激闘を繰り広げたホワイトデーを超え、大学の入学式も恙無く終わり、俺は現在、平和を噛み締めながら新生活を満喫していた。
大学入学とともに始めた一人暮らしは思いの外快適で、小町に会えない以外の不満点は殆ど皆無と言って良いほどだ。1LDKと広さも十分だし、寧ろちょっと広すぎるくらいなまである。
今日は土曜日で授業も休み、バイトなんてしてる筈もないので、一日中惰眠を貪ることが出来る。と言ってもやはり空腹には勝てないもので、11時になろうかと言う時間に布団から這い出て朝食兼昼食となるカップ麺を作ってるなう。
カップ麺は素晴らしい。その名の通りインスタントに作ることが出来る上にあの美味しさ。これも人類の働きたくないと言う意思の集合体の一つだろう。そう考えると、カップ麺を作った人達には尊敬の念を抱かずにはいられない。
若干機嫌よく、鼻歌交じりで台所に立っていると、不意にそれが目に入った。
食器類を入れてある戸棚の中に収納された、お揃いのパンさんティーカップ。
引っ越し当日に、彼女がここへ持ってきたものだ。それの他にも、何故か数着の着替えやら歯ブラシやらもここに置いていきやがった。それらの事を考えるだけで頬に熱が集まるのは、最早仕方のない事だろう。
きっと彼女は、俺がそうなることを予想して私物を色々置いていったのだろうし。今もどこかで、あの小悪魔のような笑みを浮かべているに違いない。
本人はいないと言うのに、そこかしこにある彼女の影に翻弄されながらも、カップ麺は無事完成した。まあ、カップ麺程度で失敗することなんてないのだけど。
「いただきます」
テーブルの方まで運んだカップ麺を一口、音を出しながら啜る。
うん、美味い。流石は人類の怠惰の結晶(語弊)。働きたくないと言う先人の意思がこれでもかと言うほどに伝わってくる。
しかし、俺の気持ち的にはどこか満足とは程遠いのも事実。
空腹は確かに満たされる。カップ麺と言えどもその量は十分であるし、なんならもう一つ作ればいいだけだ。だと言うのにどこか満たされないのは、彼女の手によって、幸せと言う最上級の味を覚えさせられたからだろうか。
はぁ、と一つため息を漏らす。
どれだけ彼女の揶揄いにしてやられているとしても、結局はこうして彼女のことばかり考えている時点で、やはり俺に勝ち目などないのだろう。
けれど、なんだかんだでそんな自分が嫌いになれない。それどころか好ましく思っているのも事実で。
ピンポーン、とチャイムが来客を告げたのは、そんな時だった。
箸を置いて立ち上がり、玄関へと向かう。外を覗かずとも、誰が来たのかなんて分かる。分かってしまう。出来る限り頬のニヤケを抑え、いざ玄関の扉を開けようとドアノブに手をかけ、開く寸前で手を止めた。
待て。待つんだ比企谷八幡。
恐らくこの扉の向こうにいるのは、今俺が想像している通りの人物だろう。勿体つけずに言うならば、雪ノ下雪乃で間違いないはずだ。
つまり、タダで彼女が我が家へと入ってくるわけがない。必ずと言って良いほど、何か揶揄いの一つでも用意しているはずだ。彼女のキャラ的には考えられないが、扉の後ろに隠れて驚かす的な感じのやつを。
念の為外を覗いて確認すると、そこにはやはり雪乃の姿が。どこかワクワクしているようにも見える。と言うことは、やはりなにかしら揶揄いのネタを持っていると言うことか。
それが一体どのようなものかは分からないが、分からないのならば対処法はただ一つ。
そう、先手必勝だ。
