あれは、そう。高校三年の二月十四日だった。
受験勉強もいよいよ大詰め、と言う日だ。
由比ヶ浜が自分の危うさに気がついたのか、予備校に通い出したのは既に数ヶ月前。
暫くは俺と雪ノ下の二人きりなんて言う状況が続いていた。
そんな、何でもない日常の一幕。
に、なる筈だった日。
世間一般的にはその日はバレンタインデーだった。
一年前の今頃はクラスメイトやら生徒会長様やらの依頼でお料理教室なんてものをやっていたのも懐かしい。
因みに部室に来るまでの間に色んな人から義理チョコ貰ってたりするんだけどな。
俺にも漸く春が来たのだろうか。
そう、チョコを貰えたのだ。
戸塚からも貰えちゃった。来月は三十倍くらいで返さないと。あれ、でも来月って卒業した後だから戸塚に会えない?
嘘だぁ、八幡卒業したくないよぉ。
と、まぁチョコを貰った相手が主に奉仕部として関わって来たメンツだったから故に、この日、この状況でソワソワしてしまっても仕方ないと言うものだろう。
「何をそんなに浮かれているのかしら。先程から百面相をしていて気持ち悪いのだけれど」
隣からページを捲る音が止んだと思ったら罵声が飛んで来たでござる。
「え、なに。俺そんなに表情豊かだった?」
「目だけは相変わらず腐っていたけれど」
「そこは仕方ないと割り切るしか無い。何せ目の腐っていない俺なんて俺じゃないまであるからな。て言うか、そっちこそ何俺のこと見てんだよ」
そんなチラチラ俺の顔見るなよ勘違いして告白して玉砕しちゃうでしょ。
「別に見たくて見ていたわけではないわ。ただ隣に不審者がいればそちらに目がいって思わず通報してしまうのも仕方ないことだと思うのだけれど」
「通報はやめてね、俺まだ何もしてないからね?」
「まだ、と言うことはこれから何か犯罪に手を染める予定でもあるのかしら?」
「そう言う意味で言ってんじゃねぇよ。一々揚げ足取るなっての」
ふふ、と微笑むその表情に心を奪われる。
その毒舌が無ければ男子の理想を完璧に体現したかのような少女なのに。
本当、どうしてこんな奴の事を好きになってしまったのだろうか。
「そうね、ここで未来の犯罪者を減らしておくと言う意味でも、これは渡しておくわ」
態々そんな口実をつけてまでカバンから取り出したのは可愛くラッピングされた小さな復路。
猫のワンポイントがチャーミングだ。
「バレンタインの日くらい素直になってもバチは当たらないと思います」
「あら、何を勘違いしているのかしら?私はあくまでも部活仲間が間違えた道に進まない様に配慮して誠に遺憾ではあるけれどこうして貴方にバレンタインのチョコを渡しているだけよ?」
「そこまで言われると流石の俺も傷つきますよ。......まぁ、なんだ、その、ありがたく受け取るとする」
「ええ、ありがたく受け取りなさい」
その後は完全下校時刻まで一つの会話も無く互いに読書をしてその日の部活は終了。
好意を寄せている女子からチョコを貰えただけで舞い上がって本の内容が全く頭に入ってなかったのは秘密だ。
校門前で雪ノ下が鍵を返すのを待ち、やって来た彼女のカバンをふんだくって自転車の籠に入れる。
由比ヶ浜は予備校に通い出した辺りからか、彼女を家に送るのは日課となっていた。
毎日の様に一人で帰れると拗ねた様に言われるが、この時期は日が落ちるのが早い。
そんな中一人で帰すのは男が廃るってもんだ。
それを雪ノ下に一度言ってみたところ、
「それ以上廃りようがないでしょう?」
と心底不思議な顔で発言されたのは記憶に新しい。
そんないつもの帰り道、雪ノ下のマンションが近づいて来た頃合いに、彼女は唐突に口を開いた。
「ねぇ、比企谷君。私の将来の夢って聞きたい?」
「どしたのいきなり」
聞きたくない、と言えば嘘になる。
母親が敷いたレールの上をただ歩くだけの人生を半ば決定付けられている雪ノ下雪乃が持つ、彼女だけの夢。
気にならないわけがない。
そんな俺の気持ちを察してか、返事を待つまでも無く雪ノ下は語り始めた。
「私ね、喫茶店を開きたいの。大きいものじゃ無くてもいい。どちらかと言えばこじんまりとした、隠れ家的な感じがいいわね。貴方が美味しいと言ってくれた私の紅茶や料理を振る舞って、偶にはお客様の悩み事なんかの相談に乗って見るの」
まるで奉仕部のようにね、と楽しそうに微笑みながらあり得るかもしれない未来を語る。
「そこには由比ヶ浜さんや、一色さんもいたりして。そして、貴方が、比企谷君がいつも隣にいてくれる」
あぁ、それはなんて尊く、儚いものなんだろうか。
所詮は彼女の自己満足の為の願望でしかない。
「でも、こんなものは良く出来た
そんな幻想は現実の前に打ち砕かれる。俺はそれを何よりも誰よりも知っているはずだ。
だからこそ、そう儚く諦めたように笑った彼女を見て、俺は一歩踏み出そうと思ったのかもしれない。
「なぁ雪ノ下。妖精に尻尾があるのかどうか、俺と確かめにいってみないか」
口から出た言葉は、俺には似つかわしくないほど随分とロマンチックな言い回しになっていた。
クソ、別にこんな風に言わなくても良かっただろうに。
