一年も経てば、一人暮らしにはかなり慣れた。始めた当初こそ小町に会いたくて会いたくて震えていたが、暫く暮らせば一人暮らしの開放感と言うものが癖になり、今では実家に帰ることなんて殆どない。
仕送りも十分にあるのでバイトをする必要もないし、勉強も上手くいっている。休日なんて誰にも咎められることもなく、夕方まで惰眠を貪ることが出来るのだ。
一人暮らし万歳。もう一生一人暮らしでいいよいや待てそれはダメだ俺は専業主夫として養って貰うんだ。
とまあ、そんな感じでなんだかんだと楽しませて貰っている今の生活。
楽しんでいる。その筈なのに、胸の中にはポッカリと穴が空いたような感覚があって。
その理由が何かなんて、問わずとも分かる。
俺は一年経っても未練の断ち切れない、哀れな男だ。忙しなく過ぎていく日々の中で、彼女のことは思い出へと風化してしまうと思っていたのに。
今でも鮮明に思い浮かぶ。彼女の長い黒髪と、その中で踊る番いの赤い蝶。整い過ぎた顔立ちから時たま覗かせる、年相応の可愛らしい笑顔。
思い浮かぶどころではない。夢に出てくる事だって、数えてしまえば両手の指では足りないくらいだ。
だから、なのだろうか。
そんな夢にまで見た彼女が。
雪ノ下雪乃が。
玄関のドアを開けた先に立っているのを見て、俺の全てがフリーズしてしまっているのは。
チャイムが鳴った。ボロアパートらしい安っぽい音を鳴らし、来客を告げた。俺は密林を利用した覚えなどなかったし、小町が来るとも聞いていない。
本当に、不意打ちだった。夢なのではないかと疑ったが、握るドアノブの冷えた感触はやたらとリアルだ。
目の前に立っている雪ノ下が、ハッと息を呑んだのが分かった。訪ねて来たのは彼女の癖に、驚いたような顔をしていて。
そこで漸く、俺の時間が動き出す。
「ゆきの、した......?」
自分でも耳を疑うほどに掠れた声だった。けれど、すぐ目の前のいる彼女には勿論ちゃんと聞こえていて。
「比企谷くんっ......!」
今にも泣き出してしまいそうな顔で、俺の胸に飛びついて来た。
「ちょっ、お前いきなりなにを......⁉︎」
「比企谷くんっ、比企谷くんっ!」
狼狽える俺を他所に、雪ノ下は俺の名前を呼びながらも抱き締める力を増していく。嗚咽も漏らしていないし、涙も流してはいない。けれど、その姿はまさしく泣いている女の子そのもので。
「ずっと、会いたかったっ......!」
一年以上恋心を引き摺る相手からそんな事を言われてしまえば、この抱擁を素直に受け入れる他なかった。
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なんて事があったのが一時間くらい前。
雪ノ下との再会が嬉しかったのは事実であるし、いくら俺が捻くれていようと、彼女も喜んでくれているのは分かった。
一年。一年だ。短いようで長い間会っていなかった元部活メイトで好きな人。そんな相手に会えたのだから嬉しいに決まっている。
決まっているのだが。
「比企谷くん」
「な、なんだ雪ノ下?」
「ふふっ、なんでもないわ」
俺の股座に腰を下ろし、首だけこちらに振り向いて穏やかな微笑みを見せる雪ノ下。こんな体勢だもんだから勿論顔と顔の距離は殆どゼロなので、自然と顔に熱が集まる。
なーんでこうなってるのかなー。
雪ノ下に抱きつかれたあの後、取り敢えず開きっぱなしだった玄関のドアを閉めて家に招いたわけだが、お茶でも入れようとしたらそれを止められ、そこに座れと言われるがままに座ったらなんと雪ノ下さんが僕の胡座の上にすっぽりと収まるではありませんか!
「もう少し強く抱き締めて?」
「......おう」
「んっ......。はふっ......」
しかも後ろから抱き締めろと言われ、これまた言われるがままにしちゃってるし。時たまこっちにの頬に自分の頬を擦り寄せてくるし。なんなのこの子? なにがあったらこうなっちゃったのってああ待てまた頬を擦り寄せてくるなお前のほっぺた柔らかくてちょっと癖になっちゃうだろうが!
