八幡と雪乃の恋物語   作:れーるがん

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本に囲まれたこの場所で

 図書館はいい。

 心の底からそう思うのは、静寂を好むぼっちだからか。ここでは無駄な雑音など一切なく、他人とコミュニケーションを取る必要すらない。司書さんと最低限のやり取りは必要だが、相手は初老の女性ばかり。変にキョドることもない。

 いやはや、実に素晴らしい空間だ。勉強は捗るし、探せばどんな本だってすぐに手元に持ってこれる。横浜あたりの図書館には野生のバニーガールが出没するとか聞いたことあるし、もし仮に万が一にも専業主夫の道が閉ざされてしまったなら、図書館の司書になるのも良いかもしれない。バニーガールに会いたいしね。

 さて、こんな風に図書館を絶賛するからには、俺は現在自宅から最寄りの図書館へやって来ているわけだが。勿論それには理由がある。

 金がないのだ。

 今月のお小遣いは先日買ってしまったゲームに消えてしまい、新しく本を買うことが出来ない。どうしようかと悩んでいると、小町が「じゃあ図書館にでも行ってきたら? お兄ちゃんは本が読めて、小町はお兄ちゃんを追い出せる。win-winだね!」って言ってきたのである。泣いた。

 まああの言葉は多分冗談だと思う、と言うか冗談だと信じているが、実際に来てみれば居心地がいいことこの上ないではないか。

 学校の図書室とも違った独特の雰囲気。調子に乗ったリア充どもが隅っこを陣取っていることもなく、やかましい子供が騒いでいることもない。

 なんなら家で勉強や読書をするよりも捗ってしまう始末。それらが一番捗る場所が図書館なのかと聞かれれば、首を横に振らざるを得ないのだが。まあ、あそこなら優秀な先生役がいるし、自分よりも成績の酷い奴もいるから、勉強するには打って付け。ついでにあいつの淹れた美味しい紅茶が飲めると来たら、もう言うことはないだろう。

 なんで図書館の話が部室の話になってんだ。

 そんな無駄な思考のせいで勉強する手は止まってしまった。元々そこまで動いていたわけではないけれど。そもそもなんで数学って英語が出てくるのん? 数学なんだから数字だけ出しとけよ。なんかわけわからん英語で答え書かないとダメとか本当ワケワカメ。男は1と2だけ知ってりゃいいってとっつぁんも言ってた。

 席を立ち本棚へと向かう。勉強で頭が疲れているので、あまり小難しい本は手に取らない方がいいだろう。中途半端な面白かったりしたら、今の俺の脳みそでは文章を噛み砕くことが出来ずに後悔しそうだ。となれば、久しぶりに大百科系でも読んでみるか。小学生男子なら必ずハマってしまうと言うあれ。恐竜大百科とか人気過ぎて中々借りれなったんだよな。どうでもいいけどトリケラトプスが一番好き。

 頭の中でトリケラトプスを思い描きながらも本棚が立ち並ぶ中へ足を進める。暫く見ていなかったからか、トリケラトプスってどんなんだっけ? とか思いながら目的の本棚へと辿り着くと。

 そこには、一人の美少女がいた。

 

「ん?」

 

 少女はなにやら本を手に取って立ったまま読んでおり、その顔にはとても可愛らしい、実年齢よりも幾らか幼く見える笑顔を浮かべている。因みにバニーガールではなかった。

 やがて俺に気がついたのか、こちらに向けた顔からは笑顔が消え去る。

 

「..................ぁ」

「......よお」

 

 ワンピースの上からカーディガンを羽織った、春らしい装いの雪ノ下雪乃が、そこにいた。長い黒髪はピンクのシュシュで纏められて肩から垂れ下がっており、今まで見て来た私服姿とはまた違った雰囲気の彼女に、心臓が高鳴るのを自覚する。

 

「こ、こんにちは......」

「奇遇だな、こんな所で」

 

 かなり控え目な声でも、この静かな図書館の中ではしっかりと聞こえてくる。挨拶を交わしながらも雪ノ下の持っている本にチラリと視線を移すと、彼女は急いでそれを本棚に戻してしまった。

