話し声一つない部室の中には、しかし様々な音が鳴り響いていた。
秒針の刻むカチカチと言う音、壊れかけのストーブの鳴らすグオングオンと言う音、文庫本のページが捲られるペラペラと言う音。そしてそこに時折混じる、グラウンドから聞こえる運動部の声や、音楽室から聞こえる吹奏楽部の演奏。
とても居心地のいい時間だ。読書も進むし、時には勉強をしても捗ること間違いなし。いつも騒がしいお団子頭の彼女がいないのも、原因の一つかもしれない。
俺の向かいに座る雪ノ下は、斜陽の中で本を読んでいる。相変わらず絵になる姿だ。
彼女のその美しい姿を、絵画のようだとか、芸術品のようだとか、そんな風に形容した回数は両手の指では最早足りず。まあだからと言ってそれを口に出して言ったのか聞かれればノーと答えるしかないのだが。
「どうしたの?」
少し不躾に視線を投げ過ぎたか。雪ノ下は文庫本から目を逸らさずに声をかけて来る。今もまたページをその白く細い指で捲った。
って、なんで俺こんなに雪ノ下のこと細かく観察してるんだよ。これじゃ通報されても何も言えないぞおい。
「いや、なんでもない」
「そう? その割には、随分と私にその煩悩に塗れた目を向けていたようだけれど」
「おい待て、俺がいつお前にそんな視線を向けたって言うんだよ」
「あら、違うの?」
違わないですねはい。本当すいません。
しかしここで黙ってしまうのは得策ではない。そうしてしまえば、雪ノ下に対して煩悩に塗れた視線を投げかけていたことを肯定してしまう。いや、事実ではあるんだけどそれを簡単に認めるわけにはいかないし。
なんと答えたもんかと悩んだ結果、結局頭に思い浮かんだことをそのまま口にした。勿論俺の視線は彼女から逸らされていたけれど。
「あー、そのだな、改めて見ると、お前ってやっぱ可愛いんだな、と」
そう、雪ノ下雪乃は可愛い。その昔彼女自身も言っていたことだ。こうして彼女の近くにいて、それなりに長く濃厚な時間を過ごして来て忘れがちだが、こいつは美少女だ。俺や由比ヶ浜の知らないところで告白だってされてるだろうし、その際何人もの男子生徒が心に傷を負っていることだろう。
改めて言わなくとも、分かりきった事実。
俺のそんな言葉にどんな罵倒が返ってくるのかと戦々恐々としていたのだが、そんな予想に反して中々返事の罵倒が来ない。
罵倒って決めつけちゃってる辺り悲しい。
少し不思議に思い、向こうをチラリと盗み見ると、その顔が驚くほど紅く染まっていた。
そして重なる視線。雪ノ下は弾かれた様に俺の目から逸らすと、早口で捲し立てだす。
「......っ。そ、そう。まさかあなたの口からそんな言葉が漏れるなんて思いもよらなかったけれど、今更な事実確認をありがとう。けれど私が可愛いと言うのはあなたも入部当初から知っていることでしょう? 何故このタイミングでそんなことを言うのか甚だ疑問を感じるわね。疑問を感じ過ぎて最早気持ち悪いまであるわ。確かに可愛いと言われて嬉しくないと言ったら嘘になるのよ? でもそうやって唐突に言うのはよしてくれないかしら、思わず鳥肌が立ってしまったじゃない。通報してしまったらどうするの? そう言うのはきちんとタイミングやムードを弁えて言うものだと思うのだけれど」
「ゆ、雪ノ下......?」
「な、なにかしら......」
いつもの照れ隠しが発動した雪ノ下を取り敢えず止める。一息に言い切ったからか、少し息が上がっており、ゼェハァと肩を上下に揺らすその姿はどこか色っぽくも見えてしまう。
そんな姿を見せられては、俺まで顔が熱くなってしまうと言うもので。最早正常な思考回路では無くなってしまった脳味噌は、今この状況における事実だけを口から吐かせる。
「お前、顔真っ赤だぞ......」
「......っ⁉︎⁉︎」
これ以上は無いだろうと思っていた彼女の顔は、それでもまだ紅に染め上げられる。
バッ! と勢いよく上げられる両手。
目元までを一気に文庫本で隠し、しかし、その濡れた瞳だけをチラリと覗かせて俺を見る。
やめろよおい。お前がそんな事やっても可愛さに磨きが掛かって理性の化け物が死ぬだけだぞ。
「やっ......、み、見ないでくれるかしらっ......」
「あ、ああ、悪い......」
ほんの数分前までは、何人にも触れられぬ気高い美しさを醸し出していたと言うのに、今の彼女は幼い少女のようだ。
そのギャップがまた堪らなく可愛らしい。
しかし見ないでくれと言われてしまっては、これ以上彼女の方を見ているのも些か失礼だろう。気持ちを落ち着かせて文庫本に目を落とす。
が、悲しいことに俺は健全な思春期真っ只中の男子高校生である。そんな俺が隣に座っている超絶可愛い女の子を無視することなんて出来ず、懲りもせずに向こうをチラリと見れば。