手を掛けたドアノブを回し、ついに扉を開く。その先には勿論雪乃が。ワンピースに身を包んだ春らしいその装いは、彼女の魅力を最大限に引き立てている。
一瞬見惚れてしまって固まりかけたが、なんとかすんでのところでとどまり、向こうがなにか仕掛けてくる前に、俺は口を開いた。
「よお、おかえり、雪乃」
自分の出せる最大限に優しい声と笑顔で、そんなことを言ってみせる。ここは彼女の家ではなくて、俺と彼女は同棲しているわけでもなくて。だと言うのに、白々しくもそんな言葉を吐く。
目の前の雪乃は一瞬だけ驚きに目を丸めたものの、しかし直ぐにその顔は綺麗な笑顔を形作り。
「ただいま、八幡」
俺の妄言に乗って来た。しかもめっちゃ嬉しそうな笑顔で。えー、これはちょっと予想外と言いますかなんと言いますか......。なんなのこのやり取り、夫婦かよ......。
「八幡? どうかしたの?」
「......いや、なんでもない」
「そう。ならいいのだけれど」
こちらの顔を覗き込んでくる雪乃のその表情は、先程とは違った種類の笑みを浮かべている。クスクスと楽しそうに笑うのを見る限り、どうやら俺の目論見は完全にバレていたらしい。
もう恒例の如くまた一つ無様に負けを刻み、雪乃に家の中へ入るよう促す。
ところでこいつは今日なにしに来たのだろうか。大抵は事前に連絡があってからうちに来るのだが、今日はそれもなかった。
いや、別に理由なんてなくてもいいのだ。こうしてうちに来てくれるだけで、嬉しいことには変わりないのだし。
そんな疑問をなにも言わずとも読み取ったのだろう。雪乃は笑みをそのままに、こちらに向き直って口を開く。
「そろそろ私の手料理が恋しくなった頃じゃないかしら?」
「......」
完全に図星でなにも言えなかった。
なんで分かるんですかねぇ......。なに、エスパーとかサトリとかその類なの?
「ふふっ、やっぱり。顔にデカデカと油性マジックで書いてあるわよ。愛しの雪乃の手料理が今直ぐにでも食べたい、って」
「......そこまでは思ってねぇよ」
「そこまでは、という事は、少しくらいなら似たようなことを思ってくれていたのね」
「まあ、ちょっとはな......」
どうやらエスパーでもサトリでもなんでもなくて俺が分かりやすいだけみたいですね。そりゃ揶揄われるし勝てるわけもないわ。
が、ここで諦めないのが俺である。基本的には『押してダメなら諦めろ、千里の道も諦めろ』が信条の俺だが、ことこの勝負に関しては諦めらつもりなんぞ毛頭ない。だってこのまま雪乃に負けっぱなしってのは、流石に男として色々とあれだし。
「あー、飯作ってくれるなら晩飯でもいいか? カップ麺食ってる途中だし」
「あなた、まだあの栄養の偏ったものを食べたいるの?」
「それしかないから仕方ないだろ」
「全く、私がご飯を作りに来なければ、一人暮らしなんて到底無理そうね」
「ほっとけ」
お小言を頂戴しながらも、カップ麺を食べるのを再開させる。
さて、どう攻めてやろうか。幸いにして雪乃は揶揄いモードから世話焼きモードへと切り替わっているようで、散らかった俺の部屋の片付けを始めた。
おっかしいなー。確か先週も雪乃に片付けてもらった気がするんだけど、なんでまた散らかってんのかなー。完全に俺の生活スタイルが悪いからですね分かります。
「けれど、片付けくらいはしっかり出来るようにしておきなさい」
「善処する」
「そんな事では、将来子供が出来た時に困るわよ?」
「んぶふっ!」
麺が逆流して鼻から出そうになった。
こいつはいきなりなにを言い出すんだ......!
