最近、雪ノ下がやばい。
具体的にどうやばいのか。それを説明するのに、時間はそうかからない。
いや、本当は俺だってかなり困惑しているんだ。けれどそんな彼女の姿を見ることが出来る。それを嬉しく思っているのもまた事実ではある。説明しろと言われれば幾らでも説明できるし、しかしどうしてこんな事になってしまっているのかは俺にも分からない。俺の自惚れでなければ、ある程度は察しがつくのだが。
前提として話しておかなければならないのがひとつ。俺と雪ノ下は、所謂男女交際をしているという事だ。らしくなく、それでいてみっともなく、雪ノ下雪乃のことが好きだとこの口から伝えたことは、昨日の事のように思い出せる。
ならばそのような関係になった俺たちが示す愛情表現とは、一体どのようなものになるのだろうか。俺も雪ノ下も、どのような言葉を用いたとしても素直なんて性格とは言い難い。これは俺たちを知っている人間からすると、最早常識のようなものとなりつつあるだろう。
そんな俺たち二人の、いや、厳密に言うなら、雪ノ下雪乃の示す愛情表現。
結論を言おう。
雪ノ下は、キス魔になってしまった。
「比企谷くん」
名前を呼ばれ、隣を歩く彼女に首を向ける。
繋がれた手には確かな温もりが感じられる、それをどこまでも愛おしく思ってしまう。溶けて一つになってしまっているのではと錯覚してしまう程に絡まり合った互いの指は、しかし雪ノ下の手によって容易に解かれてしまった。
「もう家に着いたから」
「ん、おう」
こうして学校から彼女の家まで送ることを、付き合いだしてから毎日続けている。一人でも帰れると言っていた雪ノ下だったが、そこは俺の我儘を聞いてもらう事にした。1分でも、1秒でも長く、一緒にいたい。そう思ってしまったのだから。
俺の手から離れて行ったぬくもりは、その代わりに胸のあたりで感じさせられる。心臓の鼓動が感じ取られているようで、どうにも慣れない。
手を添えた胸を支えとして背伸びしてくる雪ノ下。彼女の顔は徐々に俺の顔に近づいてきて、やがて当然のように、互いの口と口を触れ合わせた。
「んっ......」
この日だけでもう五度目、今までの通算なんて、最早何度したか数えられないほどのキス。それだけの回数をこなしていると言うのに、いや、だからこそ、だろうか。離れていく優しい感触に名残惜しさを感じてしまう。
けれどそれも一瞬だけのこと。一度離れたと思った彼女の唇は、まるで渇きを満たすかの如く、再び俺の唇を塞ぐ。
「んむっ、ふんぅ......」
甘い吐息が直接口内へと侵入する。それだけで前後不覚に陥ってしまいそうになると言うのに、まるで逃げ道をなくすかのように、唇の優しくて熱い感触と鼻腔を擽るサボンの香りが脳髄を刺激してくる。
いっそこのまま、どこまでも彼女に溺れてしまう事が出来たら。それは、どれだけ楽で、どれ程の快楽を得られるのだろう。きっと、雪ノ下も拒まないはずだ。だけどそうする事が出来ないからこその俺な訳で。
果たしてどれほどの時間、俺たちの唇は交わっていたのだろうか。永遠とも須臾とも取れるそんな時間は、雪ノ下が唇を離し、一歩後ろへ下がったことで終わりを迎えた。
「では、比企谷くん、また明日、ね」
「おう、また明日、な」
薄く微笑んで見せるその頬は火照っていて、あんまり長いこと見ていると変な気を起こしてしまいそうになってしまう。
だから、別れ際に毎日行うこの行為の後、雪ノ下がすぐにマンションの中へと入っていってくれるのは助かる。
この別れ際のキスをし始めた当時こそ、こんな人通りの多い場所でやることに抵抗はあったものの、今やそんなもの殆ど消え去っていた。偶々通りかかった人に奇異の目で見られるのには慣れないけれど。