 ただ、戻す時に一瞬だけ見えたタイトルの一文字が『猫』だったことから、その本の内容は嫌でも察しがつく。

 雪ノ下さん、猫大好きフリスキーですもんね。そりゃ猫の大百科とか読んでたらあんな笑顔浮かべますよね。

 

「そうね、あなたが図書館に来ているなんて少し意外だわ」

「どう言う意味だよ」

「あなたなら、図書館に来るよりも家で本を読んだり勉強したりする方がいいのではなくて?」

「おっしゃる通りだが、小町に追い出されたんだよ。だから仕方なくここで勉強だ」

 

 しゃがみ込んで最下段にあった目的の本を取る。最後にこう言う本を読んだのはもう随分と前のことだから、当たり前のように大百科は新しいものに更新されていて。けれどもどこか懐かしい気分だ。

 

「恐竜大百科?」

「......っ」

 

 気がつけば雪ノ下もしゃがみ込んでいて、俺の直ぐ隣にその綺麗な顔があった。小さな声で会話しているから近づくのは仕方ないとは言え、それにしても近づき過ぎではなかろうか。俺が少し横にズレれば、肩と肩が容易く触れ合ってしまうような、そんな距離。

 雪ノ下はそれに気づいているのかいないのか、興味津々と言った様子で俺の手元の恐竜大百科を覗き込んでいる。

 

「比企谷くん、残念だけれどそれを読んでも、カエルは恐竜へ進化することは出来ないわよ?」

「......いや、カエルじゃないし。そもそも恐竜になりたいとか思ってないし」

「あら、そうだったのね」

 

 クスリと笑った雪ノ下が顔を上げる。

 不意に、目が合ってしまった。

 先述した通り、雪ノ下と俺は現在密着していると言ってもいいような距離感で。文字通り目と鼻の先に彼女の整い過ぎた美しい顔があって。俺の視界全てが雪ノ下で覆われている。

 そのことを意識してしまったからか、図書館特有の紙の匂いを捉えていた俺の嗅覚は、雪ノ下から香るサボンの匂いに支配されて、彼女の声以外はなにも聞こえなかった静寂は既になく、その息遣いまでも耳に届けてしまう。

 あまりにも突然、雪ノ下雪乃という少女が持つ全てに打ちのめされてしまった瞬間だった。

 視覚と嗅覚と聴覚は馬鹿みたいにフル稼働している癖して、まるで時が止まってしまったかのように動けない。

 それは雪ノ下も同じなのだろうか。見つめ合ったまま、お互いに全く動けないでいた。

 この図書館と言う環境故だろうか。まるで、今この場所に俺と雪ノ下の二人きりでいるかのような、そんな錯覚に陥って。

 カタン、と。どこかから聞こえた音で、俺たちの時間は再び動き出した。

 

「ごっ、ごめんなさい。少し近過ぎたわね......」

「いや、別に......」

 

 弾かれたように顔を逸らす雪ノ下。しかしその場から移動しておらず、俺たちの距離は依然として変わらないままだ。

 それを誤魔化すように手元へ視線を落とし本を開く。適当に開いたページには数匹の恐竜が描かれているものの、どれがどんな恐竜かなんて全く頭に入ってこない。もう全部プトティラってことでいいんじゃないかな、なんて馬鹿な思考が過ぎる。

 

「......恐竜、好きなの?」

「え?」

 

 あまりにも唐突な質問に思わず聞き返してしまった。雪ノ下は再びこちらの手元を覗き込んで来て、間違えても俺の方は見ないように心がけているようだ。

 ただ、彼女よりも高い位置にある俺の顔は、いつもと違った髪型のせいで見えてしまう真っ赤なうなじをしっかりと目に収めてしまっていた。

 

「だから、恐竜。好きなのかと聞いているのよ。こんな所にまで来てわざわざ読むくらいだから」

「あ、あぁ、いや、別に特別好きってわけでもないけどな。つーか、男なら誰でもこう言うのにハマるもんだと思うぞ」

「そう言うものなのかしら?」

 

 雪ノ下の白魚のような手が本の上を這って、勝手に次のページを捲り始める。いや、良いんだけどさ。今は読んでてもなにも頭に入ってこなさそうだし。でもせめて一言断ってからにしよう?

