暗がりの中、彼の顔が視界に映る。
部屋の照明は落として、枕元にある小さなランプが唯一の光。けれど、あなたの顔はどうしたって私の目にはしっかり映っていて。
多分、彼の方も同じなのだろう。こんな暗い部屋の中でも、私の顔はしっかりと見えているはずだ。だって、その腐った両の瞳は私を捉えているもの。
そう思うとなんだか恥ずかしくて、頬が際限なく熱を持つ。
「比企谷くん......」
名前を呼んだ。彼の姿が、この暗闇に溶けてしまわないように。
「雪ノ下......」
名前を呼ばれた。とても切なくて、でも確かな愛情を感じられる声色だ。
もっと、もっと彼を感じたくて、服を全て脱ぎ去ったその体に抱きつく。
彼の体は想像していたよりもガッシリしていて、女の私と比べるととても大きく感じる。彼が男なのだと、嫌でも理解させられる。
彼は少し躊躇ったような気配を見せながらも、私の背中に手を回してくれた。
とてつもない満足感と、ほんの少しの羞恥心。肌と肌が直接密着していて、お世辞にも大きいとは言えない私の胸部も、彼のそれなりに厚い胸板へと押し付けられる。
私も彼も、もう全身が真っ赤になる勢いで。けれど、決して体を離そうとはしない。
これから臨む行為には、些かの恐怖心を拭いきれない。だから、精一杯彼に甘えるように声を出した。
「......優しくしてね?」
「......善処する」
まるで余裕の無さそうな彼の顔。本当に優しくしてくれるのかしら。と思いはするも、その顔を見ていると不思議と不安が晴れていく。
彼は優しいから。自分だって余裕が無いくせに、私を気遣ってくれるのだろうと、なんとなくそう思う。
「雪ノ下」
再び名前を呼ばれた。今度は、ハッキリとした声で。
その声に呼応するように、私は彼の唇へと自分のそれを寄せていき───
「......最悪だわ」
目が覚めた。
枕元の目覚まし時計は、セットしていた時間の十分前を表示している。十分程度は誤差だろう。寝坊したのならともかく、早起きしたのなら特に自身を咎めることも無い。
「......本当、最悪」
吐き捨てるように呟く。別に目覚めが悪いわけではない。寧ろいい方だ。体調も頗る健康そのもので、精神的な調子もいい。
だからこそ、気分は最悪だった。
「どうしてあんな夢を......」
そんな疑問に答えてくれるような人間はいない。隣に置いてあるパンさんは物言わぬ人形だし、そもそもこの家には私一人しか暮らしていないのだから。
あんな夢を見て絶好調と言えるほどになってしまっている自分が、心底最悪だと思えた。
そもそもあれはなに? どう言う状況なの? どうして私と比企谷くんが裸で......、はだ、か、で......。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
遅れて湧き上がってきた羞恥心に、自分の頭を枕へと勢いよく投げ出す。危ない、もう少しで人様にはお聞かせできないような声を出してしまうところだった。ナイスよ私の枕。
......でも、冷静に考えたら、この枕もあの夢に出てきてたわよね。というか、場所はこの部屋だったし......。
「さて、学校に行く準備をしましょう」
声を出して無理矢理思考を断ち切った。こうでもしないと、あの夢のように私の顔は際限なく真っ赤になってしまうことだろう。
うん、今日も特に何もない日。依頼は無いし、いつも通り由比ヶ浜さんも部活に来る。いつも通りいつもの如く、放課後は紅茶を飲みながら読書をしていたらいい。それだけだ。その日常に、当たり前のようにいる彼の事は、今日だけは必要以上に考えることはやめましょう。別に、いつも彼のことを考えているわけではないのだけれど。
ベッドから降りて立ち上がり、部屋を出ようとして、振り返りベッドの上を見る。
夢の中のあの上で行われていたのは、いくら私でも察しがつく。けれど現実に私と彼はそう言った関係では無い。
「......比企谷くんの、バカ」
意味のない八つ当たりを一つして、私は部屋を出た。
今日の部活、どうしようかしら......。
************
時は流れ放課後。
いつも通り授業を受け、いつも通り部室の鍵を開き、そしていつも通り彼と彼女が来るのを待っている。
この時間が好きだ。私が部室で、彼と彼女を迎える。こんな私の、学校生活における数少ないこだわりのようなもの。
けれど、今日ばかりはこの時間が好きになれそうにない。