「比企谷くん」
「だからなんだよ......」
「呼んでみただけよ」
このやり取りも、最早何度目だろうか。この一時間、彼女との会話はこれか強く抱き締めろと言われるか、それだけだ。
これ、なにがヤバイって俺自身もこの状況をかなり満更でもなく思っちゃってるのが一番ヤバイんだよなぁ。だって雪ノ下の体柔らかいし。
「こうして名前を呼べば返事が返ってくるのって、なんでもないことだけどとても良いわね」
「......」
感慨深くそう言う雪ノ下の横顔には、ほんの少しの憂いが見えて。
だから、今聞くしかないと思った。
「なあ、雪ノ下」
「なにかしら?」
「今日どうしたんだ? いきなり家に来たと思ったら、こんな事させて。もしかして、なんかあったのか?」
彼女の家のことは高校時代に嫌と言う程思い知った。告白出来なかったのも、それが一因を担っている。
もしかしたら、雪ノ下は実家の方でなにか面倒ごとに巻き込まれてしまったのかもしれない。一度心配になれば、心の中に不安が渦巻く。
そんな感情が少しでも出てしまったのだろうか。雪ノ下を抱き締める腕に力が入ってしまう。これ以上強く抱いてしまえば、壊れてしまいそうに錯覚すると言うのに。
けれど雪ノ下はそれに嫌な顔一つせず、どころか心地よさそうな表情を浮かべ、語り始めた。
「比企谷くん。私ね、この一年、ずっと戦って来たの」
「戦って、って......」
「御察しの通り、私の実家とよ」
やはり、実家でなにかあったのか。こうしてここに来ていると言うことは、一応の終息を見せているのだろう。その事に多少安堵するも、だがその過程で彼女が味わった苦悩を共有してやることも、少しだけでも背負ってやる事も出来ない。その事が、なぜか胸を締め付ける。
「安心して。ちゃんと勝って来たから」
「そ、そうか。ならよかった......」
「あなたは心配し過ぎよ。そんなあなただから、この一年会えなかったのよ?」
「どう言う意味だ?」
「この戦いだけは、私の手で勝利をもぎ取らなければならなかったから。あなたの顔を見ると、またあなたに甘えて、頼ってしまいそうで。だから、ずっと我慢していたの」
「それは......」
違う、とは言い切れない。俺に頼らずとも、お前一人でどうにか出来たと、そう言ってやる事ができない。高校時代に陽乃さんから言われた言葉もあるし、雪ノ下が具体的にどう戦っていたのかもしらないから。
でも。そうだとしても。だからこそ。
陽乃さんの言葉なんて関係ない。
共依存? ふざけるな。そんなちゃちな言葉で、俺の感情を表してんじゃねぇ。
「頼ってくれても、良かったんだ。甘えてくれて良かったんだ。俺だって、好きな子には頼られたいって思うんだからな」
好きだと、そう告げるのは余りにもあっさりと呆気なく。それは今この体勢でいるからだろうが。それでも、想像していたものよりも随分と簡単に言葉が出た。
「知ってるわ。だから、今こうして沢山あなたに甘えさせてもらってるのよ」
「......そうか」
腕の中の雪ノ下がどうしようもなく愛おしくて。また、抱き締める力を増してしまう。それに呼応するように雪ノ下も俺の頬に頬ずりをしてくる。そんな彼女の横顔を見つめ、彼女も横目で俺を見つめてくる。
唇を重ね合うのは合図もなく唐突に、けれど自然とそうしていた。
「それで、私がなにを賭けて戦っていたのかと言う話なのだけれど」
「お前よく今の流れで話続けれるな......」
「あら、もう少し雰囲気が欲しかった? それは次に持ち越しね」
「つ、次っすか......」
「どうせキス程度、この後何度も交わすのだから。今はそれよりも私を抱き締める事に専念しなさい」
「......」
「ふふっ......」
ああもうなんだこいつ可愛いなオイ! このまま時間無制限で抱き締めて、なんなら髪の毛わちゃわちゃ撫で続けたいとか思うのだが、そうすると話が一向に進まないのて断腸の思いで諦めることに。