 

「あなたが好きなのはどれかしら?」

「こいつだけど......」

「とりけらとぷす?」

 

 こてんと小首を傾げ、ちょっと危ない発音で言う雪ノ下。可愛いからやめろ。

 どうやら流石のユキペディアさんも恐竜の詳しい種類までは知らないらしい。でもトリケラトプスって結構有名だと思うよ? 恐竜メダルの一つだし。

 

「私にはよく分からないわね」

「ならなんで聞いたんだよ......」

「それは......」

 

 言い淀んで、スススッと俺から少し距離を取る。え、なに、俺なんか今変なこと言った? いや言ってないよね?

 薄く頬を染めた雪ノ下は、こちらを伺うように視線を寄越して、更に小さな声で呟いた。

 

「あなたの好きなものを、知りたかっただけよ......」

 

 音がなく静寂に包まれたこの図書館の中においても、辛うじて聞き取れるほどの声量。けれど俺の耳にはしっかりと届いてきて、その言葉の意味を十分に咀嚼すると、自然と頬に熱が集まってしまう。

 

「そんなん知ってもなんの得にもなんないだろ......。英単語の一つでも覚えた方がマシだぞ」

「ふふっ、それはどうかしらね。私にとっては、たかが英単語如きよりも、あなたを知ることの方がよっぽど価値があると思っているけれど」

「そうかよ......」

「ええ、そうよ」

 

 頬は薄く染めたまま、笑顔を見せる雪ノ下。それは常日頃から見せている大人びたものではなくて、まるでお出かけ前の少女のような。年相応の可愛らしい笑顔だった。

 多分、それは今まで見てきた彼女のどんな笑顔よりも魅力的に映っだのだろう。

 じゃないと、これから先の俺の発言は説明がつかない。

 

「......なら、お前のことも教えろよ」

「え?」

「お前だけ俺のこと知るとか、不公平だろう。だから、俺にもお前が好きなものとか教えろって言ってんだよ」

 

 やたらとぶっきら棒な上に至極小さな声になってしまった。しかしやはり、彼女の耳には俺の声が届いていて。

 

「ふふっ、なにかしらその言い方。相変わらず素直じゃないのね」

「......うるせぇ」

 

 クスクスと漏れ聞こえてくる忍笑いが、俺の羞恥心を加速させる。顔はそっぽを向いてしまって、どうにも雪ノ下の方を見れない。

 もう恐竜は良いだろうと本を閉じて元の場所に戻すと、隣の雪ノ下が立ち上がった。

 

「立ちなさい比企谷くん」

 

 未だしゃがみ込んだままの俺に差し出される手。その事に不思議と疑問を持つことはなく、自然にその手を取って立ち上がっていた。

 初めて触れた雪ノ下の手はとても柔らかくて、とても小さくて。少し名残惜しくはあるが離そうとした瞬間、逆に雪ノ下の方から俺の手をギュッと握ってきた。

 

「ちょっ、おまっ......⁉︎」

「大きな声を出さない」

 

 思わず出してしまった驚きの声に律儀にも注意して、雪ノ下は俺の手を引いてどこかへと歩き出す。

 俺の手を包む雪ノ下の手。そこから伝わる体温は、彼女の名前とは裏腹にあたたかいもので。煩いくらいに心臓が高鳴る。

 やがて連れてこられたのは、先程いた場所から7列ほど奥へと進んだとこにある本棚。海外文学が置いてある場所だった。

 

「お、おい、雪ノ下。こんなとこに連れてきてなんなんだよ」

 

 なんの説明もないままに連れてこられれば困惑するのも当然と言うもので。しかもこんな人気のないところまで来てしまえば、変な想像をしてしまうのが男子高校生というもので。