ほら見ろ雪ノ下さん驚いて目を丸くしていらっしゃるじゃねぇか。
「驚いたわ、貴方でもそんな言い回しが出来るのね」
「自分でも驚いてる所だよ。俺の口からこんなロマンチックな言葉が出るなんてな」
「でも、そうね。貴方となら、いいえ。他の誰でもない貴方と一緒に......」
「雪ノ下?」
俯いてボソボソと何かを呟いた後上げたその顔は、冬の寒さのせいなのか少し赤らんで見えた。
「比企谷君、私にお伽話のその先を見せてくれるかしら?」
それが今から九年前の、とある冬の一幕だった。
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カランコロンと来店を示す音が店内に響く。
今日も今日とて閑散とした我が喫茶店に本日初の来客だった。
「いらっしゃい」
「マスター、いつものを頼む。」
「いつものってどれだよ。お前毎回紅茶とコーヒーとどっちかわからねぇんだからしっかり注文しろ」
高校時代から変わらない無駄にいい声で小太りの元同級生がカウンターに座る。
こいつに紅茶を淹れるためだけに奥から彼女を呼び出すのもアレなので今日はコーヒーでいいだろう。
「んで、今日も担当から逃げてきたのか材木座先生?」
「逃げてきたのではない。戦略的撤退というやつだ。未来への進軍だ」
「ま、一色が担当に当たっちまったんだからそこは諦めるんだな」
たった今後輩から届いたメールの内容を目の前に座る小説作家に見せてやる。
どうやら材木座がここに逃げ込んでいることはバレているらしく、そこにいるかと確認のメールが舞い込んできたのが数分前。
「は、八幡!我らは前世を共に戦った中であろう!そんな我を見捨てるというのか⁉︎」
「安心しろよ剣豪将軍。適当にはぐらかしておいてやったさ」
「八幡、お主......!」
「感謝の言葉はいいからうちの売り上げに貢献しやがれ」
材木座の頼んだ日替わりランチを厨房に伝えるために奥に下がると、当店自慢の美人シェフと現役JDアルバイトが揃ってあーでもないこーでもないと頭を悩ませていた。
「なに、まだ悩んでんの。バレンタイン限定メニューとやら」
「そう思うんなら八幡もアイデア出してよ」
「ダメよ留美さん。この人は学生時代こういう手のものはいつも嫉妬の対象でしか無かったのだからまた捻くれたロクでもない意見しか出さないわ」
「よく分かってんじゃねぇか。ほれ、日替わり一つだ。限定メニューに頭使うのもいいが本来の仕事は忘れんなよ」
「貴方に言われずとも分かってるわよ妬み谷君」
「お前も今は比企谷なの理解しての発言だよな?」
て言うかバレンタインまであと五日しか無いんですけど今更間に合うんですかね、とは言わない。
言ったら最後雪乃から三倍返しくらいで言い負かされるのは目に見えているから。
客をあまり待たせるなよ、とだけ言い残して表の方に出ると、意外にも材木座はパソコンを広げて執筆作業に勤しんでいたようだ。
なんだよ、案外真面目に仕事してんじゃねぇか。ま、好きなことを仕事にしてんだからやる気くらいでるか。
趣味と仕事は別、なんて聞いた事もあるが、こいつを見ているとそう言う事は中々思えない。
「八幡よ、奥方と鶴見嬢の姿が見えないが?」
「バレンタイン限定メニューなんてものを考えてるんだとよ。予算もギリギリだってのに女ってのはどうしてこう、イベント事には目がないのかね」
まぁクリスマスや桃の節句なんかの限定メニューはお陰様で大好評だったわけだが。
それでも今回はいつもに比べて決めるのが遅すぎるだろ。
「雪ノ下嬢の手作りチョコをサービス、などはダメなのか?」
「バッカお前、雪乃の手作りチョコは俺と由比ヶ浜だけのもんだよ。見知らぬ他人にやる様な安いもんじゃねぇの」
「それってメニュー決まるの遅いの八幡のせいじゃ......」
「なんか言ったか?」
「い、いや何も。そんな事よりも見ろ八幡!今期話題のアニメの人気キャラのフィギュアの予約にありつけたぞ!」
「前言撤回、俺の心の中の感動を返しやがれ。そして今一色にメール打ったから飯食ったらさっさと帰って仕事しろ」
「はぽーん!」
材木座が奇声をあげて意気消沈した所で、カランコロンと扉の開く音が。
入ってきたのは見た事のある学生服を着た女子高生。
我らが母校、総武高校の制服だ。
「いらっしゃいませ」
「あの、バイト募集の張り紙見て来たんですけど......」
撃沈した材木座とそれを無視して本を読む俺を見て若干警戒の色が出ているようだ。
実際店員が目の前の客をほっぽって読書に耽っているのはハタから見ると不思議というか可笑しな光景ではあるだろう。
「この仕事内容のところのお悩み相談って、相手のお願いを叶えるとかそう言う感じのやつですか?」
ふむ、最もな疑問だろう。
て言うか普通の喫茶店にはまず無い仕事内容だ。
となれば、その問いに対する答えを俺は一つしか持ち合わせていない。
「お願いを叶えるんじゃ無い、あくまで手助けをするだけだ。飢えた人に魚を与えるのではなく、捕り方を教える。それが仕事だ。と言うわけで、ようこそ喫茶「fairy tale」へ。アルバイトなら大歓迎だ」