彼女と初めて口づけを交わしたのは、告白したその日だった。お互いにそれが初めてのことで、だと言うのに相手のことをもっと感じたくて、その関係になった実感が欲しくて、何度も求め合ってしまった。全てが終わった頃には、俺の口も雪ノ下の口も、お互いの唾液でドロドロになっていたものだ。
多分、と言うか確実に、きっかけはそれ。
付き合い始めた翌日こそ、その前日のことを思い出してしまい俺も雪ノ下も顔を真っ赤にして、まともに会話も出来ないでいた。
それからどう言う経緯でこうなったのかを語るには、少し時間が必要になってしまうため割愛する。
さて、ではキス魔とは一体どう言ったやつのことを言うのだろう。
場所や相手を問わずにキスをしてくるようなやつか。
キスと言う行為にハマってしまい、一度の逢瀬で何度も求めるようなやつか。
雪ノ下の場合は後者だった。
「遅いわよ、比企谷くん」
特別棟、部室へ向かうまでの道中にある階段の踊り場。一時間目と二時間目の間の休み時間で、俺はここに呼び出されていた。
そして到着した時には既に、呼び出した相手である雪ノ下がそこにいた。
「これでも急いで来たんだけど」
「休み時間は10分しかないのだから、もっと早く来なさい」
「じゃあ昼休みまで我慢しろよ......」
「それは無理ね」
「即答か......」
何故授業の間の休み時間に、こんな場所へと呼び出されるのか。まあ、答えなんてひとつしかないわけだが。これにももう慣れた。
「その、いい、かしら......?」
「......ダメだったらわざわざこんなとこまで来てねえよ」
「それもそうね」
ふっと微笑みを浮かべた後、雪ノ下が肉薄してくる。か細い両腕は俺の背中に回され、それに倣って俺も両手を雪ノ下の腰のあたりに添える。
腕の中のぬくもりは俺だけのものだ。
そんな醜い独占欲が顔をのぞかせる。
けれど、不思議と自己嫌悪には陥らない。そんな俺の独占欲ですら、受け止めてくれる彼女だから。
「比企谷くん......」
俺の名前を呼ぶ声。それはいつもの凛としたものではなく、どこまでも甘くて、俺の理性を徐々に溶かしていく。
澄んだ空を写した瞳は濡れていて、ずっと見つめていると吸い込まれそうになってしまう。
あぁ、ダメだ。いつもそうだ。こうしていると想いが溢れて、零れてしまいそうになる。
「好きだ......。好きだ、雪ノ下......」
「んむっ......」
俺と言う器には大きすぎるこの感情は、結局言葉という形を持って零れてしまって。その受け皿になって欲しくて、彼女の桜色の唇と重なる。
口先になにかがツンと当たる感触がして、それを口内へと迎え入れた。
侵入して来た雪ノ下の舌は俺の舌と絡み合い、彼女の唾液を送り込んでくる。
辛うじて残っている理性が、ここは学校だと、場所を考えろと告げる。けれど今の俺にはその声に耳を傾ける余裕なんてなくて、ただ本能に従って雪ノ下の唇を貪っていた。
「んんっ......、んっ、ぷはっ......。今日は随分と激しいのね」
「......」
「ふふっ、分かりやすい人」
優しく微笑んで見せる彼女との間には、差し込む日の光を反射させるアーチが。
それを見たらまた邪な欲望が膨れ上がって来て、抱き締める力を強めてもう一度キスをしようと思ったその時、校舎内に予鈴が響き渡った。
「......ここまで、だな」
「そうみたいね」
どちらからともなく、密着していた体を離す。たったそれだけで寂しさが湧き上がるが、予鈴によって回復した理性がそれを捩じ伏せる。
教室に戻る時は、いつも別々に戻る。別に交際していることを隠しているわけではないが、ほぼ毎日のように同じタイミングで二人揃って休み時間ギリギリに教室へと戻るなんて、人様にはお見せできないことをして来ましたよと白状しているようなものだ。