 

「私のことを知りたいと言ったのはあなたでしょう? だから、まずは普段読んでる本から教えてあげようと思って。もしかして、何か変な想像でもしてしまったかしら?」

 

 完全に図星だった。

 

「そっ、そんなわけないだろ」

「声、裏返ってるわよ」

「......」

 

 いやでもこんなん仕方ないと思うんですよ。だって雪ノ下さん、未だに俺の手を握ったまま離さないし。美少女に手を引かれてこんな所へ連れて来られたら、そりゃ変な想像だってしてしまう。なんもかんも雪ノ下が可愛いのが悪い。俺は悪くない。

 一向に離れる気配のないお互いの手を見つめていると、見たことのない文庫本が視界に入り込んできた。

 

「これは?」

「私が昔読んだことのある小説よ。イギリスの小説なのだけれど、ちゃんと翻訳版だから安心して頂戴」

 

 差し出されたその本を受け取り、しげしげと表紙を見つめる。タイトルから察するに、恐らくは恋愛小説なのだろう。

 

「なんか意外だな」

「なにが?」

「いや、お前もこう言うの読むんだと思ってさ」

「失礼ね。私のことをなんだと思ってるのかしら? 私だって女の子なのだから、こう言った本も読むわよ」

 

 ちょっとムッとした様子でこちらを睨んでくるその姿は、確かに彼女の言う通り女の子らしくて可愛い。

 別に、昔のようにこいつに対して変な幻想を抱いているわけではないが、それでも雪ノ下雪乃の女の子らしい一面を垣間見ることに、何故か慣れない。同時に、そう言う姿を俺に見せてくれている事に、些かの嬉しさもある。

 今この時は、周りに人のいないこの空間では、本当に俺だけに見せてくれている。

 

「悪かったよ。んじゃ、これ借りてくるわ」

「ここで読まないの?」

「ここには元々勉強しにきたからな。それに、ここよりも居心地が良くて、読書が捗る場所を知ってるし。おまけに紅茶も出ると来た。ならそこで読んだ方がいい」

「......そう」

 

 俺の言っている、ここよりも居心地のいい場所とやらがどこなのか、雪ノ下も思い当たったのだろう。ポッと頬を赤らめてはいるものの、その表情は酷く穏やかだ。

 

「では、次はあなたに私の読む本を選んでもらおうかしら」

「......それも、知りたいからか?」

「ええ、そうね」

「ん、分かった」

 

 今度は俺が雪ノ下の手を引いて、本棚と本棚の間を移動する。

 知りたいからと、彼女はそう言った。けれどきっと、それだけではない。

 これは口実だ。図書館の本は返済期限が二週間であり、同じ日に借りたのであれば、勿論期日は同じ日になる。

 その時、またこの図書館で。俺たち以外に誰もいない、本に囲まれたこの空間で。二人で会うための。

 

「紅茶......」

「ん?」

 

 目的の本棚へと移動している最中、雪ノ下がポツリと言葉を漏らした。どんな本を選んでやろうかと思考を巡らせていたから、その呟きを聞き逃してしまって思わず聞き返す。

 

「だから、紅茶。月曜日からも、美味しく淹れるから。楽しみにしていてね」

 

 言いながら浮かべた笑みがあまりにも眩しくて、つい足を止めてしまった。

 恐らくは間抜けな表情をしているだろう俺の顔を、雪ノ下は不思議そうに見つめている。

 どうしたのかと視線で問われているが、なんでもないとかぶりを振って前に向き直る。

 

「んじゃまあ、楽しみにしてる......」

「ええ」

 

 素っ気なくそう返すのに精一杯だったが、雪ノ下の声音はやはり穏やかなものだった。

 

「感想、返す時にちゃんと聞かせてね?」

「おう。お前もな」

 

 あの紅茶の香りに満ちたあたたかな部屋で読むのに相応しい本はなんだろうかと考える。

 どうせだから、俺からも恋愛小説を勧めてみてもいいかもしれない。

 


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