昼休み、いつものように由比ヶ浜さんとお弁当を食べていると、今日は飼い犬のサブレを動物病院へ連れて行かないといけないから部活に来れないと聞いた。ペットも立派な家族の一員だ。それを引き止める理由はない。
理由はないけれど、どうして今日なのかと心の中で何度もため息を吐いてしまった。
読んでいる文庫本から顔を上げ、黒板の上に備え付けてある時計を見る。彼が来るまでもう数分となさそうだ。
そうしていると、部室の外から足音が聞こえてきた。やる気のなさそうな、どこかダルそうな、そんな足音。
いつも聞こえて来るものよりも、更にやる気がなさそうに聞こえるのは気のせいだろうか。
そして数秒後、足音が止まり、部室の扉がゆっくりと開かれる。
「......うっす」
「......っ。こんにちは」
いつも以上にやる気のない挨拶をする比企谷くん。その顔を見て、どうしても思い出してしまう昨夜の夢。私を見つめる彼の瞳と、その猫背からはあまり想像出来ないような、大きな身体。
そんな事を思い出してしまった所為で思わず言葉に詰まってしまいそうになったが、なんとか挨拶を返す。
大丈夫、別に由比ヶ浜さんが部室にいないのは今回が初めてと言うわけでもないのだから、今日も今日とていつも通り過ごせばいいだけよ。
「紅茶、淹れるわ」
「......おう」
まずはいつも通りの代名詞とも言える紅茶から。これを飲んだら私の心も落ち着くはず。いえ、別に取り乱しているわけではないのだけれど。ただちょっと夢の内容を思い出しかけてしまっただけよ。
湯呑みとティーカップに紅茶を注ぎ、湯呑みの方を彼の元へ持っていく。自分の一挙手一投足がおかしな事になっていないか不安になりながらも、なんとか彼の目の前へ辿り着いた。
「どうぞ」
「......サンキュ」
比企谷くんはこちらに目を合わせようとしない。どこか必死とも思えるくらい、手元の文庫本に視線を落としている。その様子がなんだかおかしくて、彼にまた何かあったのではと不安になって、思わず問いかけてしまった。
「なにか、あったの......?」
「......っ」
ピクッと、彼の肩が反応した。
視線をそのままに、その口を開く。
「いきなりなんだよ。俺は今日も今日とて絶不調だぞ?」
「あなた、いつもより目が腐っているわ。また何か面倒なことを抱え込んでいないでしょうね?」
「判断基準おかしくない?」
「いいから。なにかあったのなら嘘偽りなくここで言いなさい」
もう夢のことなんてどうでも良くなっていた。彼がまた傷ついてしまうかもしれない。そう思うだけで、その可能性が少しでもあるかもしれないと言うだけで、胸がキリキリと締め付けられる。
彼は私の質問にすぐ応えるような事はなく、部室には沈黙が降りる。私は彼の目の前から動かず、ただ、彼が言ってくれるのをそこで待っていた。
やがて観念したのか、長いため息を吐いた後に、私の目を見つめてくる。
目が合った比企谷くんの頬は、何故だか少し赤くなっていて。
不意に、夢の中で彼に見つめられていた事を思い出して、私の頬も少し熱を持ってしまった。今はそんなこと思い出してる場合ではないと言うのに。
「......先んじて言っておくが、怒るなよ?」
「それは聞かない限り分からないわね」
「まあ、そうだよな......」
私が怒るような内容。という事は、やはり私や由比ヶ浜さんに隠れてなにかをしていたのだろうか。
しかし彼が教えてくれたその内容は、そんなものではなくて。
「ちょっと、変な夢を見ちまってな......。そこに、その、お前が出て来たと言うか......」
それは、どこかで聞いたことのある話だ。
いや、それも当然と言えるだろう。
だって、私の夢にも比企谷くんが出てて、そして彼の夢にも私が。
「雪ノ下......?」
彼から顔を隠すようにしてから、自分の席へと戻った。お陰で比企谷くんは訝しげに私を見ている。怒られたと思ったのだろうか、その目には少しの不安も見て取れる。待って頂戴、今ニヤけるのを抑えるのに必死だから。
こんな事で嬉しくなってしまう乙女な自分。でも、そんな自分が嫌ではなくて。
ああ、どうしましょう。嬉しくて嬉しくて。けれどそれ以上に顔がとても熱くて、なんだか恥ずかしい。
「そ、その、差し支えなければ、どう言った夢を見たのかも教えてもらっていいかしら......?」
「は? いや、なんでそこまで教えんとダメなんだよ」
「私が夢に出て来たのでしょう? なら、それを知る権利はあると思うのだけれど」