だから、一言だけ告げていつものように先に戻ろうとしたのだが、それは叶わなかった。
「待って」
「ん?」
制服の袖を掴まれて、教室へ戻るための一歩は踏み出せなかった。
どうしたのかと雪ノ下に向き直り、それから彼女が起こした行動に絶句した。
俺の袖を掴んだ手を離し、その手でそのままリボンを緩めてブラウスの第二ボタンまでを一気に外したから。
「ちょっ、お前っ......! なにやってんだよ!」
直ぐに近づいてボタンをかけ直そうとするも、その手を掴まれてしまいそれも出来ない。ただ、中途半端に近づいてしまったせいでうっすらと見える彼女の下着に、目を奪われそうになる。
「......あなたが悪いのよ。あんなに激しく求めてくるから」
「いや、だからってお前......」
「授業にはちゃんと向かうから安心して。ただ、その......」
俯いて言い淀んだ後、真っ赤に染め上げた顔を上げて、俺と目を合わせる。
次いで発した言葉は、ハッキリと俺の耳に届いて来た。
「......足りなかったから、せめて痕をつけてちょうだい」
「......っ」
髪を手で纏めて、そこを晒す。
視界に映るのは、何者にも汚されることのなかった雪のように白い肌。そして、妙な色気を醸し出すうなじ。
理性が再び警告を鳴らす。けれどそれはどこか遠いところで鳴ってるように思えてしまって、最早警告の体をなしていない。
白いはずの肌はどんどん赤く染まっていって、しかしその雪は全く清廉さを損なわない。
ゴクリ、と。思わず無意識のうちに喉を鳴らしてしまった。
良いのだろうか。その、何人にも汚されなかった綺麗な肌に、俺の所有印を刻んでも。
「そしたら、放課後まで我慢できるから、お願い......」
それを聞いた瞬間、俺の選択肢はただ一つを除いて剥奪された。
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あの後、二時間目の授業に遅れてしまったのは言うまでもないだろう。しかも運の悪い事に平塚先生の授業だったので、腹に一発いいのを貰ってしまった。どうせ雪ノ下とイチャコラしてたんだろ、と涙目で言われた。いや本当ごめんなさい。
そして時は少し進んで放課後。
あれから雪ノ下に呼び出されることはなく、本当に放課後まで我慢してくれたのだった。いつもは昼休みも会っていたのだが、今会うと歯止めが効かないから、とメールで伝えられてしまえば、会うわけにもいかないだろう。
流石に学校で勢いだけで最後までってのはあれだし。雪ノ下的にも初めてが学校とか嫌だろうし。
しかし、そろそろ校内であんなことするのも控えた方がいいのかもしれない。このまま続けていたら俺の理性が完全に消えてしまうのも時間の問題だ。学校で最後まで、と言うのが冗談で無くなる。
今日のあれだって中々リスキーなことをしていたと言うのに。リスクリターンの計算に定評のあった八幡君はどこへ行ったのやら。
そんなことを考えながら奉仕部へと向かう道すがら、スマホがメールの着信を告げた。
メーラーを起動すると由比ヶ浜からのメールが一件。どうやら、今日の部活は休むとのことらしい。いや、教室で直接言えよ......。それともあれか、HRが終わった後三浦たちと話してたらそんな流れになったから、みたいな感じか。あんまりグループの方で遊んでたらまた雪ノ下が拗ねちゃいますよ? それはそれで可愛いからいいんだけど。
歩きながら適当に返信していると、あっという間に部室の前へと辿り着いていた。
ここでふと思ってしまう。由比ヶ浜がいないと言うことは、今日は雪ノ下と二人きりだ。
