜だって、戸塚や川崎だって、この先は分からない。それは当たり前だ。先のことなんて分かるはずがない。
春休みに遊んだからといって、大志経由だからと言って、果たして俺は今の関係を今後も続けられるのか。問われるならば即座に否と答える。まず俺から連絡を取ることがない。その内向こうも連絡を入れるのも辞めて、そして痛みを伴う思い出へと風化して行くのだ。
初めて、それでは嫌だと思った。
彼女のことを過去の思い出にしてしまうことを、俺は酷く嫌った。
何故かは分からない。分からないが、心の底から強く、そう思ってしまうのだ。
だから今日も、こうして、これまでと同様にリノリウムの床を踏みしめる。
特別棟に人気はなく、その事が卒業の寂寥感をより一層増している気もする。窓から覗く桜の木は、未だ満開には程遠い。卒業シーズンだとか言われようと、桜の花弁は俺たちの別れを見守ってはくれない。
やがて見慣れた扉の前に辿り着く。何度この扉を開いただろう。何度、俺たちを待つ彼女と挨拶を交わしただろう。数えるには馬鹿らしく、けれどその一つ一つが確実に今の俺を形作っている。
果たして手を掛けた部室の扉は、俺の予想通り軽々と開く事が出来た。
扉の先の空間には、見事に何もなかった。あたたかな香りで満たしてくれていた紅茶セットも、別々の方向を向いていた椅子も、その椅子達を繋いでくれていた長机も。もう、ない。
精々が、隅に追いやられ使われる気配のない、椅子と机の山。それと掃除用具の入れてあるロッカー。どこからどう見てもただの空き教室だ。
けれど、そこが異質に感じられたのは、一人の少女がいたから。
少女は斜陽の中で立ち竦み、惚けた表情で外を見ていた。
世界が終わった後も、彼女はここでこうしているんじゃないか、そう錯覚してしまう程に、この光景は絵画じみていた。
それを見た時、俺は身体も精神も止まってしまった。
---不覚にも、見惚れてしまった。
彼女は来訪者に気づくと、こちらに柔らかな微笑を向けてくれる。
「こんにちは」
「おう」
とても短い、いつも通りの挨拶。しかし、彼女の、雪ノ下の表情には些か驚きの色が見える。それもそうか。今日ここに来るなんて、言っていなかったし。
「まさかこんななにもない所に来るとは思ってなかったわ」
「それを言ったら、お前だってこんななにもない所で黄昏てたじゃねぇかよ」
「私は少し、ね......」
目を伏せ、窓枠をそっと撫でる。その顔には笑みを浮かべているが、しかし、その瞳がどこを映しているのかは分からない。
どこか遠くを見ているような。ここではない、遠い未来を。
「もう、終わりなのよね......」
「......そうだな」
「過去二度の卒業式ではなんとも思わなかったのだけれど、まさか高校の卒業式がこれ程まで心にくるものになるとは、思いもしなかったわ」
「まあ、それについては同感だな。誠に遺憾ではあるが」
「ふふ、素直じゃないのね」
二人とも椅子を出すこともなく、立ちっぱなしで言葉を交わす。この部屋に、紅茶の香りはもうしていない。だけど、彼女と交わす一言一句が、心地良くて。ずっとこの場でこうしていたくなる。
「クラスの方はいいの?」
「誰に聞いてるんだよ。戸塚とか由比ヶ浜はどうせ春休みにみんなで遊ぼうって言ってんだから、特に留まる理由もないだろ。お前は?」
「愚問ね」
「だろうな」
彼女とは進学先も違えば、住んでいる場所だって近いわけじゃない。同じ県内の大学とは言え、互いに進んで外出するようなやつでもない。
だから、ここで繋ぎ止めておかなければ。
らしくなくても、みっともなくても。
それが、俺が出した答えだから。
「それで、あなたはどうしてここに来たのかしら?」
「お前ならここにいると思ったからな」
「つまり?」
「......まあ、なんだ。その、伝えておきたいことが、あったから」
「......っ。そ、そう」
どうしてか頬を薄く染めた雪ノ下は、視線を忙しなく泳がせている。
卒業式の日に、空き教室で男女が二人きり。絶好のラブコメ的シチュエーションだろう。だけど、これから行うのはそんなロマンチックなものではなく、俺の醜いエゴを押し付けるだけのものでしかない。
伝えるべき言葉はシンプルに。真っ直ぐ、分かりやすく。
「雪ノ下」
「......はい」
らしくもなく敬語での返事。ここで漸く目があった。
パッチリ開かれた瞼と長い睫毛に濡れた瞳。綺麗な線を描いた鼻梁に真っ白な肌。今はその肌が、紅く彩られているが。
本当に、可愛いやつだ。びっくりするくらいに。ただ向き合っているだけで、気後れしてしまう程に。
そんな雪ノ下から目を逸らすこともなく、想いを込めた言の葉を紡ぐ。
「俺は、これからも、お前の隣にいたい」
「......っ!」