「......っ」
「......っ! こっ、こちらを見ないでと言ったでしょう。その腐った目を抉られたいのかしら」
またしても見事に目があって咄嗟に顔を逸らしてしまった。聞こえてくる罵倒がどこか安心感を齎す始末だ。ちょっと裏返っていたのは聞かなかったことにしておくとして。
それ程までに、今のこの部室と言う空間は常日頃のものから乖離した雰囲気となってしまっている。
ああクソ、顔が熱い。
「......悪かったって。つーか、お前昔は自分で自分のこと可愛いとか言ってたくせに、なに今更恥ずかしがってんだよ。それに、こんなありきたりな言葉は聞き慣れてんじゃねぇの?」
気を紛らわすかの様にまたしてもなにも考えず発言してしまった。
その選択が命取りとも知らずに。
「昔は昔よ。それに、そこらにいる有象無象に言われるのと、あなたに、言われるのとでは、違う、もの......」
言葉尻にいくに従って掠れていく声。しかし残念なことに、二人だけのこの広くもない部室では十分俺の耳に届いてくる。目元まで隠していた文庫本は更に上まで上げられ、完全に顔を覆ってしまった。
今の雪ノ下の言葉を鵜呑みするなら、俺はそこらにいる有象無象とは違うわけで。それは即ち、彼女にとっては少なからず俺と言う存在が特別だと言うことで。
なんだろうか、この込み上げてくる衝動は。胸を高鳴らせる情動は。
ああ、そうか。嬉しいのか。
俺が彼女にとって特別であることが。
俺の言葉が、彼女の心を揺れ動かしていることが。
ともすれば独占欲にも似た醜い感情かもしれないが。けれど、なぜか悪くない。そんな気分だ。
「だから、その......」
一つ前の発言からは暫くの間が出来ていたが、それでも雪ノ下は口を開いた。
あそこからまだ何か続く言葉があるのか。これ以上はマジで理性の化け物も自意識の化け物も耐えられませんよ? ただでさえノックアウト寸前なのに。
顔を覆っていた文庫本が少し下げられ、再び目元の位置で固定。
露わになった濡れた瞳は、俺をしかと見つめていて。
文庫本で未だ隠された唇が言葉を紡ぐ。
「......ありがとう。あなたからそう言ってもらえると、とても嬉しいわ」
顔の殆どが隠されていても分かるほどの、綺麗な笑顔だった。それこそ、身体も精神も止まってしまうほどの。
それはきっと、彼女の発した言葉も一因を担っているのであろうが。でも、そんな事は正直どうでも良くて。
今この瞬間、間違いなく。
比企谷八幡は雪ノ下雪乃に魅了されていた。
その後特に会話がある訳でもなく、二人して読書に戻っていたのだが、雪ノ下の本を閉じる音で部活終了と相成った。
帰りの支度をしながら外を見遣ると、日は完全に落ちかけており、もうあと30分もしないうちに外は暗くなるだろう。
「雪ノ下」
「......なにかしら」
唐突に呼びかけられ、少し不思議そうな表情をしながらも彼女は答えてくれる。
その頬が未だ若干紅く見えるのは、橙の空を背に受けている事だけが理由ではないのだろう。
さっさと用件を伝えないと、俺の頬まで同じ色になってしまいそうだ。
「......帰り、送ってく」
随分とぶっきらぼうな言い方になってしまった。寧ろらしくていいかもな、なんて気休めが頭に過ぎるが、それよりも何よりも問題視すべきは彼女の反応だ。
「それは、どうして......?」
ほら、やっぱり。
突然言われて困惑してるらしい。本当にどうしてか分からないと言った風に小首を傾げている。
どうしてと問われれば理由はいくらでもでっち上げる事が出来る。
でも、そうだな。今日の流れに沿ってでっち上げるとするならば。
「ほら、あれだ。お前は可愛いからな。そんな可愛いお前を夜道に一人で返すとか、襲われたら大変だろ」
「......っ。また、そんな簡単に可愛いだなんて......」
「事実だからいいだろ。んで、どうすんの?」
「......ではお願いしようかしら。いざという時の肉壁程度には役立ってくれるのでしょう?」
「もしかしたら真っ先に逃げてるかもな」
「ならなんのために送るのよ......」
なんのためだなんて、さて、なんのためなんだろうな。少なくとも、襲われそうで心配ってのは強ち嘘でもないと思うぜ。
それ以外の理由もあるかもしれんが、まあ、そこは今こいつに語るような事でもないだろう。またそのうち、おいおいってやつで。
「では帰りましょうか。可愛い私が襲われないか心配で夜も眠れない比企谷くん?」
「なにもそこまで言ってないだろうが......」
それと、自分で言いながら赤面するのやめてもらっていいですかね。こっちまで恥ずかしくなるんで。
その辺りも含めて、本当に可愛いやつだよ、お前は。