滅茶苦茶なことを言っている気がするが、まあ気のせいでしょう。長机の対面では、あーとかうーとか彼が唸っている。そんな様が少し可愛く見えてしまう。
「......つーか、お前の方こそなんか今日変だぞ」
「私?」
露骨の話を逸らされた。思い当たる節は勿論あり過ぎるわけで。けれどそれを態々口に出すなんて真似はしたくないので、戯けてキョトンと首を傾げてみせる。
「さっき挨拶して来た時も、なんか一瞬詰まってる感じだったし。なんかあったのか?」
「......別に、あなたに話すようなことではないわ」
「本当か?」
間髪いれずに重ねて問われる。その顔は真剣そのもので、本気で私のことを案じているのだと言うことが、嫌でも読み取れてしまう。
何故だろう。その事実が、私の胸をキューっと締め付ける。けれどそこに痛みがある訳ではなく、どころか、気を抜けば頬が更に赤くなってしまいそうで。
だって、かつての比企谷八幡からは考えられないじゃないか。こんな言動、そんな表情。私が何もないと言えば、そこでおしまいだったはずなのに、今の彼はこちらに一歩踏み込んで来てくれる。
だから、考えるよりも先に、口は動いていた。
「......あなたと同じよ。少し、変な夢を見てしまったから」
「......えっと、それってつまり?」
「あなたが、夢に出て来たのよ......」
こんな好意を前提とした発言、普段なら言えるはずもないだろう。けれど、彼が夢を見て、私も夢を見て、そして、彼が今までと違って、私に踏み込んで来てくれた。
そんな、常とは違うような状況が、私の羞恥心を打ち消してくれる。
「......待て、ちょっと待ってくれ。一応確認しときたいんだが」
「......?」
真っ赤な顔を右手で覆い、反対の左手の掌をこちらに向けて来る。確認とは一体なんのことなのだろう。
「まさかとは思うが......。その夢、お前の家の寝室だったか......?」
「なっ、な、何故、それをっ!」
打ち消された筈の羞恥心が再びやって来る。どうして彼は私の夢の内容を知っているのか。いや、私の脳みそはその答えを導き出そうとしているのだ。けれど、理性がそれを認めようとしない。
「......服、は、着てたか......?」
恐る恐ると言った風にこちらを横目で覗き、普通に考えたらバカみたいなことを聞いてくる比企谷くん。そんな彼の方を見ることが出来ず、小さく首を横に振った後、そのまま顔を俯かせてしまう。
私、このままこの頬の熱に溶かされてしまうのではないかしら? 血液とか蒸発してしまいそうなのだけれど?
「そうか......」
どうやらこれは認めざるを得ないらしい。
私と彼が、全く同じ夢を見ていた、という事を。
そんな事があり得るなんて信じられないが、事実としてそうなってしまっている。
「......その、あれだ。なんか、すまんな......」
「どうしてあなたが謝るのよ」
「そりゃお前、不快にさせちまったなら謝るだろ」
この男は相変わらず......。どうしてそこまで、自己評価が低いのかしら。これは死んでも治らないのでしょうね。
「不快になったなんて一言も言っていないわよ」
「いや、でもお前あれだぞ? 夢でその、俺とお前が、だな......」
そこまで言ってから、顔をまた赤くして俯いてしまう彼。そんな姿が可愛らしく見えてしまうが、今はそれに悶えている時ではない。
ちゃんと、自分の気持ちを正直に伝える時だ。
「わたっ、しは、別に、悪くなかったと、思ってるわ......」
「お前、何言って......」
「あなたは、どうなの......?」
酷く掠れた声での問い。でも、私から顔を逸らす彼を見ていると、しっかりと聞こえていたのが理解できる。
やがて聞こえた声は、私に負けず劣らずか細い声で。
「......俺も、別に悪い気はしなかったよ」
「そう......」
しっかりとこの耳に届いた言葉は、じんわりと私の胸へと染み込み、確かな熱を持って喜びへと変化していく。
抑えようとしても頬が緩んでしまって、それを見られたくなくて、誤魔化すように紅茶を口に含んだ。
彼は文庫本に視線を落としている。それを、この話は終わりだと言う合図と受け取って、私も彼に倣って読書を再開した。本の内容が頭に入る気はしないけれど、そうでもしないとどうにかなりそうで。
ただ、今夜も彼と同じ夢が見られたら。
そんなロマンチックな事だけを考えていた。