「で、なにを賭けて戦ってたんだって?」
「これよ」
雪ノ下はもぞもぞと動いて懐から何かを取り出す。
どうでも良いけど、今のこの体勢でもぞもぞされるとちょっと下腹部への刺激が強すぎてですね。その、まあ、はい......。察して。
男子特有の生理現象に悩まされる俺に提示されたのは、一枚の紙切れ。
市役所などで受け取りができ、必要事項を記入したのちに提出することで男女の契りを結ばれる。
名を、『婚姻届』と言う。
「.......................................は?」
何度瞬きを繰り返そうと、頬をつねろうと、俺の眼に映る文字は変わらない。そこにはしっかり婚姻届と書かれている。
なんなら雪ノ下本人の署名と雪ノ下の親の署名、更には俺の親の方までしっかりと名前が書かれていた。空欄になっているのは、夫となる人物が名前を記入する欄のみ。
「これを勝ち取るのにまさか一年もかかるだなんて思いも寄らなかったけれど、一年間あなたに会わず頑張った甲斐があったと言うものだわ。あとはあなたがここに名前を書くだけで、私達は晴れて夫婦となるの」
「いや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや」
「私の荷物も、明日にはここに届くと思うから」
「待って、お願いだから待ってください本当お願いします」
最早懇願に近い声を上げる俺。
いや、だってお前、漸く好きだと告げたその数分後に婚姻届を出してくるってお前。
マジで?
「安心して比企谷くん。金銭面ならうちの両親が大学卒業まではバックアップしてくれるから」
「そう言う問題じゃなくて」
「それとも、私と結婚するのは、嫌、かしら......?」
「嫌じゃない」
即答してしまった。なんでこんな時に限って本能を優先してしまうのか。どうやら理性の化け物さんは長期休暇に入っているご様子で。
「ならいいじゃない」
「......その、色々と手順ってもんがあるだろ」
「そんな道理は私の無理でこじ開けたわ」
「えぇ......」
なんでそこでグラハム・エーカー? なに、ガンダム知ってるの? ミス・ブシドーって言われてもしっくり来すぎて逆に怖いぞ。
だから、そんな事はどうでもよくて。
先程即答してしまった通り、嫌というわけではない。ただ、話が余りにも急過ぎて脳の処理が追いついていないのだ。
取り敢えず一日考える時間を貰いたいのだが、俺の妻(予定)はそんな暇を与えるつもりもないらしく。
「あとは既成事実さえ作れば私の完全勝利ね」
「えっ」
「父さんと母さんは、明日にでも孫の顔を見たいと言っていたから。たまには親孝行をしないと」
スルリと俺の腕の中から抜け出した雪ノ下は、今度は向かい合うようにして同じ場所に腰を下ろしてくる。
「ちょっ、マジで待てゆきのしんむっ!」
状況を正しく判断するよりも早くに唇を塞がれてしまい、俺の脳みそは余計に正常な稼働から程遠い状態に陥る。
彼女とのキスは、まるで麻薬のようだ。
甘くて柔らかい感触が脳髄を痺れさせ、ともすれば中毒になってしまう。
「キスはこの後何度も交わすと、先程言ったでしょう? まあ、身体中色んなところにすることになるのだけれど、まずは唇から楽しみましょう?」
「た、頼むからちょっと待ってくんむっ」
反論する度に唇を唇で塞がれてしまう。
そのまま俺は背後に敷いてある布団へと、雪ノ下に覆い被さられるようにして押し倒される。
「大丈夫、今日はちゃんと出来やすい日だから」
全然大丈夫じゃないんだよなぁ......。
微笑みながら告げる雪ノ下に、俺は結局それ以上なにも言うことが出来ず、美味しく頂かれるハメになってしまった。
余談だが、翌日は荷物運びどころではない程にお互い腰を痛めていたのは語るまでもないだろう。