振り返って雪乃の方を見ると、彼女はやはり小悪魔のような笑みを見せていて、そして俺と目が合うと、その笑みを一層深くした。
「あら、八幡は一体なにを考えたのかしら?」
「......別になんも考えてねぇよ」
「ふふっ。別にいいのよ? 色々と想像してしまっても」
言われて、ついに思い描いてしまった。
雪ノ下雪乃との未来。
俺がいて、雪乃がいて、お互いに左手の薬指には鈍く輝く指輪を嵌めて、それから、彼女によく似た可愛い子供がいて、全員が笑って暮らせているような、そんな未来。
そこまで考えて、思考を断ち切るためにカップ麺の残りを一気に口へと流し込む。
あまりにも気が早すぎるだろう。雪乃との交際を始めたのは卒業も間近という頃合い。つまりは数ヶ月前の話だ。だと言うのにこんな事を考えてしまうだなんて、浮かれすぎだろう。マジで。
「顔、真っ赤よ?」
「気のせいだ」
頬に集まる熱なんて当たり前のように自覚している。けれど、それを認めようとしないのはつまらない意地ゆえか。
食い終わったカップ麺の容器を台所のゴミ箱へ捨て、箸は適当に流しへと放り込む。
雪乃のやつめ、今に見てろよ。今日こそは、今日こそはお前に勝ってやるぞ!
「なあ雪乃」
「なにかしら?」
「食材、今家になんもないから、後で買い出しに行かないか?」
「ええ、構わないわよ」
よし、掛かった!
その余裕そうな表情をすぐに崩してやる!
「あー、あれだな。よくよく考えたら、これが初デートだな」
そう、初デート。初デートである。所詮は近所のスーパーへ向かうだけではあるが、男女が一緒に出掛けていたらそれはデートになるらしい。ソースは小町。やべえ情報源が信用ならねえ。だが今はそこを気にしている場合ではない。
驚くべきことに、俺と雪乃は今までデートと言う行為をしたことが一度もない。二人で並んで外を歩くなんて、されこそ通学時か帰りに雪乃を家まで送るくらい。雪乃がうちに来て飯を作ってくれる時も、大体は彼女が食材を持って来てくれていたか、連絡を受けて俺が事前に買っていたか。
だから、二人で出掛ける、つまりはデートするというのは今日が初めてという訳だ。
さて、雪乃はこの初デートという突如舞い降りたイベントにどのような反応をするかと、振り返って様子を見てみると。
「ふっ、ふふふっ......」
「な、なんだよ......」
肩を震わせ口元を押さえ、けれど抑えきれない笑みが溢れ出ていた。その反応が全く予想もしていなかったもので困惑する。
この一言で100%勝てるだなんて思うほど自惚れてはいなかったけれど、笑われるなんてのは本当に予想外なわけで。
「ふふっ、は、八幡......。そこを見てみなさい」
「そこって......。あっ」
雪乃が指差した先を目で追うと、いつも彼女が食材を持って来るときに使っているスーパーの袋が。
つまり、彼女は既に買い物を済ませていると言うわけで。俺は雪乃の突然の訪問に驚くばかり、それを見逃していたと言うわけで。
なんだろう。唐突に死にたくなった。
「アポなしで訪れたら気づかないだろうと思っていたけれど、ふふっ、まさかそんなことまで言い出すなんて......。ふふふっ」
ゆ、雪乃めぇ......!
突然やって来たのはこの事を見越してだと言うのか! つーかお前笑いすぎだろオイ!
「ねえ八幡?」
「なんでしょうか......」
ああ、俺はクソ野郎だ......。ここまで全て雪乃の掌の上だったなんて......。しかもそれに気づかず哀れな道化となっていたなんて......。割と毎回そんな感じはするけど......。今回は自分の放ったセリフによるダメージがデカすぎる。
部屋の片付けの手を止めてこちらに歩み寄って来る雪乃。やっぱり彼女は笑っていて。けれど、そこに揶揄い混じりな様子などなく、どこまでも優しいものだ。
やがて俺の前に立った雪乃は、その白く小さな手で俺の顔を包み込む。
「初デートは、また今度。楽しみにしているから、ちゃんとあなたから誘ってね?」
そんな言葉と共に、俺の唇へと柔らかい感触を落とした。
毎度の如く突然過ぎて反応できない俺を見て、目の前の可愛らしい頬笑みが深いものになる。
「さあ、片付けの続きをするから、あなたも手伝って頂戴」
「え、あ、おう」
「来週まで部屋を綺麗なまま維持出来ていたら、ご褒美をあげるわ」
「......頑張ります」
初デートと、ご褒美。
取り敢えずはその二つを目標に、この一週間色々と頑張ろうと思った。
そんな新生活のとある一日。