いつもならその程度なんとも思わないのに、今日この日に限っては違ってくる。だって、今朝あんなことがあったばかりで。在ろう事か、俺は彼女の首筋にあんなものを付けてしまったわけで。しかも放課後まで我慢するとか昼休みに会うと歯止めが効かなくなるとか言っていたあたり、今二人きりと言うのは......。
なんて事を悶々と部室の前で考えていると、いきなり部室の扉が開かれた。なに、奉仕部はいつの間に自動ドアを導入したの? とか思ったがそんなわけがあるはずも無く。
扉を開いたのは、部室の中にいた雪ノ下だ。
「雪ノ下?」
その彼女の行動に疑問を感じて呼び掛けるも返事はなく、その代わりに腕を取られて無理矢理部室へと引っ張り込まれ、そのまま扉の鍵を閉められた。
「お、おい、どうかしたのか......?」
恐る恐る尋ねてみるも、やはり返事はない。
ただ、彼女は俺の目を見つめるだけで。でもそれだけで、彼女がなにを求めているのか分かってしまう。
どうやら、歯止めが効かないと言うのは本当らしい。その場にカバンを下ろすと、雪ノ下の手が俺の胸に添えられた。
「比企谷くん......」
今朝の休み時間の時と違い、どこか切なげな声色で呼ばれる。
その声に応えるために顔を近づけようとして。
カツ、カツ、と。リノリウムの床をヒールでふみ鳴らす音が聞こえた。それは雪ノ下にも聞こえていたのだろう。ビクッと肩を震わせて驚いていた。どこか小動物を連想させるような動きで可愛い。
じゃなくて。
こんな特別棟の端の辺鄙な場所にやって来るヒールを履いた人なんて、一人しかいない。
そう、平塚先生だ。
これはマズイ。このままでは平塚先生にバレる恐れがある。校内でこんなことをしていると言う事自体、誰かにバレるわけにはいかないのだが、あの人にバレたら一番面倒な事になる! 具体的には俺が殴られた挙句に結婚したいって叫びながら泣いて走り去ってしまい最終的には俺が慰めないといけない羽目になってしまう!
そんな事になればめんどくさいことこの上ないので、取り敢えず今のこの状況をどうにかしようと雪ノ下の肩を掴んで距離を取らせようとしたのだが。
「雪ノ下、取り敢えず扉の鍵開けていつもの席にもどんむっ!」
俺の考えとは裏腹に、雪ノ下は寧ろ距離を詰めて、更に唇を重ねてきた。
しかも軽く触れるだけとかではなく、かなりディープな方。抵抗の隙も与えずに侵入してきた彼女の舌は、瞬く間に俺の口内を蹂躙する。
「ちゅっ、ちゅるっ、んんぅ......」
卑猥な水音が部室内に響く。口内から脳へと直接刺激を与える吐息は、俺の思考を段々と蕩けさせる。
やがて背後の扉がガチャン! と音を立てても、雪ノ下は顔を離しはしなかった。
『ん? なんだ、誰もいないのか?』
扉一枚隔てたところから、平塚先生の声が聞こえて来る。
しかしその声は雪ノ下の奇行を止めることはなく、やがて平塚先生は「入れ違いになってしまったかな」とか言いながら、またカツカツと音を鳴らせて遠ざかっていく。
息を継ぐためか、雪ノ下の攻めはそこで漸く中断された。どうにか文句の一つでも言ってやろうかと思ったのだが。
彼女の、その蕩けきった表情を見てしまい、言葉は喉のところで止まってしまい出てこなくなる。
端的に言うなれば、雪ノ下は明らかに発情していた。
「ごめんなさい。あなたから貰ったこの印は、逆効果だったみたい......」
シュルシュルと音を立てて解かれる胸元のリボン。彼女はリボンを外しただけで、制服を脱いだわけでもないのに。
「ねえひきがやくん......」
それなのに、俺の中からは理性が完全に切れた音が聞こえてきて。
目の前で妖艶に微笑む雪ノ下は、トドメの言葉を発した。
「もう、いいでしょう......?」
帰る頃には、雪ノ下と俺、その両方の全身に赤い痕がいくつも出来てしまっていた。