彼女が息を呑んだのが分かった。目は見開かれ、頬の紅潮は増す一方だ。雪ノ下のそんな変化にも構わず、俺は続ける。
「でもな、なんでそう思ってるのか、どうして俺はわざわざ言葉にしてまで、お前の隣にいたいのか。分からないんだ」
「えっ......?」
これから先、雪ノ下雪乃に踏み込む人間が出てくるかもしれない。俺たちの卒業を見ることなく転勤してしまった、恩師の言葉だ。
その誰かが現れたら、きっとそいつが雪ノ下の隣に立っているのだろう。そして、雪ノ下はそいつに優しい微笑みを見せて、雪ノ下自身もそいつの隣に立っていたいと思うのだろう。
そんな未来を考えると、胸に鈍い痛みが走る。存在すらしないそいつに、理不尽な怒りすら湧いてくる。
それがどうしてなのか、自分の感情な筈なのに、全く理解出来ない。
けれど、ただ一つ分かっていることがある。
「それでも、理由が分からなくても、俺はお前の隣に立っていたい。他の誰でもない、俺が。比企谷八幡が、雪ノ下雪乃の隣に」
「......」
俯いてしまって、彼女の表情は見えない。
呆れられてしまっただろうか。もしくは軽蔑されてしまっただろうか。
そうなってもおかしくないと自覚はある。なんならそうなる自身まである。
理由も分からない俺自身の感情を、手前勝手にも雪ノ下に押し付けると言うのだ。なんと言う暴挙。なんと言う愚行。
しかし顔を上げた彼女の頬は、未だ熱を持っていて。
「まるで愛の告白のようね」
「うぇっ⁉︎」
想像もしていなかった返答に、思わず変な声を出してしまった。
「いえ、寧ろプロポーズの言葉、かしら?」
「ちょ、ちょっと待て、違うから、そう言う意図があっての言葉じゃないから!」
「ふふっ、分かってるわよ」
どうやら揶揄われただけらしい。
て言うか愛の告白とかプロポーズとか......。思い返してみればそう捉えられてもおかしくない言い回しで、今更ながら恥ずかしくなってしまい、俺まで頬に熱が集まってしまう。
「それにしても、そこまで口に出したのに、自分の気持ちが分からないとは、流石は比企谷くんね。最早尊敬してしまうわ」
「おい、ちょっと褒めてるっぽいけど絶対違うだろ。絶対貶してるだろ」
「あら、よく分かったわね」
ニッコリ笑顔で上機嫌の雪ノ下さん。そこからは負の感情が見えることはなく、俺の先程の発言に対しても嫌がったり気持ち悪がったりしているわけではなさそうでちょっと安心。
「それで、先程の返事だけれど」
「お、おう」
改めてそう切り出されると、緊張してしまって体が強張る。
コホン、と咳払いした後、雪ノ下は今まで見たどれよりも綺麗な笑顔で言った。
「あなたがその理由を理解出来ないと言うのなら、私が教えてあげる。私が、あなたの感情の正体を見せてあげる。だから、それを理解出来るまで、あなたは私の隣にいなさい」
「お前が......?」
「ええ、私が」
「......そうか」
それは、なんとも頼もしい。あの完璧超人の雪ノ下が教えてくれるだなんて、百人力どころか八万人力だ。八幡だけに。
いや、頼もしいとか、百人力だとか、そんなのはどうでもよくて。
ただ、俺の言葉を、俺の想いを受け入れてくれたことが、只管に嬉しい。
「ははっ」
「......なにを笑っているのかしら?」
「いや、悪い。なんか、嬉しくてな」
「今日のあなたは素直すぎて怖いわね。一体なにを企んでいるの?」
「これ以上はなにも企んでねぇよ」
それに、卒業式の日くらいは素直になっても、バチは当たらないだろう。
そう言えば、と付け加えるように言うと、雪ノ下はキョトンと小首を傾げる。その様がまた随分と可愛らしい。
そんな可愛らしい子の隣に立っていられる。その事がこれ以上ないほどに誇らしい。
「もし、いつか俺が、これを理解出来たら。その時はどうなるんだ?」
彼女と共にいれる期限がそこだというのなら、更にその先はどうなるのだろう。
そこではいさようならか、それとも。
無駄に期待するなと理性が訴えかけるも、本能は別の答えを求めてしまう。
そうして雪ノ下が出した答えは。
「その時は、余計に離れられなくなっているかもしれないわね」
言われた未来をイメージしてみるも、イマイチ分からない。それも当たり前か。まずその先に至るまでの過程が理解出来ないと言っているのだから。
「今はまだ分からなくてもいいわ。けれど、いつかきっと、あなたにも分かる時が来る。その時まで、ちゃんと私について来なさい」
「ああ、ありがとな」
雪ノ下らしい尊大な物言いに、思わず笑みが漏れた。
今日は卒業式。確かなものが終わりを告げ、それでも俺が一歩踏み出し、新しいなにかが始まった日。
今日、ここで始まった、明確な名前をつけることの出来ないなにかが、いつか終わる時が来るのかもしれない。けれど、その終わりはきっと、また新しいなにかの始まりとなるのだろう。
その時が、何故だか無性に楽しみだ。